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短編集  作者: 科上悠羽
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『叫びの受け取り窓口』

 街は、音が多すぎる。クラクション、工事の金属音、改札の電子音、笑い声、ため息。ぜんぶが同じ高さで鳴るせいで、耳が「重要度」を判定できなくなる。

 だから僕は、夜の仕事を選んだ。音が減る時間帯なら、世界が少しだけ整理されると思ったから。


 僕の職場は駅前の商業ビルの裏側、誰も知らない通路の奥にある監視室だ。青白いモニターが壁一面に並び、カメラ映像と設備の数値が流れている。人の表情は小さく、数字は大きい。数字のほうが安心できるのは、たぶん僕が臆病だからだ。


 今夜は、イベントのせいで少しだけ騒がしい。ビルの一階ロビーに「声のポスト」なるものが設置されている。透明な箱の中に、マイクと小さなランプ。説明はこうだ。


――十秒だけ、言いたいことを言ってください。叫んでも、ささやいても、ため息でもいい。録音は、あなたが指定した相手へ“お手紙”として届きます。


 ふざけてるようで、真面目だ。最近こういう“心のキャンペーン”が増えた。

 ただし、録音がそのまま届くわけじゃない。暴言や個人情報が混ざっていないか、最終チェックが必要らしい。チェック係に回されたのが、夜勤の僕。ヘッドセットで十秒ずつ、街の声を受け取る仕事。


 最初のうちは、面白かった。「上司の靴下が毎日同じ匂いです」とか、「ラーメン食べたいのにダイエット中」とか、「告白する勇気をください」とか。人の悩みは、笑える形にすると軽くなる。軽くなるだけで、少しだけ救われる。


 でも、深夜二時を過ぎた頃に来た一本は、笑えなかった。


 録音が始まる。風の音。遠くの喧騒。妙に生温い空気がマイク越しに伝わってくる。

 そして、短い吸い込み。

 次の瞬間、声が割れた。


 叫びだった。言葉じゃない。獣みたいな音でもない。人が、人のまま限界を超えるときの、喉の奥の音。

 そのあと、かすれた声が続いた。


「……もう、やだ。頑張るの、飽きた」


 十秒が終わり、ランプが消える。モニターの波形だけが残っている。

 僕はヘッドセットを外して、耳の熱を冷ました。胸の奥が、きしんだ気がした。耳を塞いでも誤魔化せない種類のきしみ。さっきの声が、まだそこに引っかかっている。


 次の録音に進めない。進めたら、あの声が“案件”になってしまう。十秒で区切って、チェックして、送信して、はい次。

 そんなふうに扱えない。


 僕はもう一度、再生ボタンを押した。確認のため、という言い訳を自分に与えて。


 叫びのあと、あの一言。

 声の癖で分かった。息継ぎの位置で分かった。最後の母音の落とし方で分かった。


 ――なぎだ。


 同じビルのテナントで働く人。昼間、ロビーで時々すれ違う。いつも背筋がまっすぐで、歩く速度が迷いない。笑うときはきれいに笑って、謝るときは先に謝って、何でも“感じよく”片づける人。

 彼女の口癖は「大丈夫」。大丈夫を言うのが速すぎて、こっちが質問を出す前に会話が終わる。


 大丈夫って、便利だ。便利すぎて危ない。

 大丈夫を繰り返すと、誰も助けに入れない。本人も、助けを呼ぶタイミングを失う。


 僕は椅子の背にもたれて、天井を見た。監視室の蛍光灯は無機質で、嘘みたいに一定の明るさだ。

 ここで迷っている場合じゃない。迷っているうちに、凪はまた叫ぶかもしれない。叫びが二回目になる前に、誰かが拾わなきゃいけない。


 でも、僕が?

