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短編集  作者: 科上悠羽
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『空中の一センチ』

 地下二階のオフィスは、時計の針まで蛍光灯色だ。窓はない。代わりに、換気扇が「外の気配」を薄く運んでくる。私の仕事はデータを整えること。整えた数字が、誰かの売上になったり、誰かの安心になったりするらしいけど、私の一日はたいてい椅子の上で丸くなる。視線は下へ、指先は小さく、呼吸は浅く。


 ある日、コピー機の前で腰を伸ばしたとき、背中が「もう無理」と言った。言ったのに、私は「はいはい」と返した。返事だけは上手い。


「千景さん、今日も肩、鉄板?」

 同僚の羽田が、マグカップを振って笑う。

「鉄板。焼ける。ジュウって」

「じゃ、油さしとく?」

「油の代わりに休みがほしい」

「それは会社の品切れ」


 羽田はさらっと言って、紙切れを私の机に置いた。チラシだ。


《夜のからだ解放教室 初心者歓迎 高いところにのぼります(安全確保あり)》


「……高いところ?」

「そう。体育館のやつ。空中の布で、ぐるぐるするらしい」

「布で?」

「布で。蜘蛛みたいになる」

「私、蜘蛛嫌いなんだけど」

「じゃ、蝶で」

「急に可愛くするな」

「可愛くしないと、行かない顔してる」


 私は笑った。笑ったのに、胸の奥がふっと熱くなる。チラシの一文が、変に刺さったからだ。高いところにのぼります。安全確保あり。


 帰り際、非常階段の扉を押し開けると、上の階から冷たい風が降りてきた。扉の上の小さな窓から、薄い夕焼けの色が見えた。私は反射で顔を上げて、すぐ首を引っ込めた。

 上を見ると、天井が近いことに気づいてしまう。近い天井は、私の「こんなもん」の境界線だった。


 その夜、電車でスマホを開いた。予約画面を見て、閉じて、また開いて、閉じた。予約ボタンが、まるで「押せば人生が変わる」みたいな顔をしている。そんなわけないのに。


 家に着いて、冷蔵庫を開けて、何もない棚を眺めた。光だけが白くて、私の顔がやたらはっきり見える。

「……なにしてんの」

 自分に言って、返事がないのが悔しい。


 次の瞬間、指が勝手に予約を確定していた。

 確定の通知が出たあと、心臓が遅れて騒ぎ始める。いつも逆だ。怖いときほど、体が先に決めてしまう。


 そのまま落ち着けず、寝る前に部屋の電球を替えようと踏み台に乗った。天井を見上げる練習、という名目で。

 結果、踏み台の上で「うわ、怖い」と小声を漏らし、結局スマホのライトで照らして誤魔化した。

 練習って、だいたいこういうところから始まる。格好悪い。だから続く。



 体育館は、夜でもよく響いた。床のワックスの匂い、遠くのバスケットボールの弾む音、受付の人の「こんばんは」が、やけに元気だ。

 私は持ち物のタオルを握りつぶしながら、更衣室へ逃げ込んだ。鏡の前の自分は、運動部どころか帰宅部のまま大人になった顔をしている。髪はきれいに結べていない。肩は上がっている。目は「帰りたい」を言っている。


