『箱の底のあたたかさ』
夜の部屋は、やけに音が少ない。冷蔵庫の低い唸りと、窓の隙間を撫でる風だけが「ここにいるよ」と主張してくる。僕はその二つの音の間で、段ボールを見ていた。
開けた跡のガムテープが、爪で引っかければすぐ剥がれそうなまま残っている。空っぽ。中身はもうない。なのに、捨てられない。捨てる理由は山ほどあるのに、捨てない理由は一つで足りてしまう。
なんとなく。
箱は、増え方だけは元気だった。電気ケトルの箱、靴の箱、机の足を買ったときの細長い箱。どれも買った瞬間は「生活が良くなる」気がして、届いた瞬間は「よし」と思って、開けた次の日には「片づけは週末で」と先延ばしにした。週末は何度も来たのに、箱だけが毎回残った。
残るものほど、強い顔をする。
靴下のまま床を歩くと、段ボールの角がすねに当たった。痛い。痛いのに、腹が立たない。腹が立たないのが、もっと嫌だった。痛みくらいは反応してほしい。僕の身体はちゃんとここにいるのに、心だけが薄くなる日がある。
台所で水を飲む。喉が鳴る。生きてる音がして、少し安心する。けれど胸の奥は、乾いたスポンジみたいに軽い。押すとへこむのに、戻りが遅い。
スマホが光った。通知は一件。職場のグループチャットだ。
『明日、子ども工作の手伝い入れる人いる? 空き箱大量に必要!』
送信者は小宮。配送センターの同僚で、口より先に笑うタイプだ。仕事の愚痴も笑いに変える。変えるのが得意な人は、変えられない人のことも時々救ってしまう。
僕は指を動かして、いちばん簡単な返事を打った。
『無理』
送信まであと一秒。そこで止まる。無理、と言えるのは便利だ。便利な言葉は、いつの間にか自分の首に巻きつく。僕はそのことを、最近ようやく知った。
画面を消そうとしたとき、別の通知が来た。母からだった。
『ちゃんと食べてる?』
僕は返信欄に「食べてる」と打って、消した。嘘になるからじゃない。嘘の温度がぬるいからだ。ぬるい嘘は飲み込みやすい。飲み込みやすいから、あとで吐き出せない。
結局、何も返さずスマホを伏せた。段ボールの上に。
息が、少し詰まる。窓を開けた。夜の冷気が頬を叩き、肺に入る空気が少しだけ新しくなる。空気って、こんなに味があったっけ。僕は笑いそうになって、やめた。笑うのは後でいい。今は、呼吸が先だ。
スマホをもう一度点けて、小宮のメッセージに返信した。
『箱ならある。めちゃくちゃある。明日、少しだけ手伝う』
送信。指先が少し震えた。震えは怖さのサインだ。でも怖さは、動いた証拠でもある。僕は段ボールの角を持ち上げ、玄関にまとめ始めた。空っぽなのに重い。重いのは、段ボールじゃなくて、僕の「なんとなく」だ。
*
翌日。配送センターの朝は早い。コンベヤーの音が鳴り始めると、人間も勝手に回転する。段ボールの山、ラベルの山、時間の山。僕は仕分けの手を動かしながら、昨日の自分の返信を思い出していた。
少しだけ手伝う。少しだけ。便利な言葉だ。小さくしておけば、逃げ道が残る。逃げ道があると安心する。安心は、時々、何も変えない。
「おはよ、透。顔、薄いぞ」
班長が通りすがりに言った。薄い、は顔色の話だ。たぶん。僕は反射で笑ってしまう。
「大丈夫です」
大丈夫は、僕の万能工具だ。どんなネジにもねじ込める。ねじ込むほど、どこかが傷むのに。
そこへ小宮の声が飛んだ。
「おーい、透! 箱の人!」
僕の名前の前に「箱の人」が付くあたり、彼の語彙は優しい。僕は手を上げて返事をした。
昼前、センターの片隅に箱を山積みにして、僕らは地域の集会所へ向かった。小宮の車の荷台に段ボールがぎゅうぎゅうに詰まっている。まるで引っ越しだ。中身は空なのに、引っ越しっぽいのが可笑しい。
「ねえ透、部屋、段ボール屋敷だった?」
「屋敷って言うな」
「だって量がさ。買い物しすぎ?」
「……買い物っていうか、捨てられないだけ」
