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短編集  作者: 科上悠羽
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『二人三脚の取り調べ室』

 僕の右肩には天使が住んでいる。左肩には悪魔が住んでいる。どっちも家賃を払わない。しかも二人とも、やたら口が悪い。

 正確に言うと「肩」ではなく、胸のあたりに居座っている気がする。緊張すると心臓のすぐ横で、こそこそ会議を始めるのだ。


 今朝も、改札を抜けた瞬間に始まった。


『ほら、見ろ。あの人、笑ってるのに目が笑ってねぇ』

『やめろよ、朝から人の目の奥を覗くな。覗くならせめて自分の成績表にしろ』


 天使は正論を投げつけてくる。悪魔は現実的な嫌味で刺してくる。どっちもお節介だ。僕はただ、会社に行きたいだけなのに。


 会社のエントランスはガラス張りで、晴れの日はやたら眩しい。今日の天気はどっちつかずの薄曇りで、僕の気分にぴったりだった。ぴったりって、嬉しくない。


「おはよ、日向くん」


 声をかけてきたのは、同じフロアの春日井かすがいさんだ。笑顔が似合う人。口角が上がるだけじゃなく、周りの空気まで少し軽くする。社内で彼女の近くにいると、誰でも一段階だけ人間になる。


 彼女の笑顔には、いかにも「屈託がないです」って札が下がっている。なのに、たまにだけ、札の裏がちらっと見える。寂しい目。忙しさじゃなく、何かを飲み込んだ目。天使がそこを嗅ぎつけるのが早い。


『ほらほら、言え。お前、あの笑顔が好きなんだろ』

『言うな。言ったら終わる。職場は平和が第一だ。フラれたら会議が増えるぞ』


 天使が背中を押し、悪魔が足首を掴む。僕は両方を無視して、無難に返した。


「おはようございます。今日、寒いですね」

「寒いね。日向くん、手、冷たい」


 春日井さんは自分のマグカップを僕の手元に近づけた。湯気が一瞬だけ僕の指を撫でる。


『今だ。ありがとうじゃない。嬉しいって言え』

『ありがとうで十分だ。余計な副詞を足すな。人生が長引く』


「ありがとうございます。助かります」


 僕の返事は、今日も八割が防具だった。防具は役に立つ。けれど、ずっと着ていると肩が凝る。



 午前の会議は、言葉の綱引きだった。「改善」「検討」「前向きに」のロープをみんなで引っ張り合って、結局、誰も前に進まない。僕は議事録を取りながら、春日井さんの横顔を盗み見てしまう。彼女はメモを取りつつ、たまに小さく笑う。笑う理由が分からないのが、また眩しい。


 会議が終わったあと、春日井さんが資料を抱えたまま立ち尽くした。笑顔はそのままなのに、肩が一ミリ落ちる。天使がすぐに騒いだ。


『ほら、落ちた。落ちたぞ。気づけ。声をかけろ』

『やめろ。誰だって会議のあとは落ちる。お前が抱えなくていい』


 僕は結局、声をかけた。抱えるんじゃなく、隣に立つくらいならできる。


「春日井さん、大丈夫ですか」

「うん。大丈夫。いつも通り」


 いつも通り、が、いちばん危ない言葉だ。痛いのに痛くない顔をするときに使う。僕はその言葉を昔からよく使う。だから分かる。


『嘘つくなって言え』

『言うな。嘘って単語は爆発物だ』


 天使と悪魔が同時に叫ぶから、僕の口は別の方向に逃げた。


「もしよかったら、昼、屋上で。空気、入れ替えません?」

「屋上? いいね。風、強いけど」


 彼女は笑った。今度の笑いは、本物っぽかった。胸の中の二人が、同時に舌打ちした気がした。



 屋上は、都会の上にある小さな砂場みたいな場所だ。ベンチは硬いし、景色はビルだらけだし、風だけが自由。僕らは自販機の前で並んで、温かい飲み物を選んだ。春日井さんは迷わず紅茶、僕は迷ってコーヒー。