 僕は“声のチェック係”で、彼女の友人でも恋人でもない。顔もまともに知らない。ただすれ違うだけの他人。

 他人が踏み込むのは、余計なお世話の一歩手前だ。


 それでも、耳に届いてしまった。届いたら、戻せない。


 僕はロビーの受付に電話を繋いだ。

「声のポスト、さっきの録音。送信、保留にしてください」

『え、どうして?』

「……確認が必要です」

 嘘じゃない。嘘じゃないけど、全部でもない。


 電話を切って、スマホを握った。凪の連絡先なんて知らない。

 代わりに、僕はビルの共用アプリを開いた。テナント連絡用の掲示板。業務連絡のための、味気ない機能。

 そこで、凪の部署の代表アカウントに短いメッセージを送った。


『いま、ロビーにいますか。聞こえました。返事はいりません。必要なら、出てきて』


 送信した瞬間、心臓がうるさくなった。変なことをした自覚がある。これが“踏み込み”だ。

 踏み込んだ以上、責任が生まれる。怖い。けれど、怖いのは正しい。


 監視室を出て、非常階段を降りた。途中、廊下の窓から見える駅前はまだ明るい。終電の後なのに、街灯と看板が昼みたいに顔をしている。

 生温い風が吹き込んで、耳の奥でさっきの叫びがもう一度跳ねた。


 一階ロビー。声のポストの周りには誰もいない。透明な箱が、静かに立っている。

 僕は柱の影に立った。見張りじゃない。待つ。待つしかない。


 十分ほどして、入口の自動ドアが開いた。

 凪が入ってきた。コートのまま、髪は少し乱れて、目の下が薄く青い。昼間の“感じよさ”が、今日は剥がれている。剥がれているのに、こっちのほうが本物に見えた。


 凪は僕に気づいて、立ち止まった。

「……あなた、誰」

 声が硬い。硬いのに震えている。

 僕は名乗った。監視室の係だ、と。声のポストのチェックも担当している、と。

 説明しながら、胸の奥が痛い。彼女の叫びを業務として聞いた、その事実だけで罪悪感が増える。


 凪は一歩だけ後ずさった。

「聞いたの?」

「……届きました」

 届いた、という言葉を選んだ。盗み聞きじゃなく、受け取りだと言いたかった。

 凪は唇を噛んで、視線を逸らした。ロビーのガラスに外のネオンが映り、彼女の顔に変な色が乗る。


「最悪」

「最悪、じゃないです」

 僕は反射で言ってしまって、慌てて続けた。

「最悪なのは、我慢勝負を続けることです。……たぶん」


 凪が、少しだけ笑った。笑い方が崩れている。崩れているのに、救われる。

「我慢勝負って何」

「……我慢比べ。誰が一番平気な顔をするか、みたいな」

「そんな勝負、してない」

「してました」

「……誰と」

「たぶん、街と。モニターと。あと、自分と」


 凪の視線が、声のポストに落ちた。透明な箱の中のマイク。

「私、あれに、叫んだんだ」

「はい」

「……笑う?」

「笑いません」


 沈黙が落ちる。ロビーの空調の音だけが続く。

 僕はその沈黙を、無理に埋めなかった。埋めると、彼女はまた“大丈夫”の札を貼ってしまう気がしたから。


 やがて凪が言った。

「……声、送らないで」

「送ってません。保留にしました」

「勝手に?」

「勝手に、です」

 僕は正直に言った。正直のほうが、後で刺さらない。


 凪は肩で息をして、ぽつりと吐いた。

「私、ほんとに、疲れてた」

「うん」

「疲れてるって言うと、負けた気がして」

「負け、でいいです」

「何それ」

「負けたほうが、始められることもあります。勝ち続けると、終わり方が分からない」


 凪は目を閉じて、ゆっくり息を吐いた。

「じゃあさ」

「はい」

「いま、もう一回叫んだら、届く?」

 その質問が、胸を打った。試すみたいな声。確かめたい声。

 僕は頷いた。

「届きます。ここでも、どこでも。……僕の耳がある限り」


 凪は笑いそうになって、やめた。

「耳の限界、低そう」

「低いです。だから仕事、夜です」

 凪が、今度こそ小さく笑った。ロビーの空気が一段柔らかくなる。


 僕は提案した。

「ここ、声が響きます。人が来たら困るなら、屋上に行きましょう。風が持っていきます」

「屋上、寒い」

「寒いと、叫びが短くなります。短いの、得意ですか」

