『準備の山を崩す日』
日曜日の昼、僕の部屋には「やる気の遺跡」が積もっている。
新品のスニーカー。買っただけのノート。開封すらしていない万年筆。やけに良い香りがするハンドクリーム。全部、未来の僕を助ける予定だった道具だ。予定のまま、今日も床にいる。
机の上のノートパソコンは、タブが十四個開いていた。
転職サイト、資格講座、体験レッスン、健康的な朝食、部屋の片付け術。
どれも正しい。正しいのに、僕はずっと椅子の上で固まっている。動かない像。展示名は「忙しいふり」。
スマホが震えた。画面に出た名前で、僕は条件反射みたいに背筋を伸ばす。
「……ミユ」
大学のころ、何かにつけて僕の背中を押してくる友人だ。押されると動ける。動けるのが悔しい。
『起きてる?』
「起きてる」
『じゃ、今から三十秒だけ。用件は一個。今日、見に来ない?』
「何を」
『市民劇団の見学。初心者歓迎。笑ってもいい回。』
僕は一瞬で言い訳を三つ作った。
服がない。時間がない。気分じゃない。
気分じゃない、は最強だ。反論しづらいし、本人も自分のことを許せる。便利な免罪符。
「今日は……その、やることが」
『あるよね。やること。で、いま何してる?』
「……」
『答えが出ないなら、たぶん“やってない”だよ』
「攻撃が雑」
『雑でいいの。柔らかい言葉は君、吸い込んで終わるから』
ミユは笑った。電話越しに、紙をめくる音。
『ほら、場所送る。駅前の公民館。十三時半。遅れてもいい。来たら勝ち』
「勝ち負けにするな」
『勝ち負けにすると動くでしょ。君、そういうとこある』
「ない」
『ある。じゃ、切るね。来なかったら、来週も誘う』
切れた。逃げ場が減った。
僕はソファに沈んで、天井を見た。天井は白い。白いくせに、僕を責めない。責めないから、余計に自分で責めたくなる。
僕は床のスニーカーを見た。箱の横に、小さな付箋が貼ってある。
《いつか履く》
いつか、のせいで今日が死んでいる。僕は付箋を剥がして、丸めて捨てた。
代わりに、ペンで箱に書いた。
《今日》
それだけで、少しだけ足が動いた。人間、案外単純だ。
*
外に出る前に、僕は鏡の前で十秒だけ立った。髪が中途半端だ。顔が中途半端だ。人生みたいだ。人生みたいって言うと、急に全部が重くなるから、やめる。
代わりに、ポケットに小銭を入れた。現実は小銭で回る。
駅まで歩く途中、コンビニの前で足が止まった。店内にある証明写真機が目に入ったからだ。なぜだか知らないけど、僕の中の「準備係」が騒ぎ出す。
まず写真。次に服。次に髪。次に筋トレ。次に人生。
準備係は、順番を増やすのが得意だ。
「……やめろ、準備係」
小声で言って、自分で笑った。ひとりで独り言を言う男は怪しい。でも怪しいのは、今日だけで十分だ。
それでも写真機の前に立ってしまった。画面に「撮影します。3」と出る。
「待って待って」
画面は待たない。「2」。
僕は慌てて前髪を整え、背筋を伸ばし、笑顔を作ろうとして失敗した。「1」。
フラッシュが光った。
出てきた写真の僕は、人生に謝っている顔をしていた。口角が上がりきらず、目が助けを求めている。何の助けだよ。
僕は写真を財布にしまった。捨てない。捨てるとまた準備係が増長する。これも現実の一部だ、と採用する。
コンビニを出ると、レジの店員が小さく言った。
「…がんばってくださいね」
見てたのか。見てたな。最悪だ。いや、助かった。最悪と助かったは同居できるらしい。
*
公民館は駅前の大通りから一本入ったところにあった。入口の掲示板に「本日の催し」と書かれた紙が貼ってある。その中に、手書きで小さく「劇団見学会」とある。目立たない。目立たないのに、僕の心臓だけが目立っている。
靴を脱いで廊下を歩くと、奥の部屋から笑い声が漏れてきた。笑い声って、怖い。自分が入っていない輪の笑い声は、扉みたいに固い。
僕は扉の前で止まった。取っ手に手をかけて、離した。深呼吸。二回。
「やっぱ帰る?」
