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短編集  作者: 科上悠羽
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『四つのシールと白い仮面』

 白いマスクは、笑って見えるように作られていた。口元がほんの少し上がっていて、頬のあたりに浅いくぼみまである。なのに、着けた瞬間から息がしづらい。笑顔は軽いのに、笑顔の型は重たい。

 柚木圭介は、そのマスクを指でつまんで眺めた。会社のロゴ入り。撮影用。明日の広告動画に使うらしい。「お客様の声を大切にする私たち」みたいなやつ。大切にするなら、まずこっちの肺を大切にしてほしい。


「柚木さん、サイズ合ってる?」

 隣の席の佐伯すずが、紙コップを揺らしながら覗き込んできた。すずはいつも明るい。明るいというより、明るさを作るのが上手い。場の温度が下がる前に、湯を足す人。

「合ってるけど、気分が合ってない」

「気分はマスクに合わせなくていいよ。逆。マスクを気分に合わせるの」

「どうやって」

「これ」


 すずは引き出しから、小さなシール台紙を出した。赤、青、黄、緑。四つの丸いシールに、たった二文字ずつ書いてある。

 喜・怒・哀・楽。


「何それ、子ども向け教材みたい」

「そう。子ども向けは強い。大人向けってさ、だいたい遠回しでめんどいでしょ」

「めんどいのは得意。勝手に増える」

「じゃあ、勝手に増える前に貼る。今日はどれ?」

「……無」

「四択なの。無は出題者が嫌うやつ」

 すずは笑って、シールを一枚はがした。「哀」を僕の手のひらに乗せる。

「ほら。今の柚木さん、これ。泣きたいほどじゃないけど、干からびてる顔」

「干からびてるって言い方」

「褒めてないけど、嫌ってもない。観測」


 僕はそのシールを見つめた。確かに、最近の自分の中身は乾いている。乾いているのに、泣けない。泣きたいわけでもない。泣けるほどの理由を自分で作りたくないからだ。

 コールセンターの仕事は、声だけで人と握手する仕事だ。握手の代わりに言葉を選ぶ。選びすぎると、喉が擦り切れる。擦り切れた喉は、帰宅しても「ただいま」の音を出すのに時間がかかる。


