『境目のない夜に、息を鳴らす』
真鍋恒一三十五歳。肩こりと腰の違和感と、会社の「若手」枠から外れた気配だけは、妙に正確に更新される。
朝の会議で、部長がさらっと言った。
「真鍋、君ももう中堅だしさ。そろそろ落ち着いた企画を」
落ち着いた。落ち着いたって、何だ。椅子に根が生えたみたいに動かないことか。無難に怒られないことか。笑われないことか。
真鍋は「承知しました」と返事をした。返事は滑らかに出る。滑らかすぎて、舌の裏が乾く。
昼休み、机の引き出しを開けると、古いマウスピースが転がっていた。銀色が少しくすんでいる。高校の吹奏楽部で使っていた、トランペットの口だ。
触ると、指先に昔の冷たさが戻る。冷たいのに、胸の奥が熱くなる。こういうのが一番厄介だ。
「なにそれ、飴?」
背後から、同僚の小宮が覗き込んだ。
「……口」
「口?」
「楽器の」
「え、真鍋って吹く人だったの?」
「昔ね」
「昔を現在形にするイベントあるよ。今夜」
小宮はスマホを差し出した。地図と、短い文。
《角打ち喫茶“つぎはぎ” 今夜/自由参加 ステージあり 楽器あり 年齢欄なし》
「年齢欄なしって、何」
「受付で名札書くんだけど、年齢書かない。書けない。書かない。そういうルール」
「なにその優しい抜け道」
「抜け道じゃない。入口。……来なよ。真鍋、最近“落ち着いた顔”してて怖い」
怖い、を言われると腹が立つ。腹が立つのに、当たってるともっと腹が立つ。
真鍋は引き出しのマウスピースを、ポケットに入れた。入れてしまった時点で、もう半分負けている。
*
角打ち喫茶“つぎはぎ”は、酒屋の奥にあった。ビールケースの山を抜けると、急に木の匂いのする小さな空間になる。壁に貼られた手書きの紙が、やけに可愛い字で宣言している。
《お願い:肩書き禁止/妙な序列なし/うまい下手より、息》
真鍋はそこで一回、息を吸った。吸ったら、来てしまったことが現実になる。
受付の女性がペンを渡してくる。
「名札、どうぞ。ニックネームで」
机の上には、名札の山。どれも雑で、どれも楽しそうだ。
《タケ》《のり塩》《世界の端》《まだ火曜日》《帰り道》
真鍋は迷って、結局こう書いた。
《まなべ(口)》
「口って何ですか?」と女性が笑う。
「……口しか残ってないので」
「じゃ、口で来た人。歓迎」
奥の小さなステージには、白いチョークで線が引かれていた。線の内側が演者、外側が客。たったそれだけの境目なのに、足が重くなる。
ステージ脇で、老眼鏡の男性がサックスを磨いている。隣では高校生くらいの女の子が、ケースからホルンを出していた。さらに奥で、肌の色が少し違う青年がドラムスティックを回している。誰も誰にも遠慮していないのが、逆に眩しい。
ホルンの女の子が、真鍋のポケットの膨らみを見て言った。
「それ、マウスピースですか」
「……はい」
「いいな。私、今日、学校で“ホルンは地味”って言われて、ちょっとムカついて」
「地味は強いよ」
「今の、励ましが昭和」
「昭和の人に見える?」
「うん。肩に貼ってある」
「貼ってある?」
「『もう若くない』ってやつ」
女の子は笑って、ケースの蓋を閉めた。
「それ、ここでは剥がせますよ。名札、年齢欄ないし」
さらっと言われて、胸の奥がちくりとした。剥がしたい札ほど、剥がし方が分からない。
「初めて?」
サックスの男性が声をかけてきた。
「……はい」
「じゃ、まず水。喉が通ると、音も通る」
渡された紙コップの水を飲む。水は嘘をつかない。胸の中の砂が少し沈む。
司会役らしい女性がマイクを持って現れた。
「今夜のルール、再確認。肩書き禁止。年齢も職業も聞かない。聞きたくなったら、代わりに好きな食べ物を聞いてください」
客席が笑う。
「あと、失敗したら、堂々と“失敗しました”って言っていい。誤魔化すと逆に長引くから」
真鍋の胃が、少しだけ軽くなった。誤魔化す癖のある人間には、こういう明文化が効く。
