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短編集  作者: 科上悠羽
39/66

『偶然の脚本家』

 笑っちゃうくらい、あっけなかった。


 玄関の鍵が回る音も、靴が床に落ちる音も、いつもと同じだったのに、彼女だけがいなくなった。部屋の中に残ったのは、香りと、髪ゴムと、冷蔵庫のドアポケットに立てかけられた謎のタレ。


 僕はそのタレを手に取って、裏のラベルを読んだ。辛さレベルが三段階で書いてあって、彼女は一番辛い方に丸をつけていた。嫌がらせじゃない。たぶん、未来の僕に向けた、軽い挑発だ。


「……ひどいな」


 独り言は、相手がいないと気楽だ。気楽なのに、喉の奥が乾く。乾くと、また冷蔵庫を開けてしまう。白い光で現実を照らせば、心も冷える気がするから。実際は、冷蔵庫の方が優しい。開けても怒らない。


 彼女が出ていった理由は、分かっているようで分からない。逆に言えば、分からないふりをしながら、分かっていた。


 違和感なら、何回もあった。

 「大丈夫?」と聞いたときの返事が、いつもより一秒遅い。

 笑うタイミングが、半拍ずれる。

 「今度ね」が増える。

 それらを僕は、根拠のない「まあ大丈夫」で押しつぶしてきた。僕たちに限って、っていう、あの気持ち悪い万能薬で。


 万能薬は、効きすぎる。



 翌朝の通勤路は、やけに敵が多かった。

 駅の改札は首を刈る門みたいにピッ、ピッと鳴るし、エスカレーターの右側に立ってる人の背中が、やけに「正しい」顔をしている。通りすぎる他人が、僕を笑ってるように見える。もちろん見えてるだけだ。実際は誰も僕に興味がない。なのに、僕の脳は勝手にドラマのBGMを鳴らす。


 昼休み、友人の真矢から電話が来た。


『生きてる?』

「生きてるけど、部屋が広い」

『広いのは家具が減ったからじゃなくて心が減ったからね、知ってる知ってる。で? 相手はどこ行った?』

「知らない」

『知らないのに探してる顔してる。最悪だね。いいね』


 真矢は、こういうときにだけ天使みたいなことを言って、すぐ悪魔みたいに笑う。どっちでもなくて、ただの性格が悪い親切だ。


『ねえ、取り返したい?』

「……言い方が物騒」

『言い方は物騒でいいんだよ。中身は安全に。ほら、君、強引に行けないタイプでしょ』

「行けない」

『じゃあ脚本。偶然の再会、作ろう』


 脚本。


 その単語が妙に刺さった。僕は仕事で台本を書いてるわけでもないのに、人生の一番痛いところを「段取り」に落とし込めば安心できる気がした。安心したいだけだ。勝ちたいわけじゃない。負けを認めたくないだけだ。


