表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 科上悠羽
50/70

『夜景の手癖』

 予告状が届いたのは、月曜の午後だった。

 社内便の封筒に紛れて、ひときわ上品な白いカードが一枚。角はきっちり、紙はやたらいい匂い。宛名は、部署名でも役職でもなく、私の下の名前だけがまっすぐ書かれていた。


『今夜、あなたの退屈を頂戴します。署名:Y』


 私はカードを指で弾いて、机に置き直した。企画部の佐久間つむぎ、二十七歳。仕事はイベントの段取り係。「何も起きない」が最高だ。

 なのに、予告状が来た。よりによって「今夜」。


「なにそれ、ラブレター?」

 隣の席の先輩が覗き込んだ。顔がいい上に口が軽い、社内の気圧計みたいな人だ。

「ラブレターならもっと具体的にしてほしいです。“退屈”って何ですか」

「退屈はほら、君の眉間に住んでるやつ」

「住民票切ります」

「切れない。しぶとい。……で、Yって誰」

「知らないです。そもそも、この匂い、なんか……柑橘?」


 カードを鼻先に寄せると、確かに甘くない香りがした。紅茶の袋に入ってる乾いた皮みたいな、落ち着くのに腹が立つ匂い。腹が立つのは、落ち着いてしまうからだ。


 今週末、うちの会社は市立美術館で一夜限りの慈善パーティを仕切る。展示室を貸し切り、寄付者を招き、作品の前で乾杯する。お行儀の良い大人の遊びだ。私はその遊びを成立させるために、照明、導線、警備、食器、音量、挨拶、トラブル対応、全部を整えている。


 私は立ち上がり、控室へ向かった。壁には予定表、机には図面、床には未開封の段ボール。段取り係の聖域だ。

 そこで私は、もう一枚、カードを見つけた。さっきの予告状の裏に、薄い鉛筆で追記がある。


『追伸:盗むのは物ではありません。あなたの“ため息”です。』


 ……勝手に決めるな。

 私は笑いそうになって、笑えなかった。ため息は私の財産だ。今日まで何百回も貯めてきた。貯めて何になるか知らないけど、少なくとも私のものだ。


 夜。

 美術館の外壁はライトアップされ、ガラス扉の向こうに人影が増えていく。タキシード、ドレス、黒い手袋、香水の渦。私はスタッフ用の黒スーツに身を包み、インカムを耳に差した。自分の声が機械を通ると、少しだけ他人になれる。


「導線A、問題なし」

「展示室2、温度安定」

「厨房、準備完了」

「警備、巡回開始」


 順調。完璧。最高。

 ……このまま終わってくれ。


 パーティが始まって四十分。寄付者のスピーチが終わり、乾杯のグラスが鳴り、拍手が揃った瞬間だった。

 展示室の端、薄暗い壁際に、見慣れない“影”が増えた。


 黒いマスク。黒い手袋。帽子のつば。

 あまりに“それっぽい”せいで、逆に現実味がない。仮装? 余興? でも、うちの段取りに余興は入っていない。入っていないものは、全部事故だ。


 私は足を止めずに、インカムだけで警備に小声で飛ばした。

「展示室3、北側壁際。黒い帽子の人物。確認お願い」

 返事はすぐ。

「確認。スタッフリストに該当なし。……追います」


 胃がきゅっと縮む。追う、は追われるの兄弟だ。今日は追われたくない。


 影は、展示室の人波を縫って進む。抜き足、というより“抜き笑い”。肩が揺れている。楽しそうに歩くのが腹立たしい。こっちは命がけで「何も起きない」を守っているのに。

 影がふいに振り向き、こちらへ視線を投げた。顔は見えない。見えないのに、笑っている気配だけが分かる。


 そして、影は指を一本立てた。しー、の合図。

 同時に、私のポケットの中で何かが鳴った。

 私は思わずスーツの内ポケットを探り、硬い紙片を引っぱり出した。


 小さなカード。さっきの予告状と同じ紙質。同じ匂い。


『ため息、いただきました。』


 私はその場で、ため息を吸い込んでしまった。吸い込んだら負けだ。吐けば盗まれる。私の中の天使と悪魔が即席会議を始める。

 天使:落ち着け。呼吸だ。

 悪魔:ここでキレたら、寄付者が帰るぞ。


 私は一秒だけ目を閉じ、笑顔の筋肉を顔に貼り付けた。段取り係の顔面工事。

 そのまま人混みに紛れ、影の進む方向へ、ゆっくり追った。走ったら仕事が崩れる。崩れたら明日が地獄になる。


 影は展示室を抜け、スタッフ通路へ消えた。一般客は入れないはずの通路。つまり、鍵を持っているか、鍵の代わりになる何かを持っている。

 私は通路の角で立ち止まり、インカムを切った。ここから先は、段取り係の仕事じゃない。……なのに足が動く。動いてしまう。盗まれたのが“ため息”だとしても、腹立たしい。


