『欲しいのは、順番じゃない』
地域センターの体育室は、夕方になると床のワックスが甘く匂う。子ども向けの「昔あそびの日」の後片づけで、僕は雑巾を引きずりながら、自分の心臓の音を数えていた。数えるのは得意だ。数えると、言わなきゃいけないことが遠のくから。
今日のメインは、二列に分かれて向かい合う、あの昔の遊びだった。誰かを“欲しい”って言って、反対側が相談して、最後はじゃんけんで決める。勝った方が連れていける。負けた方は悔しい顔をして、次の瞬間には笑う。
子どもは上手い。悔しさを、次の笑いに薄く塗って前へ進む。
大人になると、あの遊びが急に鋭く見える。欲しいのに言えない。欲しいって言ったら、嫌われそうで。だから歌に紛れて、みんなの声に混ぜて、誰にも責任がないふりをする。最後は運に任せる。じゃんけんに委ねれば、負けた方も“仕方ない”で済むから。
今日は、参加者の人数が一人だけ合わなかった。列の端で余った僕は、スタッフだからといって当然みたいに、子どもたちの輪の中へ押し込まれた。大人が混ざると、子どもたちは妙に燃える。僕が“欲しい枠”になると、声が一段大きくなる。
「こっち、ほしい!」
「だめ、あっちのほうがいい!」
僕は笑って受け流しながら、胸の奥が少しだけ痛かった。欲しいと言われているのに、選ばれる理由が僕じゃないと分かるから。選ばれるのは“役”で、僕本人じゃない。
最後に、背の小さい男の子が真っ赤な顔で言った。
「ぼく、あのひとがいい」
指さされたのは僕じゃなくて、芽衣さんだった。
芽衣さんは一瞬固まり、それから腰を落として男の子と目線を合わせた。
「どうして?」
男の子は唇を噛んで、やっと言った。
「……さっき、ころんだとき、みてくれたから」
芽衣さんが笑った。上手に笑おうとしてない、現場の笑い。
「そっか。じゃあ、欲しいって言えたの、えらいね」
男の子は照れたように頷いて、でも次の瞬間、反対側の列の女の子が泣き出した。
「やだ。わたしも、めいさんがいい」
泣きながら言えたのに、周りの子が「でもルールだから」と囁いてしまう。便利な言葉が、誰かの“やだ”を薄くする瞬間だった。
芽衣さんは、泣いている女の子の前に膝をついて言った。
「ルールってね、守るためにあるけど、苦しくなったら直していいんだよ」
子どもたちはきょとんとした。僕もきょとんとした。直していい、なんて、最近聞いていない言葉だった。
それでも最後は、子どもたちが自分たちで相談して、じゃんけんをせずに決めた。二人で芽衣さんと手をつなぐ、という案で。女の子が泣き止み、男の子が胸を張った。
その光景が、僕の胸の奥に刺さった。刺さるのに痛いだけじゃない。羨ましい、が混ざっていた。
「蒼太くん、そこで止まると濡れるよ」
段ボールを抱えた芽衣さんが、後片づけの僕に笑いながら言った。笑い方が、いつも“現場”だ。だから人が集まる。今日も子どもと保護者とスタッフが、彼女の周りに自然に寄ってきて、気づけば僕は端で雑巾係になっている。
嫌じゃない。むしろ助かる。端は安全だ。真ん中は、怖い。
「濡れても乾くよ」僕は返したつもりだった。
「そういうとこ。今も“つもり”で喋ってる」
芽衣さんは段ボールを置いて、僕の雑巾をひょいと踏んだ。逃げ場を塞ぐみたいに。
「ねえ、今日の最後のあれ、見た?」
「見たよ」僕は言った。「最後、泣いたね」
「泣いた。でも言えた」芽衣さんは肩をすくめた。「“嫌だ”って言えたのに、周りが“でも”って押しちゃう。ああいうの、苦手」
胸の奥が、ちくっとした。苦手、を言えるのが羨ましい。僕は苦手を、いつも上手に飲み込む。
「でもさ」芽衣さんは続けた。「あの子、最後に言ったよ。『ほんとは、運まかせじゃなくて、話したかった』って」
僕は雑巾を握り直した。指先が冷たい。冷たいのに、顔が熱い。
「……えらいね」
「えらいよ。だから大人が真似しなきゃだめ」
芽衣さんは、まっすぐ僕を見る。逃げられない目だ。
