『ひと噛み分のオフライン』
午前五時、店のシャッターの前でスマホが震えた。通知の音は小さいのに、心臓には大音量で入ってくる。
開いてしまったのは、癖だ。寝ぼけた指先は、危険なボタンほど正確に押す。
匿名の投稿。短い文。笑ってる絵文字。
内容は、たいしたことじゃない……はずだった。味が薄いだの、店主が感じ悪いだの、どこにでも転がっている罵り。なのに、僕の目だけがそこに釘づけになる。
釘づけになった瞬間から、世界が一段、ざらついた。
「……うわ」
口から漏れた声が、自分でも情けない。
僕はラーメン屋の店主だ。仕込みは毎日同じ、火加減も手順も同じ。なのに、画面の中の数行だけが、手順を壊す。
頭の中に勝手な字幕が流れる。
(誰だ)
(常連の誰か?)
(昨日の、ネギを増やしたいって言ってた人?)
(あの、麺の硬さで揉めた人?)
字幕は便利だ。犯人がいると思えば、腹が立てられる。腹が立てられれば、怖さが薄まる。
けれど、字幕は次の瞬間に僕を刺す。
(もしかして、本当かも)
(味が落ちた?)
(自分が鈍くなった?)
僕はシャッターを開けた。ガラガラ、という音が、いつもよりうるさい。
厨房に入って、寸胴の蓋を開ける。湯気が顔に当たる。匂いはいつも通り。いつも通りなのに、僕の鼻が疑いを混ぜる。
この匂い、昨日より薄い?
そんなわけない。火も水も同じだ。
同じなのに、僕の頭は「同じだ」と信じない。
開店準備の途中、アルバイトの琴音が来た。大学生。髪を結びながら「おはよーっす」と言う、朝が強い人だ。
「店長、顔が夜勤」
「夜勤じゃない」
「夜勤の顔。寝てない顔」
「……寝てない」
「なにしたの」
琴音はレジ横のチラシを整えながら、さらっと聞く。さらっとが刺さる日もある。
「変なレビュー見た」
「レビュー? また?」
「また、って言うな」
「だって、月に一回くらいあるじゃん。そういう日」
琴音は悪気なく言う。悪気がない言葉ほど、腹に残る。
「気にしない方がいいよ」
「分かってる」
「分かってない顔」
琴音は冷蔵庫を開けて、卵を取り出した。カゴの中でころころ鳴る。
「店長さ、評価って“点”で見ちゃうタイプだよね。五か一しかない」
「そんなこと」
「ある。私、バイト初日に言われたもん。“ミスはゼロに”って」
言われた覚えがある。言った覚えもある。胸がちくりとした。
開店。
最初の客が入ってきた。いつもの通勤前のサラリーマン。二番目は近所の奥さん。三番目は、初めて見る若い男。
初めて見る、というだけで、僕の疑い虫が起きる。
虫は、勝手に脚を伸ばして、僕の喉に絡む。
男がカウンターに座った。スマホを伏せた。伏せた手が早い。
……こいつか?
僕の頭の字幕が勝手に太字になる。
僕は湯切りをしながら、目線だけで相手を測った。測って、疲れた。測るのは、味見よりしんどい。
ラーメンを出す。
「どうぞ」
声が硬い。自分で分かる。
男はひと口すすって、眉を上げた。
「うま」
その一言で、僕の胸が少しだけほどけた。
ほどけたのに、次にすぐ疑いが来る。
うまいって言って油断させて、あとで書くのか?
