『空のきげん、私のきげん』
朝の空は、いつもこちらの事情を聞かない。
駅前のビルの谷間に灰色が貼りつき、信号はせかせか点滅し、改札は人を押し込むだけ押し込んで知らん顔。僕が「今日はちょっと、穏やかに始めたいんですが」と内心で頼んでも、空は黙って曇る。黙って曇るのが、いちばん厄介だ。
社用リュックの横ポケットには、折りたたみ傘が常駐している。晴れでも曇りでも、念のため。念のため、はビジネスの呪文で、唱えるほど荷物が増える。
傘の骨が少し歪んでいるのは、去年の年末のせいだ。忘年会も仕事も「今年中に」で詰め込まれ、最後の最後に資料の差し替えが入って、窓の外で子どもが雪を投げ合っているのを、コーヒー片手に「いいなあ」と眺めた日。あの時、僕の心の天気は確かに吹雪だった。口では「大丈夫です」と言いながら、内部では台風が回っていた。
会社の最寄り駅に着くと、駅前の小さな掲示板に、今日も手書きの紙が貼られていた。
《本日の雲 やる気は低いが、湿度は高い》
書いたのは、たぶん気象オタクの誰かだ。紙の端には、丸い字で「雲係」とだけ署名がある。誰だよ雲係。いるなら会ってみたい。
僕はその紙を見て、つい笑ってしまった。笑うと、胸の中の曇りが一段だけ薄くなる。天気が変わるんじゃない。僕の受け取り方が、ちょっとだけ変わる。
「おはよー、相川。今日の顔、曇りっぽい」
背後から声をかけてきたのは、同僚の梨花だ。髪はきっちり、口紅はきっちり、言葉だけはやたらラフ。彼女は人の顔を天気で表現する癖がある。
「人の顔を気象分類するな」
「だって分かりやすいじゃん。ほら、曇り。降水確率、七十」
「降らせるな」
「降るときは降るよ。湿度高いし」
梨花は駅の掲示板を指差した。
「見た? 雲係。今日もキレてる」
「キレてるのかな、これ」
「キレてるよ。湿度は高い、って言い方。だいたい怒ってる」
オフィスに着くと、メールの受信箱が既に小さな低気圧だった。未読の数字がぷくっと膨らみ、チャットの赤い点が雨粒みたいに増える。
僕は席に座って、まず呼吸を整えた。三秒吸って、三秒吐く。これだけで世界が良くなるなら苦労しない。でも、悪化の速度は落ちる。速度が落ちれば、転びにくい。
午前中は会議が二本。午後は「ちょっとだけ確認」が四本。ちょっとだけ、という言葉は信用しないことにしている。ちょっとだけは、だいたい長い。
昼休み、給湯室でインスタントの紅茶を淹れていると、梨花が紙コップを持って現れた。
「ねえ相川、今日の心の予報、どう?」
「急に何」
「昨日、社内の健康啓発でさ、“感情を可視化しましょう”って言ってたでしょ。だから予報にしたらいいと思うんだよね」
「気持ちが天気で済むなら楽だね」
「済まないから予報にするんだよ。予報って、外れても怒られにくいじゃん」
確かに。天気予報は当たっても外れても、人は結局傘を持つ。僕もそうだ。外れる前提で準備する。
梨花はスマホを見せた。メモ画面に、大きく書いてある。
《本日の梨花:晴れ。夕方に一時的な雷(上司)》
「雷って書くなよ」
「雷は雷だよ。鳴る前から分かる。あと、相川のは?」
僕はうっかり、口を滑らせた。
「……曇り、のち、曇り」
「最高に正直。じゃあさ、雲係と一緒じゃん。仲間だね」
仲間。そう言われて、胸がちょっとだけ痛んだ。
僕の曇りは、仕事のせいだけじゃない。もっと分かりやすい理由がある。けれど分かりやすいほど、言いづらい。
去年の春に、同棲していた恋人が出ていった。喧嘩をしたわけでも、嫌いになったわけでもない。どちらかといえば、静かな擦れ違いの積み重ねだった。相手の忙しさを思いやるうちに、会話の回数が減り、減った会話を補うために僕が想像を増やし、増えた想像が勝手に陰天を連れてきた。
その結果、空は快晴でも、僕の内側は曇るようになった。天気アプリは役に立たない。内側の予報は、誰も出してくれない。
「おーい、相川。湯気、逃げるよ」
梨花に呼ばれて、僕は紅茶を口に運んだ。熱い。舌が一瞬だけ現実に引き戻される。
