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短編集  作者: 科上悠羽
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『こつんこつんで戻る』

 ここ最近、家の中の“置き場所”がずれている。リモコンはソファの右肘じゃなくて左側。歯ブラシのコップは洗面台の端じゃなくて真ん中。冷蔵庫のケチャップは、いつの間にかドアポケットの二段目に引っ越していた。

 たぶん、全部どうでもいい。


 どうでもいいのに、僕はそれを見つけるたびに、胸の奥で小さく「カチ」と鳴らしてしまう。鳴らした瞬間から、今日の僕は“嫌な人”モードになる。自覚があるから余計に嫌だ。


 きっかけは、たぶん僕の外側にある。

 今週だけ、仕事が妙に詰まっていた。締切が重なり、チャットは鳴りっぱなしで、上司は「急ぎで」を口癖みたいに貼り付けてくる。しかも“急ぎ”のくせに仕様は揺れる。揺れる仕様を整えるのが僕の役目で、整えた瞬間にまた揺れるから、僕の心も揺れる。

 昼休み、同僚が「すごいね、落ち着いてる」と言った。落ち着いてるんじゃない。固まってるだけだ。固まった氷が透明なみたいに、僕の顔も透明にしておけば誰も触らない。触られないのは安全で、でも息が詰まる。


 帰り道、電車の窓に映った自分の眉が、ずっと尖っていた。

 その尖りを持ち帰ってしまうと、家の中の一ミリが全部“攻撃”に見える。リモコンの位置が、誰かに押されたみたいに感じる。ケチャップの段が、僕の存在を否定したみたいに感じる。そんなわけないのに。


 僕は一度、スマホで“相性”とか“倦怠期”とか検索してしまった。検索欄に打った瞬間、人生が安っぽい診断コーナーに落ちた気がして、すぐ閉じた。閉じたのに、胸のカチは残る。消えないなら、僕は別のことで消そうとする。冷蔵庫を開けるとか、余計な動画を見るとか、レシートを集めるとか。