背後から声がして振り向くと、ミユが立っていた。いつの間に。
手には紙コップ。中身はたぶんコーヒー。ミユの手はいつも生活の味がする。
「帰るかも」
「帰るかも、は禁止。来たんだから。ほら、入るよ」
ミユは僕の背中を軽く押した。強くない。強くないのに、押された場所があたたかい。
扉が開く。部屋の中は思ったより明るい。蛍光灯の白さじゃなく、人の声の明るさ。
丸椅子が円になっていて、真ん中に台本を持った人たちがいる。年齢はバラバラ。学生っぽい子も、仕事帰りっぽい人も、白髪の人もいる。誰も“うまそう”な顔をしていないのが、逆に安心だった。
「初めまして。見学の方?」
前にいた女性が笑った。笑い方が上手すぎない。上手すぎない笑いは、信用できる。
「はい……あ、友達に連れてこられて」
言ってから、逃げ道みたいで恥ずかしくなる。
でも女性は頷いた。
「連れてこられるの、正解。自分だけで来るの、だいたい怖いですから」
その一言で、僕の肩が一段落ちた。怖いのは僕だけじゃない。世界は優しいのか、普通なだけなのか、どっちでもいい。
*
見学会は「読み合わせ」だった。台本を順番に読む。読み上げるだけ。なのに、部屋の空気がちゃんと動く。台詞って、息の形なんだ、と僕は思った。
途中で主宰らしい男性が言った。
「ミスしていいです。噛んだら噛んだで面白い。面白いは正義です」
正義って言葉に、みんなが笑った。笑い方が色々で、部屋が少し広くなる。
そして、やってきた。
「…じゃあ、見学の方も、良かったら一行だけ」
一行。短い。逃げ道が少ない。
僕の喉が乾く。準備係がまた騒ぐ。声が変だ、滑る、恥ずい、帰れ。
その全部を、ミユが横で小さく指で叩いた。こつん、こつん。合図みたいに。
僕は息を吸って、吐いて、言った。
「……緊張してます。でも、来てよかったです」
言えた。言えたのに、死なない。床も抜けない。天井も落ちない。
拍手が起きた。拍手は大きすぎなくて、ちゃんと現実の音だった。
「いいですね」
主宰が頷いた。
「“来てよかった”って言える人、続きます。続けるのが上手い」
続ける。僕が一番苦手だと思っていた動詞だ。でも、苦手なのは“始める”の方かもしれない。始めてしまえば、続ける手順が見える時もある。
*
帰り道、ミユが駅前で缶ジュースを買ってくれた。柑橘っぽい酸っぱさのやつ。
「で、どうだった」
「……意外と、怖くなかった」
「嘘。怖かった顔してた」
「怖かった。でも、怖いままでも入れた」
「それが勝ち」
「勝ち負け言うな」
「言う。君、勝った方が明日も動く」
僕は缶を開けて一口飲んだ。酸っぱくて、笑った。笑うと、喉が通る。喉が通ると、言葉が出る。
「来週も、行っていい?」
「もちろん。ほら、予定、押さえよ」
ミユがスマホのカレンダーを開く。僕はそれを見て、昔の自分なら「あとで」で逃げたなと思った。あとで、は“いつか”の親戚だ。
「今、押さえる」
僕が言うと、ミユが目を丸くした。
「お。今日は速い」
「今日は、付箋を捨てたから」
「付箋?」
「“いつか”って書いてあったやつ」
「最高。じゃあ次は“たぶん”も捨てよ」
「たぶん禁止」
「そう。禁止」
家に帰ると、床の上の遺跡が目に入った。ノート、万年筆、ハンドクリーム。未来の僕の道具。
僕はそのうちのノートを一冊だけ机に置いた。開く。白いページ。怖い白。
でも今日は、書ける気がした。大きいことは書かない。大きいことは、また準備係を呼ぶ。
僕は一行だけ書いた。
《見学じゃなくて、参加する》
たったそれだけ。
それだけで、部屋が少しだけ狭くなる。狭くなるというより、僕の足がちゃんと床に着く。
僕は床のスニーカーを箱から出して、紐を結び直した。結び直す間、心臓が静かだった。
準備の山は、まだ残っている。
でも山は、崩せる。崩す順番は、今日でいい。
*
月曜日から金曜日まで、僕はいつもより少しだけ“早い人”になった。