 スタジオに入ると、天井から二本の長い布が垂れていた。鮮やかな色。柔らかく揺れて、存在感だけが軽い。

「こんばんは。はじめて?」

 声をかけてきたのは、インストラクターのりょうさんだった。髪は短く、目がよく笑う。笑うのに、背中がまっすぐで、立っているだけで「落ちない」感じがする。


「……はじめてです」

「よし。今日は“のぼる”まで。飛ばない。落ちない」

「飛ばないんですか」

「飛ばない。飛ぶのは、慣れてから。今日はまず、上を見る練習」


 上を見る。簡単な言葉なのに、私の首が固くなる。

 涼さんは私の視線の癖を一秒で見抜いて、床のラインを指でなぞった。

「普段、下を見る仕事?」

「……はい。ずっと」

「下を見るのが得意なら、上は伸びしろ。得意って、逃げ道にもなるからね」

「逃げ道……」

「うん。逃げるのが上手い人ほど、飛ぶのも上手い。方向が変わるだけ」


 意味が分からないのに、妙に救われる。涼さんの言い方は、重くないのに芯がある。


 準備運動が始まった。肩回し、足首回し、体側伸ばし。私は左と右を間違えて、隣の人と同時に逆方向へねじれた。

「すみません」

 反射で謝ると、涼さんが即座に言う。

「謝らない。今のは“確認”です。身体の地図を描いてるだけ」

 隣の参加者がくすっと笑った。三十代くらいの男性。名札には《きょう、のぼる》と書いてある。

「俺も逆だった。地図、迷子」

「地図迷子……」

「手汗も迷子。裏切らない」

 その言葉が、妙に救いだった。私は嘘をつくのが上手い。笑ってごまかすのも、平気の顔を貼るのも。だけど手汗は、正直だ。正直は面倒だけど、正直は進む。


 涼さんがハーネスを確認しながら言った。

「怖かったら、言って。怖いは、恥じゃない。合図だから」

「合図」

「うん。合図が出たら、手順で進む。手順があれば、欲しい方に行ける」


 欲しい方。胸の奥が、また小さく熱を持つ。

 私には、ずっと隠してきた欲しいものがある。誰にも言わない、言っても意味がないと思ってきた、鋭い欲。


 軽く、空を歩きたい。


 そんなの、子どもみたいで笑われる。だから黙って、数字の行間にしまってきた。

 でもその欲は、しまっても尖ったまま残る。たまに自分を刺す。刺されたくないから、さらにしまう。悪循環。


「まず、足。布を踏む。指をかける。ゆっくり」

 涼さんが手を添える。手は熱くない。落ち着いている。

 私は布を掴んだ。布は想像よりざらっとして、手のひらが「つかんだ」と分かる。分かると安心する。

 つかんだ瞬間、急に思う。私はずっと、何かを掴みたいだけだったのかもしれない、と。


「目線、上」

「……上」

「そう。天井じゃなくて、布の先。自分が行きたい方」


 私は息を吸って吐いた。布の先を見る。見ると、怖い。でも、見ると、体が少し起きる。

 右足で布を踏み、左足で巻き、腕で引く。たったそれだけの動きなのに、脳が大騒ぎする。

 いつも座っている私は、こんなに自分の体を持て余していたのか。


 一段、のぼれた。

 たった一段。床から二十センチくらい。

 なのに、世界が少し違う。足の裏がマットじゃない。空気だ。


「今の、いい」

 涼さんが言う。

「……これ、めちゃくちゃ怖いです」

「いいね。怖いのに、手が離れてない」

「離したら死ぬから」

「死なない。落ちても、マットがいる。あと、ここに私がいる」


 そう言われて、初めて気づく。私は「落ちたら終わり」と思い込んでいた。落ちたら恥。落ちたら負け。落ちたら、もう二度と上を見られない。

 でも、落ちても終わらない。終わらないなら、もう一段だけ行ける。


「次。二十センチ、追加」

「二十センチって言い方、現実的すぎる」

「現実があると、怖さが減る。さ、呼吸」


 私は呼吸した。浅いのをやめて、少し深く。

 その瞬間、背中の鉄板が一枚だけ外れた気がした。


 二段目。

 視界が少し広い。体育館の隅の自販機、床のライン、誰かの笑い声。全部が下にある。

 下にあるのに、怖くない。

 怖いのは、下じゃなくて「ここまで来た私」が信じられないことだった。


「欲しいって、言っていい?」

 私がぽろっと言うと、涼さんが笑った。

「いいよ。欲は悪じゃない。刃物みたいに見えるだけ。使い方が分からないと刺さる」

「……じゃあ、使い方」

「食べるみたいに使う。ちょっとずつ。噛んで、飲み込んで、力にする」

 その比喩が妙で、私は笑った。笑うと、肩が落ちる。肩が落ちると、腕が少し軽くなる。



 休憩で水を飲んでいると、《きょう、のぼる》さんが名札を見せてきた。

「千景さんは、何て書いたの?」

