『角のあるふたり』
前髪を切りすぎた。鏡の前で確信した。切りすぎた、では足りない。やりすぎた。
左右の長さが揃っているのに、全体が短い。数学的には正しいのに、世界観として間違っている。私は洗面台の縁に両手をついて、呻いた。
「見せて」
背後からの声に振り向くと、颯太が歯ブラシをくわえたまま立っていた。寝癖が妙に堂々としていて、こっちの前髪の失敗を相対的に小さく見せてくる。腹が立つ。
私は前髪を指でつまんで見せた。指先でつまむと、より短さが際立つ。やめてほしい、私の指先。
「……小学生の卒業アルバムみたい」
「ひどい」
「いや、褒めてる。卒業アルバムの小学生って、最強だろ」
「最強は、前髪がある程度ある」
「ある程度って、どれくらい」
「私が泣かない程度」
「じゃあギリギリ泣かない。よし」
よしじゃない。私は軽く拳を作って颯太の腕を叩いた。叩いたところで前髪は伸びない。でも、叩くと気持ちが少し整う。
颯太は口の端で笑って、歯ブラシを外した。
「でもさ」
「なに」
「その短さ、安心する」
意味が分からなくて、私は眉を寄せた。寄せても前髪は短い。
「安心?」
「うん。失敗してるのに、隠そうとしてない顔。そういうの、いい」
「褒めてる?」
「褒めてる。たぶん、俺の好みはちょっと変」
「変なの自覚してるなら、矯正して」
「矯正したら俺じゃなくなる」
「それはそれで困るかも」
「だろ」
悔しいけれど、私は笑ってしまった。笑うと前髪が軽く跳ねて、さらに短さが際立つ。やめてほしい、私の前髪。
私と颯太が同棲を始めて三ヶ月。家具はまだ全部揃っていない。カーテンは仮のまま。食器棚もないから、マグカップはシンク下の引き出しに重ねて入れてある。
それでも、朝は勝手に回る。コーヒーの粉を計って、パンを焼いて、洗濯機に放り込んで、出社の靴下を探して、見つからなくて、二人で同じ引き出しを開けて、なぜか同時にため息をつく。
朝の段取りで唯一うまくいくのは、言い争いのタイミングだ。
歯磨き粉のキャップを締めたか締めてないか。
トースターのタイマーが微妙にズレている件。
洗濯ネットを誰が干すか。
些細すぎて笑えるはずなのに、眠い日は笑えない。眠い日は世界が尖る。
「今日、帰り遅い?」
玄関で靴を履きながら、颯太が聞いた。
「たぶん遅い。締めが」
「たぶん、って言い方が怖い」
「私だって怖い」
「じゃあ、たぶんの代わりに、目安を」
「二十一時。ずれたら連絡する」
「よし。じゃあ俺、夕飯は一人で作る。失敗しても怒るなよ」
「怒らない。私だって前髪で失敗した」
「失敗の種類が違う」
「違うけど、恥ずかしさの温度は似てる」
「それ、名言っぽい」
「名言じゃない。今すぐ帽子をかぶりたい人の言い訳」
颯太は笑って、私の頭に手を置きそうになって、止めた。触ると前髪がさらに暴れるのを知っているらしい。
「行ってらっしゃい、最強小学生」
「いってきます、寝癖の王」
ドアが閉まる。
私は階段を降りながら、自分の胸の奥を確かめた。変な言い方だが、同棲してからずっと、胸の奥に角がある。鋭い角じゃなくて、机の端みたいな角。うっかり当たると痛い。けれど、角があるから掴める。
私はその角を、今日はうまく持てる気がした。前髪以外は。
*
夜、予定通り二十一時を少し回って帰宅すると、部屋はふわっと温かかった。玄関に漂う香りが、すでに答えを出している。
カレーだ。しかも、ちょっとだけ焦げた香りが混じっている。
私は「やったな」と思いながら靴を脱いだ。
「おかえり」
キッチンから颯太が顔を出した。エプロンが斜めに結ばれている。彼は斜めが似合う。私は前髪が似合わない。公平じゃない。
「……焦げた?」
「焦げた。けど、焦げは香ばしさの親戚」
「親戚が多いな、この家」
「家族経営だから」
鍋のふたを開けると、湯気が立ち上った。湯気は丸い。今日一日で尖ったところを、勝手に丸くしてくれる顔をしている。
