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短編集  作者: 科上悠羽
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『道徳ハンマー貸出中』

 朝の改札で、僕は今日一つ目の“便利”を使った。

「すみません、ちょっと急いでて」

 急いでいるのは本当だ。けれど、急いでいる理由の半分は僕の寝坊だ。つまり“すみません”は相手に向けたようで、自分への言い訳の包み紙でもある。


 会社に着く。エレベーターの鏡に映る顔は、よく出来た無害な仮面だった。口角はほんのり、目は丁寧、眉は「問題ありません」。

 問題は、ある。胸の奥に、毎日ちいさく積み上がっている。小銭みたいに。


「おはよう、みなみくん。昨日の件、どう?」

 課長の声に、僕の口が自動で動く。

「順調です。今日中に整えます」

 順調、という単語は万能だ。順調なら怒られない。順調なら心配されない。順調なら、自分の疲れも存在しなかったことにできる。


 けれどその日の僕は、やけに“余計なこと”ばかり覚えていた。

 誰かのため息。コピー機の詰まり。隣の席の人が「了解」を二回言った癖。昼の弁当の唐揚げが一つ小さかったこと。

 どうでもいいのに、どうでもいいほど腹の底に残る。常識ってやつは、どの棚にしまってあるんだろう。僕の脳内倉庫には、代わりに「気にしなくていい」が山積みだ。


 午後、チャットが鳴った。取引先の担当からだ。

『先ほどの数字、合ってます?』

 心臓が一拍遅れる。合っている。はず。僕は確認し直す。合っている。なのに指が止まる。相手の文末の「?」が、疑いに見える。

(責められてる?)

(いや、ただ確認だろ)

(でも、いつもより早い返信じゃない?)