「……『口』」

「口?」

「口しか残ってない気がして」

「残ってるなら勝ち。口があると合図が出る」

「勝ち負けやめてください」

「勝ち負けにすると動ける人、いるでしょ」

 図星で、私は笑った。


 後半は、最後の練習だった。

 涼さんが言う。

「今日はね、落ちないけど、“浮く”をやる」

「浮く?」

「うん。ほんの一センチ。布に預ける練習」


 布を抱え、体を少し後ろへ倒す。ハーネスが支える。支えられているのに、私の頭は「無理!」と叫ぶ。

 叫ぶ頭を無視して、涼さんが数える。

「いち、に、さん」


 さん、で私は体重を布に預けた。

 たった一センチ。足の裏が完全に離れたわけじゃない。それでも、確かに“浮いた”。

 心臓が跳ねて、笑いが漏れる。


「……いま、浮きました」

「浮いた」

「ちょっとだけ」

「ちょっとでいい。ちょっとが、明日につながる」


 涼さんは続けた。

「もう一個だけ。今日の締め。怖いまま、動く練習」

 布を巻き、腕を伸ばし、体を少しだけ下へ滑らせる。落ちるんじゃない。滑る。制御された小さい落下。

「合図、出して」

「怖いです」

「よし」

 よし、って言われると、怖さが“異常”じゃなくなる。


 私は息を吸って吐いて、指をゆっくり離した。

 布が体を受け止め、身体がすっと下へ移動する。

 一瞬だけ、胃がふわっと浮いた。ふわっと。ほんとに一瞬。

 それでも、世界の角が丸くなる。


 床に降りたとき、涼さんが小さく拍手した。周りもつられて拍手した。派手じゃない、持ち帰れる拍手。

「今の、飛びかけた」

「飛んでないです。滑っただけ」

「うん。でも、気持ちは飛んだ顔してる」


 私は汗だくで笑った。汗は嘘をつかない。息も嘘をつかない。

 嘘をつかないものが増えると、生活は少しだけ軽くなる。


 帰り際、涼さんが言った。

「次も来る?」

 私は反射で「たぶん」と言いかけて止まった。たぶんは、私の逃げ道だ。

「来ます」

「いいね。じゃあ次は、三十センチ増やそう」

「また現実的」

「現実で飛ぶの。夢は、現実の上でしか続かないから」



 体育館を出ると、夜風が汗を冷やした。冷たいのに気持ちいい。私はいつもなら足早に駅へ向かうのに、その日は体育館の前のベンチに一度座った。座って、天井の代わりに本物の空を探した。


 街灯が明るくて、星は薄い。でも、雲の切れ目だけが少し深い色をしている。私はその深い色を見上げて、首が痛くならないことに驚いた。痛いのは首じゃなく、決めつけだったのかもしれない。


 スマホが震えた。羽田からだ。

『生きてる? 今日の鉄板、溶けた?』

 私は迷って、でも逃げ道の少ない返事を打った。

『一枚だけ外れた。汗のぶんだけ』

 送信すると、胸が少しだけ軽くなる。言葉を出すと、身体も少し出る。


 駅へ向かう途中、コンビニで牛乳を買った。帰ったら何か作ろう、と思ったからだ。作ると言っても大げさなものじゃない。味噌を溶いて、豆腐を入れて、卵を落とすだけ。それでも“自分のために湯を沸かす”って、今日の私には立派なイベントだった。


 電車の窓に映った自分は、汗で前髪が変な方向を向いていた。最悪に格好悪いのに、目だけは少し起きている。私はその顔に、内心で小さく親指を立てた。


 帰宅して、いつものように冷蔵庫を開けた。光は白い。棚は空っぽ。

 でも今日は、空っぽが嫌じゃない。空っぽは、入れる場所だと思えたから。


 私はスマホのメモに一行だけ書いた。


《上を見る。怖くても、手は離さない》


 それから、床に転がっていたチラシを、きれいに折って引き出しにしまった。

 隠すためじゃない。次に取り出すためだ。


 翌朝、地下二階のオフィスで背中がまた「もう無理」と言った。

 私は小さく笑って返した。

「はいはい。でも、昨夜は一センチ浮いた」


 昼休み、非常階段の扉を押し開ける。

 上の階の窓から、空が細長く見える。ビルに切り取られた、ちょっとだけの青。

 私は首を上げて、空を見た。昨日より少し長く。

 空は何も言わない。でも、何も言わないものは、責めもしない。


 羽田が後ろから言った。

「千景さん、なにしてんの。上、見て」

「……伸びしろ、確認」

「真面目か」

「真面目じゃないと、怖くて飛べない」

「飛ぶの?」

「飛ばない。まだ。……でも、のぼる」


 誰にも聞こえないくらい小さな声で、私は最後に付け足した。

「ちょっとずつ」


 それで十分だった。

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