早いと言っても、走るとか、成果を出すとかじゃない。言い訳を育てる前に、手を一回動かす。メールの返信を溜めない。洗濯物を山にしない。コンビニで立ち止まらない。小さい手を、小さいうちに出す。
それだけで、世界の角がほんの少し丸くなった気がした。気のせいでもいい。気のせいは、動く燃料になる。
そして土曜日。
午後の天気予報は、きっちり雨だった。雨は言い訳の味がする。
僕は朝から「今日は休んで、来週から本気」と言いかけて、すぐに自分で自分の口を塞いだ。来週から本気、は“いつか”の親戚どころか本家だ。
ミユからメッセージが来た。
『今日ね。来れる? 台本配る日』
配る日。つまり、参加の手触りが出る日。手触りが出ると怖い。
僕はスマホを握ったまま、玄関のスニーカーを見た。箱に書いた《今日》が、雨の匂いに負けずに残っている。
僕は「了解」を打ってから、後悔した。後悔したけど消さなかった。消すとまた準備係が暴れる。暴れさせたくない。
公民館へ向かう途中、雨が降った。ちゃんと濡れる雨。傘はあるのに、足元が落ち着かない。
僕は心の中で、準備係の声を聞いた。
濡れる。風邪ひく。髪が終わる。恥ずい。帰ろう。
全部もっともらしい。全部、僕を部屋に戻すための甘い声だ。
公民館の入口で、僕は傘を畳みながら小さく言った。
「……監督、交代」
準備係を監督から外す。今日の僕が現場監督だ。現場は雑でも進む。進めば、次が見える。
*
部屋に入ると、前回より人が増えていた。椅子の円が少し大きい。大きい円は、怖いのに安心もする。自分だけじゃない、って目で分かるから。
「来たねー!」
ミユが手を振った。雨で髪が少し濡れている。濡れていても元気な人はずるい。
「来ました……濡れました」
「濡れたら乾く。ほら座れ」
主宰が今日の流れを説明して、まずウォーミングアップが始まった。
体をほぐす。声を出す。早口言葉。舌が回らない。顔が熱い。
「生麦生米生卵!」
僕は噛んだ。しかも派手に噛んだ。部屋が笑う。笑い声が僕を刺さない。
笑い声が刺さらないの、初めてかもしれない。
「いいね、噛み方が素直」
主宰が言った。褒め方が変だ。
「噛むのが怖い人は、黙るから。噛める人は、伸びる」
伸びる、って言葉が軽くて助かった。僕の人生を背負わない。今日の舌だけ背負う。
次に、台本が配られた。薄い冊子。白い紙。怖い白。なのに手に持つと少し嬉しい。
役は決まっていない。今日は読み合わせだけ。好きなところを読む。
僕は最初、無難な短い台詞を選ぼうとして、やめた。無難は呼吸を浅くする。
代わりに、少し長い台詞を選んだ。どうせ噛むなら、ちゃんと噛みたい。
「……えっと」
僕が言いかけた瞬間、ミユが隣でこつんこつんと指で叩いた。合図。呼吸。
僕は息を吸って、吐いて、読み始めた。
声は震えた。震えたけど、止まらなかった。途中で噛んだ。噛んだら笑いが起きた。僕も笑った。笑ったまま、続きを読んだ。
読み終えたとき、胸の奥で小さな拍手が鳴った。外じゃなくて、自分の中で。
「よし。じゃあ次回から、希望の役、出していこう」
主宰が言った。
希望。希望って言葉が、今日は怖くなかった。
*
帰り道、雨は少し弱くなっていた。僕の中の雨も、少し弱い。
駅前でミユが言った。
「で、どう? 今日」
「……楽しかった」
「ほら言えた」
「言えた。これは、続けたい」
「たぶん禁止」
「……続けたい」
家に帰ると、床の遺跡がまだある。けど今日は、遺跡が敵に見えない。
僕はノートを開いて、二行目を書いた。
《噛んだら笑って続ける》
その下に、小さく付け足す。
《準備係は監督から降格》
書いて、冷蔵庫に貼った。白い光の前に、今日の言葉を置く。
タブを閉じる。十四個のうち、十三個を閉じた。最後に残したのは、劇団の連絡ページだけ。
未来の僕を助ける予定だった道具たちは、ようやく今日の僕の道具になり始めた。
僕はスニーカーの紐をもう一回結び直して、短く言った。
「……今日、やった」
それだけで、十分だった。