僕が芽衣さんのことを好きなのは、たぶん、彼女のせいじゃない。僕のせいだ。僕が勝手に、彼女の“まっすぐ”に救われて、勝手に欲しくなって、勝手に怖くなっている。
欲しい、と言うと重い。奪うみたいで嫌だ。でも、欲しい、以外に適切な言葉が見つからない夜がある。
「蒼太くん」芽衣さんが言った。「今日さ、みんな頑張った。で、頑張った日は、甘いものが必要」
「急に生活の話になった」
「生活が本題。ほら、近くのファミレス、まだ開いてる。スタッフの打ち上げ……の、残り」
「残り?」
「みんなはもう解散した。残ったの、私とあなた」
言い方が、ずるい。残った、って言われると、残ったことに意味があるみたいに聞こえる。意味があるのに、意味を出すのが怖い。
僕は雑巾をバケツに放り込んで、頷いた。
「……行きます」
「よし。じゃ、鍵閉めて。あなた、鍵係ね」
「また端に追いやった」
「端じゃない。出口。ちゃんと一緒に出るってこと」
*
ファミレスは、夜の照明がやけに優しい。昼の胃袋を眠らせて、夜の本音だけ起こす温度。僕はドリンクバーの前で迷った。コーヒーか、紅茶か。迷っている間に芽衣さんが炭酸を取ってきた。氷が鳴る。鳴る音が、呼吸の代わりみたいに響く。
「ねえ」席につくなり芽衣さんが言った。「今日の遊び、覚えてる?」
「覚えてるよ。嫌でも」
「嫌でも、って言うのやめて。嫌なら嫌って言っていい」
「……それ、僕に言ってる?」
「うん」芽衣さんは笑った。「あなた、今日一日、ずっと“平気”の顔してた。平気って顔、便利だよね。便利すぎて、こっちが困る」
困る。芽衣さんが困るときは、だいたい人が黙っているときだ。僕が黙ると、彼女の現場が止まる。
「僕は……」と言いかけて、止まった。言葉が詰まる。詰まると、また“つもり”になる。
芽衣さんがテーブルを指で二回、こつんこつんと叩いた。
「合図。いま、つもり禁止」
「……ずるい」
「ずるいのは、ルールのせいにすること」
その返しが、今日の体育室の話と繋がって、僕は笑いそうになった。笑うと逃げる。だから、笑わずに息をした。
「僕、あの遊びが苦手だった」僕は言った。
「へえ」
「欲しいって言うのが、怖くて。言ったら、嫌われる気がして」
「嫌われた?」
「……嫌われなかった。けど、選ばれない時もあった」
「当たり前じゃん」
「当たり前なのに、僕はそれで“自分の価値”まで下がる気がした」
芽衣さんは黙ってソファにもたれ、ストローを噛んだ。噛む癖がある人は、考えている。考えている沈黙は、怖くない。
「蒼太くんさ」芽衣さんが言った。「選ばれなかったら、価値がない、って思う?」
「……思っちゃう時がある」
「じゃあさ」芽衣さんはストローを置いた。「今日はそれ、取り調べね」
取り調べ。僕は思わず吹き出した。
「なんで急に刑事」
「あなた、証拠集めが得意そうだから。自分に不利な証拠ばっか集めてるでしょ」
「……否定できない」
「じゃあ、逆の証拠を出して。三つ」
三つ。数なら出せる。僕は、頭の中の引き出しを開けた。うまくいった日、誰かが笑った日、助かった日。小さいのなら、ある。
「今日、片づけ、全部やった」
「うん。現場が助かった」
「子どもが泣いたとき、僕、タオル持って走った」
「うん。すぐ動けた」
「……芽衣さんが段ボール落としそうになったとき、支えた」
「うん」芽衣さんが笑う。「それ、私が見てた」
僕はそこで、喉の奥が熱くなった。見てた、が嬉しい。見てたのに、今まで言われなかったことが、悔しい。
「ほら」芽衣さんが言う。「価値、あるじゃん」
「……あるのかな」
「あるよ。で、次の取り調べ。あなたの“欲しい”は、誰に向いてる?」
来た。これが本丸だ。
僕は炭酸を飲んだ。喉が刺される。刺されると、余計な飾りが落ちる。
「芽衣さんに向いてる」
言えた。言った瞬間、心臓が騒いだ。ファミレスのBGMが急に遠い。皿の擦れる音がやけに大きい。隣の席の笑い声が、別の世界みたいに聞こえる。
芽衣さんは、驚いた顔をしたあと、すぐに目を細めた。
「……やっと言った」
「やっと、って」