『シナリオ案その一。彼女の好きなカフェで“たまたま”会う』

「ストーカーじゃん」

『違う。ストーカーは黙って追う。これは“偶然を装って話しかける勇気”を練習するイベント。合法』

「合法って言うな」

『案その二。忘れ物を返しに行く』

「忘れ物……」

 鍵。彼女の合鍵が、まだ引き出しにある。

『案その三。もういいや、ってなるまで散歩する』

「それは何」

『失恋の筋トレ。効くよ』


 真矢は笑って電話を切った。笑い声だけが残って、僕は机に突っ伏した。脚本。偶然。再会。全部、格好いい言葉だ。格好いい言葉ほど、実際は泥くさい。



 その夜、僕はカフェの前を三回通った。

 入りもしないのに。

 店のガラスに映る自分が、完全に怪しい。怪しいのに、止まれない。止まれないのは、心が勝手に「ここで会えば全部片付く」って思い込んでいるからだ。


 会わなかった。

 当然だ。世界は僕の脚本通りには動かない。


 次の日、忘れ物を返す案を実行しようとして、玄関の前で止まった。

 鍵を握った手が震えた。

 鍵って、持っているだけで「まだ繋がっている」みたいで甘い。でも返しに行くと「繋がってない」を確認しに行くみたいで怖い。


 僕は鍵を封筒に入れて、宛名を書けずに引き出しにしまった。

 自分でも呆れる。脚本家のくせに、第一話で詰んでいる。


 そのままコンビニに逃げた。

 レジ横で、柑橘の飴を手に取って、戻した。手に取って、戻した。手に取って、戻した。

 そのとき背後で「すみません」が重なって、僕は振り返った。


 彼女だった。


 髪が少し短くなっていた。顔色はいつも通りで、でも目の下だけが薄く青い。コンビニの蛍光灯が容赦なくそれを映す。僕の心臓は、脚本が全部燃えたみたいに暴れた。


「……久しぶり」


 出た声が、自分の声じゃない。

 彼女は一拍置いて、うっすら笑った。逃げ笑いじゃない。踏ん張り笑いだ。


「久しぶり。……こんなとこで会うんだ」

「偶然、って、あるんだね」

「偶然、って言葉、便利だよね」

 痛い。彼女の言葉は、いつも短くて、いつも刺す。


 僕は飴を一粒買って、会計を終えて、店の外に出た。彼女も出てきた。夜風が、二人の間の空気だけを少し冷やす。


「……元気?」

「元気、のふりは得意」

「僕も」

「知ってる」


 知ってる、が来た瞬間、僕の中の何かが折れた。折れたのに、息が通る。折れたものは、たぶん見栄だ。


「ごめん」

 口が勝手に言う。

 彼女が眉を上げる。

「何に?」

「色々」

「色々はやめて。逃げ道だから」

 その言い方、懐かしくて笑いそうになった。笑うとごまかすから、笑わない。


「……小さい違和感、見えてたのに、見ないふりした」

「うん」

「大丈夫って言い続けた。根拠ないのに」

「うん」

「それで、君が出ていった。……あっけなかった」

 言って、喉が熱くなる。泣く手前の熱。


 彼女は息を吐いて、コンビニ袋を持ち替えた。

「私も悪いよ。言わなかった」

「言ってほしかった」

「言えなかった。言うと、あなたが“正解探し”を始めるから」

「……始める」

「でしょ」

 彼女は少しだけ笑った。

「正解じゃなくて、ただ、隣にいてほしかった日があった」


 ただ。

 その一語が、僕の胸の真ん中を押した。脚本の一行目に書くべきだったのは、これだ。


「……今からでも、隣にいていい?」

 言った瞬間、自分で驚いた。奪うとか取り返すとか、そういう乱暴な言葉が一個も出ていない。出ていないのに、胸がちゃんと前へ出ている。


 彼女は少し迷ってから、頷いた。

「今は、十五分だけ」

「十五分」

「うん。いきなり全部は怖い」

「分かった。十五分、守る」


 僕らは歩き出した。目的地はない。目的地がないほうが、今夜は安全だ。街灯の下を、ただ並んで歩く。

 途中で彼女が言った。


「ねえ、ルール作ろ」

「ルール?」

「うん。違和感が出たら、ちゃんと声にする」

「……どう言うの」

「『今、ちょっと変かも』でいい」

「それだけ?」

「それだけ。言葉を小さくして、早めに出す」

 彼女は自分の指で、街路樹の支柱をこつん、と叩いた。

「合図。これ。あなたが黙って遠くに行きそうになったら、私がこつん。私が抱え込みそうになったら、あなたがこつん」

「分かった」

「で、もう一個」

「うん」

「偶然に逃げない」

 彼女は僕を見た。

「会いたいなら、会いたいって言う」


 僕はポケットの中で、さっき買った飴を握った。酸っぱさが、言葉の余計な飾りを削ってくれる気がした。


「会いたい」

「うん」

「また、帰り道を増やしたい」

「……うん」

 彼女の返事が、今日は遅くない。


 駅前のベンチに座って、彼女がタイマーを押した。ピッ。

「十五分」

「はい」

「じゃあ、その十五分の中で、言えること一つ」

 僕は息を吸って吐いて、短く言った。

「まだ、好きだよ」

 言った後、謝りそうになって、こつん、と自分の膝を叩いた。合図。

 彼女が小さく笑った。

「その合図、好き」

「合格?」

「合格。……私も、まだ、好き」


 タイマーが鳴る。ピピッ。

 十五分が終わってしまったのに、不思議と終わりみたいじゃなかった。脚本じゃなくて、生活の続きを書ける気がした。


「じゃあ、今日はここまで」

「うん」

「明日、どうする?」

 彼女が聞いた。明日、がある。明日って言葉が、久しぶりに怖くない。


「明日、鍵を返す」

「え」

「返して、代わりに新しい鍵を作る」

「鍵?」

「言葉の鍵。合図の鍵。……逃げない鍵」

 自分でも恥ずかしい比喩だと思ったけど、彼女は笑わなかった。


「いいね」

 その一言で、今夜は十分だった。


 別れ際、彼女が振り向いて言った。

「偶然じゃなくて、ちゃんと会いに来て」

「うん。会いに行く」

「たぶん禁止」

「たぶん禁止」


 僕は封筒の宛名を書けなかった手を思い出して、ポケットの中で軽く握り直した。

 明日は書ける。たぶんじゃない。

 脚本は燃えたけど、火事じゃない。

 火の扱い方を、やっと覚え始めた夜だった。

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