 疑い癖は、芽が出ると増殖が速い。僕は自分で自分を追い詰めるのが得意だ。ついでに、自分以外の誰かも、勝手に怪しく見えてくる。


 帰り道、駅のホームで同期の真矢まやに捕まった。

「おい、顔。今日も“無害”すぎる。逆にこわい」

「褒めてないよね」

「褒めてない。ねえ、今日、寄ってく?」

「寄ってく、ってどこ」

「“取り調べ喫茶”。新しくできた。君にぴったり」

「名前が嫌」

「名前が嫌なほど効く」


 僕は断ろうとして、やめた。断る理由を組み立てるのが面倒だったからじゃない。組み立てた瞬間、今日も順調の仮面が完成してしまう気がしたからだ。



 その店は、路地の奥にあった。看板は小さく、文字はでかい。

《取り調べ喫茶 道徳ハンマー貸出中》

 ハンマー? 何を叩くんだ。


 入ると、カウンターの上に小さな木槌が三つ並んでいた。裁判所のあれの、ミニチュア版。

 壁には手書きの注意書き。

《お願い:相手を叩かない/自分の言い訳だけ叩く/叩いたら水を飲む》

 水を飲む、が急に生活っぽくて、少し笑えた。


「いらっしゃい。初めて?」

 マスターは白シャツにエプロン。目が笑っているのに、姿勢がやけに正しい。

「…はい」

「じゃあルール。ここでは“でも”と“たぶん”を三回使ったら、ハンマーが鳴ります」

「鳴るんですか」

「鳴らすんです。自分で」

 横を見ると、すでに誰かがこつん、と小槌を叩いていた。音が軽くて、笑いに近い。


 席は二種類あった。壁に鏡が付いた“向かい合わせ席”と、普通の席。鏡席の前には、カードが三枚置いてある。

《今日、覚えてしまったくだらないことは?》

《今日、忘れたふりをしたことは?》

《今日、誰を疑った?(自分含む)》

 いや、詰めが早い。


 真矢は迷いなく鏡の前を指さした。

「君、あそこ。鏡に勝て」

「勝ち負けでやるな」

「勝ち負けで動ける人、いるでしょ」

 図星で、僕は黙った。黙ると真矢が小槌を指で弾いた。こつん。

「はい、黙り逃げ一回」


 マスターがメニューを置く。飲み物の名前が変だ。

《弱音の紅茶》《言い訳ラテ》《現実の水》《胃に効く炭酸》

「…弱音の紅茶、ください」

「いいね。今日の体調は?」

「普通です」

 マスターが目を細めた。

「“普通”も便利だね。もう一回、別の言い方」

 僕は息を吸って吐いた。

「…ちょっとだるいです」

「はい、採用。だるいのは事実だから」


 真矢が笑う。

「ほら。たったそれだけで、顔が人間」

「うるさい」


 隣の席の女性が、くすっと笑った。年齢は分からない。ここでは聞かないルールらしい。名札に《りお》とだけ書いてある。

「すみません、聞こえちゃって。『だるい』って言えるの、うらやましい」

「言えたの、今日が初めてかもしれません」

「じゃあ初勝利ですね」

「勝ち負けやめてください」

 りおさんは指で小槌をちょいと触って、にやっとした。

「勝ち負けにすると動ける人、いるでしょ」


 真矢と同じことを言う人がいる。世界は思ったよりしつこい。僕は笑ってしまった。


「鏡席、やってみる?」と、りおさん。

「…やります」

 僕はカードを一枚引いた。最初の質問だ。


《今日、覚えてしまったくだらないことは?》

 僕は鏡の中の自分に答える。

「唐揚げが小さかった。課長が“落ち着いて”って言った。コピー機の紙詰まりが三回目だった」

 言ってみると、くだらなさがちゃんとくだらなく見えた。胸に居座っていたのは、出来事じゃなく“溜め方”だったらしい。


 二枚目。

《今日、忘れたふりをしたことは?》

「…しんどいってこと。あと、確認したいのに怖くて言えないこと」

 言った瞬間、喉が熱くなる。照れではなく、引っかかりが外れる熱だ。


 三枚目。

《今日、誰を疑った?(自分含む)》

 僕は少し黙った。黙ってしまう癖が出る。逃げる前に、机の端を二回、こつんこつん。真矢の真似。自分への合図。

「取引先の人。あと、自分。…自分が信用できない」

 鏡の中の僕の眉が、ほんの少しだけ寄った。寄ったのに、崩れなかった。


 マスターが後ろから言った。

「疑うのは悪じゃないよ。疑いを“刃”にすると痛い。疑いを“確認”にすると役に立つ」

 りおさんが頷く。

「私も疑い癖あります。で、勝手に落ち込む。落ち込む前に水を飲むと、ちょっと戻る」

 マスターが紙コップを差し出してくる。

「ほら、現実の水」


 僕は飲んだ。水はすごい。嘘をつかない。


「最初の取り調べ、次にいこう」マスターが紙とペンを出した。

「今日ついた“透明な嘘”を書いて。嘘っていうと悪そうだけど、ここでは“滑りを良くする言葉”ね」

「透明な嘘…」

「そう。自分にも相手にも、なんとなく都合がいいやつ」


 僕は書き始めた。

・順調です

・大丈夫です

・覚えてます(覚えてない)

・気にしてません(気にしてる)

・今度行きましょう(行かない)

・疲れてません(疲れてる)


