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短編集  作者: 科上悠羽
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『手のひらサイズのマント』

 奏汰かなたは、昔から「変身ポーズ」が下手だった。

 胸の前で腕を交差して、気合いの声を出して、最後に親指を立てる。たったそれだけのはずなのに、毎回どこかが遅れたり早まったりして、友だちに「いま何を守ろうとした?」と笑われた。守る以前に、まず自分の手足がバラバラだ。


 その手足のバラバラは、大人になっても治らなかった。

 地域の児童館に就職して半年。祭りの準備に追われる朝、奏汰は段ボールを抱えたまま廊下の角で止まった。段ボールの側面には油性ペンででかでかと「案内板」と書いてある。案内板は、今日の屋台動線の命綱だ。


「奏汰くん、案内板どこ?」

 背後から、先輩の佐和さわが声をかけた。すらっとした体で、歩く速度が仕事のテンポそのもの。

「ここです」

「それは空の箱」

「……え」


 箱を開けると、確かに中身は空だった。乾いた空気が、間抜けな音もなく抜けていく。

 奏汰の胸の中で、小さな天使と小さな悪魔が同時に立ち上がった。


(天使)落ち着いて。探そう。

(悪魔)終わった。言い訳を用意しろ。「誰かが動かした」って。


 奏汰は「すみません」と言いかけて、飲み込んだ。今日は“すみません”を雑に投げると余計に仕事が増える日だ。なぜ分かるかって、佐和の眉間がもう一段深いからだ。

「……探します。いま」

「いま、じゃなくて。どこに置いたか思い出して」

「置いたのは、たしか……控室の奥」

「控室の奥には、昨日あなたが『奥が好きです』って言いながら詰め込んだ“何か”が山ほどある」

「……好きって言ってないです」

「言ってたよ。顔が」


 痛い。けれど、佐和の痛さは“刺す”より“整える”の痛さだ。骨をまっすぐに戻すみたいな。奏汰は箱を抱えて控室へ走った。走ると、頭の中が少し静かになる。走っている間だけ、余計な想像が追いつけない。


 控室は段ボールの迷路だった。折り畳み椅子、カラフルな旗、予備の紙コップ、子ども用の名札。全部が「念のため」だ。念のための山の中で、奏汰は一つだけ異物を見つけた。白い板。案内板。壁に立てかけられて、しかも上に「お茶休憩」と書いた紙が貼ってある。誰だ、案内板を休憩させたのは。


 奏汰が板を引っぱり出すと、紙がはらりと落ちた。手書きでこう書いてある。


《困ったら、まず深呼吸。次に、誰かを呼ぶ》


 ……佐和の字だ。整いすぎてる字。

 奏汰は板を抱えたまま、息を吸って吐いた。字のとおりにしているのが悔しい。悔しいのに、効く。


「見つけました!」

 会場に戻ると、佐和が腕を組んで待っていた。

「よかった。で、なんで“お茶休憩”の札が?」

「……たぶん、僕が貼りました。案内板が役に立つ前に、自分が倒れそうで」

「倒れる前に貼る札じゃない」

「はい」

「はい、じゃない。そういうときは“助けて”って言うの」

 佐和は淡々と言って、奏汰の頭の上の空気を軽く押した。

「あなた、すぐ一人で抱える癖ある。今日はそれ、禁止」

「……禁止って言われると、余計にやりたくなる」

「じゃあ、命令じゃなくてお願い。頼って」

 命令より難しい。お願いは、相手の気持ちが乗るからだ。奏汰は目を逸らしながら頷いた。


 祭りが始まった。児童館の前庭に屋台が並び、焼きそばの匂いとシャボン玉が混ざる。子どもたちは走って、保護者は笑って、スタッフは走って、笑えないのに笑う。奏汰は受付の端で、首から下げた名札を触った。落ち着かないときの癖だ。


