『夜景の手癖』
予告状が届いたのは、月曜の午後だった。
社内便の封筒に紛れて、ひときわ上品な白いカードが一枚。角はきっちり、紙はやたらいい匂い。宛名は、部署名でも役職でもなく、私の下の名前だけがまっすぐ書かれていた。
『今夜、あなたの退屈を頂戴します。署名:Y』
私はカードを指で弾いて、机に置き直した。企画部の佐久間つむぎ、二十七歳。仕事はイベントの段取り係。「何も起きない」が最高だ。
なのに、予告状が来た。よりによって「今夜」。
「なにそれ、ラブレター?」
隣の席の先輩が覗き込んだ。顔がいい上に口が軽い、社内の気圧計みたいな人だ。
「ラブレターならもっと具体的にしてほしいです。“退屈”って何ですか」
「退屈はほら、君の眉間に住んでるやつ」
「住民票切ります」
「切れない。しぶとい。……で、Yって誰」
「知らないです。そもそも、この匂い、なんか……柑橘?」
カードを鼻先に寄せると、確かに甘くない香りがした。紅茶の袋に入ってる乾いた皮みたいな、落ち着くのに腹が立つ匂い。腹が立つのは、落ち着いてしまうからだ。
今週末、うちの会社は市立美術館で一夜限りの慈善パーティを仕切る。展示室を貸し切り、寄付者を招き、作品の前で乾杯する。お行儀の良い大人の遊びだ。私はその遊びを成立させるために、照明、導線、警備、食器、音量、挨拶、トラブル対応、全部を整えている。
私は立ち上がり、控室へ向かった。壁には予定表、机には図面、床には未開封の段ボール。段取り係の聖域だ。
そこで私は、もう一枚、カードを見つけた。さっきの予告状の裏に、薄い鉛筆で追記がある。
『追伸:盗むのは物ではありません。あなたの“ため息”です。』
……勝手に決めるな。
私は笑いそうになって、笑えなかった。ため息は私の財産だ。今日まで何百回も貯めてきた。貯めて何になるか知らないけど、少なくとも私のものだ。
夜。
美術館の外壁はライトアップされ、ガラス扉の向こうに人影が増えていく。タキシード、ドレス、黒い手袋、香水の渦。私はスタッフ用の黒スーツに身を包み、インカムを耳に差した。自分の声が機械を通ると、少しだけ他人になれる。
「導線A、問題なし」
「展示室2、温度安定」
「厨房、準備完了」
「警備、巡回開始」
順調。完璧。最高。
……このまま終わってくれ。
パーティが始まって四十分。寄付者のスピーチが終わり、乾杯のグラスが鳴り、拍手が揃った瞬間だった。
展示室の端、薄暗い壁際に、見慣れない“影”が増えた。
黒いマスク。黒い手袋。帽子のつば。
あまりに“それっぽい”せいで、逆に現実味がない。仮装? 余興? でも、うちの段取りに余興は入っていない。入っていないものは、全部事故だ。
私は足を止めずに、インカムだけで警備に小声で飛ばした。
「展示室3、北側壁際。黒い帽子の人物。確認お願い」
返事はすぐ。
「確認。スタッフリストに該当なし。……追います」
胃がきゅっと縮む。追う、は追われるの兄弟だ。今日は追われたくない。
影は、展示室の人波を縫って進む。抜き足、というより“抜き笑い”。肩が揺れている。楽しそうに歩くのが腹立たしい。こっちは命がけで「何も起きない」を守っているのに。
影がふいに振り向き、こちらへ視線を投げた。顔は見えない。見えないのに、笑っている気配だけが分かる。
そして、影は指を一本立てた。しー、の合図。
同時に、私のポケットの中で何かが鳴った。
