『今夜だけ、同じチーム』
乾杯の音は、だいたい嘘だ。グラスがぶつかる瞬間だけ世界が仲良しで、その次の一口から、各自の人生が戻ってくる。
金曜の居酒屋。照明は優しく、席は狭く、声はやけに大きい。拓海は笑いながら、胃の奥で小さく舌打ちしていた。自分に、だ。
同僚たちは盛り上がっている。恋人の話、推しの話、旅行の話。輪の外にいるわけじゃないのに、拓海だけが薄いガラス越しに見ている気分になる。誰も悪くない。悪くないのに、置いていかれる感じだけが残る。
「拓海くん、飲んでる?」
隣に座った瑞希が、目だけ笑って聞く。今日の主役みたいな明るさで、でも距離は一ミリも寄せない。近づかれる前に、もう境界線が置いてある。
「飲んでる。……飲んでるけど、追いつかない」
「追いつかなくていいよ。追い越すのも禁止」
「禁止って何」
「勢いで変なこと言う顔してるから」
刺すのが上手い。刺して、血が出ないところで止めるのも上手い。
拓海はここ一ヶ月、瑞希に妙に目が行く。行くのに、話しかけると必ず自分が重くなる。軽くしたくて冗談を言うと、冗談が滑ってさらに重い。
だから今夜は決めていた。落ち着いて、普通に、スマートに。……と、頭の中の“理想の自分”が言う。
理想の自分は、酒場ではだいたい行方不明だ。
「いやー、でもさあ」
向かいの恭平が、うどんみたいに伸びた声で言った。顔が赤い。つまり本音が出るモード。
「拓海、お前さ、ほんと『いいやつ』なんだけどさ」
「悪口の前振りやめろ」
「悪口じゃない。アドバイス。ネチネチすると嫌われる」
瑞希が吹き出した。拓海も苦笑した。恭平のその台詞、実は一昨日も言われたばかりだ。拓海が「俺、どうしたらモテる?」って愚痴った時に。
「俺、ネチネチしてる?」
「してる。目が。『ねえ、俺のことどう思う?』って目してる」
「目で会話するのやめろ」
「目が先に喋る人、いるよね」
瑞希がさらっと被せてくる。逃げ道がない。だから笑うしかない。
笑いが起きる。周りの笑い声は、拓海の胸に刺さらない。刺さるのは、自分の中の焦りだけだ。
焦りはいつも、こう言う。
(いま言わなきゃ、取られる)
(いま押さなきゃ、終わる)
押す、って言葉がもう危ない。自分でも分かるのに、勢いに頼りたくなる。勢いは早い。早いから、考えなくて済む。考えなくて済むぶん、あとで自分が嫌いになる。
「ねえ瑞希、二軒目――」
「行かない」
言い切りが速い。拓海の言葉が形になる前に、先に切られる。
「え、まだ何も言ってない」
「行くなら行くって顔だった」
「顔で会話するのやめて」
「顔が先に喋る人、いるよね」
瑞希がまた言う。今度は優しい声で。拓海は胸の奥がきゅっとなる。優しいほど、止められない気がしてしまう。
会が終わり、店の前で夜風に当たった。誰かがタクシーを呼び、誰かが「また来週」と言って散っていく。街はネオンのくせに、やけに現実的な冷たさがある。
拓海は瑞希の横に並んで、口を開いた。
「じゃ、せめて駅まで――」
「今日は、ひとりで帰りたい」
瑞希は靴先で小さな砂利を蹴って言った。強い拒否じゃないのに、拒否がはっきりしている。
拓海の中の焦りが、暴れかける。ここで“理由”を聞いたら負け、みたいな変な勝負が始まりそうになる。
そしてもう一つ、別の悪癖が顔を出す。金で埋めようとする癖。タクシー代を出すとか、飲み代を多めに払うとか、「俺はちゃんとしてる」を財布で証明するやつ。
拓海は財布を触りかけて、やめた。
息を吸って吐く。
「分かった。……送らない」
言えたことに自分が驚く。送らない、は負けじゃない。たぶん。
たぶん、を口に出しそうになって、やめた。
瑞希が一瞬だけ目を丸くした。
「……ありがとう」
「何に?」
「止まったこと。止まらない人、多いから」
その言葉が、拓海の胃をぎゅっと掴む。自分が“止まれない側”に寄りかけていたのを、見透かされたみたいで。
