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短編集  作者: 科上悠羽
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『透明な嘘の測り方』

 最近、紗季のスマホがやたらと光る。光って、すぐ伏せられる。伏せられるたびに、僕の胸の奥に小さな針が一本ずつ刺さる。針は痛いのに、抜こうとするともっと痛い。だから僕は、刺さった本数を数えるだけで済ませる。数えるのは得意だ。数え終えると「把握した」気になれるから。


 玄関で靴を脱ぐ。キッチンから、いつもの声。


「ただいま」

「おかえり。今日、早いね」


 声は軽い。軽いのに、返事の間が一拍だけ長い。長い間は、勝手に字幕を出す。――隠しごと。――後ろめたさ。――別の誰か。

 僕は冷蔵庫を開けた。白い光で頭を冷やすため。ついでに、麦茶を飲む。喉が通ると、余計な想像が一回止まる。止まったところへ、紗季がやってきて、僕の肩に額をこつんと当てた。


「疲れた?」

「うん、ちょっと」

「じゃあ、あとで甘いの買いに行こう」


 甘いの。紗季は最近、やけに甘いものの話をする。急に優しくなるのは、罪悪感の匂いがする。そう思う自分が嫌で、僕は笑ってしまう。笑うと、疑いが薄まるふりができるから。

 紗季は僕の笑いを見て、安心したみたいに目を細めた。その目が、また刺さる。安心させたくて笑っているのに、笑うほど自分が疑っているのがバレる。矛盾のつり合いは、いつも足元がぐらつく。


 夕飯の途中で、紗季のスマホが震えた。画面の端に、見覚えのない名前が一瞬見えて、消えた。紗季は箸を置き、画面を伏せ、うっすら笑った。笑い方が、少しだけ“外向き”だ。僕に向ける笑いと、別の人に向ける笑いは、ほんの一ミリだけ角度が違う。僕はその一ミリが嫌いで、同時に得意だった。見つけるのが。


「……誰?」

 僕の声が思ったより平らで、自分でも驚いた。平らな声は、爆発の手前の静けさだ。


「え、何が」

「今の通知」

「仕事。ほんと。仕事のやつ」


 紗季はそう言って、目線を外した。嘘が下手だ。下手なのに、嘘をつく。嘘をつくのに、僕はそれを咎めない。咎めないのは優しさじゃない。壊したくないからだ。壊したくない、の中には怖さも、怠けも、愛情も、全部混ざっている。混ざっているから、味が濁る。濁った味は、飲み込むとあとで喉が渇く。


 食後、紗季はシャワーに入った。僕はリビングでテレビをつけたまま、占いアプリを開いた。二人の相性は「絶好調」。星のマークがやたら多い。星の数が多いほど信用できない、という変な癖が僕にはある。星は軽い。軽いのに、僕の胸は重い。

 占いが絶好調って言うなら、いま胸の針は何なんだ。針は占いに載らないのか。載らないなら、僕だけが悪いのか。


 翌日、紗季は「用事」とだけ言って出かけた。いつもより髪が丁寧で、口紅が少しだけ濃い。たったそれだけで、針が二本増える。僕は鍵を閉める音を聞きながら、追いかけたい衝動を飲み込んだ。追いかけたら、もう戻れない気がした。

 前に一度、戻れなくなったことがある。恋人のスマホを勝手に見て、勝手に絶望して、勝手に怒って、勝手に終わらせた。相手は泣いて「違う」と言った。でも僕は聞かなかった。聞いたら自分が悪者になるから。あのときの僕は、悪者になりたくなくて悪者を作った。

