『こつんこつんで戻る』
ここ最近、家の中の“置き場所”がずれている。リモコンはソファの右肘じゃなくて左側。歯ブラシのコップは洗面台の端じゃなくて真ん中。冷蔵庫のケチャップは、いつの間にかドアポケットの二段目に引っ越していた。
たぶん、全部どうでもいい。
どうでもいいのに、僕はそれを見つけるたびに、胸の奥で小さく「カチ」と鳴らしてしまう。鳴らした瞬間から、今日の僕は“嫌な人”モードになる。自覚があるから余計に嫌だ。
きっかけは、たぶん僕の外側にある。
今週だけ、仕事が妙に詰まっていた。締切が重なり、チャットは鳴りっぱなしで、上司は「急ぎで」を口癖みたいに貼り付けてくる。しかも“急ぎ”のくせに仕様は揺れる。揺れる仕様を整えるのが僕の役目で、整えた瞬間にまた揺れるから、僕の心も揺れる。
昼休み、同僚が「すごいね、落ち着いてる」と言った。落ち着いてるんじゃない。固まってるだけだ。固まった氷が透明なみたいに、僕の顔も透明にしておけば誰も触らない。触られないのは安全で、でも息が詰まる。
帰り道、電車の窓に映った自分の眉が、ずっと尖っていた。
その尖りを持ち帰ってしまうと、家の中の一ミリが全部“攻撃”に見える。リモコンの位置が、誰かに押されたみたいに感じる。ケチャップの段が、僕の存在を否定したみたいに感じる。そんなわけないのに。
僕は一度、スマホで“相性”とか“倦怠期”とか検索してしまった。検索欄に打った瞬間、人生が安っぽい診断コーナーに落ちた気がして、すぐ閉じた。閉じたのに、胸のカチは残る。消えないなら、僕は別のことで消そうとする。冷蔵庫を開けるとか、余計な動画を見るとか、レシートを集めるとか。
逃げ方だけは上手い。
*
「ねえ、どこ見てんの」
夕飯のあと、千紘が皿を運びながら言った。
「見てない」
「見てる。眉が“見てる眉”」
千紘は僕の顔を読むのが上手い。上手いから、僕は隠すのも上手くなる。最悪の相性の良さだと思う。
僕らは同棲三年目。仲が悪いわけじゃない。むしろ仲はいい、はずだ。会話もある。笑いもある。映画も観る。たまに手もつなぐ。
なのに、生活の端っこで、ほんの一ミリずつズレる。ズレると、僕はその一ミリを拡大して、頭の中で裁判を始める。被告は千紘。検事は僕。裁判長も僕。陪審員まで僕。
ひとり芝居が過ぎる。
「今日さ」千紘が言った。「なんかピリピリしてない?」
「してない」
「してる。してないって言うの、だいたいしてる時」
ぐうの音も出ない。僕は湯呑みを持って口をつけた。ぬるいお茶が喉を通る。通ったのに、胸のカチは消えない。
千紘はテーブルの上のレシートの山を見て、笑った。
「それ、また集めてるの?」
「家計簿のため」
「家計簿って言う割に、書いてないよね」
「書くつもり」
「つもり禁止」
千紘はさらっと言って、キッチンの引き出しからタイマーを取り出した。卵を茹でるときに使う、小さなやつ。
「はい。二十分」
「なにが」
「話す時間」
「今から?」
「今から。今日のズレ、今日のうちに戻す」
戻す、という単語が僕の胸に刺さった。僕はずっと“戻し方”を探していたのに、見つけた途端に怖くなる。戻したら、今まで黙っていたものが全部出てきそうだからだ。
「……二十分で足りる?」
僕が聞くと、千紘は肩をすくめた。
「足りなかったら、明日また二十分。大丈夫。人生みたいに一回で決めない」
「人生、よく出てくるね」
「あなたが勝手に“最終回”に飛びたがるから。今日は予告編でいい」
タイマーがピッと鳴って、二十分が始まってしまった。逃げ場がなくなると、僕の喉はすぐ乾く。乾くと、言葉が固くなる。固くなると、また余計なことを言いそうで怖い。
「先に言うね」
千紘が言った。
「今日、私、あなたにイラッとした」
「……うん」
「“うん”だけ?」
「うんは、受け止めるうん」
「じゃあ続き。あなたが帰ってきた瞬間の顔が、もう怒ってた。私は何もしてないのに」
千紘は淡々と言う。淡々がいちばん刺さる。
「怒ってない」って言いかけて、やめた。今日は“してない”を減らす日だ。
「……ごめん。怒ってない、じゃなくて」
僕は息を吸って吐いて、言った。