「捨てられない、って、なんかロマンあるね」
「ロマンじゃない。生活の負債」
「負債は、返せるときに返すのがプロ」
小宮はハンドルを握ったまま言う。何でも仕事の言葉にするのが癖らしい。
「今日、返済日ね」
集会所の広間は、床が木で、窓が大きくて、昼の光がやけに正直だった。段ボールを降ろすと、子どもたちが一斉に寄ってくる。目がきらきらして、手が早い。
「わー! でっかい箱!」
「これ、秘密基地できるやつ!」
「ロボ作る! ロボ!」
空っぽの箱が、いきなり宝になった。僕はそれだけで、胸のスポンジが少し戻るのを感じた。空っぽって、悪いことじゃないのかもしれない。空っぽは、これから入るもののためのスペースだ。
スタッフの女性が僕に名札を渡した。『透さん 箱係』と書いてある。箱係。昨日の僕は、確かに箱係だ。
「お願いしますね。今日のテーマは『へんしん』です」
「へんしん?」
「空き箱が別のものに変身する日。子どもたち、こういうの大好きで」
僕は段ボールの前にしゃがみ込み、ガムテープとハサミを配った。すると小さな男の子が、僕の袖を引いた。
「おにいちゃん、箱、どうやって切るの」
言い方が、まっすぐで、胸に当たる。僕は一瞬、言葉を探して、変な間ができた。
小宮が横で囁く。
「透、説明。やさしく。ほら、ここは配送じゃなくて工作」
うるさい。正しい。うるさい正しさほど助かる。
「えっとね。ここを折り目にして、こうやって……指は中に入れない。危ないから」
「わかった!」
男の子は元気よく頷いて、すぐに走っていった。走り去る背中が軽い。軽さは、羨ましくて、眩しい。
工作は戦場だった。テープが足りない、ペンが出ない、箱が倒れる、ロボの頭が重い。叫び声と笑い声が同時に飛ぶ。大人が焦り、子どもがさらに焦る。焦りが連鎖する瞬間、僕の胸の悪魔が顔を出した。
ほら、面倒だ。帰ろう。
でも、帰ろうとした足を止めたのは、天使でも正論でもなく、小さな女の子の声だった。
「ねえ、これ、見て!」
差し出されたのは、段ボールの切れ端に描かれた絵だった。雑な線の人が一人、胸の前で手を広げている。背中には、へたくそなマント。顔は笑っていない。けれど目だけが、前を見ている。
「これ、ヒーローなの」
「……ヒーロー?」
「うん。空っぽの人を助けるヒーロー」
女の子は得意げに言った。「空っぽの人」が何を指すのか、たぶん本人も分かっていない。ただ、そう言いたかっただけだ。
僕は段ボールの山を見た。空っぽの箱。空っぽの僕。空っぽは、悪者じゃない。悪者にしたのは、僕の便利な返事だ。
「ヒーロー、どうやって助けるの?」
僕が聞くと、女の子は即答した。
「おちゃ、のませる!」
「お茶」
「うん! あったかいの! ふーってするやつ! あと、すこし、わらう!」
その瞬間、広間の端でお湯が沸く音が聞こえた。スタッフが紙コップに湯を注いでいる。湯気が立ち上って、空気が少し丸くなる。
僕は笑ってしまった。笑うと、胸のスポンジがきゅっと戻る。戻るのが分かる。戻ると、息が深くなる。
「じゃあ、ヒーローに、お茶、お願いしようかな」
「うん! まってて!」
女の子は走っていき、紙コップを二つ持って戻ってきた。熱いのを落とさないように、両手で抱えている。小さな手の必死さが、胸に刺さる。刺さるのに痛くない。
「はい。あったかい」
「ありがとう」
紙コップを受け取って、一口。舌が熱い。熱さは現実だ。現実の熱さは、時々、僕を助ける。
僕は周りを見渡した。段ボールがロボになり、家になり、犬になり、意味不明な宇宙船になっている。空っぽだった箱に、色と形と笑いが詰まっていく。
そのうち一人の子が、僕のところへ大きな箱を引きずってきた。中には何も入っていない。けれど側面に、太いマジックで文字が書かれている。
『いきするばしょ』