私は席に着き、颯太がよそった皿を受け取った。野菜が大きい。大きすぎる。切るのを面倒くさがったときのサイズだ。
「これ、じゃがいもが“面”だね」
「剣道の話?」
「知らないけど、面」
「じゃあ人参は胴」
「玉ねぎは小手」
「全部いけるな」
どうでもいい会話で笑える日は、まだ救われる。
食べてみると、案外おいしかった。焦げは焦げで、確かに香ばしい。悔しい。
「うまい」
「だろ。俺、天才」
「天才は焦がさない」
「天才は焦がしても回収できる」
「それはただの強がり」
「強がりは、弱い人の鎧だよ」
颯太はさらっと言った。
私はスプーンを止めた。
鎧。そう、鎧だ。
私たちは互いに、鎧の形が違う。私は黙る鎧。颯太は冗談の鎧。どっちも防御になる。どっちも相手を遠ざける。
同棲してから、それが少しずつ見えてきた。
「ねえ」
私が言うと、颯太が顔を上げた。
「ん」
「最近さ。私、あなたに言い返すとき、ちょっと尖ってる」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「知ってる。尖ってる方が元気だから」
「それ、褒め方として雑」
「雑だけど本音。元気がないときは、尖る力もない」
颯太はカレーを一口食べて、続けた。
「でも、刺す方向は間違えないでほしい」
その言い方が、優しいのに逃げ道がない。
私は息を吸って、吐いた。湯気の丸さを借りて、言葉を出す。
「分かってる。……怖いんだよ」
「何が」
「この生活が、ちゃんと続くのか」
言った瞬間、自分でもびっくりした。こんなこと、言うつもりじゃなかった。カレーの親戚の話で終わらせる予定だった。
でも、言葉は時々、予定を裏切る。裏切るのに、助ける。
颯太はスプーンを置いた。
「続くかどうかは、分かんない」
「うん」
「分かんないから、俺は時々、変な呪文を唱える」
「呪文?」
「ほら。『大丈夫』とか『まあいける』とか」
「それ、呪文なの」
「呪文だよ。唱えると、怖さが少しだけ小さくなる。怖さは消えないけど、サイズが変わる」
「……サイズが変わるの、いいね」
「だろ」
私は笑って、前髪がまた跳ねた。今日はもう許す。
「じゃあ私も呪文ほしい」
「あるじゃん」
「ない」
「ある。『とりあえず』」
「それ呪文っていうか、先延ばし」
「先延ばしは悪じゃない。崖から落ちるよりマシ」
颯太は肩をすくめた。
「俺さ、あなたの『とりあえず』が好きなんだよ。完璧に決めない感じ。俺、完璧に決められる人、ちょっと怖い」
私は皿の端を見た。カレーが少しこぼれている。拭けばいいのに、まだ拭かない。
「ねえ、颯太」
「ん」
「変なこと聞いていい?」
「だいたい変だけど、どうぞ」
私は迷ってから言った。
「もし、どっちかが先にいなくなったら。残った方はどうする?」
言ってから、しまったと思った。暗い。急に暗い。
でも颯太は、すぐに顔を曇らせなかった。むしろ、少し困ったみたいに笑った。
「それ、今見てたドラマの影響?」
「……うん。たぶん」
「たぶん、って言い方が怖い」
「今そこ突っ込む?」
「突っ込む。暗くなる前に突っ込む」
颯太は顎に手を当てて、真面目に考えるふりをした。
「俺が先なら、まず植物を枯らす」
「最悪」
「でもその後、ちゃんと水やりを覚える。泣きながら」
「泣きながら覚えるのも最悪」
「最悪を笑える程度に、ちゃんと好きってこと」
颯太はさらっと言って、私の前髪を指でつまもうとして、やっぱりやめた。
「あなたが先なら、俺はたぶん、あなたのマグカップを割らないように暮らす。毎日ビクビクしながら」
「マグカップ基準なの」
「基準。だって、割れそうなものを大事にできるかが、俺の人間力」
私はその答えが、思ったよりずっと優しいことに驚いた。