 逃げ方だけは上手い。



「ねえ、どこ見てんの」

 夕飯のあと、千紘が皿を運びながら言った。

「見てない」

「見てる。眉が“見てる眉”」

 千紘は僕の顔を読むのが上手い。上手いから、僕は隠すのも上手くなる。最悪の相性の良さだと思う。


 僕らは同棲三年目。仲が悪いわけじゃない。むしろ仲はいい、はずだ。会話もある。笑いもある。映画も観る。たまに手もつなぐ。

 なのに、生活の端っこで、ほんの一ミリずつズレる。ズレると、僕はその一ミリを拡大して、頭の中で裁判を始める。被告は千紘。検事は僕。裁判長も僕。陪審員まで僕。

 ひとり芝居が過ぎる。


「今日さ」千紘が言った。「なんかピリピリしてない?」

「してない」

「してる。してないって言うの、だいたいしてる時」

 ぐうの音も出ない。僕は湯呑みを持って口をつけた。ぬるいお茶が喉を通る。通ったのに、胸のカチは消えない。


 千紘はテーブルの上のレシートの山を見て、笑った。

「それ、また集めてるの?」

「家計簿のため」

「家計簿って言う割に、書いてないよね」

「書くつもり」

「つもり禁止」

 千紘はさらっと言って、キッチンの引き出しからタイマーを取り出した。卵を茹でるときに使う、小さなやつ。

「はい。二十分」

「なにが」

「話す時間」

「今から?」

「今から。今日のズレ、今日のうちに戻す」

 戻す、という単語が僕の胸に刺さった。僕はずっと“戻し方”を探していたのに、見つけた途端に怖くなる。戻したら、今まで黙っていたものが全部出てきそうだからだ。


「……二十分で足りる?」

 僕が聞くと、千紘は肩をすくめた。

「足りなかったら、明日また二十分。大丈夫。人生みたいに一回で決めない」

「人生、よく出てくるね」

「あなたが勝手に“最終回”に飛びたがるから。今日は予告編でいい」


 タイマーがピッと鳴って、二十分が始まってしまった。逃げ場がなくなると、僕の喉はすぐ乾く。乾くと、言葉が固くなる。固くなると、また余計なことを言いそうで怖い。


「先に言うね」

 千紘が言った。

「今日、私、あなたにイラッとした」

「……うん」

「“うん”だけ?」

「うんは、受け止めるうん」

「じゃあ続き。あなたが帰ってきた瞬間の顔が、もう怒ってた。私は何もしてないのに」

 千紘は淡々と言う。淡々がいちばん刺さる。

「怒ってない」って言いかけて、やめた。今日は“してない”を減らす日だ。


「……ごめん。怒ってない、じゃなくて」

 僕は息を吸って吐いて、言った。

「不安だった。理由は分からないのに」

「うん」

「で、不安を、不機嫌に変える癖がある」

「知ってる」千紘は頷いた。「癖って言えるなら、扱える」

「扱う?」

「ほら、調理器具みたいに。危ないからしまう、じゃなくて、火加減を覚える」


 千紘は紙とペンを出した。なぜか、今日だけやたら段取りがいい。

「ふたり用の取扱説明書、作ろ」

「取扱説明書?」

「うん。人間って説明書ないと壊れるでしょ」

「壊れる前提やめて」

「壊れたら直す前提。生活はメンテ」

 軽い言い方なのに、ちゃんと続ける覚悟が見える。僕は笑いそうになって、笑わずに頷いた。メンテ、という単語が妙に助かった。恋や愛より軽くて、でも逃げじゃない。


 千紘は紙に大きく書いた。

《ズレに気づいたら、相手を犯人にしない》

「それ、僕に向けてる?」

「半分ね。私も、あなたを“怖い人”にしてる時あるから」

 千紘は続けて書いた。

《疑いが出たら、まず水》

「水?」

「うん。喉が渇いてると、言葉が尖る。水飲んでから言う」

 僕は思わず笑った。

「すごい生活」

「生活が強い」


 僕もペンを取って書いた。

《小さいことで責めたくなったら、先に“自分がしんどい”と言う》

 書いてから、恥ずかしくなった。しんどい、なんて、今まで言わないようにしてきた言葉だから。言うと弱い気がして。弱いと嫌われる気がして。

 千紘は僕の字を見て、目を細めた。

「それ、いい。しんどいは武器じゃない。武器にすると自分も切れる」


 紙の上の説明書は、どんどん増える。

《相性診断禁止》

《“つもり”禁止》

《靴下を脱いだら、洗濯カゴへ(これはあなた)》

《歯磨き粉のキャップを閉める(これは私)》

 生活の細かさが、妙に笑える。笑えると、胸のカチが減る。減ると、また笑える。循環が戻る。


 そして最後に、千紘が提案した。

《謝りそうになったら、二回こつん》

 テーブルを指で二回叩く合図。

「あなた、すぐ謝って終わらせるでしょ。謝るのは悪くないけど、謝って逃げるのが嫌」

「……逃げてた」

「うん。逃げてた」


 タイマーが半分を過ぎた頃、千紘がふいに言った。

「ねえ。今日、リモコンの位置、変えたの私」

「知ってる。というか、見てた」

「見てたのに、なんで言わなかったの」

「言うと、僕が小さい人間だってバレるから」

「もうバレてる」

 千紘は笑った。笑いが刺さらない。刺さらない笑いは、救命具だ。

「小さいなら、小さいなりに言えばいいじゃん。『あれ、いつも右じゃなかった?』って」

「それだけ?」

「それだけ。責める声じゃなく、確認の声で」

 それだけ、が妙に眩しい。僕は今まで、ひとことを十行にして自爆してきた。言えないと溜めて、溜めたら爆ぜて、爆ぜたら後悔する。自分で自分を殴って、相手まで痛くする。


「じゃあ、今言う」

 僕は言った。

「リモコン、右がいい」

「了解。戻す」

 千紘が即答して、僕は拍子抜けした。拍子抜けするほど簡単なことを、僕は何日も握りしめていたらしい。


 千紘は続けた。

「代わりに、私のお願い」

「うん」

「帰ってきたら、最初に一回だけ、目を見て『ただいま』って言って」

「……言ってるよ」

「言ってるけど、目が別のところ」

 また刺さる。刺さるのに、納得してしまう。

「目を見て、って、そんなに大事?」

「大事。顔を合わせると、心が戻る。戻ると、ズレが増えない」


 タイマーがピピッと鳴った。二十分が終わる。

 僕らは紙を見下ろした。ふたり用の取扱説明書は、びっくりするくらい生活の文字ばかりだ。水。リモコン。目を見る。こつんこつん。相性診断禁止。

 それでも、胸の奥のカチが減っているのが分かる。消えたわけじゃない。減った。減るだけで十分だ。


「ねえ」千紘が言った。「最後に一個だけ」

「なに」

「あなたさ、私のこと好き?」

 直球が飛んできて、僕は一瞬固まった。取扱説明書に載ってない質問だ。載ってないからこそ本体だ。

 僕は逃げ笑いをしそうになって、机を二回こつんこつんと叩いた。合図。自分で自分を止める。


「好きだよ」

 言えた。シンプルに言えた。

 千紘の肩が、ふっと落ちた。落ちる肩は、本物の安心の形だ。


「じゃあ私も」千紘が言った。「好き。だからズレたら直す。直すの、ふたりでやる」

「……うん」

「その“うん”は好き」

「生活のうんです」

「よし」



 千紘が「おかえり」を言ったあと、僕らはそのまま寝ると思ったのに、千紘が靴下を履き直した。

「コンビニ、行こ」

「今から?」

「今から。水が足りない。あと、甘いの」

 甘いの、に少し救われた。生活の会話は、難しい言葉を必要としない。


 夜のコンビニは明るすぎて、僕らの顔がはっきり映る。千紘はレモン味の飴を、僕はプリンを選んだ。甘さの好みが合っていないのに、一緒に食べるとちょうどいいのが不思議だ。