「だって、分かりやすかったよ。あなた、私の前だと“平気の顔”の精度が落ちる」
「褒めてない」
「褒めてる。生活の精度が落ちると、本音が出るから」
僕はまた謝りそうになった。重くしてごめん、と。困らせてごめん、と。けど、芽衣さんがまたこつんこつんと叩いた。
「謝らない。ここは“欲しい”の話をする席」
「……欲しいって言うの、重い」
「重いのはいい。持てるサイズにすれば」
芽衣さんはストローを指で回しながら、言った。
「私ね、選ばれたい人がいる。ずっと」
僕の心臓が一段跳ねた。
「それ、誰」
「じゃんけんで決めないでいい?」
「……いい」
「じゃあ言うね」芽衣さんは息を吸って吐いた。「蒼太くんが欲しい」
欲しい、という言葉が、こんなに柔らかいとは知らなかった。奪う音じゃない。隣に置く音だ。
僕は息を吐いて、笑ってしまった。逃げ笑いじゃない。やっと呼吸できた笑い。
「……じゃあ、僕も言う。僕は芽衣さんが欲しい」
「うん。言えた」
「言えた。で、次のルール」
「ルール好きだね」
「必要。僕、怖くなると黙るから」
「知ってる」芽衣さんが笑う。「じゃあ合図。あなたが黙りそうになったら、私が机を二回叩く。私が強がりそうになったら、あなたが二回叩く」
「二回、ね」
「二回。三回にすると、ふざけるから」
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。体育室の床の匂いがまだ鼻の奥に残っている。僕らは駅までの近道の、小さな公園を通った。ブランコが暗い。砂場が静か。昼の子どもたちの声が、嘘みたいに消えている。
芽衣さんが急に立ち止まって、僕の袖をつまんだ。
「ねえ、ここで一個だけ確認」
「取り調べ、続き?」
「続き。……手、握っていい?」
質問が小さくて、だから助かった。僕は頷いて、手を差し出した。
芽衣さんの指は温かかった。握り返すとき、僕の中に“強く握れば逃げない”という乱暴な考えが一瞬だけ浮かんで、すぐに消した。強さで繋ぐのは、怖い。壊れるのも早い。
僕は代わりに、力を抜いたまま、指を絡めた。絡めると、逃げにくいのに痛くない。
「……やさしい握り方」
「今、手加減の練習中」
「手加減って言い方、好き」
「褒めてない」
「褒めてる」
芽衣さんが小さく笑って、僕の手の甲を指で二回こつんこつんと叩いた。
「合図、もう一回。今日は言えた日」
僕も同じように、彼女の手の甲を二回叩いた。
「うん。言えた日」
駅の改札で別れる前、芽衣さんが言った。
「じゃあ、次はじゃんけん禁止」
「禁止?」
「うん。本気のときは、手を出す前に言う」
「……了解」
「それ、生活の了解?」
「生活の了解」
僕は笑って、手を振った。手を振るのは、逃げじゃない。今日は続きがあるから。
胸の奥で、子どものころの歌が遠くで鳴った気がした。勝ち負けの歌じゃなくて、言えなかった子の声の方。
あの声に、今日は少しだけ返事ができた気がした。
それで十分だった。
*
翌朝、目覚ましより少し早く目が覚めた。胸が騒がしいままなのに、不思議と嫌じゃない。昨日の公園の砂の匂いと、炭酸の喉の痛さと、指先の温度が、まだ残っている。
スマホを見ると、芽衣さんから短いメッセージが来ていた。
『昨日の“手加減”、合格。次は十五分じゃなくて二十五分でもいい?』
僕は一瞬だけ笑って、それから“つもり”をやめた。短く返す。
『いい。二十五分で足りなければ、また増やそう。じゃんけんは使わない』
送信ボタンを押したあと、指先が軽い。言葉を先に出すと、体も少し前に出るらしい。
出勤途中、駅のホームで小学生の集団がじゃんけんをしていた。勝った子が得意げに笑い、負けた子がすぐに次の手を出す。軽い。羨ましいくらい軽い。
僕はポケットの中で指を二回、こつんこつんと鳴らした。自分への合図。今日も“欲しい”を小さく早めに出す日。
欲しいのは、順番じゃない。
欲しいのは、ちゃんと声にする勇気だ。
それだけを持って、僕は改札を抜けた。




