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短編集  作者: 科上悠羽
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『声のガードレール』

 朝のオフィスは、音が多い。コピー機の吸い込み、キーボードの連打、誰かのため息、誰かの笑い。どれも小さいのに、全部が同時に鳴ると「逃げ道がない合奏」になる。

 伊吹晴斗はその合奏が苦手だった。音そのものではなく、音にくっついてくる意味のほう。強めの足音は不機嫌、短い返事は拒否、笑い声は自分を笑っているかもしれない。そうやって勝手に字幕を付けてしまう癖がある。

 癖は便利だ。危険を早めに察知できる気がするから。困るのは、危険が「気がする」だけで終わらないところだ。気がする、が増えると、世界がだんだん狭くなる。


 その日、晴斗の受信箱に一通のメールが落ちた。

『本日朝礼の一言、伊吹さんお願いします。五分で。社内配信もあります』

 五分。たった五分。なのに胃が「無理」と言った。胃の意見がいつも早い。

 晴斗は画面を見つめたまま固まった。朝礼は毎週、課長が喋る。自分は数字を整える係で、声を整える係じゃない。声の係は、声が得意な人がやればいい。


『やればいいじゃん。五分だよ。腕立てより短い』

 胸の中の誰かが軽口を叩く。晴斗はその誰かを「陽気な自分」と呼んでいる。たまにだけ出る。たまにしか出ないから信用できない。

『五分って、地獄が始まる合図の五分だろ』

 もう一人が鼻で笑う。こっちは「慎重な自分」。常駐で、家賃も払わない。


 晴斗はとりあえず、席を立った。立つと少しだけ視界が変わる。逃げじゃない。再起動だ。

 階段室に入ると、会社の音が薄くなる。ここは壁が厚くて、反響だけが正直だ。晴斗は踊り場で、口を開いた。

「おはようございます……」

 声が小さい。小さすぎて、壁にさえ届いていない気がする。陽気な自分が肩をすくめ、慎重な自分がため息をつく。

『ほらな。向いてない』

『ほらなじゃない、続けろ』

 陽気が珍しく正論を言い、慎重がむっとした。どっちも厄介だ。


 給湯室へ戻ると、同僚の真衣がいた。真衣は総務で、社内の空気を軽くするのが得意な人だ。笑うと頬が先に上がる。ずるいくらい。

「伊吹くん、顔が“詰み”だよ」

「詰んでない。詰みかけ」

「詰みかけは詰み。何が来た?」

 晴斗がスマホを見せると、真衣は一回だけ瞬きをして、次にニヤッとした。

「いいじゃん。朝礼の一言。社内配信。つまり、あなたが今日のBGM」

「BGMに向いてない。無音派」

「無音派は、いざ喋ると刺さる。ほら、ギャップ。武器」

「武器とか言わないで」

「じゃあ、ガードレール。落ちないためのやつ」


 真衣は紙コップを二つ出して、スポーツドリンクの粉を溶かした。朝から部活みたいな味がした。

「ねえ、伊吹くん。五分って、何を喋ればいいか分かんないでしょ」

「分かんない」

「なら、作戦。見えない敵と戦うって設定にする」

「急に物騒」

「物騒じゃない。見えない敵は“自分の不安”。それなら誰も傷つかない。自分 vs 自分。観客席に優しい」

 真衣は軽く拳を作って、胸の前で小さく構えた。

「はい、ファイティングポーズ」

「ここ、給湯室」

「給湯室はリング。ほら、湯気も出るし」

「意味が分からない」

「意味は後から付く。声も後から付く。とりあえず形」


 晴斗は真衣に言われるまま、拳を作った。作ってみると、確かに少しだけ背筋が伸びる。拳は攻撃じゃなく、姿勢のスイッチだった。

「で、最初の一言は?」

「……おはようございます」

「真面目。いい。次に、今日の敵を言う」

「敵って言うの?」

「言わなくていい。たとえば“心配の連鎖”とか。心配って、勝手に増えるでしょ。増えると仕事が遅くなる。遅くなるとまた心配が増える。ぐるぐる」

 真衣は指で円を描いた。

「そのぐるぐるを、いったん止める合図を配るの。みんなに」

「合図?」

「うん。十カウント。息を吸って、吐いて、拳を握って、開く。開いた手で机を一回ぽん。これでOK」

「変じゃない?」