 レジを出たところで、千紘が紙袋をぶらぶらさせながら言った。

「ねえ。さっき“相性診断禁止”って書いたでしょ」

「うん」

「本当は、あなたが見てたの、分かってた」

 僕は足を止めた。

「……見てた」

「見てたなら言って。怖いなら怖いって言って。こつんこつんしてもいい」

 千紘は自分の指で、街灯の柱を二回叩いた。木でも机でもないのに、ちゃんと合図の音がする。


 僕は紙袋を持ち替えて、息を吸った。

「僕ね、ほんと小さいことで君を悪者にしたくなる。たぶん、疲れてると、自分の中の嫌な部分が出る」

「うん」

「それを君のせいにすると楽だから……してしまう」

 言い切ったら、喉の奥が熱くなった。謝罪の熱じゃない。自白の熱。


 千紘は少しだけ眉を上げて、笑った。

「自白できたら、もう半分終わり」

「終わり?」

「うん。残り半分は、明日もやるだけ」


 帰り道、マンションのゴミ置き場の前で千紘が立ち止まった。

「ついでに捨てよ」

「何を」

 千紘は僕の手からレシートの束を奪って、袋に入れた。

「“証拠集め”」

「家計簿のためだって」

「家計簿は、明日から一枚ずつ。まとめて溜めると、気持ちも一緒に溜まるでしょ」

 ぐうの音も出ない。僕らは袋を結んで、投げるほどじゃない距離で、そっと置いた。置くと、不思議と胸のカチも一緒に下がった。


 部屋に戻って、プリンを半分こした。千紘がスプーンを一回だけ僕に渡し、僕が一回だけ千紘に渡す。たったそれだけの手順が、今日の僕には効く。

「ねえ」千紘が言った。

「うん」

「抱え込みそうになったら、私が先に言う。『いま、怖い』って」

「うん」

「あなたは?」

 僕は少し考えて、短く答えた。

「僕は『いま、僕が小さい』って言う」

「それ、最高にダサい」

「ダサいのがいい。ダサいなら逃げ道が混ざらない」

 千紘が笑って、僕の肩に額をこつんと当てた。言葉じゃない合図。体温だけの返事。



 その夜、僕は寝る前に、冷蔵庫のドアに説明書を貼った。マグネットで留める。白い紙が、台所の白い光に照らされる。

 千紘が横から覗き込んで、笑った。

「なにしてんの」

「メンテの予約」

「予約、偉い」

「偉いって言うな」

「言う。だって、今日ちゃんと顔を合わせた」


 僕は千紘の方を向いて、目を見て言った。

「ただいま」

「おかえり」

 その二語が、今日のズレをぴたりと戻した気がした。完璧じゃない。明日またズレる。僕はまたカチを鳴らすかもしれない。

 でも、ズレたら直す場所がある。ふたりで戻る手順がある。


 翌朝、僕はわざと少し早く帰宅した。帰宅した、というより“帰る日”を作った。仕事の急ぎは相変わらずある。でも、急ぎで壊したら意味がない。

 玄関を開けて、千紘の顔を探す。目を見て言う。


「ただいま」

 千紘が台所から顔を出して、笑った。

「おかえり。今日は目がここにいる」


 僕は思わず、息を吐いてしまった。胸のカチが鳴りそうになる前に、千紘がテーブルを二回こつんこつんと叩く。合図。

「はい、水」

 千紘がコップを差し出す。僕は飲む。水は嘘をつかない。


「で、今日のズレは?」

 千紘が聞く。

 僕は少し考えて、言った。

「……まだある。でも、今日は犯人探しじゃなくて、確認にする」

「よし。じゃ、確認の一言」

 僕は笑って、短く言った。

「ケチャップ、二段目でもいい。代わりに、僕の眉は尖らせない努力をする」

「努力じゃなくて、合図で」

「合図で」

 僕はテーブルを二回こつんこつんと叩いた。


 相性がどうとかじゃない。ふたりで“直す気があるか”だ。

 その答えが、今日も目の前にある。

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