私は思わずスーツの内ポケットを探り、硬い紙片を引っぱり出した。
小さなカード。さっきの予告状と同じ紙質。同じ匂い。
『ため息、いただきました。』
私はその場で、ため息を吸い込んでしまった。吸い込んだら負けだ。吐けば盗まれる。私の中の天使と悪魔が即席会議を始める。
天使:落ち着け。呼吸だ。
悪魔:ここでキレたら、寄付者が帰るぞ。
私は一秒だけ目を閉じ、笑顔の筋肉を顔に貼り付けた。段取り係の顔面工事。
そのまま人混みに紛れ、影の進む方向へ、ゆっくり追った。走ったら仕事が崩れる。崩れたら明日が地獄になる。
影は展示室を抜け、スタッフ通路へ消えた。一般客は入れないはずの通路。つまり、鍵を持っているか、鍵の代わりになる何かを持っている。
私は通路の角で立ち止まり、インカムを切った。ここから先は、段取り係の仕事じゃない。……なのに足が動く。動いてしまう。盗まれたのが“ため息”だとしても、腹立たしい。
スタッフ通路は白い蛍光灯で、影がよく見えるはずだった。なのに、見えない。
代わりに、床に小さな“Y”が落ちていた。紙で作った、Y字のしおり。角ばっていて、変に丁寧。
私はそれを拾い、指でつまんだ。ふわっと柑橘の匂い。
「……お行儀のいい犯罪」
背後で声がした。
「その言い方、好き」
振り向くと、壁の非常扉の前に、影が立っていた。距離は三メートル。逃げるなら逃げられる距離。なのに逃げない。逃げないのが、いちばん腹立たしい。
「誰ですか」私は言った。声がいつもより低い。
「名乗るとつまらない」
「つまらないのは私の仕事です。つまらないおかげで安全です」
「安全の中に退屈が住む」
「住ませません。退屈は追い出します」
「追い出せないから、僕が来た」
影は帽子のつばを上げた。マスクの下、目元だけが見える。知らない目……ではない。どこかで見た目。嫌な予感が形になる。
「……あなた」
影はマスクを外した。笑っていた。
社内の人間。しかも、見覚えがありすぎる。
「佐久間さん。こんばんは」
名札もつけずに、丁寧に会釈するのは、広報の槙野悠。普段は表舞台の光の中で、笑顔を配る係。私の“何も起きない”の外側を作る人間。
「なんで、ここに」
「ここ、僕のルート。撮影のとき通る」
「撮影?」
「今夜のパーティ、記録映像があるでしょ。寄付者向けに編集して配るやつ」
「……あるけど。だからって、盗みはしないでください」
「盗みじゃない。回収」
「言い方の問題じゃないです」
槙野は両手を上げて降参のポーズをした。降参のくせに余裕がある。
「ごめん。驚かせた。予告状は、やりすぎた」
「やりすぎです」
「でも、効いたでしょ」
「効いてないです」
「効いてる。だって今、佐久間さん、ため息してない」
言われて気づいた。確かに私はこの十分、ため息を吐いていない。吐く暇がなかった。腹が立って、目が冴えて、肩が上がっている。
……悔しい。
「で」槙野が続けた。「屋上、行こう」
「は?」
「“退屈”を盗むって、そういうこと。ここで追いかけっこして終わりじゃ、ただの嫌がらせ」
「十分嫌がらせです」
「嫌がらせは嫌い。僕はお節介」
「同じです」
「違う。嫌がらせは相手の時間を奪う。お節介は、相手の時間を増やす」
意味不明な理屈だ。だが槙野の目は真面目だった。広報の笑顔の裏側がちらっと見える。
私は一瞬だけ迷った。屋上。今この瞬間に? パーティの最中に?