誰かを失う話をしているのに、生活の話になっている。生活の話は、明るくも暗くもない。続きがある話だ。
私はスプーンを握り直して言った。
「じゃあ、今のうちに練習しよう」
「何を」
「マグカップを大事にする練習」
「今、生きてるのに遺品扱いするな」
「遺品じゃない。未来の自分のための練習」
「それ、賢いのか不謹慎なのか分からん」
「分からないなら、とりあえずで」
「呪文、使うな」
二人で笑った。
笑いながら、私は思った。私たちは角がある。角があるからぶつかる。ぶつかるから痛い。
でも角があるから、引っかかって止まれる。滑り落ちない。
丸いだけのものは、転がってどこかへ行ってしまう。角は、ここにいる証拠だ。
食後、颯太はシンクで皿を洗い、私はテーブルを拭いた。焦げの匂いが少し残っている。残っている匂いは、今日の出来事を覚えている匂いだ。
私はふと、今朝の前髪を思い出して、鼻で笑った。
「ねえ」
「ん」
「私、前髪、失敗してよかったかも」
「急に何」
「だって、隠せない日だったから」
「隠さない日、増やしていこうぜ」
「増やすと、世界観が崩壊する」
「世界観は崩壊しても、生活観が残れば勝ち」
「勝ち負け嫌いじゃなかった?」
「嫌い。だから“勝ち”って言う。反抗」
颯太は濡れた手でピースをした。意味不明だが、かわいい。
私はソファに座り、颯太も隣に座った。肩が触れる。触れるだけで、角が少し丸くなる。
颯太が小さく言った。
「ねえ、今夜の呪文、決めない?」
「何」
「喧嘩しそうになったら、まず言う言葉」
「そんな便利な呪文ある?」
「ある。……『一旦、飲む』」
颯太が真面目な顔で言うから、私は噴き出した。
「また飲み物に逃げるの」
「逃げじゃない。停戦」
「停戦って言葉、好きだね」
「好き。戦争はコスパ悪い」
「急にビジネス」
颯太は私の手を取った。指先が温かい。
「でさ」
「うん」
「俺たちの角、別に削らなくていいと思う」
「じゃあどうするの」
「噛み合わせを覚える。出っ張ってる方が、相手のくぼみを探す」
「……それ、難しい」
「難しいから、二人でやる」
私は頷いた。
言葉が胸の奥でちゃんと止まる。止まるのは、引っかかる場所があるからだ。
私は前髪を指でつまんで、短さを確かめた。
「明日、帽子いるかな」
「いらない」
「いる」
「じゃあ、いる。でも、家ではいらない」
「……家では、いらない」
繰り返したら、少しだけ本当になった。
颯太が黙って、私を抱き寄せた。力は強くない。強すぎないのが、いちばん安心する。
私はその胸に額を当てて、息を吐いた。
角だらけの二人でも、こういうふうに当て方を選べば痛くない。
痛くない場所を探せるなら、明日もここにいられる。
ソファの上で、私の前髪が頬に触れた。短いから、すぐ触れる。
私は小さく笑って、颯太のシャツをつまんだ。
呪文みたいに、心の中で唱える。
大丈夫。
まあ、いける。
とりあえず、飲む。
どれも完璧じゃない。だからこそ、私たちに似合う。
翌朝。目覚ましより先に、颯太の欠伸が聞こえた。壁越しにでも分かる、大きいやつ。私は洗面台の前で前髪を指先で整え、整えきれない短さに諦めて笑った。
「最強小学生、今日も出動?」
「出動。……ただし帽子持参」
「どっちなんだよ」
「外では帽子。会社では外す。家では最初から外してる。これ、重要」
颯太は冷蔵庫に磁石で小さなメモを貼った。『まず飲む』。その横に、私がペンで追記する。『そのあと話す』。
文字にすると、角が少しだけ丸くなる気がした。
玄関で靴紐を結びながら、私は言った。
「ねえ、今日の予報は?」
「午前くもり、午後くもり、夜はたぶんカレーの残り」
「最後、天気じゃない」
「生活の予報」
私たちは同時に笑って、同時に「行ってきます」「いってらっしゃい」を言い合った。ぴったり揃わないのに、重なるところだけは揃う。その重なりが、今日の足場になる。