 紗季とは、同じことをしたくない。したくないのに、同じ癖が喉の奥でうずく。


 そのうずきを散らすために、僕は友だちの真矢を呼び出した。駅前の小さな喫茶店。メニューは少ないのに、椅子だけはやたら柔らかい店。


「で、顔が負けてる」真矢が言った。「何と戦ってるの」

「家の空気」

「家の空気は殴るとこじゃない」

「じゃあ、誰だよ」

「誰もいない可能性もある。勝手に幽霊増やしてない?」


 真矢はこういうときだけ、天才みたいに正しい。正しいのに腹が立つ。


「見たんだろ、通知」

「……一瞬だけ」

「で、想像した」

「……した」

「じゃあ取り調べ。証拠は?」

「ない」

「ないのに、心の中で裁判してる」

「……してる」


 真矢はコーヒーを一口飲んで、唇の端を上げた。

「君さ、壊したくないんでしょ」

「うん」

「じゃあ壊さない練習したら? 勝手に暴れそうになったら、まず“見ない券”を切る」

「見ない券?」

「うん。『今日は見ない』って自分に宣言するやつ。見ないって決めたら、追わない。追わないって決めたら、呼吸が戻る」

「それ、逃げじゃない?」

「逃げでもいい。逃げ方が上手い人は、戻り方も上手い。逃げっぱなしがダメなだけ」


 戻り方。戻る、って言葉が今の僕には欲しかった。僕は頷いて、レシートの裏に小さく書いた。


《本日の見ない券:一枚》


 真矢が肩をすくめる。

「ほら、もうちょい格好よく書けよ」

「格好よくすると守れない」

「賢い。で、守れなかったら?」

「……笑って謝る」

「謝るな。守れなかったら、次の券を切れ。券は増やしていい」


 僕は笑った。笑えたのが悔しい。悔しいのに、助かった。


 帰宅すると、テーブルの上にメモがあった。


《先にシャワー。ごはんは冷蔵庫の中のやつで》


 絵文字がひとつ。笑ってるやつ。笑ってる絵文字は、説明の代わりになる。説明の代わりになるから、僕は余計に苦しくなる。

 それでも僕は、今日の“見ない券”を切った。スマホは見ない。追わない。想像は湧いても、判決は出さない。判決は、当事者にしか出せない。


 夜九時過ぎ、紗季が帰ってきた。玄関のドアが開く音が、いつもよりうるさい。僕の胸の針が、まとめて揺れる。


「ただいま」

「おかえり」


 僕はキッチンで味噌汁を温め直しながら言った。背中のまま話すのは、臆病の姿勢だと知っているのに。

 紗季はコートを脱ぎ、ソファに沈んで、スマホを机に置いた。置き方がいつもより乱暴だ。乱暴は、余裕がない合図だ。


「ねえ」

 紗季が言った。

「なに」

「今日、機嫌悪い?」


 機嫌。便利な言葉だ。疑いも怖さも、全部ひっくるめて「機嫌」にしてしまえば、責められるのは空気だけで済む。


「悪くない」僕は言った。「ただ……」


 ただ、で止まった。言葉が喉の前で固まる。固まると、紗季はいつも先に進める。今日は、進められたくなかった。


 僕は引き出しから、料理用の小さな計量スプーンを出して、テーブルに置いた。銀色がやけに真面目だ。ついでに、真矢と書いた“見ない券”のレシートも並べた。見せびらかすみたいで恥ずかしいけれど、隠すよりましだ。


「何それ」紗季が笑う。

「測るやつ」

「料理?」

「……気持ち」


 言ってしまって、恥ずかしくなった。気持ちを測るなんて、ダサすぎる。でも、ダサいまま出したほうが、本当っぽい時がある。


 紗季は笑いを引っ込めて、椅子に座った。

「じゃあ測って。私の何を」

「今日の“用事”」

「……」

「誰と会ってたの」


 紗季は一拍置いてから、わざとらしく肩をすくめた。

「母」

「母は、そんなに笑える通知送ってくる?」

「送ってくる」

「送ってこないだろ」


 僕が言うと、紗季は観念したみたいに唇を噛んだ。嘘の賞味期限が切れる顔だ。

「……分かる嘘って、嫌い?」

「嫌いじゃない。むしろ……」

「むしろ?」

「分かる嘘だと、僕が選べるから。信じるふりをするか、止めるか」


 紗季は目を丸くして、次に笑った。笑いは小さくて、でも逃げてない。

「変な人」

「君も」

「私は、嘘が下手なだけ」

「下手なのに、つくの?」

「……つく。だって、言えないときあるじゃん。サプライズとか」


 サプライズ。そう言われた瞬間、僕の針が一本抜けた。抜けたところに、別の痛みが来る。安堵と恥ずかしさの混ざった痛み。


「……サプライズ?」

「うん。あなた、来月、誕生日でしょ」

「覚えてたんだ」

「忘れるわけないじゃん」


 紗季は鞄から小さな封筒を出した。中にはチケットが二枚。文字はよく見ないようにした。見たら終わる気がしたから。僕はそこで、自分がとんでもなく面倒くさい人間だと再確認した。


「これ、今日リハしてきた」紗季が言う。「友だちと。私、舞台の読み合わせに出ることになって」

「舞台?」

「うん。会社の人に誘われて。……怖くて、あなたに言えなくて。変に隠して、変に嘘ついた」

「通知の名前は?」

「演出の人。連絡、マメでさ。絵文字も多い。……腹立つよね」

「腹立つ」僕は即答してしまって、紗季が吹き出した。

「そこ即答なんだ」


 紗季は深く息を吐いた。

「ごめん。あなたが疑うって分かってたのに、やった」

「疑う僕も、悪い」

「悪くない。……でも、放置しないで」


 放置しないで。短いのに、重い。僕は頷いて、計量スプーンを指で弾いた。ちいさじ一の文字が光る。僕の不安は、だいたいちいさじ一で済むのに、勝手に大さじ三くらいに膨らむ。