息をする場所。字は間違ってるのに、意味はまっすぐだった。僕は喉の奥が少し熱くなって、「いいね」とだけ言った。長文を言うと、たぶん泣く。
小宮が隣に来て、肩で笑った。
「ね? 返済できた」
「何が」
「ため息。今日、少ない」
「……数えてたの?」
「数えるよ。配送の人間だから」
「仕事病」
「お互い様」
*
片づけの時間、残った段ボールは半分以下になっていた。子どもたちが持ち帰ったのだ。帰り際、男の子が僕に言った。
「おにいちゃん、箱、ありがと!」
女の子も言った。
「空っぽの人、げんきになった?」
僕は少し迷ってから、頷いた。
「うん。ちょっとだけ」
「ちょっと、がいいんだよ!」
女の子は謎の名言を残して走り去った。ちょっと、がいい。便利な言葉が、今日は嫌じゃない。小さくても変わったことを、ちゃんと認められるから。
帰り道、小宮がコンビニに寄った。
「糖分補給。今日、働いたし」
レジ横の温かい棚から、彼は肉まんを二つ取った。僕は断りかけて、やめた。断るのも、便利な癖だ。
紙袋を受け取ると、湯気が手のひらに移って、心まで少し温かくなる気がした。気がするだけでも、今は十分だった。
小宮の車の荷台はスカスカだった。スカスカなのに、気分は軽い。空っぽって、こういう空っぽならいい。
「透、今日さ」小宮が言った。「帰ったら一個だけ捨てなよ。最後の一個」
「最後の一個?」
「うん。全部捨てるのは無理でも、一個なら勝てる」
「勝ち負け嫌い」
「嫌いだから勝つ。反抗」
彼は笑った。適当なのに、効く。
部屋に帰ると、玄関に積んだ箱が減っていた。見た目がすでに違う。違うと、空気が入る。空気が入ると、胸が少し楽になる。
僕は残った箱を眺め、迷って、いちばん小さい箱を選んだ。中身は何もない。なのに、底だけが妙に丈夫だ。
底を指で叩くと、ぽん、と乾いた音がした。いい音。捨てるのが惜しくなる音。惜しくなるから、捨てる。変な理屈だけど、今日はそれでいい。
玄関の外の回収場所へ持っていき、箱を置いた。置いた瞬間、手が空く。手が空くと、何かを掴める。
戻る途中で、僕は母の通知を思い出した。スマホを開き、短く打つ。
『食べた。あと、今日はちょっと息が深い』
送信してしまってから、照れくさくなった。母からすぐ返事が来る。
『意味わからんけど良かった。あったかいの飲め』
意味わからんけど良かった。雑で、優しい。僕は笑って、台所でお湯を沸かした。今日のヒーローの真似をするみたいに。温かい飲み物は、嘘をつかない。ふーっと息を吹きかけて、一口飲む。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。乾いたスポンジに水が入るみたいに、ゆっくり戻る。
僕はスマホを開き、小宮に短く送った。
『箱、一個捨てた。ちょっとだけ勝った』
すぐ返事が来る。
『よし。明日も生きろ。箱係』
箱係。悪くない呼ばれ方だ。
僕は窓を少し開けて、夜の空気を吸った。肺がすーっと広がる。空気が足りないんじゃない。僕が息を浅くしていただけだ。
段ボールがまだ残っている。心の乾きもまだ残っている。でも、残っていていい。空っぽのままでも、入れ替えはできる。
そう思えた夜は、眠りが少しだけ近かった。
布団に入っても、部屋の隅の箱はまだ視界に入った。消えないのが現実。でも今日は、嫌な残り方じゃない。
僕は残った箱の一つを引っぱり出して、油性ペンでそっと書いた。『いきするばしょ』。子どもの字を真似するみたいに、わざと少し崩して。中身は空のまま。だけど空のまま置いておく理由が、初めて決まった気がした。
机の横に置くと、ただの箱が小さな避難所に見えた。明日、ため息が溜まりそうになったら、ここで一口飲んで、息を入れ替える。それだけでいい。
僕は電気を消して、目を閉じた。喉が一度鳴った。生きてる音。今夜は、その音がやけに心強かった。