『紅茶にしろ。合わせろ。ここは合わせろ』

『合わせるな。合わせると自分が消える。消えたら後で爆発する』


 どっちの言い分も分かるのが腹立つ。僕は結局コーヒーを買った。自分の舌くらいは、守っていい。


 ベンチに座ると、春日井さんは缶を両手で包んだ。


「ねえ、日向くん。変な話していい?」

「変な話、得意じゃないですけど」

「私、最近さ。自分のこと、すごく賢いふりしてる気がする」


 賢いふり。春日井さんの口から出ると、急に深刻になる。彼女はいつも要領がいい。笑顔も、相づちも、会議の立ち回りも。なのに、本人がそう言うなら、裏側がある。


「賢いふり、ですか」

「うん。分析して、正しい顔して、誰にも嫌われないようにして。…それで、なんか、疲れた」


 僕の胸の中で、悪魔が嬉しそうに笑った。


『ほら来た。誰にも嫌われないは無理だって言え。現実だ。現実』

 天使は逆に、怒ったみたいに言う。


『だから、曝け出せって言え。うつむくのは今日で終わりだって言え』


 天使の言い方は大げさで、悪魔の言い方は刺々しい。僕はその中間を探した。中間はたぶん、手順だ。


「…疲れたって言えるの、すごいと思います」

「すごい?」

「はい。僕、疲れたって言うとき、いつも笑って誤魔化すので」


 春日井さんが目を丸くした。風で前髪が揺れる。彼女は一拍置いて、ふっと笑った。


「日向くんも、賢いふりしてる?」

「してます。というか、してないと会社で溶けます」

「溶けるって何」

「砂糖みたいに。気づいたらいなくなるやつです」


 彼女は吹き出した。声を出して笑った。あの、遠慮のない笑い。屋上の風が、その笑いを運んでいく。


「ねえ」春日井さんが笑いを落ち着かせて言った。「私さ、たまに、ダメなときはダメでいいって思いたい」

「いいと思います」

「でも、言うの怖い」

「…じゃあ、練習しません?」

「練習?」

「今日、ここだけ。ダメって言う練習。僕も付き合います」


 春日井さんは缶のラベルを指でなぞって、迷ってから言った。


「……今日、ダメかも」


 その一言が、なんだか格好よかった。強がりじゃない強さ。僕は反射で言った。


「僕もです。今日、たぶんダメ人間です」


 言った瞬間、恥ずかしくなって笑った。笑いながら、胸の中の天使が腕組みして頷き、悪魔が「まあ悪くない」と小さく呟いた気がした。



 午後、現実はちゃんと現実のまま戻ってきた。メールは減らないし、係長の声は早いし、プリンタはすぐ紙詰まりを起こす。

 さらに今日は、社内の「自己理解研修」という名の地味なイベントが入っていた。簡単な質問に答えると、あなたの性格が色で出るらしい。色で出たところで残業が減るわけじゃないが、みんな暇ではないので真面目に受ける。