「じゃあ、ルール作ろう」僕は言った。

「ルール?」

「うん。嘘をつくなら、分かる嘘にする。分かる嘘は、ゲームにする」

「ゲーム?」

「ただし、ゲームは合図で止める。痛くなったら止める」


 紗季がテーブルを二回、こつんこつんと叩いた。

「これ?」

「そう。それ。二回で“止める”。一回で“続けていい”」

「逆じゃなくて?」

「逆だと、僕が調子に乗る」

「それは当たってる」


 紗季が笑って、僕の指先を握った。力は強くない。強くないのが、ありがたい。

 僕はそこで、もう一つだけ言葉を出したかった。針の本数じゃなく、手の温度のほうを選ぶために。


「ねえ」僕は言った。「僕、追いかけるのが怖い」

「うん」

「追いかけたら、君が悪者になる気がして」

「私が悪者になるんじゃない」紗季は静かに言った。「あなたが、勝手に裁判官になるのが怖い」

「……ごめん」

「謝らない」紗季はテーブルを二回叩いてから、今度は一回だけ叩き足した。「止める、じゃなくて、続ける。話、続ける」


 紗季は続けて言った。

「私も選びたい。頼られるふりじゃなくて、頼るって言える日」

「……頼って」

「うん。じゃ、今頼る」紗季は封筒を少しだけ持ち上げた。「これ、あなたの前で開けるの、怖い。反応が怖い」

「僕の反応?」

「そう。喜んでくれるか、冷めるか。……私、そういうの、勝手に怖がる」


 僕は息を吸って吐いて、短く言った。

「嬉しい。今の時点で、嬉しい」

 紗季の肩が、ふっと落ちた。落ちた肩は、本物の息の形だ。


 味噌汁の鍋が、ふつ、と小さく鳴った。生活の音が戻ってくる。戻ってくると、針は少しずつ抜ける。全部は抜けない。でも抜けない針は、これから刺さらない場所に置ける。


 食後、僕らは「分かる嘘ゲーム」をした。

 紗季が真顔で言う。「今日、宇宙人に会った」。僕が言う。「じゃあ僕は火星で迷子になった」。互いに首をかしげながら、どこまでが“分かる嘘”で、どこからが“痛い嘘”になるのか、線を探る。線は毎回ずれる。ずれるのが生き物だ。

 笑いながら、僕は思った。僕らは嘘が欲しいんじゃない。嘘の向こうにある“本当の怖さ”を、ふたりで持てるサイズにしたいだけだ。


 ソファに沈み、テレビを点ける。画面の中の誰かが大げさに泣いている。僕らは笑った。笑いながら、僕は自分の胸の針の数を、今日は数えなかった。針より、湯気のほうが確かだったから。


 寝る前、紗季が言った。

「明日、舞台のこと、ちゃんと話す。隠さない」

「うん。僕も、疑ったら黙らない」

「合図、二回?」

「二回」

「よし」


 電気を消す直前、紗季が僕の肩に額をこつんと当てた。

「ねえ。壊したくないって、優しさだけじゃないよね」

「うん。怖さも混ざってる」

「怖さ、出していこ」

「うん。ちいさじ一ずつ」


 こつん、と心の中で合図が鳴って、僕はやっと眠れた。


 翌朝、僕は珍しく目覚ましより先に起きた。台所で湯を沸かす音の向こうから、紗季の小さな声が聞こえる。スマホに向かって、台詞を練習しているらしい。

「え、ちがうよ。……いや、だから、その、仕事で……」

 言い訳の言葉が転がって、途中で笑いに変わる。自分の嘘の下手さに、自分で吹き出してる。僕はその笑いを聞いて、胸の針が一本、ちゃんと抜けるのを感じた。


 僕は冷蔵庫の扉に、昨夜のレシートを磁石で留めた。『見ない券:一枚』の文字。

「それ、なに?」と紗季が寝癖のまま覗き込む。

「保険」

「保険?」

「疑いが暴れたら、券を切る。切ったら、ちゃんと話す。……逃げるためじゃなく、戻るため」

 紗季は少しだけ目を丸くして、頷いた。

「じゃあ私も貼る」

 紗季はメモに書いた。《分かる嘘は、笑って言う》。貼って、僕の肩にこつん。

「はい。今日も、つり合い確認」

 僕は麦茶じゃなく、温かい白湯を一口飲んで返した。

「確認。……今日も作るよ。ふたりの分」

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