最悪の脳内脚本だ。
昼のピークが落ちた頃、常連の荒木さんが入ってきた。七十近いはずなのに声がでかい。でかい人は、たいてい優しい。
「おー、今日は顔が固いぞ。どうした、食中毒でも出したか」
「出してません」
「出してないなら出してない顔しろ」
荒木さんは笑って、いつもの席に座る。
「味は?」
「いつも通りです」
「“いつも通り”は危ない言葉だ。いつも通りって言った瞬間、下がる時がある」
でかいのに鋭い。僕は苦笑した。
「じゃあ、どう言えば」
「“今日も作った”って言え。毎日作ってるのがえらい」
毎日作ってるのがえらい。
その言葉が、妙に胃に落ちた。点数じゃなくて、手触りの褒め方だ。
閉店後、僕はスマホを見ないまま、暖簾を外した。見ない、は勝利じゃなくて保留だ。保留は息ができる。
片づけを終えた琴音が言う。
「店長、洗濯行く?」
「洗濯?」
「うちの店の裏のコインランドリー、今日“深夜割”なんだって」
「知らない」
「知らないのに、いつも知らない顔で生きてるじゃん」
今日の琴音はやけに刺してくる。刺してくるくせに、目が笑っている。
「レビューの毒、落としてきなよ。洗剤あるし」
「心が汚れもの扱い」
「扱い。汚れものは悪じゃない。洗えば戻る」
僕は笑ってしまった。洗えば戻る。単純で、だから強い。
そして僕は、なぜか店のエプロンを外さずにランドリーへ行った。外すと、戻れなくなる気がしたからだ。変な話だ。
*
ランドリーは、夜でも明るかった。回転するドラムの窓が、無言の映画みたいに光る。
琴音が洗濯機に小銭を入れ、僕の方を見て言った。
「さ、頭のデフラグ」
「何それ」
「ぐちゃぐちゃのやつを、いったん回す」
「回すだけで?」
「回すだけで。ほら、勝手に回ってるの、気持ちいいでしょ」
確かに、勝手に回っている。
僕はその回転を眺めて、初めて自分の呼吸が浅かったことに気づいた。
壁に、小さな掲示板があった。
《ここに“今日の一言”を置いていってください》
ペンとメモ用紙。誰かが書いた紙が何枚も刺さっている。
《寝坊したけど会社行った》
《猫に嫌われた》
《告白できなかった》
《でも、飯は食べた》
《洗濯機に靴下が吸われた(また)》
小さい。小さいのに、生きてる。
誰もここで「自分は完璧です」とは書かない。完璧は、紙に向かない。
「書く?」琴音が言う。
「何を」
「今日の一言。点数じゃなくて、事実」
僕はペンを持って、止まった。白い紙は、怖い。書いたら残るから。
でも残らない怖さも、ある。残らないと、全部消えるからだ。
僕はレシートの裏に、短く書いた。
《噂に噛まれて、味が分からなくなった》
書いて、掲示板に刺す。刺した瞬間、胸が少し軽い。
琴音が隣に紙を刺した。
《店長の顔が夜勤だった。でも、麺は勝ってた》
「勝ち負けやめろ」
「勝ち負けにすると動ける人、いるじゃん」
また刺された。けど今日は笑えた。
洗濯機が止まった。
取り出すと、温かい。温かいのが、やたら現実的だ。
僕はその温かさを抱えたまま、言った。
「レビュー、見ない方がいいのは分かってる。でも、見ちゃう」
「うん」
「見たら、犯人探しが始まる」
「うん」
「それで、味がぶれる。自分で自分を疑う」
言葉にすると、やっぱり馬鹿みたいだ。でも、馬鹿みたいだからこそ、手が出せる。
琴音が言った。
「じゃあ、ルール」
「ルール?」
「うん。見たくなったら、まず一個“作った”って言う」
「作った?」
「今日も作った。って。で、次に、実際の人に聞く。目の前の人に」
「……怖いな」
「怖いけど、そっちが本物だよ。画面は、いくらでも幽霊を増やす」
幽霊。
たしかに、画面の中の誰かは顔がない。顔がないから、僕は勝手に恐ろしくできる。
目の前の客は、麺をすすって「うま」と言う。
その一言の方が、よほど重い。よほど現実だ。