「……梨花さ」
「ん?」
「もし、人の気持ちが見える機械があったら、欲しい?」
「え、怖。脳内覗き見?」
「覗き見じゃなくて、誤解を減らすやつ」
「それ、たぶん誤解が増えるよ。だって見えたら見えたで、余計に考えるじゃん」
梨花はさらっと言って、紙コップを揺らした。
「相川、考えるの得意そうだし」
「得意じゃない。勝手に起動するだけ」
「それを得意って言うんだよ」
午後、僕は資料の修正に追われながら、ふと思った。
もし空から、衛星でも、隕石でも、派手な何かが落ちてきたら。会議室だけを避けて、僕の机の周りだけを避けて、ちょうど上司の机の近くにだけ、うっかり落ちてくれたら。
そんなことを考える自分に、笑いそうになる。笑えない。仕事中だ。
でも、そういう不謹慎な妄想が浮かぶほどには、僕はまだ“劇的な何か”を期待している。劇的な何かで、全部がひっくり返る瞬間を。
……実際の現実は、だいたい小さな不快でできている。
同僚からの「これ急ぎで」。先輩からの「その言い方、角が立つ」。後輩からの「すみません、分かりません」。
僕は今日、後輩の真中に、少しだけ強い口調で返してしまった。「それ昨日も言ったよね」と。言った瞬間、真中の肩が一ミリ落ちた。たった一ミリなのに、僕の心が一段曇った。
僕はチャットに「ごめん、あとで説明する」と打ち、送信する前に一度消した。文面が短いと、また刺さる気がした。代わりにこう書き直す。
『さっき言い方きつかった、ごめん。十五分だけ時間取るね。ここ一緒に整理しよう』
送信すると、返信はすぐ来た。
『ありがとうございます…!』
絵文字が一つ、ぎゅっと詰まっていた。少しだけ救われた。周りを濡らさない雨の降らせ方は、たぶんこういうやつだ。
定時を過ぎたころ、外がにわかに暗くなった。窓の外の雲が厚くなり、遠くで低い音がした。雷の前の、腹の底に響くやつ。
梨花が僕の席に来て、指で机をこつこつ叩いた。
「来た。夕方の雷」
「予報、当たるじゃん」
「当たるときは当たる。ねえ、相川。雲係、探しに行かない?」
「仕事終わってない」
「終わるまで待ってるよ。予報は“待つ”も含むから」
梨花はそう言って、自分の席に戻った。戻り方が軽い。軽いのに、置いていかれた感じがしない。こういう人がいると、嵐の中でも溺れにくい。
結局、僕は二十分だけ残業して、駅前へ戻った。雨は降っていない。降りそうで降らない、いちばん焦れる空。
掲示板の前に、フードを被った人が立っていた。手には黒いマーカー。紙を貼り替えようとしている。
「……雲係?」
僕が言うと、その人は振り向いた。若い女性だった。眼鏡の奥の目が妙に真面目で、でも口元がちょっと笑っている。
「雲係は、雲係です」
「名乗り方がそれでいいんだ」
「本名で雲は書けません」
なるほど、と思った。雲を書く人は、雲のままでいたいのかもしれない。
雲係は新しい紙を貼った。
《本日の雲 降るなら降れ。降らないなら笑え》
強い。強いけど、どこか優しい。降らないのに傘を持っている人の背中を、軽く叩くみたいな言葉だ。
僕はその紙を見て、口の中で反芻した。降るなら降れ。降らないなら笑え。
「それ、乱暴じゃない?」
梨花が横から言った。彼女も来ていたらしい。
「乱暴です」雲係が平然と言った。「乱暴な日もあるんで」
「いいじゃん。正直」
「正直は時々、救命具です」
雲係の言い方が、妙に気に入った。救命具。そう、僕はいつも救命具を探している。
「でも」雲係は続けた。「自分の嵐で、周りの人までびしょびしょにするのは、格好よくないです」
梨花が「わかる」と即答した。僕は胸がちくりとして、さっきの真中の肩を思い出した。
「嵐って、止められない日もありますよね」
僕が言うと、雲係は肩をすくめた。
「止めなくていいです。止められないから。……ただ、傘をさす。『いま荒れてる』って先に出す。近づかないで、じゃなくて、濡れないで、って」
その言い方が、妙に優しい。拒否じゃない境界線。