「変がいい。変は記憶に残る。記憶に残れば、次に不安が増えたとき思い出せる」

 真衣はさらっと言った。まるで、ずっと誰かの不安を受け止めてきた人みたいに。


 晴斗は苦笑した。

「でもさ。社内配信って、コメントも飛ぶんだよ。あれ、怖い」

「じゃあ先に言っとけ。“今日は噛みます”って」

「言ったら余計に噛む」

「噛んでもいいって宣言したら、噛み跡が作品になる。人間味ってやつ」

「人間味、いらない」

「いる。ほら、数字の人ほど、たまに人間味を出すとみんな安心する」

 真衣は紙コップを持ち上げて、乾杯みたいに軽く当てた。

「それと、空振りしてもいいって決めときな」

「空振り?」

「うん。完璧に当てようとすると、肩に力が入って固まる。ちょっと外しても、前に出たら勝ち。勝ち負け嫌いだけど、今日は勝ちって言っていい日」


 昼休みまで、晴斗はメモ帳に箇条書きを作った。

・おはようございます

・心配が心配を呼ぶ話

・十カウントの合図

・今日の小さな勝ちを一つ作ろう

・空振りOK

 短い。短いのに、胸が熱い。熱いのは怖さだ。怖さは、体を前に出す燃料にもなる。真衣の言葉がふとよぎる。声も後から付く。とりあえず形。


 昼食のあと、真衣が会議室を一つ借りてくれた。誰もいない部屋。長机だけが並び、椅子が静かに待っている。

「はい、リハーサル。観客は私一人。最弱の観客だから安心して」

「最弱って何」

「優しいの意味。ほら、始めて」

 晴斗はマイクの代わりにペンを握り、胸の前で構えた。ペンが剣に見えるほど、緊張している。


「おはようございます。伊吹です。今日は……えっと……」

 そこで言葉が消えた。口の中で、音が溶ける。

『ほらな』

『ほらなじゃない、続けろ』

 胸の中がまたうるさい。晴斗は拳を作って、開いて、机を小さくぽんと叩いた。自分に合図を出す。

「……心配って、勝手に増えます。増えると、手が止まります」

 真衣が頷く。

「いい。続けて」

 晴斗は次の文を言おうとして、噛んだ。舌が変なところでつまずく。顔が熱い。

「……すみません、今噛みました」

 言ってしまった瞬間、真衣が笑った。笑いは小さくて、でも逃げない笑い。

「最高。今ので人間味出た。次、本番でも言っていいよ。噛んだら宣言」

「宣言したら余計に噛む」

「噛んだっていい。噛んだまま前に出れば、空振りじゃない」

 真衣は両手で机を一回ぽんと叩いた。

「ほら、私もやる。恥ずかしさは分けると軽い」


 朝礼の時間。会議室の一角に置かれたマイクの前で、晴斗は立っていた。カメラの赤いランプが点く。赤はいつも、急かす。

『やめとけ。胃が先に泣く』

『やれやれ。今日の俺たち、主役だぞ』

 胸の中がうるさい。うるさいから、晴斗は静かな手順に戻った。拳を握る。開く。机を一回ぽん。誰にも見えないくらい小さく。

 不思議と、息が通った。


「おはようございます。伊吹です」

 自分の声がスピーカーから返ってくる。遅れて返ってくる声は、少し他人みたいだ。だから、少しだけ冷静になれる。

「今日は、朝から“心配”が増えやすい日かもしれません」

 口にしてから、晴斗は自分で驚いた。今の、ちゃんと喋れている。

「心配って、勝手に連鎖します。ひとつ気になると、次も気になって、気になることが増えると、手が止まる。手が止まると、また心配が増える」

 会議室の端で、真衣が頷いているのが見えた。頷きがガードレールみたいに見える。落ちそうなところで、ちゃんと止めてくれる。


「なので、合図を一つ配ります。十カウントだけ、やりましょう」

 晴斗は笑いそうになった。会社で十カウント。変だ。でも変は記憶に残る。

「拳を軽く握って、開きます。握ってるのは怒りじゃなくて、集中です。開くのは降参じゃなくて、余白です」

 自分でも、うまいことを言った気がした。ハッタリかもしれない。でもハッタリは、時々人を救う。


「それから、机を一回だけ、ぽん。小さくでいいです。……いきます。十、九、八」

 晴斗はカウントしながら、会議室の空気が少しずつ変わるのを感じた。ほんの少し、肩が落ちる。ほんの少し、呼吸が揃う。配信の向こうでも、誰かが同じ動きをしているかもしれないと思うと、胸の奥が熱いままでも、怖くなかった。