店に戻ってひとりになると、僕は結局スマホを手に取ってしまった。
強い人みたいに“断つ”はできない。ただ、手前で止める練習ならできる。
画面を開いて、親指がスクロールをしたがる。次の毒を探したがる。
僕はそこで、荒木さんの言葉を思い出した。
今日も作った。毎日作ってるのがえらい。
「……今日も作った」
厨房でひとり、声に出して言ってみる。
すると不思議なことに、指が止まった。
誰かを殴るための指じゃなくて、鍋を持つための指に戻る。
僕はスマホを伏せ、代わりにメモ帳を開いた。
《明日は、紙の感想箱を置く》
返事がほしいなら、幽霊じゃなく人に向ける。
それくらいの小さな方向転換なら、僕にもできる気がした。
*
翌日。
僕は開店前に、店の入口に小さな紙を貼った。
《ここは、点数じゃなくて、湯気で判断してください》
格好いいことを書いたつもりはない。むしろダサい。ダサいけど、今日の自分には必要だった。
カウンターの端には、小さな箱を置いた。折り紙で作った雑な箱。琴音が笑う。
「工作」
「箱です」
「箱は見れば分かる。何の箱」
「一言箱。食べ終わったら、紙に一言だけ」
「一言って、どのくらい」
「“ねぎ”でもいい」
「雑すぎる」
「雑がいい。雑の方が息が通る」
昼、常連の荒木さんが紙を入れていった。
箱を開けて見ると、でかい字で《湯気、良し》と書いてある。
小学生くらいの子は《麺がつるつる》、奥さんは《今日は背中があったまった》、サラリーマンは《午後もやる》とだけ書いていた。
誰も「最高です!」と叫ばない。だからこそ現実味がある。
そして、昨日の若い男がまた来た。
カウンターに座って、ラーメンをすすって、言った。
「昨日さ、友だちにここ勧めたんすよ。うまいって」
胸の奥が、ふっとほどけた。
犯人探しの字幕が、いったん消える。
僕は息を吸って吐いて、短く言った。
「ありがとう。今日も作った」
男が笑う。
「それ、いいっすね」
閉店後、箱の中を整理していると、一枚だけ、文字が小さすぎる紙があった。
《ごめん》
それだけ。
心臓が一瞬だけ、またカチ、と鳴る。幽霊が戻る。
でも今回は、紙の手触りがある。顔がないのに、投げつけた感じがない。
“ごめん”は、攻撃じゃなくて自白かもしれない。
僕はその紙を、すぐにゴミ箱に捨てなかった。折って、店の裏の冷蔵庫に貼った。自分への戒めじゃない。
ここにも人がいる、っていう確認のために。
夜。
僕はスマホを手に取った。レビュー欄を開きかけて、止めた。
代わりに、ランドリーの掲示板を思い出して、紙に一言だけ書いた。
《今日は、味が分かった》
それを引き出しにしまって、暖簾を畳んだ。
噂は消えない。幽霊も勝手に増える。
でも、湯気は毎日ここにある。
湯気を見て、作って、出して、誰かがすすって、笑う。
その繰り返しのほうが、僕の世界をちゃんと回している。
帰り道、僕はひと噛みサイズの酸っぱい飴を口に入れた。酸っぱくて、余計な字幕が減る。
減ったぶんだけ、息が通る。
息が通れば、明日もまた作れる。
その次の朝、またスマホが震えた。僕は一度だけ画面を見て、すぐ伏せた。内容を読む前に、厨房の電気を点ける。
寸胴の蓋を開ける。湯気が立つ。匂いが当たる。
「……今日も作る」
言ってみたら、肩が少し軽い。湯気は点数を持たない。持たないから、毎日まっすぐだ。
僕はシャッターを上げ、暖簾を掛ける。外の空気が入ってきて、店の中が少しだけ明るくなる。
噂が回っても、僕は鍋を回す。自分の手で。
入口の一言箱を見て、琴音がまた笑うだろう。荒木さんはでかい字で何か書くだろう。誰かは無言で出ていくだろう。
それでもいい。幽霊より先に、今日の湯気がここにいる。
僕は飴の残った酸っぱさを飲み込んで、開店の札を裏返した。
それが、僕のひと噛み分のオフラインだ。