 スタッフ通路は白い蛍光灯で、影がよく見えるはずだった。なのに、見えない。

 代わりに、床に小さな“Y”が落ちていた。紙で作った、Y字のしおり。角ばっていて、変に丁寧。


 私はそれを拾い、指でつまんだ。ふわっと柑橘の匂い。

「……お行儀のいい犯罪」


 背後で声がした。

「その言い方、好き」

 振り向くと、壁の非常扉の前に、影が立っていた。距離は三メートル。逃げるなら逃げられる距離。なのに逃げない。逃げないのが、いちばん腹立たしい。


「誰ですか」私は言った。声がいつもより低い。

「名乗るとつまらない」

「つまらないのは私の仕事です。つまらないおかげで安全です」

「安全の中に退屈が住む」

「住ませません。退屈は追い出します」

「追い出せないから、僕が来た」


 影は帽子のつばを上げた。マスクの下、目元だけが見える。知らない目……ではない。どこかで見た目。嫌な予感が形になる。


「……あなた」

 影はマスクを外した。笑っていた。

 社内の人間。しかも、見覚えがありすぎる。


「佐久間さん。こんばんは」

 名札もつけずに、丁寧に会釈するのは、広報の槙野まきの悠。普段は表舞台の光の中で、笑顔を配る係。私の“何も起きない”の外側を作る人間。


「なんで、ここに」

「ここ、僕のルート。撮影のとき通る」

「撮影?」

「今夜のパーティ、記録映像があるでしょ。寄付者向けに編集して配るやつ」

「……あるけど。だからって、盗みはしないでください」

「盗みじゃない。回収」

「言い方の問題じゃないです」


 槙野は両手を上げて降参のポーズをした。降参のくせに余裕がある。

「ごめん。驚かせた。予告状は、やりすぎた」

「やりすぎです」

「でも、効いたでしょ」

「効いてないです」

「効いてる。だって今、佐久間さん、ため息してない」


 言われて気づいた。確かに私はこの十分、ため息を吐いていない。吐く暇がなかった。腹が立って、目が冴えて、肩が上がっている。

 ……悔しい。


「で」槙野が続けた。「屋上、行こう」

「は?」

「“退屈”を盗むって、そういうこと。ここで追いかけっこして終わりじゃ、ただの嫌がらせ」

「十分嫌がらせです」

「嫌がらせは嫌い。僕はお節介」

「同じです」

「違う。嫌がらせは相手の時間を奪う。お節介は、相手の時間を増やす」


 意味不明な理屈だ。だが槙野の目は真面目だった。広報の笑顔の裏側がちらっと見える。

 私は一瞬だけ迷った。屋上。今この瞬間に? パーティの最中に?

 段取り係の私が一番嫌いな行動だ。段取りから外れること。なのに。


 インカムを外した手のひらが、微かに汗ばむ。

 私は言った。

「……三分だけ」

「最高。三分の盗み」

「盗みって言うな」

「じゃあ、借りる」


 非常階段を上がる。槙野は軽い。私の足音は重い。

 屋上に出ると、風が強かった。夜の風は容赦がない。髪を乱し、肩を冷やし、頭を少しだけ空っぽにする。空っぽは、たまに必要だ。


 屋上の端には、メンテナンス用の細いロープが張られていた。安全柵の外側に、点検用の小さな通路。夜景が見える。

「怖いんですけど」

「大丈夫。出ない。見るだけ」

 槙野は柵の内側で止まり、指をさした。

 街の灯りが、下で揺れていた。車のライトが川みたいに流れ、ビルの窓が星みたいに点る。パーティ会場のライトが背中で踊り、遠くのサーチライトがゆっくり空をなぞっている。