最初の演者は、ホルンの女の子だった。緊張しているのに、胸郭がまっすぐで、音だけが真面目に飛んだ。次はドラムの青年が入って、急に場が跳ねた。音の跳ね方で、空気まで跳ねる。客席の手拍子が、妙に温かい。
真鍋は手拍子をしながら、身体のあちこちが固いことに気づいた。指も首も、昔より言うことを聞かない。なのに心臓だけは昔のままだ。騒ぎ方が、ずっと同じ。
「次、誰か。初めて歓迎」
司会が言う。小宮が後ろから真鍋の背中をつついた。
「ほら。口の人」
「無理」
「無理はいい。行くか行かないか」
真鍋の膝が笑った。笑ってるのは体で、本人は笑っていない。
ポケットの中のマウスピースが、指先に当たる。冷たい。冷たいから、現実だ。
真鍋は立ち上がった。立ち上がった瞬間、客席の誰かが「おー」と軽く声を上げた。それだけで、少し救われる。大げさな期待じゃない。通りすがりの応援。
ステージの線の前で、真鍋は止まった。線の向こうに行ったら、戻れない気がした。
サックスの男性が小声で言った。
「線はね、越えても死なない」
「……はい」
「死ぬのは、黙って帰った時」
真鍋は思わず笑った。ひどい言い方なのに、優しい。
線を跨いだ。足の裏が、ほんの少しだけ軽くなる。
真鍋は借りたトランペットを受け取った。金属が手に冷たい。唇に当てると、昔の痛みが戻る。痛みは、戻るものだ。戻るなら、扱える。
息を吸う。吐く。吹く。
最初の一音は、見事に裏返った。
「ぷっ」
自分の失敗音に、自分で吹き出した。客席も笑った。笑いが刺さらない。刺さらないから、次が出る。
「失敗しました」
真鍋が言うと、司会がすぐ返す。
「いいね。続けて」
二音目、三音目。少しずつ芯が戻ってくる。サックスが寄り添い、ドラムが背中を押す。ホルンの女の子が、笑いながら支える音を足す。金属の中に息が通ると、身体の端まで血が回る感じがする。汗が出る。汗が出ると、思考が減る。減ると、怖さも減る。怖さが減ると、さらに息が入る。
真鍋の中で、ずっと貼り付いていた札が一枚、剥がれた気がした。
“年齢的にもう”
その札が剥がれると、代わりに別の札が出てくる。
“まだいける”
こっちの札の方が、ずっと軽い。軽いのに、嘘じゃない。
曲の途中、真鍋は客席の一番前に、会社の部長そっくりの人を見つけてしまった。瞬間、背中が固くなる。見られたくない。バレたくない。恥ずかしい。
恥ずかしいとき、人は鎧を着る。でも鎧は音を鈍らせる。
真鍋は一瞬だけ、昔の部活を思い出した。顧問に敬礼して、振り返った瞬間に舌を出した、あの幼い反抗。誰にもバレないサイズの、ちいさな生意気。
今夜の真鍋は、その小ささを借りた。
マウスピースを外した一拍で、舌をちょんと出して、自分にだけ見せた。
「……ちっ」
小さな舌打ち。世界じゃなくて、自分の臆病に。
次のフレーズで、真鍋は息を深く入れた。
音が、前より少しだけ太くなる。太くなると、肩の力が抜ける。抜けると、また太くなる。循環が始まる。
最後の一音を伸ばしたとき、客席が自然に手を叩いた。拍手は大きくない。だから抱えられる。抱えられる拍手は、ちゃんと次に使える。
ステージを降りると、サックスの男性が真鍋の肩を二回叩いた。
「よし。口、復活」
「復活って……まだ息切れしてます」
「息切れは生きてる証拠。水飲め。次はもっと楽に鳴る」
ホルンの女の子が近づいてきて、名札を指さした。
「口さん、さっきの“ちっ”って、なにに言ったんですか」
「……過去の自分に。あと、見栄」
「見栄、重いですよね」
「重い。だから今日は置いてきた」
「置けたなら、勝ちです」
「勝ち負けやめろって」
「勝ち負けにすると動ける人、いるじゃないですか」
図星で、真鍋は笑った。
小宮がにやにやして言った。
「ね。落ち着いた?」
「落ち着くかよ。心臓うるさい」
「いいじゃん。うるさい日は、まだ増やせる」