瑞希は踵を返しかけて、また戻った。ポケットから小さな紙を出して、折って、拓海に差し出す。
「これ、よかったら」
「何これ」
「店の出口に箱あったでしょ。『一言置いてって』って。私、書きそこねたから」
見れば、レシートの裏だった。角がくしゃっとしている。文字は小さい。
《今日は、うまく笑えなかった》
拓海の胸が、変な熱でいっぱいになる。瑞希が“守り”の人だと思っていたのに、守りの下に柔らかい部分があるのが見えたからだ。
拓海は自分のポケットを探した。くしゃくしゃのレシートが一枚。彼も普段、捨てない。何かの証拠を残したいタイプだ。
「……じゃあ、俺も」
拓海はレシートの裏に、短く書いた。
《今日は、押しそうになった》
書いてから、しまったと思う。重い。露骨。最悪。
でも瑞希は笑わなかった。レシートを受け取って、指でなぞって、息を吐いた。
「正直だね」
「正直っていうか……自白」
「自白、好き。言葉が短いから」
瑞希は肩をすくめる。
「ねえ、十五分だけ歩かない? 駅までじゃなくて、コンビニまで。十五分なら、ひとりじゃなくても耐えられる」
耐えられる、という言い方が瑞希らしくて、拓海は笑ってしまった。
「耐えるって何だよ」
「人間関係、たまに耐久テスト」
「テスト嫌い」
「じゃあ合格だけ取りに行こ」
ふたりは歩き出した。街灯の下、道路の白線がやけにまっすぐだ。まっすぐが、今夜は眩しい。
「さっきさ」瑞希が言う。「二軒目って言いかけたでしょ」
「言いかけた。ごめん」
「謝らないで。……ただ、怖かった」
「何が」
「勢いの人。勢いで距離詰める人。私、そういうのに慣れてない」
瑞希は言葉を探して、結局笑った。
「慣れてないっていうか、慣れたくない」
拓海は頷いた。頷いた後、言葉を選ぶのに時間がかかった。時間がかかると、余計な脚本が生まれるから嫌だった。
だから、短く言う。
「俺も、勢いが怖い」
「え」
「勢いに頼ると、あとで自分が嫌いになる。だから止まった。……止まり方、まだ下手だけど」
瑞希は少しだけ目を細めた。
「止まったの、見た。偉い」
「偉いって言うな」
「言う。偉いは偉い」
コンビニの前で、ふたりは同時に立ち止まった。自動ドアが開いて、甘いパンの匂いが流れてくる。
瑞希が言う。
「ねえ。ここで“同じチーム”ってことでいい?」
「チーム?」
「うん。今夜だけ。恋人とか、そういう大げさなのは要らない。まず、同じ側に立つ。相手を敵にしない」
拓海はその言葉で、胸の針が一本抜けるのを感じた。恋の勝負じゃなく、味方でいられるなら、焦りは少しだけ小さくできる。
「いい」拓海は言った。「今夜だけ、同じチーム」
「よし」
瑞希は自分の指で、コンビニの壁を二回、こつんこつんと叩いた。
「合図。これ。私が怖くなったら二回。拓海くんが押したくなったら二回」
「二回ね」
「二回。三回はふざけるから禁止」
ふたりは店に入って、アイスを選んだ。瑞希は苺、拓海はレモン。酸っぱい方が、余計な言葉を削ってくれる気がした。
会計を終えて外に出ると、夜風が少しだけ優しい。ベンチに座って、アイスの蓋を開けた。
「こういうの、久しぶり」瑞希が言う。
「アイス?」
「夜に誰かと、ただ座るの」
「……俺も」
「え」
「誰かと、ただ座るの。いつも、目的作っちゃうから」
「目的の人」
「目的の人だな」
「じゃあ、目的禁止。今夜は」
拓海はアイスを一口食べて、舌がきゅっとなる。酸っぱさで、胸の熱が少し整理される。
そのとき、ベンチの向かいのゲームセンターが目に入った。ピカピカの看板の下に、証明写真機とプリクラ機が並んでいる。盛る、盛らない、選べるやつだ。
瑞希が言った。
「……あれ、撮らない?」
「え、いきなり?」
「いきなりじゃない。チームの証拠」瑞希は言って、アイスの棒で機械を指す。「盛りゼロで」
「盛りゼロ?」