段取り係の私が一番嫌いな行動だ。段取りから外れること。なのに。
インカムを外した手のひらが、微かに汗ばむ。
私は言った。
「……三分だけ」
「最高。三分の盗み」
「盗みって言うな」
「じゃあ、借りる」
非常階段を上がる。槙野は軽い。私の足音は重い。
屋上に出ると、風が強かった。夜の風は容赦がない。髪を乱し、肩を冷やし、頭を少しだけ空っぽにする。空っぽは、たまに必要だ。
屋上の端には、メンテナンス用の細いロープが張られていた。安全柵の外側に、点検用の小さな通路。夜景が見える。
「怖いんですけど」
「大丈夫。出ない。見るだけ」
槙野は柵の内側で止まり、指をさした。
街の灯りが、下で揺れていた。車のライトが川みたいに流れ、ビルの窓が星みたいに点る。パーティ会場のライトが背中で踊り、遠くのサーチライトがゆっくり空をなぞっている。
「……きれい」って言いかけて、私は飲み込んだ。言うと盗まれる気がしたから。
槙野が笑う。
「今、言いかけたでしょ」
「言ってません」
「言いかけた。そこ。そこが僕の狙い」
「狙い、言い方が犯罪者」
「僕は犯罪者じゃなくて、退屈の回収屋」
「回収屋、言い方が雑」
風の音が、会話の間に入る。間があると、言葉が尖らない。
「佐久間さんさ」槙野が言った。「最近、顔が固い」
「固いのが仕事です」
「固いのは、癖だよ。仕事のふりした癖」
「……広報がそんなこと言う?」
「広報は、固い顔を柔らかく見せる仕事だから。固さに敏感」
私は笑いそうになって、少しだけ笑った。ほんの少し。
「で。なんで私」
「え?」
「退屈を盗むなら、他にもいるでしょう。眉間に住民票ある人」
「いるよ。いっぱい。でも、君の退屈は、危ない種類」
「危ない?」
「ため息が増えると、君は“正しく”なりすぎる。正しすぎると、誰かが息できなくなる」
槙野は夜景を見たまま言った。
「……今日、厨房の子に、きつく言いました」
「うん。見てた。見てたから、予告状を出した」
「最低」
「最低。ごめん。でも、君は謝れないでしょ。忙しい顔で“後で”って言う」
「……言う」
「後で、は便利で、後で、は永遠。だから僕が先に盗んだ。君のため息の時間を」
ムカつく。正しい。ムカつくほど正しい。
私は風に向かって息を吐いた。ふう、と白くはならないため息。軽い。久しぶりに軽い。
「返してください」私は言った。
「何を」
「私のため息。勝手に回収しないで」
「じゃあ交換」槙野がポケットから小さな封筒を出した。中には“Y”のしおりが数枚と、柑橘の小袋。
「これ、配って。厨房の子にも。『さっきはごめん』って言う代わりに。匂いで分かるから」
「匂いで分かるって何」
「謝り方が下手な人は、香りに任せた方が角が丸い。ずるいけど、手順」
「……ずるい」
「ずるいのは、優しさの近道」
私は封筒を受け取った。軽いのに、手のひらが温かい。
「……あなた、誰の味方なんですか」
「君の味方。あと、厨房の子の味方。あと、寄付者の味方。つまり、面倒くさい」
「面倒くさいの自覚あるんだ」
「ある。だから仮面をかぶる。ふざけた仮面の方が、本音が刺さらない」
遠くで拍手が起きた。パーティの波が、時間通りに進んでいる音。段取りはまだ生きている。
「三分、過ぎました」私は言った。
「戻ろう。返すから」
「何を」
「退屈じゃなくて、君の呼吸」
槙野は帽子を深くかぶり直し、マスクを持ち上げた。もう一度、影になる準備。
「今日の“Y”は終わり。明日からは、ちゃんと槙野でいる」
「明日からは、変な予告状やめてください」
「うん。……でも、合図は残す」
槙野は指でYの形を作ってみせた。間抜けな手。なのに、ちょっとだけ効く。
私はため息を一つ、わざと吐いた。重くないやつ。
「……盗むなら、ちゃんと返してくださいね」
「もちろん。盗んだままは、犯罪だから」
スタッフ通路へ戻り、私はインカムを耳に差した。
「展示室3、状況は?」
「問題なし。……でもさっき、なんか柑橘の匂いがしました」
「……気のせいです」
パーティが終わり、最後の搬出が済んだ深夜。
厨房の子に封筒の小袋を渡すと、相手は眉をひそめてから、くん、と匂いを嗅いだ。
「……柑橘。え、これ……」
「……さっきは、ごめん。急いでて。言い方、きつかった」
言えた。短いけど、言えた。
厨房の子は少しだけ笑って、小袋をポケットに入れた。
「……次、同じ匂いだったら、先に深呼吸してください」
「はい」
帰り道、私は駅前の掲示板の前で立ち止まった。誰かが貼った小さな紙に、こう書いてある。
《本日の月:雲が多め。けど、盗まれたのは退屈でした。》
誰だよ。雲係か。Yか。どっちでもいい。
私はその紙を見て、声を出して笑ってしまった。夜の駅前で。
ポケットの中には、Y字のしおりが一枚残っている。
捨てない。保存もしない。明日、机の引き出しに放り込む。必要なときにだけ、指で触れるために。
退屈は盗まれると腹が立つ。でも、腹が立つくらいなら、まだ動ける。
そう思えた夜は、少しだけ勝ちだった。