 昼礼が始まった。上司の竹田が、いつもの調子でホワイトボードを叩く。

「今週は品質強化。感情は乗せない。一定のトーン。笑顔は声で出す。はい、復唱」

「笑顔は声で出す」

 全員の声が揃う。揃いすぎると怖い。人間が機械になる音がする。


 昼礼の最後、竹田が言った。

「それと明日、撮影。白いマスク着用。顔を隠すから緊張しないだろ。逆にノリ良くいけ」

 顔を隠すから緊張しない。そういう発想が、竹田らしい。顔を隠すと緊張は減るが、呼吸も減る。呼吸が減ると、心が勝手に尖る。


 午後、苦情の電話が続いた。配送遅延、説明不足、担当者の言い方が冷たい。最後のやつは僕の部署の話じゃないのに、なぜか僕が謝っている。

「申し訳ございません」

 言うたびに、胸の奥に小さな石が増える。石は目に見えない。だから誰も拾ってくれない。拾えないなら、自分で降ろすしかない。


 四本目の電話で、相手が言った。

「あなたさ、機械みたい。感情ないの?」

 胸の石が一個、急に角を出した。怒りが出そうになる。出したら負ける。負けたら仕事が増える。仕事が増えると、家が遠くなる。家が遠くなると、また感情が薄くなる。

 僕は息を吸って、吐いて、マニュアルの言葉を選んだ。

「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」

 完璧な謝罪。完璧すぎて、僕の中身がますます空っぽになる。


 終業のチャイムが鳴った瞬間、すずが椅子をくるりと回して言った。

「柚木さん、今日、帰りに三分だけ寄り道しよ」

「三分って、信号待ちくらい」

「信号待ちでも、止まれるでしょ。止まれる人は強い」

「強くない」

「強くないから止まるの。ほら」


 すずに連れていかれたのは、休憩室の奥の小さな倉庫だった。掃除道具と予備のヘッドセットが並ぶだけの、薄暗い部屋。ドアに貼り紙がある。

《ここは『吐き出し部屋』です。中で出した愚痴は外へ持ち出さない》

 字は、竹田のものじゃない。誰かの柔らかい字。すずが肩をすくめた。

「前のセンパイが勝手に作った。便利だから残ってる」


「で、何をするの」

「ルールは簡単。まず、シールを貼る」

 すずは僕の白いマスクの頬に、「哀」のシールをぺたりと貼った。自分のマスクには「楽」。対照的で腹が立つ。

「次。言葉を短く吐く。長文は禁止。長文は言い訳が混ざるから」

「短いの苦手」

「だから練習。はい、柚木さん。いまの本音、二十文字以内」

 二十文字。急に具体的で逃げられない。僕は目を閉じて、喉の奥の石を数えた。


「……機械扱い、しんどい」

「良い。刺さらない言い方」

「刺さる言い方、あるの?」

「あるけど、今日は使わない。次、私」

 すずは自分のマスクを指で叩いて言った。

「元気なふり、疲れる」

 その一言で、倉庫の空気がふっと緩んだ。明るい人も、明るさの維持費を払っている。僕はその事実に、変な安心をした。


「もう一回、柚木さん。今度は“怒”でもいい。出し方は選んでいい」

 すずは赤いシールを差し出した。僕は迷ってから受け取り、マスクの額に貼った。怒りは額に出る。自分でも分かりやすい。

「……『感情乗せるな』って言われるの、嫌」

「うん。嫌だね。じゃあ“嫌”は正解。嫌って言えるのは、感情が生きてる証拠」

「生きてるの、めんどい」

「めんどいけど、生きてる。で、最後は“喜”で締める」

「最後に喜?」

「うん。どんなに嫌でも、最後に一個だけ温度が上がるものを拾う。拾えるなら、明日も崩れにくい」


 すずは棚から、使い捨ての紙コップを二つ出した。水筒の口からお湯を注ぐ。持ってきたらしい。湯気が立った。

「はい、今日の喜び。あったかい」

 湯気はずるい。ずるいくらい、喉の石を柔らかくする。僕はコップを両手で包み、ぽつりと言った。

「……あったかいの、助かる」

「ほら、喜。貼れた」

 すずが黄色い「喜」を僕のマスクの顎に貼った。顎に貼ると、笑うとき揺れるらしい。そんな小技いらないのに、ちょっと面白い。


「でさ」すずが言った。「明日の撮影、白いマスクでしょ。逆にチャンスだよ」

「何が」

「仮面の下、見せなくていい日。だから出していい日」

「出すって、何を」

「喜怒哀楽。全部。ほんのちょっとずつ」

 すずは自分のマスクの頬に、四色のシールを四角く並べた。パッチワークみたいで変だ。変なのに、妙に可愛い。

「これ、社内の誰かが見ても、ただの模様だと思うじゃん。やばい感情じゃなくて、カラフルな模様。ね、便利」

「便利って言うなよ」

「便利は悪じゃない。使い方だよ」


 翌日。撮影会場の会議室は、照明が明るすぎた。カメラが回り、司会が「はい、笑顔ー!」と叫ぶ。竹田が腕組みして見ている。

 スタッフ全員、白いマスクを着けて並んだ。笑って見える口元。息がしづらい鼻穴。昨日よりも腹が立つはずなのに、僕の胸は少し落ち着いていた。

 内ポケットに、すずにもらった四色のシールが入っているからだ。

 僕は撮影開始の合図の直前、マスクの内側で小さく息を吸って吐いた。吐いてから、額に「怒」、頬に「哀」、顎に「喜」、こめかみに「楽」を貼った。変だ。変だけど、僕だけの地図だ。


「はい、では“お客様第一”の気持ちで!」

 司会が言う。僕はうなずいた。お客様第一。もちろん大事。けれど、そのために自分の感情をゼロにする必要はない。ゼロになると、逆に爆発する。爆発は、お客様にも自分にも最悪だ。