「会社にも、こういう掲示板あったらいいのに」梨花が言った。
「心の天気図」雲係がぽつりと呟いた。
「それだ」梨花が指を鳴らした。「明日からやろ。ホワイトボードに貼り紙。『今日の気分:晴れ/曇り/雷、近づくな』」
「近づくなはダメだろ」僕が言う。
「じゃあ『雷なので、刺激しないで』」
「言い方が可愛い」
「可愛くしないと、みんな黙るから」
雲係は笑った。ほんの少しだけ。笑うと、雲の下にも光が差すみたいだ。
そのとき、空がふっと明るくなった。雲の切れ目から、夕日が一本だけ差した。一本の光が、駅前の濡れたアスファルトに細い道を作る。雨が降っていないのに、地面が濡れているのは、昼に少しだけ降ったらしい。
光の道の上を、小学生が走っていく。ランドセルが跳ねて、靴音が軽い。
僕はなぜか、胸の奥がきゅっとした。劇的な何かは落ちてこない。隕石もUFOも来ない。だけど、光が一本落ちてくるだけで、景色は変わる。
「ねえ相川」梨花が言った。「今日の心の予報、更新できそう?」
僕は空を見上げた。雲はまだ厚い。けれど切れ目がある。
「……曇り、のち、薄曇り」
「最高。薄曇りは希望」
梨花はそう言って笑った。雲係も、少しだけ口元を上げた。
僕は思い切って、雲係に聞いてみた。
「なんで、毎日これ貼ってるの?」
「駅って、みんな急いでるじゃないですか。急いでると、空を見る余裕がなくなる。だから代わりに、言葉で空を置いておくんです」
「言葉で空を置く」
「はい。誰かが一秒でも立ち止まれたら、それで勝ちです。……勝ち負け、嫌いですけど」
雲係は最後に小さく付け足した。照れ隠しみたいに。
翌朝、梨花は本当にホワイトボードに付箋を貼っていた。
《今日の梨花:晴れ。夕方に小さな雷(上司)》
隣に小さな傘の絵まで描いてある。職場の文明が一段進んだ。
真中が覗き込んで、笑った。
「これ、参加していいんですか?」
「もちろん」梨花が言う。「天気は全員の共有財産」
真中は少し迷ってから、付箋に書いた。
《今日の真中:薄曇り。説明があると晴れる》
可愛い。可愛いけど、ちゃんと要望だ。誰も傷つけない要望は、天気みたいに言えばいいのかもしれない。
僕も付箋を一枚取った。ペン先が一瞬止まる。
空白は怖い。空白には本音が乗る。
それでも書いた。
《今日の相川:曇り。午後に切れ目を作る》
梨花が横から「いいね、その言い方」と言った。真中が「切れ目、作りたいです」と笑った。
その笑いで、僕の中の曇りがまた一段薄くなる。天気が変わるんじゃない。僕の受け取り方が、少しずつ変わっていく。
帰り道、僕は折りたたみ傘を取り出して開いた。降っていないのに。梨花が「意味不明」と言う。
「予報が外れても、僕は傘を持つタイプなんだよ」
「相川、それ人生の話?」
「たぶん」
「じゃあ、ひとつ提案。傘、持っててもいいけど、たまに閉じな。晴れ間、見逃すから」
梨花の言葉に、僕は小さく頷いた。
家に着くころ、空は驚くほど青くなっていた。さっきまでの雲はどこへ行ったのか。青すぎて、逆に腹が立つ。こんな日に限って、って思う。
でも、その腹立ちが、少し可笑しかった。僕の内側の曇りと、外側の快晴のずれが、漫画みたいだからだ。
僕は玄関で靴を脱ぎながら、笑った。声は小さい。でも確かに笑った。
冷蔵庫を開けて、炭酸水を取り出す。ぷしゅ、と音が鳴る。
僕はキッチンの窓を開けて、夜風を吸い込んだ。空気が冷たくて、肺がしゃきっとする。
そしてスマホのメモに、今日の予報を書いた。
《本日の私:曇りのち薄曇り。夕方に光が一本。夜は笑ってよし。》
誰にも送らない予報だ。
でも、送らなくてもいい予報があることを、今日初めて知った。
劇的な何かは落ちてこない。けれど、僕が自分で空に切れ目を作れる日もある。
その日が来たら、傘を閉じて、空を見上げよう。雲係みたいに、言葉で空を置ける人になれたら、もっといい。
窓の外の青はまだ残っていた。
まるで、明日も何か起きると言いたげに。