 そこで、事件は“派手じゃない形”で起きた。

 射的コーナーの列が詰まった。理由は単純、案内板の矢印が一枚だけ逆だった。さっき見つけた板とは別の、紙の矢印。奏汰が朝、急いで貼ったやつだ。


「こっち? あっち?」

 保護者が困って、子どもがぐずって、スタッフが焦る。焦りはすぐ感染する。奏汰の胸の悪魔がうれしそうに囁いた。


(悪魔)誰かが直すだろ。お前は見てないふりしろ。

(天使)直したのは誰。いまここで直せるのは誰。


 奏汰は一歩踏み出しかけて、足が止まった。こんな小さなミスで目立つのが怖い。怖いのに、背中のどこかが熱い。熱は、逃げたい熱じゃなく、踏ん張る熱に近い。


 そのとき、佐和が通りがかって言った。

「奏汰くん。あなた、いま“ヒーローの顔”してる」

「してないです」

「してる。失敗を隠して守ろうとしてる顔。……でも、守るなら、こっち」

 佐和は奏汰の肩を軽く押して、列の前へ送り出した。


 奏汰は息を吸って吐き、声を出した。

「すみません! 案内、逆でした。いま直します!」

 言った瞬間、空気がほどけた。怒号は飛ばない。飛んだのは「助かるー」の声と、笑い。人は、正しいときより“直すとき”に安心するのかもしれない。


 奏汰は矢印を張り替え、列を整理し、子どもに「こっちが当たりの道だよ」と冗談を言った。子どもが笑った。保護者が「ありがとう」と言った。奏汰の胸の天使が小さくガッツポーズをした。悪魔は「まあ、今回は許す」と言って黙った。偉そう。