 撮影が始まった。カメラに向かって一言ずつ話す。

「お困りごとは、何でもご相談ください」

 僕の声は、昨日より少しだけ柔らかい。柔らかいのは、媚びじゃない。息が通っているからだ。

 隣のすずが、マスクの下で笑っているのが分かった。声が弾む。彼女もまた、仮面の使い方を知っている。


 撮影が終わり、竹田が近づいてきた。

「お前ら、そのシール何だ。ふざけてるのか?」

 やばい。怒られる。

 僕の中の悪魔が叫ぶ。逃げろ。剥がせ。

 天使が囁く。言え。短く。逃げないで。


 僕は息を吸って吐いた。昨日の手順だ。

「気分のメーターです。仕事のために」

 竹田が眉をひそめる。

「気分なんて持ち込むな」

「持ち込みます。持ち込まないと、溜まります」

 言ってしまった。言った瞬間、心臓がうるさい。でも、声は震えていない。震えるのは膝だけだ。


 すずが横から、さらっと言った。

「溜めるより、安全に出す方が事故が減ります。ね、課長」

 竹田は一瞬黙って、鼻で笑った。

「……勝手にしろ。ただし、客の前では剥がせ」

「はい。客の前は“声で”出します」

 すずが言うと、竹田は「その言い方、うまいな」とだけ言って去った。

 勝ったわけじゃない。負けてもない。少しだけ、道が増えた。


 そのあと、僕はフロアに戻って、いつもの受電席に座った。ヘッドセットを耳に当てると、世界がまた“声だけ”になる。怖い世界だ。でも今日は、昨日より少しだけ透明だ。

 最初の一本は、年配の男性だった。声が大きい。言葉が速い。こちらの返事を待たないタイプ。

「だからさ! 昨日も言っただろ!」

 胸の奥の石が、条件反射で増えかけた。増える前に、僕は机の下で拳を握って開いた。小さく。誰にも見えないくらい。吐き出し部屋の手順を、仕事の席に持ってくる。

「恐れ入ります。確認のため、十秒だけお時間いただけますか」

 十秒の許可を取ると、不思議と自分の中の“怒”が暴れにくい。息のための小さな通行止め。僕は画面を見直し、要点を二つに絞って返した。

「承りました。結論から申し上げますと、本日中にこちらで手配できます。もう一点だけ確認させてください」

 男性は一瞬黙って、「……そうか」と言った。声の温度が一段下がる。僕の中の石も一段減る。

 電話を切ったあと、隣の席から小さな拍手が聞こえた。すずだ。指先だけで、こっそり。

「いまの、良かった。怒らずに“怒”を使ってた」

「怒を使うって何だよ」

「燃料。爆弾じゃなくて燃料。ね、同じ熱でも使い道がある」

 すずの言い方が、やっぱり腹立つくらい上手い。


 二本目の電話は、逆に静かだった。若い女性の声で、言葉が途切れ途切れ。

「……あの、わたし、こういうの苦手で……すみません」

 “すみません”の前にある息の薄さが、痛いほど分かった。僕も同じ薄さを持っている。

「大丈夫です。ゆっくりで。こちらで整理します」

 そう言いながら、僕は自分のマスクに貼った「哀」のシールを思い出した。悲しいを貼ったまま、仕事をしてもいい。悲しいは邪魔じゃない。邪魔にしたら、いつか破裂する。

 通話を終えるころ、女性が小さく言った。

「……ありがとうございます。ちょっと、安心しました」

 その言葉が胸に落ちて、僕の中の“喜”がやっと生まれた。派手じゃない。小さい。でも確か。


 終業間際、フロアの端で新人の深町ふかまちが泣きそうな顔をしていた。泣きそうなのに泣かない。泣けない人の顔だ。

 僕は一瞬迷ってから、近づいて声をかけた。

「……深町さん、終わったら、三分だけ。奥の部屋、行きます?」

「奥の部屋……?」

「吐き出し部屋。出した分、外に持ち出さないルールのやつ」

 深町さんは目を丸くして、それから小さく頷いた。

「……行きたいです。今、胸が、変に固くて」

「固いの、分かります。僕も同じ型、持ってる」


 帰り支度の時間、休憩室のホワイトボードに、すずが四つの丸を書いていた。赤青黄緑。雑に、でも堂々と。

《今日の気分、貼って帰ろ》

 その下に、誰かがすでに「哀」を貼っている。別の誰かが「怒」。その隣に「楽」。最後に「喜」。

 僕は少し笑って、自分の「喜」を一枚、ぽんと貼った。小さい勝ちの証拠を、見える場所に預ける。

 深町さんが横で、震える手で「哀」を貼った。

「貼れました」

「貼れたら十分。明日、少し軽いです」

 すずが満足そうに頷いた。

「ほらね。仮面の下、みんな色ある」


 その日の帰り道、すずが駅前で紙コップを差し出した。今日は冷たい炭酸。泡が喉をくすぐる。

「今日の“楽”、何?」

 すずが聞く。

 僕は歩きながら考えて、素直に答えた。

「……怒っても、ちゃんと戻れた」

「最高。じゃあ明日は?」

「明日は……笑える瞬間に、ちゃんと笑う」

 言ってから、僕は自分で驚いた。簡単なことを、ずっと許していなかったのかもしれない。


 すずが笑って、肩を軽くぶつけてきた。

「いいじゃん。主役は自分。脇役のふり、やめな」

 その言葉は、少しだけ眩しかった。

 眩しいのに、目を逸らさなかった。眩しいものを眩しいまま受け取れる日は、たぶん調子がいい日だ。


 改札を抜けると、夜風が頬を撫でた。白いマスクはもうない。けれど、内ポケットのシール台紙はまだある。

 僕はそれを指でなぞって、ひとつだけ笑った。

 笑いは、勝手に出てもいい。そういう許可を、自分に出した夜だった。

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