「……二、一。ありがとうございました」

 そこで晴斗は、勢いよく次の文に入ろうとして、噛んだ。

「きょ、今日の……」

 一瞬、世界が白くなる。胃が勝ち誇る。

 でも、リハーサルの真衣の笑いがよぎった。噛んだら宣言。噛み跡は作品。

「すみません、噛みました。今のは空振りです」

 会議室のどこかから、くすっと笑いが漏れた。配信コメントにも、すぐに絵文字が流れた。晴斗の胸が少し軽くなる。笑いは敵じゃない。味方にもなる。


「改めて。今日の小さな勝ちを、一つだけ作りましょう。メールを一本返すでも、資料を一枚整えるでも、誰かに“助かった”を言うでも。小さな勝ちが増えると、心配の連鎖はほどけます」

 最後に、晴斗は迷った。締めの言葉。いつもなら「以上です」で終える。無難に。安全に。

 でも今日は、真衣の言葉が胸の奥で鳴った。変は記憶に残る。声も後から付く。とりあえず形。


「では、やってやりましょう。今日を」

 言ってしまってから、晴斗は口の中が熱くなった。照れだ。照れは、生きている証拠だと思うことにする。


 朝礼が終わると、配信のコメント欄が流れていた。

『机ぽん、地味に効いた』

『十カウント、息が戻った』

『空振り宣言、逆に安心した』

『握るのは集中、開くのは余白、好き』

 晴斗は画面を見て、目を瞬いた。刺す言葉じゃない。支える言葉が並んでいる。世界はいつも、悪口だけじゃない。知らないだけだ。


「やったじゃん」真衣が背後から言った。「ほら、BGMできてた」

「BGM、喋った」

「喋った。しかも刺さらないやつ」

 真衣は親指を立てた。

「おめでとう。今日の勝ち、一個目」


 午後、晴斗は後輩の依田から質問を受けた。いつもなら「忙しいから後で」と言ってしまいそうなタイミングだった。けれど、晴斗は机を小さくぽんと叩いてから、依田を見た。

「今、十カウント分だけ時間取る。どこが詰まってる?」

 依田の顔がぱっと明るくなる。明るくなると、こちらの心配も減る。連鎖は、悪い方だけじゃない。


 夕方、晴斗の受信箱に短いメールが届いた。差出人は、普段ほとんど話さない別部署の人だった。

『朝礼、助かりました。今日、一本だけ返信できました』

 一本だけ。小さな勝ち。晴斗は思わず笑って、すぐに返信した。

『こちらこそ。一本で十分強いです』


 退勤後、真衣が玄関まで追いかけてきた。

「祝勝会、行こ。勝ち負け嫌いだけど」

「どこ」

「駅前の定食屋。最強に良いやつ食べて、天井じゃなくて空を見上げるやつ」

「言い方が雑」

「雑でいい。今日は雑が似合う日」


 定食屋で出てきたのは、山盛りの唐揚げだった。晴斗は一口目で、肩の力が落ちるのを感じた。揚げ物は人を雑に幸せにする。

「噛むなよ」真衣が言う。

「噛むかも」

「噛んだら宣言」

「その手順、好きだね」

「好き。失敗を、こっちの都合で扱えるから」


 店を出ると、夜の空気が冷たかった。駅前の看板が明るくて、空は意外と広い。晴斗は上を見上げ、息を吸って吐いた。

 見えない敵は消えていない。たぶん明日もいる。でも、ガードレールが一本増えた。落ちそうな場所に、止まれる場所ができた。しかも、それは誰かのためにもなる。


 ホームで電車を待ちながら、晴斗は小さく拳を握って、開いた。

 誰にも見えないくらい小さく。

 スマホを見ると、依田から短いメッセージが来ていた。

『さっきの“十カウント”、家でやってみました。頭がちょっと静かになりました』

 晴斗は鼻で笑って、短く返した。

『静かになったら勝ち。空振りしてもまたやればいい』

 送信すると、胸の中の陽気な自分と慎重な自分が、珍しく黙った。代わりに、電車の到着音が近づいてくる。現実の音は相変わらず多い。でも今日は、負けていない。

 それでいい。小さくても、声は届く。今日、証明できたから。

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