「うん。加工ゼロ。現実の顔で撮る。今日の“正直”を残す」
拓海は笑いそうになった。ダサい。ダサいのに、効く。ダサいほど忘れない。
機械の前に立つと、画面が眩しい。『美肌』『小顔』『目の大きさ』のスライダーが並び、瑞希は迷いなく全部を最小にした。
「これで、裸」
「裸って言い方やめろ」
「心の裸。顔は普通に服着てる」
「ややこしい」
シャッターのカウントが始まる。三、二、一。拓海はいつもの“平気の顔”を貼ろうとして失敗し、瑞希は笑いそうで笑わない顔になった。
プリントが出てくる。そこには、妙に疲れた二人が写っていた。目だけが必死で、口元がまだ追いついていない。
「……最悪」拓海が言う。
「最悪、最高」瑞希が言った。「これ、嘘ついてない」
「嘘ついてない顔、こんなか」
「こんな。だから安心する」
瑞希は写真を半分に切って、拓海に一枚渡した。
「持ってて。今日の“止まれた”の証拠」
「君は?」
「私は“笑えなかった”の証拠」
証拠が、やけに生活っぽい。裁判じゃなくて、明日の自分に見せるメモみたいだ。
拓海はレシートの裏をもう一度見て、言った。
「瑞希、これ、箱に入れに行こう」
「うん」
「ふたり分、置いて帰る。……証拠にしたい」
「証拠?」
「今日、止まれたって証拠。今日、笑えなかったって証拠。どっちも、悪くないって証拠」
瑞希は頷いて、アイスの棒を見つめた。
「ねえ、もう一個だけ。今のうちに聞いていい?」
「うん」
「拓海くん、恋って“奪う”みたいな言い方、嫌い?」
心臓が跳ねた。瑞希がそんな言葉を出すのが意外だった。
「嫌い。……奪うって、相手を物にするみたいで」
「だよね」
瑞希は笑って、でも少し真面目に言った。
「私も嫌い。でも、時々、奪われたい日がある。自分の弱さを、誰かに持っていかれたい日」
拓海は息を吸って吐いて、短く返した。
「持っていくんじゃなくて、持つ。置いていっていい」
瑞希の目が、少しだけ柔らかくなった。
「……それ、好き」
好き、が出た。出たのに、世界は崩れない。ベンチも壊れない。コンビニの看板も普通に光っている。
拓海は謝りそうになって、慌てて壁を二回こつんこつんと叩いた。自分への合図。
「いま、謝りそうだった」
「よし、止まった」
「止まった。……俺も、さっきの“それ、好き”が好き」
「ややこしい」
「ややこしいのが人間」
ふたりは笑って、コンビニの入口の横にある箱へ向かった。『一言置いてってください』と手書きの札。ペンが一本、紐で繋がれている。
拓海は自分のレシートと瑞希のレシートを、重ねて折った。折ると、二枚が一枚みたいになる。紙は簡単にひとつになる。人は、そう簡単じゃない。だからこそ、今夜は紙の真似をしていい。
箱に入れる直前、瑞希が小さく言った。
「今日さ、うまく笑えなかったけど、いまは笑えてる」
「うん」
「チームのおかげ」
拓海は頷く。
「俺も。チームのおかげで、押さずに済んだ」
紙が箱の中に落ちる音は、驚くほど軽かった。
駅へ向かう道の途中で、瑞希が言った。
「また、十五分、できる?」
「できる」
「今度は、勢いじゃなくて」
「手順で」
「うん。手順で、近づく」
拓海は頷いた。頷きながら、胸の奥の焦りが、さっきより静かになっているのに気づいた。欲しいのは相手じゃなく、相手と同じ側に立てる自分だったのかもしれない。
改札の前で、瑞希が手を振った。
「じゃ、今日はここまで。同じチーム解散」
「解散」
「でも、次の試合予約ね」
「試合って言うな」
「言う。勝ち負けじゃなくて、参加する方の」
瑞希が改札を抜けていく背中を見ながら、拓海はポケットの中の写真を指でなぞった。加工ゼロの二人の顔。疲れてるのに、逃げてない顔。
帰り道、拓海はひとりで小さく呟いた。
「今夜は、押さなかった。置けた」
それだけで、胸の中の世界は、ちゃんと二人分の広さになっていた。