片づけが始まった頃、例の“部長そっくり”が近づいてきた。
近くで見ると、そっくりどころじゃなかった。部長本人だった。
真鍋は口の中の水を危うく噴きそうになり、慌てて飲み込んだ。
「……真鍋?」
「……部長?」
「ここでは」部長は名札を指で弾いた。「肩書き禁止、だろ」
部長の名札にはこう書いてあった。
《たぶん魚》
「なんですかそれ」
「好きな食べ物って言われたから」
「魚、ですか」
「たぶん」
真鍋が眉を上げると、部長が先に言った。
「たぶん禁止、だな」
なぜ知っている。真鍋は混乱し、混乱の勢いで笑ってしまった。
「今日、良かったぞ」
「見てたんですか」
「見てた。……会社の会議より、よほど声が出てた」
部長は咳払いをして、少しだけ視線を外した。
「俺もさ。会社だと“落ち着いた”って言葉を武器にしがちなんだよ。便利だから」
「……便利ですね」
「便利は癖になる。癖になると、つまらなくなる」
部長は真鍋を見て、小さく言った。
「明日、会議で、落ち着いてない案を一個出せ。俺が受ける」
真鍋の喉が、また熱くなった。
「……本当ですか」
「ここでは本当。本社では……まあ」
「たぶん禁止」
「そうだった」
真鍋はそこで、少しだけ楽になった。部長も人間だった。部長にも“年齢欄なし”が必要だった。必要な人が必要な場所に来て、たまたま同じ線を跨いだだけ。たったそれだけが、明日を変える時がある。
帰り際、受付の女性が名札を回収しながら言った。
「口の人、次も来ます?」
真鍋は反射で「たぶん」と言いかけて、止めた。止められた自分が、今日は少し好きだ。
「来ます」
「よし。じゃ、次は何の口にします?」
「……言い訳の口を、減らします」
「いいね。減らすの、上手い人は増やすのも上手い」
外に出ると夜風が冷たかった。冷たいのに、胸は変に熱い。
真鍋はポケットの中のマウスピースを握り直した。くすんだ銀色が、今日は少しだけ明るい。
*
翌朝。会議室の空気はいつも通り薄かった。
真鍋は資料を開き、部長の「落ち着いた企画を」を思い出し、それから昨夜のチョークの線を思い出した。線は越えても死なない。死ぬのは黙って帰った時。
「真鍋、例の企画、どう?」
部長が言う。部長の目が、昨日の“たぶん魚”の目と同じで、真鍋は少し笑いそうになって、堪えた。
「……落ち着いてない案を一個、出します」
会議室が一瞬静かになった。真鍋の心臓はうるさい。でも、うるさいまま言える。
「若手向けじゃなくて、“今から入ってくる人”向けに、体験導線を増やしたいです。年齢とか経験とか関係なく、最初の一歩が軽い仕組み」
誰かが「それ、リスクは?」と聞く。真鍋は息を吸って吐いた。
「リスクはあります。だから小さく始めます。十五分で試せるやつから」
自分の口が、昨夜のままだ。息が通っている。誤魔化していない。
部長が頷いた。
「いい。やろう」
真鍋は内心で、舌をちょんと出した。誰にも見えないサイズで。昨日の自分に向けての、ちいさな生意気。
会議が終わって席に戻ると、小宮がマグカップを持って待ち構えていた。
「なにその顔。やった顔してる」
「……やったかも」
「言うじゃん。珍しい」
「昨日、口だけは戻ったから」
「口だけ戻ったら十分だよ。あとは勝手にくっつく」
小宮は真鍋のデスクの端を指で二回、こつんこつんと叩いた。
「合図。今日、逃げそうになったらこれ。息ね」
「……了解」
「仕事の了解じゃなくて、生活の了解で」
真鍋は笑って、肩を回した。きし、と鳴る。身体は正直に年を言う。けれど胸の奥は、昨日から少しだけ若いままだ。若いというより、まだ空きがある。
昼休み、引き出しのマウスピースをもう一度握る。
冷たい。現実だ。現実だから、扱える。
真鍋は信号待ちで、ひとりでこつん、と胸を叩いた。合図。
息を吸って吐いて、短く言う。
「……まだ、鳴る」
それだけで、今夜も十分だと思えた。




