『空振りのバス停』
靴の中で、何かが転がった。砂粒より大きく、豆より小さい。歩くたびに、足裏の同じ場所をちくりと撫でてくる。
たったそれだけのことなのに、朝の僕は妙に律儀に反応する。改札へ向かう人波の中で一瞬立ち止まりかけ、慌てて歩調を戻した。誰も僕の足の裏なんて気にしない。気にするのは僕だけだ。
駅前の信号が青に変わる。ビルの谷間に薄い雲が貼りついて、光が均一に落ちていた。晴れてもいないし、降ってもいない。いちばん判断がつかない空だ。
こんな空の日に限って、思い出は上手に擦れてくる。
この通りを、以前は二人で歩いていた。……と、書けば簡単だ。実際のところは、二人で歩いた日もあれば、並んで歩けなかった日もある。僕は仕事の電話をしながら早足で、彼女はコンビニの前で立ち止まって、勝手にアイスを買っていた。そういうズレの記憶ばかりが、今はやけに鮮明だ。
彼女の名前は紬。同じ会社ではない。だから、別れたら日常からすっと消える……はずだった。
はずだったのに、僕の日常は、まだ彼女の輪郭を覚えている。
バスが来るたび、僕の目は勝手にドアのあたりを探す。自分でも嫌になるほど反射だ。誰かが降りてくる気配があると、胸が一段だけ上がって、次の瞬間に自分で自分を叱る。
来るわけないだろ、と。
それでも、探してしまう。
会社に着いても、靴の中の小さなものは消えなかった。コピー機の前で、会議室へ向かう廊下で、席に戻る途中で。ちくり、ちくり。
昼休みにようやく靴を脱いで、指で探った。出てきたのは小さな小石だった。角が少し丸いのに、妙に存在感がある。
僕はそれを爪先で転がし、紙ナプキンに包んでポケットに入れた。捨てればいいのに捨てなかった。なぜだかは分からない。分からないことほど、ポケットに入る。
「何それ。拾ったの?」
同僚の真野が、箸を止めて僕の指先を見た。
「靴の中。地味に痛い」
「地味に痛いの、いちばん長引くやつだよ。さっさと捨てな」
「……そうする」
口ではそう言った。けれど帰り道、僕は捨てなかった。
代わりに、駅前のスーパーで、紬が好きだった“渋い香りのやつ”を買った。あの、名前が長くて覚えられない葉っぱの飲み物。棚の前で「どれだったっけ」としばらく迷い、結局パッケージの色だけで選ぶという雑な決断をした。
家に帰って淹れてみると、香りは似ているのに、味が違った。違うのに、僕はなぜか安心した。似ているだけのものは、似ているところで止まる。そこから先は、自分の舌の話になる。
台所の棚を開けると、同じ箱が二つ、三つと並んでいた。いつの間にか買い足していたらしい。思い出って、保存食にできないのに、僕は保存しようとしていた。
「そこまでして買い足す?」なんて、誰かに言われたら笑うだろう。自分でも笑える。
笑えるのに、やめられない。
その夜、僕は「うまく淹れれば同じ味になるのでは」と妙な実験を始めた。大さじ一杯、湯の温度、蒸らす時間。台所の引き出しからキッチンタイマーを取り出し、真剣な顔でスタートボタンを押す。部屋に漂う香りだけはそれっぽいのに、口に入れると違う。渋い、というより苦い。たぶん蒸らしすぎた。
僕は苦い顔のまま笑ってしまった。思い出の再現は、料理より難しい。分量通りに戻らないのが、救いでもある。
次の休みの日、僕は駅前の専門店に入った。棚には缶や瓶が整然と並び、店内は少しだけスパイスみたいな香りがする。入口の黒板に「本日のおすすめ:雨の日に寄り添う系」と書いてあって、店主の語彙が信用できる気がした。
「何をお探しで?」
声をかけてきた店員さんは、僕より少し年上で、エプロンのポケットからペンを出した。仕事ができる人の手つきだ。
「ええと……渋い香りで、後味がちょっと甘い……」
「曖昧ですね」
「名前を忘れました」
僕が正直に言うと、店員さんは「最高ですね」と言った。褒められたのか分からない。
「名前を忘れるって、味だけ残ってるってことです。味って、案外正直ですよ」
店員さんは二つ三つ缶を出して、香りを嗅がせてくれた。僕は鼻先で選ぶ。鼻先の判断は、頭より誠実だ。
