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短編集  作者: 科上悠羽
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『自白はレシートの裏で』

 僕の一日は、だいたい同じ順番で折り畳まれている。

 七時に起きて、歯を磨いて、駅まで早歩き。電車の中でニュースを眺め、会社で「承知しました」を量産し、帰宅して冷凍ごはんを温めて、ついでに自分の気持ちも温めた“ふり”をする。

 ふり、ばかりだ。


 ふりを積み上げると、どこかで崩れる。分かってるのに、崩れる場所を自分で選べない。だから僕は、崩れる前にいつも別のことを始める。動画を再生するとか、通販を見比べるとか、いらないアプリを消すとか。余計なことに手を伸ばして、肝心から目を逸らす。

 まるで、逃走犯が自分だと知ってる警官みたいに。


 ちなみに僕は、ため息の数も記録している。真面目に。

 スマホのメモに「ふう」を打つだけの、ばかみたいな貯金箱だ。貯めたからって利息はつかない。むしろ残高が増えるほど胃が重い。それでも貯める。貯めると「自分は頑張ってる」って錯覚できるから。

 錯覚は、生活の潤滑剤だ。潤滑剤は、入れすぎると滑って転ぶ。


 その日の昼休み、僕は社内の自販機の前で固まっていた。

 小銭がない。いや、ある。財布の奥にある。あるのに、指が動かない。

 “選べない”って、こういう時に出る。コーヒーか、紅茶か。たったそれだけなのに、今日は決めたくない。

 決めると、次が来るからだ。次は、たぶん、綾さん。


 背中から声がした。


「りくくん、まだ選んでるの?」


 振り向くと、あやさんが紙コップを持って立っていた。いつも通りの笑顔。いつも通り、なのに胸が勝手に忙しくなる。

 彼女は僕の隣の島の先輩で、仕事が速くて、言葉が柔らかい。柔らかいくせに、刺さるべきところは刺す。たまに「怖っ」と思う。でもその怖さは、熱いお湯みたいに気持ちいい。


「選んでるというか……固まってます」

「コーヒーで? 人生みたいだね」

「人生と比べないでください」

「比べたくなる顔してる」

「顔で仕事しないでください」

「してるよ、君。いつも“平気”って顔してる」


 僕は笑って誤魔化した。誤魔化しの笑いは得意だ。場が軽くなる。軽くなると、真面目が置き去りになる。

 綾さんは少し首をかしげてから、僕の手元を覗き込んだ。


「ねえ、今日の夕方、会議室空いてる?」

「え、空いてると思います」

「じゃあ、十五分だけ付き合って。資料、見てほしい」

「はい。もちろん」


 もちろん。

 もちろん、の言い方が僕の首を絞める。

 僕は彼女の頼みを断れない。断りたくないのもある。断ると、彼女の視界から消えそうで怖い。

 怖い、が僕の本音だ。


 席に戻る途中、同僚の水野に捕まった。

「お、今日も自販機で固まってたな。選択肢アレルギー」

「アレルギーじゃない」

「じゃあ何。慢性“先送り”病」

「病名みたいに言うな」

「病名だよ。ほら、今日もあの先輩に呼ばれた?」

「……十五分」

「十五分で人生変わるタイプだろ、お前」

「変わらないよ」

「変わるよ。変わらないなら、ずっと同じ顔してない」


 水野は僕の机の端に付箋を一枚貼った。

《今日の自分に聞け》

 なにそれ。気持ち悪い。けど、剥がせなかった。



 夕方までの仕事は、普段よりも雑音が多かった。

 メールの件名が全部、僕を急かす。チャットの通知が全部、僕を小突く。上司の「今ちょっといい?」が全部、命令に聞こえる。

 僕は“平気の顔”で受け流しながら、頭の中だけで別の会議を開いていた。議題は一つ。

 『十五分のあと、どうする』


 トイレの鏡の前で、僕は口を開けて閉じた。

 言葉を練習すると、本番が嘘になる気がして嫌いだった。なのに今日は、練習しないと一生言えない気がした。だから、腹をくくってみる。

「……す」

 だめだ。声が薄い。

「す、き」

 言えたのに、心臓がうるさすぎて続きが消える。

「ありがとう」まで言うつもりだったのに、そこで止まった。

 僕は鏡に向かって小さく舌打ちした。自分に。

 その音が、いつも綾さんが出しそうな“半音”に似ていて、少し笑えた。笑えたら、息が通った。


 手を洗って、付箋を見た。

《今日の自分に聞け》

 聞くか。

 僕は心の中で自分に質問した。

 逃げたい?

