『偶然の脚本家』
笑っちゃうくらい、あっけなかった。
玄関の鍵が回る音も、靴が床に落ちる音も、いつもと同じだったのに、彼女だけがいなくなった。部屋の中に残ったのは、香りと、髪ゴムと、冷蔵庫のドアポケットに立てかけられた謎のタレ。
僕はそのタレを手に取って、裏のラベルを読んだ。辛さレベルが三段階で書いてあって、彼女は一番辛い方に丸をつけていた。嫌がらせじゃない。たぶん、未来の僕に向けた、軽い挑発だ。
「……ひどいな」
独り言は、相手がいないと気楽だ。気楽なのに、喉の奥が乾く。乾くと、また冷蔵庫を開けてしまう。白い光で現実を照らせば、心も冷える気がするから。実際は、冷蔵庫の方が優しい。開けても怒らない。
彼女が出ていった理由は、分かっているようで分からない。逆に言えば、分からないふりをしながら、分かっていた。
違和感なら、何回もあった。
「大丈夫?」と聞いたときの返事が、いつもより一秒遅い。
笑うタイミングが、半拍ずれる。
「今度ね」が増える。
それらを僕は、根拠のない「まあ大丈夫」で押しつぶしてきた。僕たちに限って、っていう、あの気持ち悪い万能薬で。
万能薬は、効きすぎる。
*
翌朝の通勤路は、やけに敵が多かった。
駅の改札は首を刈る門みたいにピッ、ピッと鳴るし、エスカレーターの右側に立ってる人の背中が、やけに「正しい」顔をしている。通りすぎる他人が、僕を笑ってるように見える。もちろん見えてるだけだ。実際は誰も僕に興味がない。なのに、僕の脳は勝手にドラマのBGMを鳴らす。
昼休み、友人の真矢から電話が来た。
『生きてる?』
「生きてるけど、部屋が広い」
『広いのは家具が減ったからじゃなくて心が減ったからね、知ってる知ってる。で? 相手はどこ行った?』
「知らない」
『知らないのに探してる顔してる。最悪だね。いいね』
真矢は、こういうときにだけ天使みたいなことを言って、すぐ悪魔みたいに笑う。どっちでもなくて、ただの性格が悪い親切だ。
『ねえ、取り返したい?』
「……言い方が物騒」
『言い方は物騒でいいんだよ。中身は安全に。ほら、君、強引に行けないタイプでしょ』
「行けない」
『じゃあ脚本。偶然の再会、作ろう』
脚本。
その単語が妙に刺さった。僕は仕事で台本を書いてるわけでもないのに、人生の一番痛いところを「段取り」に落とし込めば安心できる気がした。安心したいだけだ。勝ちたいわけじゃない。負けを認めたくないだけだ。
『シナリオ案その一。彼女の好きなカフェで“たまたま”会う』
「ストーカーじゃん」
『違う。ストーカーは黙って追う。これは“偶然を装って話しかける勇気”を練習するイベント。合法』
「合法って言うな」
『案その二。忘れ物を返しに行く』
「忘れ物……」
鍵。彼女の合鍵が、まだ引き出しにある。
『案その三。もういいや、ってなるまで散歩する』
「それは何」
『失恋の筋トレ。効くよ』
真矢は笑って電話を切った。笑い声だけが残って、僕は机に突っ伏した。脚本。偶然。再会。全部、格好いい言葉だ。格好いい言葉ほど、実際は泥くさい。
*
その夜、僕はカフェの前を三回通った。
入りもしないのに。
店のガラスに映る自分が、完全に怪しい。怪しいのに、止まれない。止まれないのは、心が勝手に「ここで会えば全部片付く」って思い込んでいるからだ。
会わなかった。
当然だ。世界は僕の脚本通りには動かない。
次の日、忘れ物を返す案を実行しようとして、玄関の前で止まった。
鍵を握った手が震えた。
鍵って、持っているだけで「まだ繋がっている」みたいで甘い。でも返しに行くと「繋がってない」を確認しに行くみたいで怖い。
僕は鍵を封筒に入れて、宛名を書けずに引き出しにしまった。
自分でも呆れる。脚本家のくせに、第一話で詰んでいる。
そのままコンビニに逃げた。
レジ横で、柑橘の飴を手に取って、戻した。手に取って、戻した。手に取って、戻した。
そのとき背後で「すみません」が重なって、僕は振り返った。
彼女だった。
髪が少し短くなっていた。顔色はいつも通りで、でも目の下だけが薄く青い。コンビニの蛍光灯が容赦なくそれを映す。僕の心臓は、脚本が全部燃えたみたいに暴れた。