 午後。空が急に暗くなり、風が強くなった。雨は降らないけれど、木々がざわつく。会場の端に置いた風船アーチが、ふわりと傾いた。スタッフが慌てて支えに走る。

 その瞬間、子どもの叫び声が上がった。


「だめ! 上、のぼっちゃだめ!」


 視線の先。倉庫横の古いジャングルジムに、ちいさな男の子がよじ登っていた。手は細いのに、動きが速い。好奇心って、足の裏にバネがある。

 男の子は上の段まで行って、そこで固まった。風で揺れる。地面が遠い。目が大きくなり、口がきゅっと結ばれる。怖いのに、降り方が分からない顔だ。


 奏汰の足は勝手に動いた。

「危ない! 止まって!」

 自分の声が想像より高くて、少し恥ずかしい。でも恥ずかしさは後でいい。


「奏汰くん、落ち着いて」

 佐和がすぐ後ろに来た。

「脚立、持ってくる。あなたは声で繋いで」

 声で繋ぐ。奏汰は頷いて、ジャングルジムの下に立った。男の子を見上げると、目が合った。涙はまだ落ちていない。落ちる前の、必死の顔。


「だいじょうぶ。いま、助けに行く」

 奏汰は言いながら、また胸の中が騒いだ。


(悪魔)登る? お前、高所苦手だろ。

(天使)苦手でも、今ここにいる。逃げないで。


 奏汰は自分の手のひらを見た。少し汗。握ると滑りそう。

 彼はポケットから、受付で配っていた“手づくりシール”を一枚取り出した。子どもが描いた、へんてこなマントの絵。

「ねえ。これ、見える?」

 男の子がこくりと頷く。

「これね、今日の“勇者シール”。貼ると、強くなる……っていうより、怖いって言っていい」

 男の子の眉が少しだけ緩む。

「怖い?」

「怖い」

「うん。怖いの、正解。今、動かなくていい。手だけ、ここに」

 奏汰はジャングルジムの一段目に手を置き、自分も一段だけ登った。目線が少し近づく。怖さが増える。増えるけど、声が届きやすくなる。


 佐和が脚立を持って戻ってきた。スタッフが周囲の子どもを下げ、保護者が息を止める。空気が硬くなる。硬い空気は、落ちる前のガードレールがない。

 奏汰は自分でガードレールを作るみたいに、いつもの下手な変身ポーズを思い出した。胸の前で腕を交差して、親指を立てる。

 彼は一段目の上で、あえてやってみせた。ぎこちなく。


「へんしん……!」

 声も裏返った。

 男の子が、ふっと笑った。泣き顔の直前にある笑い。ちょっとした穴が開いた瞬間の笑い。


「おにいちゃん、ヘタ」

「うん。ヘタ。だから一緒にやろ。ヘタでもいいから、手順」

 奏汰は言って、手を差し出した。男の子の手が、少し震えながら伸びる。

 指先が触れた瞬間、奏汰の手の汗は気にならなくなった。気になる余裕が消えた、と言うほうが正しい。


 佐和が脚立を固定し、別のスタッフが下で支える。奏汰は男の子の手を握り、足の置き場を一つずつ示した。

「右足、ここ。そう。次、左。いける。ゆっくり」

 男の子が一段降りるたび、周囲の大人の肩が一ミリずつ下がる。緊張がほどける音は、目に見えないけれど確かにある。


 最後の一段。男の子が地面に足をついた瞬間、拍手が起きた。大げさな拍手じゃない。軽い、よかったねの拍手。

 男の子は奏汰の服の裾を握ったまま言った。

「……ごめん」

 その一言が、胸に落ちた。小さな拳みたいに。

 奏汰はしゃがんで目線を合わせた。

「言えた。えらい」

「えらい?」

「うん。ごめんって言えるのは、強い」

 男の子が鼻をすすって、今度はちゃんと笑った。涙も少し混ざる。混ざっても、笑いのほうが勝っている。


 佐和が近づいてきて、奏汰の背中を軽く叩いた。

「お疲れ。……下手な変身、助かった」

「褒めてる?」

「褒めてる。ヘタは、届く。完璧は遠い」

 その言葉が、奏汰の胸のどこかに、すとんと収まった。


 祭りの片づけが終わり、夕方の空はまた明るくなった。

 奏汰は控室で、朝見つけた“深呼吸の札”を思い出し、佐和に言った。

「先輩、あの札、貼ったの先輩ですよね」

「そう。あなたが倒れそうだったから」

「倒れそうじゃなくて、倒れてました」

「じゃあ正解。……ねえ、奏汰くん。今日のあなた、ちゃんと前に出た」

「前に出ただけで、ヒーローですか」

「ヒーローって、たぶん“職業”じゃなくて“役割”。今日だけでも十分」

 佐和は笑って、奏汰の手のひらに何かを置いた。

 さっきの勇者シール。へんてこなマントの絵。裏には子どもの丸い字で一言。


《きょう たすけてくれて ありがと》


 奏汰はシールを見て、喉の奥が熱くなった。泣くほどじゃないのに、熱い。

 熱いまま、彼は佐和に言った。

「……今日、案内板を休憩させたの、僕です」

「知ってる」

「知ってたんですか」

「顔が言ってた。あなた、休憩を上手にお願いできない顔してた」

 佐和は肩をすくめた。

「次からは、物じゃなくて人間を休憩させな」

「はい。……助けてって言います」

「よし」


 帰り道、奏汰はポケットの中でシールを指でなぞった。手のひらサイズのマント。

 大きな敵はいない。爆発も怪獣も、今日の町には出なかった。

 出たのは、矢印一枚のミスと、ジャングルジムの怖さと、言えなかった「助けて」と言えた「ごめん」と「ありがとう」だけ。

 でも、それでいい。ヒーローはいつも空を飛ばなくていい。

 怖いって言いながら、手を繋げるなら、十分だ。


 家に着くと、奏汰は玄関で靴を脱いだまま座り込んだ。高いところに登ったのは数段だけなのに、太ももが遅れて震えてくる。遅れてくる震えは、体が「さっき怖かったよ」と正直に言っているみたいで、少し可笑しい。

 台所で水を飲み、スマホを開く。佐和から短いメッセージが届いていた。


『報告書、書ける? 無理なら明日でいい。まず寝ろ』


 奏汰は笑って返信した。


『書ける。けど先に寝ます。助けてって言う練習、続けます』


 送信して、ふと棚の上の古い写真立てが目に入った。小学生のころの集合写真。公園のジャングルジムの前で、みんなで腕を交差している。変身ポーズのつもりだったのだろう。自分の腕だけ角度が違っていて、やっぱり下手だ。

 奏汰は声を出して笑った。あの頃の自分も、今日の自分も、たぶん同じところでつまずいている。けれど、同じところで笑えるなら、進んでいるのかもしれない。


 シールを名札の裏に貼った。表に貼る勇気はまだない。でも、裏なら見える。自分だけが見える場所に、小さなマントを置いておく。

 明日も何かが起きる。起きてもいい。起きたら、呼吸して、誰かを呼んで、手順で直す。完璧じゃないまま、前に出る。


 奏汰は布団に潜り込み、最後に小さく呟いた。

「……新人は新人なりに、やる」


 駅のホームで電車を待ちながら、奏汰は小さく拳を握って、開いた。

 怒りじゃなく集中。降参じゃなく余白。

 そして、胸の前で下手な変身ポーズを、もう一回だけやってみた。今度は、さっきより少しだけ揃っていた。

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