「得意じゃない」

「じゃあ、ちょうどいいです。長く叫ぶと、喉が壊れる」


 凪は「何それ」と言いながら、でも頷いた。


 非常階段を上がる。夜風が強くなり、外のクラクションが遠くの波になる。

 屋上に出ると、街の灯りが広がっていた。白線みたいに車のライトが流れて、ビルの窓が無数の点になる。

 凪は柵の内側で立ち止まり、胸の前で拳を握ったり開いたりした。迷いの仕草。

「……どう叫べばいいの」

「言葉じゃなくていいです」

「それが難しい」

「じゃあ、言葉で。短く。『もう無理』でも『やめたい』でも」

「それ、言ったら終わりそう」

「終わりにしていいやつ、あります。強がりの美学とか」

 凪は鼻で笑った。

「美学って言葉、嫌い」

「僕もです。だいたい、他人が決めた美学です」


 凪は息を吸った。足がすくむみたいに、膝が少し曲がる。

 そして、叫んだ。


「うるさいんだよ!」


 声が夜に飛んでいく。街の音に混ざって、すぐ見えなくなる。

 でも、確かに届いた。僕の胸の奥に、まっすぐ落ちた。


 凪は続けた。

「息する暇がない! 笑うのも! 平気なふりも!」

 言葉が言葉として出るのが不思議なほど、彼女の声は生々しい。

 最後に、少しだけ声が小さくなった。

「……助けてって、言っていい?」


 僕は即答した。

「いいです。むしろ、今言うのが一番いい」

「……助けて」

 凪は言って、笑った。泣き笑いでもない。脱力の笑い。肩の力が抜けると、人は自然に笑う。


 僕も笑ってしまった。

「届きました」

「ほんとに?」

「ほんとに。証拠に、いま僕、息が深いです」

「変な証拠」

「変がいいです。変は記憶に残る」

 凪は「それは分かる」と頷いた。


 しばらく二人で夜景を見た。話さない時間が続いても、怖くなかった。

 凪がぽつりと言った。

「私さ、明日もまた平気な顔しちゃうと思う」

「します」

「断言しないで」

「断言します。癖です。でも、癖には手順が効きます」


 僕はスマホのメモを開いて、凪に見せた。

『合図:□(しかく)』

「四角って送られたら、聞く側になる。返事は『届いた』だけでいい。説明は、あと」

 凪は目を丸くして、それから笑った。

「お節介焼き」

「はい」

「天使?」

「悪魔寄りです。余計なことします」

「じゃあ、私も悪魔寄りでいく。四角、送る」

「送ってください」


 屋上を降りる途中、凪が言った。

「声のポスト、あれ、送信したい人がいる」

「誰に」

「……未来の私」

 凪は言って、少し照れた。

「いまの叫び、忘れたくない。忘れたらまた我慢勝負始めるから」

「じゃあ、送ります。匿名で。内容はそのままじゃなくて、手紙にして」

「勝手に?」

「また勝手に」

「……まあ、いいや。勝手にして」

 その「まあ、いいや」が、今日一番明るかった。


 ロビーに戻ると、透明な箱は相変わらず静かだった。

 凪はマイクの前に立ち、今度は叫ばずに言った。短く。


「私の声は、消えない」


 十秒が終わり、ランプが消える。

 僕はそれを“案件”としてではなく、“受け取り”として保存した。明日、彼女に届く形に直す。タイトルも何も付けない。特定できないように。けれど、本人が思い出せるように。


 凪はコートの襟を立てて言った。

「帰る。寒い」

「帰って温かいの飲んでください」

「あなたも」

「僕は仕事に戻ります」

「……四角、送っていい?」

「いつでも」

「じゃあ、たぶん送る。早いと思う」

「早いほうがいいです」


 凪がロビーを出ると、外の喧騒がまた押し寄せた。クラクションが鳴り、誰かが走り、信号が点滅する。街は相変わらずうるさい。

 でも今日は、そのうるささが少しだけ違って聞こえた。叫びが届いたからだ。届くと分かったからだ。


 監視室へ戻ると、モニターの青白い光が迎えた。

 僕はヘッドセットをつけ、次の十秒を受け取る準備をする。

 画面の隅で、スマホが震えた。凪からだ。早い。


『□』


 僕は笑って、短く返した。


『届いた』

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