 うん。

 でも、進みたい?

 ……うん。

 結局、両方だ。人間だ。



 会議室は白すぎる蛍光灯に照らされて、机だけが無駄に立派だった。

 綾さんはノートPCを開き、僕に向かって椅子を引いた。向かい合う配置。視線が逃げにくい配置。

 なんだか、事情を聞かれる席に見えた。僕が勝手にそう見ているだけなのに。


「ここ、数字の見せ方、どう思う?」

「見やすいです。……ただ、最後の一文、ちょっと硬いかも」

「硬い?」

「綾さんの文章、いつももう少し息がある」


 言った瞬間、僕は驚いた。僕が“息”なんて言うの、珍しい。

 綾さんは目を丸くして、すぐ笑った。


「何それ。編集者みたい」

「僕、音の編集してますから」

「そうだっけ。じゃあ、息、残す?」

「残したほうが、届くと思います」


 届く。

 その言葉が、僕の胸の奥を叩いた。

 僕はずっと、届かせたい言葉を持っているのに、いつも手前で切ってきた。

 ノイズ扱いして消してきた。


 綾さんが画面を閉じた。

「ありがとう。助かった」

「いえ」

「……いえ、じゃなくてさ」

「え」

「最近、りくくん、ちょっとだけ、遠い」


 胸の奥で、カチ、と音がした。

 疑いじゃない。逃げ癖のスイッチが入る音だ。

 僕は反射で、軽口を探した。遠い? 僕は宇宙飛行士です、みたいなやつ。笑って終わるやつ。

 でも、喉の手前で言葉が止まった。


「……遠いですか」

「うん。目がね、いつも“帰り道”みたい」

「帰り道?」

「帰る場所はあるのに、帰ってない目」


 綾さんの言い方は、優しいのに逃げ道がない。

 僕は視線を落として、机の上のレシートを見た。誰かが置き忘れたコンビニのレシート。白い紙。まっさらで、怖い。

 怖いなら、まず短く。そういう手順を、僕は仕事で知っている。

 仕事で知っているのに、自分には使っていなかった。


 僕は息を吸って、吐いた。

「……僕、言えないことが多いです」

「うん」

「言えないまま、冗談で濡らして、乾かして、また隠す」

「うん。分かる」

「分かるんですか」

「私も、やる。だから、聞いた」


 綾さんは机の端を指で、こつん、と叩いた。

「今の、合図。ちゃんと話すって合図」

 僕も真似して、こつん。

「……合図、助かります」

「で、何が言えないの?」


 そこまで来て、僕の喉がまた固くなる。

 言ったら変わる。変わったら戻れない。戻れないのが怖い。

 でも、戻れないのは悪いことじゃない。ずっと同じ場所で立ち止まるほうが、もっと怖い。

 僕は会議室の白さに負けないように、視線を上げた。


「……好きです」


 言った瞬間、時間が止まると思った。

 止まらなかった。蛍光灯はジ、と鳴り、廊下を誰かが歩き、空調が空気を回した。

 日常は僕の告白に興味がない。だからこそ、僕は助かった。

 世界が特別になりすぎると、僕は逃げる。


 綾さんは一拍、黙った。

 それから、困ったみたいに笑った。困った笑いは、嘘じゃない。

「……うわ。ほんとに言った」

「言いました」

「今まで、言わなかったのに?」

「言えるだけ、練習はしてました」

「練習って、どこで」

「帰りの電車。風呂。冷蔵庫の前」

「場所が生活すぎる」

「生活でしか、勇気が出ないので」


 綾さんは小さく息を吐いて、レシートをひょいと取った。

 裏にペンで何かを書き始める。丸、線、短い言葉。

 書き終えて、僕に見せた。


《容疑:言えない》

《証拠:さっき言えた》

《処分:もう一回、言う》


「なにそれ」

「自分への調書」

「僕の?」

「私のも書く」


 綾さんはレシートをもう一回ひっくり返して、別の欄に書いた。


《容疑:待ちすぎ》

《証拠:今日まで待った》

《処分:今、返す》


 そして、顔を上げた。

「私も、好き」


 僕の心臓が、遅れて跳ねた。

 さっきまでの僕の勇気は、ここでいったん溶けた。代わりに、変な熱が残る。

 熱のせいで、謝りそうになる。嬉しいときほど謝りたくなる癖。自分の感情に保険をかけたくなる。

 僕が口を開きかけた瞬間、綾さんが机を二回こつんこつんと叩いた。


「謝らない」

「……はい」

「好きは、返す。受け取ったら返す。今日からそうしよ」