「不安だった。理由は分からないのに」
「うん」
「で、不安を、不機嫌に変える癖がある」
「知ってる」千紘は頷いた。「癖って言えるなら、扱える」
「扱う?」
「ほら、調理器具みたいに。危ないからしまう、じゃなくて、火加減を覚える」
千紘は紙とペンを出した。なぜか、今日だけやたら段取りがいい。
「ふたり用の取扱説明書、作ろ」
「取扱説明書?」
「うん。人間って説明書ないと壊れるでしょ」
「壊れる前提やめて」
「壊れたら直す前提。生活はメンテ」
軽い言い方なのに、ちゃんと続ける覚悟が見える。僕は笑いそうになって、笑わずに頷いた。メンテ、という単語が妙に助かった。恋や愛より軽くて、でも逃げじゃない。
千紘は紙に大きく書いた。
《ズレに気づいたら、相手を犯人にしない》
「それ、僕に向けてる?」
「半分ね。私も、あなたを“怖い人”にしてる時あるから」
千紘は続けて書いた。
《疑いが出たら、まず水》
「水?」
「うん。喉が渇いてると、言葉が尖る。水飲んでから言う」
僕は思わず笑った。
「すごい生活」
「生活が強い」
僕もペンを取って書いた。
《小さいことで責めたくなったら、先に“自分がしんどい”と言う》
書いてから、恥ずかしくなった。しんどい、なんて、今まで言わないようにしてきた言葉だから。言うと弱い気がして。弱いと嫌われる気がして。
千紘は僕の字を見て、目を細めた。
「それ、いい。しんどいは武器じゃない。武器にすると自分も切れる」
紙の上の説明書は、どんどん増える。
《相性診断禁止》
《“つもり”禁止》
《靴下を脱いだら、洗濯カゴへ(これはあなた)》
《歯磨き粉のキャップを閉める(これは私)》
生活の細かさが、妙に笑える。笑えると、胸のカチが減る。減ると、また笑える。循環が戻る。
そして最後に、千紘が提案した。
《謝りそうになったら、二回こつん》
テーブルを指で二回叩く合図。
「あなた、すぐ謝って終わらせるでしょ。謝るのは悪くないけど、謝って逃げるのが嫌」
「……逃げてた」
「うん。逃げてた」
タイマーが半分を過ぎた頃、千紘がふいに言った。
「ねえ。今日、リモコンの位置、変えたの私」
「知ってる。というか、見てた」
「見てたのに、なんで言わなかったの」
「言うと、僕が小さい人間だってバレるから」
「もうバレてる」
千紘は笑った。笑いが刺さらない。刺さらない笑いは、救命具だ。
「小さいなら、小さいなりに言えばいいじゃん。『あれ、いつも右じゃなかった?』って」
「それだけ?」
「それだけ。責める声じゃなく、確認の声で」
それだけ、が妙に眩しい。僕は今まで、ひとことを十行にして自爆してきた。言えないと溜めて、溜めたら爆ぜて、爆ぜたら後悔する。自分で自分を殴って、相手まで痛くする。
「じゃあ、今言う」
僕は言った。
「リモコン、右がいい」
「了解。戻す」
千紘が即答して、僕は拍子抜けした。拍子抜けするほど簡単なことを、僕は何日も握りしめていたらしい。
千紘は続けた。
「代わりに、私のお願い」
「うん」
「帰ってきたら、最初に一回だけ、目を見て『ただいま』って言って」
「……言ってるよ」
「言ってるけど、目が別のところ」
また刺さる。刺さるのに、納得してしまう。
「目を見て、って、そんなに大事?」
「大事。顔を合わせると、心が戻る。戻ると、ズレが増えない」
タイマーがピピッと鳴った。二十分が終わる。
僕らは紙を見下ろした。ふたり用の取扱説明書は、びっくりするくらい生活の文字ばかりだ。水。リモコン。目を見る。こつんこつん。相性診断禁止。
それでも、胸の奥のカチが減っているのが分かる。消えたわけじゃない。減った。減るだけで十分だ。
「ねえ」千紘が言った。「最後に一個だけ」
「なに」
「あなたさ、私のこと好き?」
直球が飛んできて、僕は一瞬固まった。取扱説明書に載ってない質問だ。載ってないからこそ本体だ。
僕は逃げ笑いをしそうになって、机を二回こつんこつんと叩いた。合図。自分で自分を止める。
「好きだよ」
言えた。シンプルに言えた。
千紘の肩が、ふっと落ちた。落ちる肩は、本物の安心の形だ。
「じゃあ私も」千紘が言った。「好き。だからズレたら直す。直すの、ふたりでやる」