「……きれい」って言いかけて、私は飲み込んだ。言うと盗まれる気がしたから。

 槙野が笑う。

「今、言いかけたでしょ」

「言ってません」

「言いかけた。そこ。そこが僕の狙い」

「狙い、言い方が犯罪者」

「僕は犯罪者じゃなくて、退屈の回収屋」

「回収屋、言い方が雑」


 風の音が、会話の間に入る。間があると、言葉が尖らない。

「佐久間さんさ」槙野が言った。「最近、顔が固い」

「固いのが仕事です」

「固いのは、癖だよ。仕事のふりした癖」

「……広報がそんなこと言う?」

「広報は、固い顔を柔らかく見せる仕事だから。固さに敏感」


 私は笑いそうになって、少しだけ笑った。ほんの少し。

「で。なんで私」

「え?」

「退屈を盗むなら、他にもいるでしょう。眉間に住民票ある人」

「いるよ。いっぱい。でも、君の退屈は、危ない種類」

「危ない?」

「ため息が増えると、君は“正しく”なりすぎる。正しすぎると、誰かが息できなくなる」

 槙野は夜景を見たまま言った。


「……今日、厨房の子に、きつく言いました」

「うん。見てた。見てたから、予告状を出した」

「最低」

「最低。ごめん。でも、君は謝れないでしょ。忙しい顔で“後で”って言う」

「……言う」

「後で、は便利で、後で、は永遠。だから僕が先に盗んだ。君のため息の時間を」


 ムカつく。正しい。ムカつくほど正しい。

 私は風に向かって息を吐いた。ふう、と白くはならないため息。軽い。久しぶりに軽い。


「返してください」私は言った。

「何を」

「私のため息。勝手に回収しないで」

「じゃあ交換」槙野がポケットから小さな封筒を出した。中には“Y”のしおりが数枚と、柑橘の小袋。

「これ、配って。厨房の子にも。『さっきはごめん』って言う代わりに。匂いで分かるから」

「匂いで分かるって何」

「謝り方が下手な人は、香りに任せた方が角が丸い。ずるいけど、手順」

「……ずるい」

「ずるいのは、優しさの近道」


 私は封筒を受け取った。軽いのに、手のひらが温かい。

「……あなた、誰の味方なんですか」

「君の味方。あと、厨房の子の味方。あと、寄付者の味方。つまり、面倒くさい」

「面倒くさいの自覚あるんだ」

「ある。だから仮面をかぶる。ふざけた仮面の方が、本音が刺さらない」


 遠くで拍手が起きた。パーティの波が、時間通りに進んでいる音。段取りはまだ生きている。

「三分、過ぎました」私は言った。

「戻ろう。返すから」

「何を」

「退屈じゃなくて、君の呼吸」


 槙野は帽子を深くかぶり直し、マスクを持ち上げた。もう一度、影になる準備。

「今日の“Y”は終わり。明日からは、ちゃんと槙野でいる」

「明日からは、変な予告状やめてください」

「うん。……でも、合図は残す」

 槙野は指でYの形を作ってみせた。間抜けな手。なのに、ちょっとだけ効く。


 私はため息を一つ、わざと吐いた。重くないやつ。

「……盗むなら、ちゃんと返してくださいね」

「もちろん。盗んだままは、犯罪だから」


 スタッフ通路へ戻り、私はインカムを耳に差した。

「展示室3、状況は?」

「問題なし。……でもさっき、なんか柑橘の匂いがしました」

「……気のせいです」


 パーティが終わり、最後の搬出が済んだ深夜。

 厨房の子に封筒の小袋を渡すと、相手は眉をひそめてから、くん、と匂いを嗅いだ。

「……柑橘。え、これ……」

「……さっきは、ごめん。急いでて。言い方、きつかった」

 言えた。短いけど、言えた。

 厨房の子は少しだけ笑って、小袋をポケットに入れた。

「……次、同じ匂いだったら、先に深呼吸してください」

「はい」


 帰り道、私は駅前の掲示板の前で立ち止まった。誰かが貼った小さな紙に、こう書いてある。


《本日の月:雲が多め。けど、盗まれたのは退屈でした。》


 誰だよ。雲係か。Yか。どっちでもいい。

 私はその紙を見て、声を出して笑ってしまった。夜の駅前で。


 ポケットの中には、Y字のしおりが一枚残っている。

 捨てない。保存もしない。明日、机の引き出しに放り込む。必要なときにだけ、指で触れるために。

 退屈は盗まれると腹が立つ。でも、腹が立つくらいなら、まだ動ける。

 そう思えた夜は、少しだけ勝ちだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