「……久しぶり」
出た声が、自分の声じゃない。
彼女は一拍置いて、うっすら笑った。逃げ笑いじゃない。踏ん張り笑いだ。
「久しぶり。……こんなとこで会うんだ」
「偶然、って、あるんだね」
「偶然、って言葉、便利だよね」
痛い。彼女の言葉は、いつも短くて、いつも刺す。
僕は飴を一粒買って、会計を終えて、店の外に出た。彼女も出てきた。夜風が、二人の間の空気だけを少し冷やす。
「……元気?」
「元気、のふりは得意」
「僕も」
「知ってる」
知ってる、が来た瞬間、僕の中の何かが折れた。折れたのに、息が通る。折れたものは、たぶん見栄だ。
「ごめん」
口が勝手に言う。
彼女が眉を上げる。
「何に?」
「色々」
「色々はやめて。逃げ道だから」
その言い方、懐かしくて笑いそうになった。笑うとごまかすから、笑わない。
「……小さい違和感、見えてたのに、見ないふりした」
「うん」
「大丈夫って言い続けた。根拠ないのに」
「うん」
「それで、君が出ていった。……あっけなかった」
言って、喉が熱くなる。泣く手前の熱。
彼女は息を吐いて、コンビニ袋を持ち替えた。
「私も悪いよ。言わなかった」
「言ってほしかった」
「言えなかった。言うと、あなたが“正解探し”を始めるから」
「……始める」
「でしょ」
彼女は少しだけ笑った。
「正解じゃなくて、ただ、隣にいてほしかった日があった」
ただ。
その一語が、僕の胸の真ん中を押した。脚本の一行目に書くべきだったのは、これだ。
「……今からでも、隣にいていい?」
言った瞬間、自分で驚いた。奪うとか取り返すとか、そういう乱暴な言葉が一個も出ていない。出ていないのに、胸がちゃんと前へ出ている。
彼女は少し迷ってから、頷いた。
「今は、十五分だけ」
「十五分」
「うん。いきなり全部は怖い」
「分かった。十五分、守る」
僕らは歩き出した。目的地はない。目的地がないほうが、今夜は安全だ。街灯の下を、ただ並んで歩く。
途中で彼女が言った。
「ねえ、ルール作ろ」
「ルール?」
「うん。違和感が出たら、ちゃんと声にする」
「……どう言うの」
「『今、ちょっと変かも』でいい」
「それだけ?」
「それだけ。言葉を小さくして、早めに出す」
彼女は自分の指で、街路樹の支柱をこつん、と叩いた。
「合図。これ。あなたが黙って遠くに行きそうになったら、私がこつん。私が抱え込みそうになったら、あなたがこつん」
「分かった」
「で、もう一個」
「うん」
「偶然に逃げない」
彼女は僕を見た。
「会いたいなら、会いたいって言う」
僕はポケットの中で、さっき買った飴を握った。酸っぱさが、言葉の余計な飾りを削ってくれる気がした。
「会いたい」
「うん」
「また、帰り道を増やしたい」
「……うん」
彼女の返事が、今日は遅くない。
駅前のベンチに座って、彼女がタイマーを押した。ピッ。
「十五分」
「はい」
「じゃあ、その十五分の中で、言えること一つ」
僕は息を吸って吐いて、短く言った。
「まだ、好きだよ」
言った後、謝りそうになって、こつん、と自分の膝を叩いた。合図。
彼女が小さく笑った。
「その合図、好き」
「合格?」
「合格。……私も、まだ、好き」
タイマーが鳴る。ピピッ。
十五分が終わってしまったのに、不思議と終わりみたいじゃなかった。脚本じゃなくて、生活の続きを書ける気がした。
「じゃあ、今日はここまで」
「うん」
「明日、どうする?」
彼女が聞いた。明日、がある。明日って言葉が、久しぶりに怖くない。
「明日、鍵を返す」
「え」
「返して、代わりに新しい鍵を作る」
「鍵?」
「言葉の鍵。合図の鍵。……逃げない鍵」
自分でも恥ずかしい比喩だと思ったけど、彼女は笑わなかった。
「いいね」
その一言で、今夜は十分だった。
別れ際、彼女が振り向いて言った。
「偶然じゃなくて、ちゃんと会いに来て」
「うん。会いに行く」
「たぶん禁止」
「たぶん禁止」
僕は封筒の宛名を書けなかった手を思い出して、ポケットの中で軽く握り直した。
明日は書ける。たぶんじゃない。
脚本は燃えたけど、火事じゃない。
火の扱い方を、やっと覚え始めた夜だった。