「これ、近いかも」
「じゃあ、それにしましょう。……誰かの好きだった味ですか」
「……そうです」
「同じ味を探すのは悪くないです。でも、同じ味に戻れたら戻れたで、今度は“戻れない現実”が余計に痛いですよ」
さらっと言われて、僕は返す言葉を失った。店員さんは言い過ぎたと思ったのか、すぐに笑って付け足した。
「だから、もう一つ。あなたの今に合うやつも持っていきません? 同じ棚に置いとけば、喧嘩しません」
「喧嘩」
「味の喧嘩です。人間の喧嘩よりは平和」
僕も笑って、違う缶も一つ買った。知らない味を一つ入れるだけで、棚が少しだけ未来っぽくなる。
帰り道、僕はバス停のベンチに座った。バスが来る。ドアが開く。人が降りる。僕の目は相変わらず探しそうになる。探しそうになって、やめる。その“やめる”の動きに、まだ慣れていない。
ポケットの小石が重く感じた。けれど、重さがあるから「持っている」と分かる。持っていると分かれば、置く場所も探せる。
週末、紬とよく行った川沿いを歩いた。歩いたと言っても、散歩というより点検だ。自分の生活がちゃんと続いているか、見回るための巡回。
川はいつも通り流れていて、ベンチはいつも通り濡れている。いつも通りのはずなのに、僕だけがいつも通りじゃないのが腹立たしい。
僕はポケットの中の小石を指で撫でた。紙ナプキン越しでも分かる硬さ。硬さは正直だ。正直なものは、ときどきしつこい。
ベンチの端に、誰かが置き忘れた折り畳み傘があった。柄に貼られたシールが剥がれかけている。僕は拾わずに眺めただけで、勝手に「本人、困ってるだろうな」と想像した。
想像は得意だ。想像だけで疲れるのも得意だ。
「それ、拾わないんですか」
後ろから声がして、僕は驚いて振り向いた。年配の女性が、犬の散歩をしていた。犬は僕の靴を嗅いで、くしゃみみたいに鼻を鳴らした。
「持ち主が戻るかもしれないので」
「戻るかもしれない、って言葉、便利よね」
女性はにこりと笑った。笑い方がうまい人だ。うまい笑い方は、他人を責めない。
「戻らないって決めると、胸が痛いから」
続けてそう言って、女性は傘を持ち上げた。
「でも、戻るかもしれないを持ち続けると、手が塞がるでしょ。犬のリードと同じ。片手がふさがると、転ぶのよ」
犬が「転ぶのよ」のタイミングでぐいっと引っ張った。女性は見事に体勢を立て直して、苦笑した。
「ほらね」
僕は思わず吹き出した。笑った拍子に、胸の奥の固さが少し緩む。
「……じゃあ、どうしたら」
「決めなくていいことは、決めなくていいの。でも、決められることは決めたほうが楽」
女性は傘をベンチの背もたれに立てかけた。
「これはね、交番に届ける。持ち主が戻るかもしれない、を“場所”に預けるの。自分が持たない」
なるほど、と思った。預ける。場所に。
僕はポケットの中の小石を握りしめた。これも、預けられるだろうか。
その晩、僕は棚の同じ箱を数えた。六つ。完全に買いすぎだ。自分の優しさのふりをした執着が、箱になって積まれている。
僕は箱を一つだけ残して、残りを紙袋に詰めた。近所の小さなシェアスペースに「ご自由に」の棚がある。誰かが飲むなら、僕の台所よりずっと健全だ。
紙袋を持って外へ出ると、夜風が冷たかった。冷たいと、余計なことを考える前に歩ける。
シェアスペースの棚の前で、僕は立ち止まった。ここに置いたら、本当に僕の手から離れる。離していいのか。離したくないのか。
迷っていると、背後で扉が開いた。
「……あれ、早瀬さん?」
声の主は、同じマンションの隣室の青年だった。名前は柊。引っ越してきたばかりで、挨拶のときに「料理が好きです」と言っていた人。料理が好きな人は、だいたい人に優しい。勝手な偏見だけど。
「こんばんは。……それ、紅茶?」
「うん。余ったから」
「余る量じゃないですね」
柊は目を丸くして、すぐに笑った。
「味、合わなかったとか?」
「……誰かが好きだった味で」
僕が言うと、柊は「ああ」とだけ言って、それ以上突っ込まなかった。突っ込まない優しさは、ときどき救いだ。