「……うん」
「その“うん”は好き」
「生活のうんです」
「よし」
*
千紘が「おかえり」を言ったあと、僕らはそのまま寝ると思ったのに、千紘が靴下を履き直した。
「コンビニ、行こ」
「今から?」
「今から。水が足りない。あと、甘いの」
甘いの、に少し救われた。生活の会話は、難しい言葉を必要としない。
夜のコンビニは明るすぎて、僕らの顔がはっきり映る。千紘はレモン味の飴を、僕はプリンを選んだ。甘さの好みが合っていないのに、一緒に食べるとちょうどいいのが不思議だ。
レジを出たところで、千紘が紙袋をぶらぶらさせながら言った。
「ねえ。さっき“相性診断禁止”って書いたでしょ」
「うん」
「本当は、あなたが見てたの、分かってた」
僕は足を止めた。
「……見てた」
「見てたなら言って。怖いなら怖いって言って。こつんこつんしてもいい」
千紘は自分の指で、街灯の柱を二回叩いた。木でも机でもないのに、ちゃんと合図の音がする。
僕は紙袋を持ち替えて、息を吸った。
「僕ね、ほんと小さいことで君を悪者にしたくなる。たぶん、疲れてると、自分の中の嫌な部分が出る」
「うん」
「それを君のせいにすると楽だから……してしまう」
言い切ったら、喉の奥が熱くなった。謝罪の熱じゃない。自白の熱。
千紘は少しだけ眉を上げて、笑った。
「自白できたら、もう半分終わり」
「終わり?」
「うん。残り半分は、明日もやるだけ」
帰り道、マンションのゴミ置き場の前で千紘が立ち止まった。
「ついでに捨てよ」
「何を」
千紘は僕の手からレシートの束を奪って、袋に入れた。
「“証拠集め”」
「家計簿のためだって」
「家計簿は、明日から一枚ずつ。まとめて溜めると、気持ちも一緒に溜まるでしょ」
ぐうの音も出ない。僕らは袋を結んで、投げるほどじゃない距離で、そっと置いた。置くと、不思議と胸のカチも一緒に下がった。
部屋に戻って、プリンを半分こした。千紘がスプーンを一回だけ僕に渡し、僕が一回だけ千紘に渡す。たったそれだけの手順が、今日の僕には効く。
「ねえ」千紘が言った。
「うん」
「抱え込みそうになったら、私が先に言う。『いま、怖い』って」
「うん」
「あなたは?」
僕は少し考えて、短く答えた。
「僕は『いま、僕が小さい』って言う」
「それ、最高にダサい」
「ダサいのがいい。ダサいなら逃げ道が混ざらない」
千紘が笑って、僕の肩に額をこつんと当てた。言葉じゃない合図。体温だけの返事。
*
その夜、僕は寝る前に、冷蔵庫のドアに説明書を貼った。マグネットで留める。白い紙が、台所の白い光に照らされる。
千紘が横から覗き込んで、笑った。
「なにしてんの」
「メンテの予約」
「予約、偉い」
「偉いって言うな」
「言う。だって、今日ちゃんと顔を合わせた」
僕は千紘の方を向いて、目を見て言った。
「ただいま」
「おかえり」
その二語が、今日のズレをぴたりと戻した気がした。完璧じゃない。明日またズレる。僕はまたカチを鳴らすかもしれない。
でも、ズレたら直す場所がある。ふたりで戻る手順がある。
翌朝、僕はわざと少し早く帰宅した。帰宅した、というより“帰る日”を作った。仕事の急ぎは相変わらずある。でも、急ぎで壊したら意味がない。
玄関を開けて、千紘の顔を探す。目を見て言う。
「ただいま」
千紘が台所から顔を出して、笑った。
「おかえり。今日は目がここにいる」
僕は思わず、息を吐いてしまった。胸のカチが鳴りそうになる前に、千紘がテーブルを二回こつんこつんと叩く。合図。
「はい、水」
千紘がコップを差し出す。僕は飲む。水は嘘をつかない。
「で、今日のズレは?」
千紘が聞く。
僕は少し考えて、言った。
「……まだある。でも、今日は犯人探しじゃなくて、確認にする」
「よし。じゃ、確認の一言」
僕は笑って、短く言った。
「ケチャップ、二段目でもいい。代わりに、僕の眉は尖らせない努力をする」
「努力じゃなくて、合図で」
「合図で」
僕はテーブルを二回こつんこつんと叩いた。
相性がどうとかじゃない。ふたりで“直す気があるか”だ。
その答えが、今日も目の前にある。