 結果は、僕が青で、春日井さんが黄色だった。

「青は分析型だって。考えすぎる人らしいよ」

「合ってる。僕は勝手に起動する」

「黄色はさ、社交型。褒め上手。…褒め上手って、褒めすぎるのも入るのかな」

 春日井さんは笑いながら、画面をスクロールして、急に黙った。

「“衝突を避ける傾向”って、書いてある」

 僕も同じ項目に心当たりがありすぎて、目を逸らした。衝突を避けた結果、衝突より長い後悔を飼う。あるあるだ。


『ほら、来た。診断結果なんてお世辞だらけだ。本質は別だろ』

『でも本質って何だよ。お前だって分かってねぇだろ』

 天使と悪魔が喧嘩を始める。僕は内心で「うるさい」と言いながら、目の前の現実に戻った。


 夕方、問題が起きた。

 春日井さんが担当していた資料の数値が一つ、古い版のまま入っていたのだ。気づいたのは、提出直前。上司の視線が刺さり、周りの空気が急に硬くなる。


「これ、どういうこと?」係長が言う。

 春日井さんは笑おうとして、笑えなかった。あの笑顔の札が、今は落ちている。


『ここで誤魔化すな。正直に言え』

『謝れ。最短で。余計な説明は火に油だ。印象を守れ』


 僕は心の中の二人より先に、自分の口を動かした。

「一旦、確認します。直すのは今からでも間に合います。原因は…僕も一緒に追います」

 係長が眉を上げる。僕が余計なことを言ったと思った顔だ。けれど、余計なことをしないと、誰かが折れる。


 春日井さんが小さく言った。

「私の確認が甘かった。急いでたのに、最終チェックを…」

 声が少し震える。震えるのを隠すために、彼女はまた笑おうとした。いつもの癖だ。


『笑うな。今は笑うと自分が消える』

 天使が珍しく静かな声で言った。悪魔も、同意するみたいに鼻で笑った。

『ここは、変な笑顔を貼らなくていい。貼ったら剥がすのが地獄だ』


 僕は言った。短く。

「ダメって言っていいです。ここ、ダメでした。だから直します」

 言いながら、自分でも少し驚いた。会議の席で「ダメ」と言うのは、なかなか勇気が要る。けれど“ダメ”は終わりじゃない。“直す”が続くなら、むしろ始まりだ。


 僕らは二人で数字を洗い直し、最新版を反映し、差分を整理して提出した。提出のメールの文面は、いつもより短くした。言い訳が長いほど、怖さが伝染するからだ。

 数分後、係長から返事が来た。たった一行。

『対応早い。次からは最終チェックの手順を固定して』


 怒号もなかった。机を叩く音もなかった。春日井さんの肩が、今度は一ミリ上がった。


「…助かった」春日井さんが小声で言う。

「僕も助かりました。二人だと早い」

「なんで、ああ言えたの?」

「屋上の練習、効いてました」

「練習って、役に立つんだね」

「たまに」


 彼女は、そこで笑った。小さく、でもちゃんと声が出た笑い。胸の中の天使が勝ち誇り、悪魔が悔しそうに舌打ちした。



 終業前、春日井さんが僕のデスクに来た。


「日向くん、さっきの…ありがとう。あと、屋上も」

「こちらこそ。…あ、あの」

『言え』

『言うな』

 胸の中で同時に叫ぶ。もう勝手にしてくれ。


 僕は、言った。天使の正論でも、悪魔の計算でもない、自分の言葉。


「春日井さんの笑い方、好きです。…さっきみたいに、声出して笑うやつ」

 言ってしまってから、全身が熱くなった。火災報知器が鳴りそうだ。職場での告白は危険物だと悪魔が言っていたのに。


 春日井さんは一瞬固まって、それから、いつもの笑顔とは違う笑顔を見せた。少し照れて、少し困って、でも逃げない笑顔。


「…それ、今さら言う?」

「今さらです。たぶん、今さらしか言えないタイプで」

「じゃあ、今さら組でいようか」

「今さら組って何ですか」

「今さら本音を出す練習する人たち。…今日みたいに」


 彼女は指で二回、僕の机をこつこつ叩いた。合図みたいに。


「明日も、屋上、行く?」

「行きます。…ダメなときはダメって言う練習」

「うん。あと、笑う練習」


「それと」春日井さんが一歩だけ近づいて、小声で言った。

「日向くん、たぶん胸の中、うるさいでしょ」

「え」

「今さら組って、そういう人多い気がする。正論と計算が喧嘩してるタイプ」

 当てられて、僕は変な声を出した。

「…見えます?」

「見えないけど、雰囲気。ね、もし明日また正論と計算が揉めたら」

「はい」

「私に言って。“今、取り調べ中”って」


 僕は笑って頷いた。そんな合図、最高に間抜けで、最高に助かる。



 帰り道、駅のホームで風が吹いた。ネクタイの結び目が少しだけずれる。僕は指で直そうとして、やめた。今日くらいは斜めでもいい。斜めでも、前に進めたから。


『ほらな。言ったら世界は終わらなかった』

 天使が勝ち誇る。

『…終わらなかったけど、明日から気まずい可能性はある』

 悪魔がぼやく。

『気まずさは、手順で薄まる。味見したろ』

『お前の正論、たまに翼むしりたくなる』

『むしれるならやってみろ。お前の三叉の矛、置け』

『誰が持ってんだよ、それ』


 僕は心の中で「静かに」と言いながら、スマホのメモに一行書いた。

「明日も、まず呼吸。次に笑う。最後に、ダメと言う」


 改札を出たところで、スマホが震えた。春日井さんからだ。

『今日の対応、ほんと助かった。明日、屋上。取り調べ中なら紅茶で停戦しよ』

 僕はホームのベンチで、思わず笑った。停戦。いい言葉だ。戦わなくても、前に進める。

 僕は短く返した。

『了解。今さら組、出動します』


 天使も悪魔も、相変わらずお節介だ。

 でも、食わず嫌いせずに一口かじったら、意外とイケる。

 僕はその事実を、今日やっと認められた気がした。

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