 返す。

 言葉を返す。気持ちを返す。

 僕は頷いて、もう一回だけ言った。

「……好きです。あと、ありがとう」

「何に?」

「今日、聞いてくれたこと。逃げる前に止めてくれたこと」

「止めたの、私じゃないよ」

「え」

「りくくんが止まった。自分で」

「……自分で、止まれた」

「それ、でかい」


 綾さんは笑って、会議室の窓を指さした。

 外はもう暗い。街の灯りがまばらで、でも確かに点いている。

「帰る?」

「帰ります」

「一緒に?」

「……お願いします」



 帰り道、僕らは駅まで歩いた。

 会話は派手じゃない。夕飯の話、明日の天気、コンビニの新作。全部、生活の薄味。

 薄味なのに、僕は満腹だった。満腹なのに、重くない。

 それが不思議で、僕は何度も息を吸って吐いた。息が通ると、世界がちゃんと見える。


 改札の前で綾さんが立ち止まった。

「ねえ、りくくん」

「はい」

「いきなり全部は変えなくていい」

「全部?」

「付き合うとか、将来とか、そういう大きいの。今日は、まず“帰り道”を増やそう」

「帰り道」

「うん。週に一回。十五分でいい」

「十五分、得意です。会議室の時間」

「そういうとこ、好き」


 僕は照れて、また謝りそうになった。

 こつんこつん。

 綾さんが指で合図を出す。

 僕は笑って、代わりに言った。

「……了解」

「それ、仕事の了解?」

「生活の了解です」

「よし」


 家に着くと、僕は冷蔵庫を開けた。

 白い光が、いつも通り僕の顔を照らす。いつも通り、なのに今日は違う。

 光の前で、僕はスマホの未送信メモを一つずつ消した。二十七個が、ゼロになった。

 最後の一行が書けなかった文章は、もう要らない。

 言葉は、紙じゃなくて、息に乗せるほうが早い。


 冷凍ごはんを温めながら、僕はレシートを壁に貼った。

 自白調書。笑えるくらい雑なやつ。

 でも雑な紙は、生活に残る。


《処分:ため息の貯金をやめる》

《代わり:今日の分だけ進む》


 僕はそれを見て、声に出して笑った。

 明日もきっと、僕は迷う。余計なことにも手を伸ばす。

 それでも、合図がある。こつんこつん、と叩けば戻れる。

 戻れるなら、進める。


 鍋が鳴った。

 僕は湯気を吸って、短く言った。


「……ただいま、今日の俺」



 翌朝、目覚ましより先に、僕のスマホが光った。

 水野からだった。

『付箋、効いた?』

 僕は一秒だけ悩んで、短く返した。

『効いた。犯人は俺だった』

 送ってから、自分で笑った。物騒な言い方。でも今日はそれでいい。曖昧を捕まえた気がした。


 出勤前、いつもの「ふうメモ」を開いて、アプリごと消した。

 ため息の貯金箱は閉店。代わりに、冷蔵庫のレシートを見て、こつんこつんと指で叩く。

 合図は、ちゃんと効く。


 会社の自販機の前。僕は昨日と同じ場所に立った。

 昨日と違うのは、指が動くことだった。コーヒーを押す。砂糖は一つ。ミルクはやめる。迷いが短いと、朝が少しだけ優しい。


「お、今日は固まってない」

 水野が後ろから言った。

「固まるの、飽きた」

「いいね。飽きたは勝ちだ」

 水野は笑って、僕の机の付箋を指で弾いた。「回収しとくわ」。


 昼、綾さんと廊下ですれ違った。

 僕は反射で“平気の顔”を貼りそうになって、こつん、と自分の太ももを叩いた。

 代わりに、短く言う。

「昨日、ありがとう」

 綾さんが目を丸くして、すぐ笑った。

「こちらこそ。……言葉、出るようになったね」

「練習、やめました」

「え」

「練習じゃなくて、出すほうにしました」

「いいね」


 夕方、退社のエレベーター前で、綾さんが言った。

「今日、十五分、空いてる?」

 僕は笑って頷いた。

「はい。帰り道、増やしましょう」


 自販機の前で固まっていた僕の一日が、ほんの少しだけ、別の順番に折り畳まれていく。

 派手じゃない。劇的でもない。

 でも、ため息を貯めるより、ずっといい。


 僕は駅まで歩きながら、レシートの裏の文字を思い出して、胸の中でこっそり呟いた。


 言う。今の分だけ。

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