 書いているうちに、笑えてきた。僕は毎日、よくこんなに小さな包装紙を量産している。包装紙が上手いと、人生の角が丸くなる。丸くなりすぎると、自分の輪郭まで消える。


「次」マスターが言う。「その嘘、誰を守った?」

 僕はペン先を止めた。守った? 守ったのは相手じゃなく、僕の居場所だ。僕が“面倒じゃない人”でいられる場所。

「…自分です」

「いいね。じゃあ次。嘘の代わりに置ける“一行の事実”を考える」

 真矢が口を挟む。

「南、得意だぞ。一行なら逃げ道混ぜにくい」


 僕は紙の端に書いた。

《今日は少し疲れてます》

《確認に五分ください》

《今は答えを急がないでほしい》

《そこ、まだ分かってません》


 マスターが頷いた。

「最高。派手に生まれ変わらなくていい。昨日より一ミリ、言い方を変えるだけで、呼吸は戻る」

 りおさんが笑って付け足す。

「一ミリって言うの、いいですね。大胆じゃないのに、ちゃんと前」


 僕はつい言ってしまった。

「…でも、これくらいでいいのかな」

 カウンターの小槌が、こつん、と鳴った。自分で鳴らした覚えがないのに、真矢が僕の前に小槌を置いていた。

「はい、でも一回」

「貸出中」

 マスターも笑う。

「“これくらいで”って、ちょうど良い言葉だよ。ただ、逃げにすると戻れない。確認にすると進める」


 鏡に自分が映っていた。いつもの無害な仮面。けれど今は、眉間に少しだけ“本音の皺”がある。皺があるのに、怖くない。皺は、生きてる線だ。


 真矢が僕の紙を覗き込み、にやっとした。

「で? 一番言いたいのはどれ」

「…『確認に五分ください』」

「なんで?」

「疑い癖が出ると、相手を勝手に悪者にしそうになる。だから、先に時間を取って、頭の中の裁判を止めたい」

「おお、自己認知」

 真矢は小槌を掲げた。

「道徳ハンマー、貸す?」

「貸されるものなの?」

「貸される。自分が暴走しそうになったら、机を二回叩く。合図」

 マスターがにこっとする。

「いいね。うちのハンマー、叩く相手は自分だけ。人を叩く道具じゃない」


 りおさんが立ち上がる前に、僕に言った。

「南さん、明日もし疑いが暴れたら、ひとつだけ弱音を言ってください」

「弱音?」

「うん。『今日はちょっと重い』。それだけ。言えたら、十分。言えなかったら、また水」

 それが妙に現実的で、僕は頷いた。



 店を出ると、夜風が冷たかった。冷たいのに、胸の奥は少し軽い。軽いのは、疑いが消えたからじゃない。疑いの扱い方に、持ち手が付いたからだ。

 世の中の波は、明日も容赦なく押してくる。それでも、こちらの手元に道具が一つ増えるだけで、立ち方は変わる。


 帰りの電車で、取引先からまたメッセージが来た。

『すみません、明日の朝会までに共有できます?』

 僕の心臓が反射で跳ねる。いつもの僕なら、すぐ「もちろんです」と打つ。順調の仮面を貼る。

 指が動きかけて止まった。テーブルを叩く代わりに、スマホの端を指で二回、こつんこつん。

 僕は呼吸して、打った。


『確認に5分ください。見直してから共有します』


 送信。たったそれだけ。たったそれだけなのに、胸の針が一本抜けたみたいだった。


 翌朝。課長がまた聞く。

「南くん、昨日の件、朝会でいける?」

 僕は一瞬だけ“順調”を掴みかけて、手を離した。小槌の代わりに、机の下で指を二回叩く。

「確認に五分ください。今、整え直してます」

 課長が目を丸くする。怒られると思って心臓が跳ねる。跳ねたのに、課長は頷いた。

「了解。じゃ五分後に」

 それだけ。世界は意外と壊れない。


 席に戻ると、真矢からメッセージが来ていた。

『ハンマー、効いた?』

 僕は短く返した。

『効いた。波はあるけど、持ち手ができた』


 昼休み、僕はコンビニのレジで、店員さんに「袋は大丈夫ですか」と聞かれた。いつもなら「大丈夫です」と即答するところを、今日は一ミリだけ止めた。

「…今日は、袋ください」

 それだけで、世界が少しだけ現実になった。大丈夫の万能薬を一回、使わなかっただけ。


 帰宅途中、電車が妙に揺れて、腰が「やめとけ」と言った。こういう時こそ僕は、無意味に強がる。

(平気、平気)

 口に出しかけて、やめた。りおさんの「弱音は一つだけ」を思い出す。スマホを開いて、真矢に送った。


『今日はちょっと重い。なので水飲んでる』


 返事は秒で来た。

『えらい。重い日は重いって言え。軽くしようとすんな』


 えらい、は好きじゃない言葉なのに、今日は胃に落ちた。重い日は重い。そう認めるだけで、肩の荷物が一個、床に降りる。床に降りた荷物は、明日また持ち上げればいい。今夜は置いていい。


 家に着くと、僕は冷蔵庫を開けなかった。代わりに水を沸かして、カップに注いだ。湯気は、点数を持たない。湯気は、今日の僕を責めない。

 カップを両手で包んで、玄関の小さな鏡の前に立つ。自分と向かい合う距離は、ほんの三十センチ。


「…今日も、まあまあやった」

 声に出すと、嘘みたいに聞こえる。でも嘘じゃない。嘘にしないために、今日の一行をメモに書いた。


《都合のいい言葉より、先に呼吸》


 明日、また波は来る。疑い癖も戻る。体が重い日もある。

 それでも、僕は小槌を持っている。叩く相手は自分だけ。二回で止める。水を飲む。

 そして、派手じゃなくても、ちゃんと進む。

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