「じゃあ、一個だけもらっていいですか。明日、僕、友だち来るんで」
「どうぞ」
柊が箱を一つ取ったとき、僕の中の何かが軽く鳴った。手放したのに、失った感じがしない。むしろ、使われる感じがした。
僕は紙袋を棚に置き、「ご自由に」と書いた付箋を貼った。ペン先が少し震えたけれど、震えるのは動いた証拠だと、さっきの犬のリードを思い出した。
帰り道、僕は川沿いを遠回りした。昼のベンチは暗くて、傘はもうない。交番に預けられたのだろう。
僕はポケットから小石を取り出した。紙ナプキンを開くと、街灯の光で小さな影ができた。手のひらに乗せると、意外と温かい。人の体温が移ると、無機物も少しだけ生き物みたいになる。
僕は川に向かって小石を投げた。跳ねるかと思ったが、重さがあって、ぽちゃんと沈んだ。波紋が円になり、すぐに薄くなる。円は残らない。残らないけど、消えたわけじゃない。流れてどこかへ行くだけだ。
家に戻る前、僕は川の欄干にもたれてスマホのメモを開いた。そこには、送られない文がいくつも残っていた。「元気?」とか、「今日は寒いね」とか、「いつなら話せる?」とか。どれも一見どうでもよさそうで、実は押しつけになりかねない重さを持っている。
指先でスクロールするたび、過去の僕が「いつか送る」と言い訳しているのが見えた。いつか、は便利で、いつか、は永遠だ。
僕は一つずつ消した。消すたびに胸が少し痛い。痛いのに、呼吸は楽になる。全部は消さないと決めたのは、綺麗に忘れるためじゃない。綺麗に忘れるのは、僕にはまだ無理だからだ。
代わりに、最後に一行だけ新しく打った。
“今日も歩けた。”
送信先はない。けれどこれは彼女へじゃなく、今の自分へ出す報告だ。誰かに届かなくてもいい言葉があると知っただけで、足場が一段増えた気がした。
僕はその一行をスクリーンショットにして、そっとアルバムの一番下へ沈めた。見返さないための保存。保存することで手放す、という矛盾を、今だけ許した。
その瞬間、背後でバスのエンジン音がした。夜のバスは空いている。ドアが開いて、誰かが降りた。僕は反射で見てしまう。見て、胸が一段だけ上がって、次の瞬間に自分で自分を叱る。
来るわけないだろ、と。
でも今回は、叱ったあとに続きがあった。
……来なくてもいいんだ、と。
僕は息を吐いて、笑った。ほんの少しだけ。空振りのバス停で、毎回打席に立っていたのは自分だった。相手が来ないことを責めるより、立ち続ける自分の足を労るほうが先だ。
翌週の朝。靴の中は静かだった。小石はいない。なのに、僕は駅前の角で一度だけ立ち止まった。癖の名残だ。
バスが来て、ドアが開く。僕の目は一瞬だけ探しそうになって、やめた。代わりに、空を見上げた。雲は薄く、光がまだらに落ちていた。
晴れでも雨でもない空は、相変わらず判断がつかない。でも、その曖昧さが今日は少し好きだった。決めなくていい余白が、そこにあるからだ。
会社のデスクに着くと、真野が言った。
「足、治った?」
「うん。石、捨てた」
「えらい。次は心も捨てな」
「心は捨てないよ。……預ける」
「預ける? どこに」
「場所に。時間に。あと、川に」
「詩人かよ」
「詩人じゃない。生活者」
昼休み、僕は自販機で温かい飲み物を買った。いつもなら“渋い香りのやつ”を選ぶところで、今日は別の棚を見た。知らない味に手を伸ばす。新しいものは怖い。でも、怖いのは悪いことだけじゃない。まだ自分が動ける証拠でもある。
紙コップを両手で包む。湯気がふっと立って、僕の前で薄く揺れた。
僕はその湯気に、小さく手を振った。誰にも見られなくていい合図。もう一度手を繋ぐ想像は、たぶんこれからも浮かぶだろう。浮かぶこと自体は、悪くない。
でも、その想像に引っぱられて転びそうになったら、僕はこうやって手を振る。空に描いた絵みたいなものに、「今日はここまで」と言えるように。
空振りでも、打席を降りるタイミングは自分で決められる。
そう思ったら、足取りがほんの少しだけ軽くなった。




