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短編集  作者: 科上悠羽
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『まだ冷たい指先で、熱いものを渡す』

 季節がほどけかけた頃に限って、空気は意地悪になる。

 駅前の自販機の横で、僕は息を白くしていた。手袋はしているのに指先が冷たい。冷たいというより、何かを考える余地だけが凍っているみたいだった。


 朝の天気予報は「春めく」と言っていた。口当たりのいい言葉だ。きれいで、安心させる味がする。けれど改札を抜ける風は、きれいじゃない。骨の近くまで入り込んでくる。僕の腕に、昔の癖で誰かが絡んでくるはずだった場所まで、きっちり冷やす。


 コーヒースタンドの前に並ぶ列は短い。通勤の波が一段落した時間帯だ。

 僕はいつものように、注文を決める前にメニューを見つめた。別に迷っているわけじゃない。迷っているふりをして、心の中身を整えているだけだ。


「いつものでいいですか」

 カウンターの店員が、覚えのある笑い方で聞いた。

 いつもので、いい。

 いつもので、よくない。

 僕はその間に挟まって、口だけが先に動いた。

「……はい。いつもので」


 受け取った紙コップはあたたかかった。湯気が薄く上がり、僕の眼鏡を曇らせる。

 曇ると、見なくていいものが一瞬消える。だから僕は、わざと熱いまま啜った。舌の先が軽く痛む。痛みは現実だ。現実は、想像より扱いやすい。


 レジ横でスタンプカードを差し出す。角が少し丸くなったカード。指で触れるだけで、二人分の時間が戻ってくる。

 スタンプは九つ。あと一つで、無料になる。

 たった一つ。たった一つのために、僕はこのカードを捨てられずにいる。


 カードを財布に戻した瞬間、スマホが震えた。画面は見ない。見ない、と決めている。

 決めていても、指は勝手に画面を伏せたくなる。伏せたくなる自分が一番信用できない。僕はスマホをポケットの奥へ押し込み、代わりに紙コップを両手で包んだ。


 あの日の別れは、派手じゃなかった。

 拍手も、涙の演出もない。言葉だけが、変に丁寧だった。丁寧な言葉は、刃が隠れる。

 僕は「分かった」と言って、そこで止めた。止めたから、今も続いている。続いているのは関係じゃない。僕の中の会話だ。


 言いたかったことは、今なら山ほどある。

 でも、きれいな言葉だけじゃ足りない。足りない部分をどう埋めればいいのか、僕は結局分からないままだ。

 だから僕は、レシートの裏に書く。誰にも渡さない自白を、紙の端に置く。


 会社へ向かう途中のベンチに座り、ポケットから昨日のレシートを取り出した。

 そこには、乱暴な字でこう書いてある。


《いまでも気になる。ムカつくくらい》


 ムカつくのは、相手じゃない。自分だ。

 気にする自分が、みっともなくて安心する。引きずっている証拠があると、終わっていない気がするから。

 終わっていないのは、たぶん僕だけなのに。


 会社のフロアは、朝から乾いていた。コピー機の熱だけが妙に元気で、紙の匂いがこもる。

 僕の席の隣で、先輩が冗談みたいに言った。

「おまえ、最近顔が冬だな」

「顔が冬って何ですか」

「寒い顔。あったかい顔、どこ置いてきた」

 笑いながら言われると、ちょっと救われる。救われるのに、返す言葉が見つからない。

「……置き場所、忘れました」

「忘れたなら探せ。ほら、休憩行け。顔の霜取り」

 先輩は勝手に僕の肩を叩いて、コーヒーの自販機の方向へ顎をしゃくった。


 休憩室で紙コップを持っていると、同期の海野が寄ってきた。

「またあのスタンプの店?」

「……うん」

「まだ引きずってんの?」

 直球が痛い。痛いのに、変に気持ちいい。嘘をつかずに済むから。

「引きずってる」

「わ、言った」

「笑われてもかまわない」

 言ってから、口の中が乾いた。格好つけたわけじゃない。ただ、もう誤魔化すのが面倒だった。

 海野は笑う代わりに眉を上げた。

「いや、笑わないよ。引きずるの、悪くない。……ただ、その引きずり方で自分を殴るのはやめろ」

「殴ってるの、分かる?」

「分かる。目が『俺が悪い』って言ってる」

 僕は苦笑した。目で会話するの、嫌いなのに、僕の目が先に喋る。


 昼休み、食堂の窓際で僕は手をこすった。外は晴れているのに、陽射しが温度を持っていない。

 ふと、腕に何もないことが気になった。

 昔はそこに、指が絡んでいた。人混みで、寒いときで、彼女が眠いとき。理由は毎回違うのに、絡む場所だけは同じだった。

 僕はその“同じ”を、あれこれ理由づけして大事にしていたのかもしれない。大事にしていたというより、守り札にしていた。


 午後の会議で、上司が「まあ、次に活かそう」と言った。

 次、という言葉が刺さる。次はいつだ。何をどう活かすんだ。

 僕の中では、次という言葉がずっと、ひとり分にしかならない。


 帰り道、駅の改札前で、朝のベンチの場所に戻る。

 ベンチの隣に、小学生くらいの男の子が座っていた。ランドセルがやけに大きい。手が赤い。

 男の子は自販機を見上げて、唇を噛んだ。硬貨を握っているのに入れられない顔。迷っている顔じゃない。凍っている顔だ。


「……買えないの?」

 僕が聞くと、男の子は一瞬だけ睨むように見て、すぐ視線を落とした。

「買える。でも……」

 でも、の続きが出ない。出ないとき、人は小さくなる。僕もよく知っている。


「お金、足りない?」

「ちがう。……手が、かじかんで。うまく、入らない」

 男の子は握った硬貨を開いた。指先が赤く、少し震えている。

 僕は変なところで笑いそうになった。笑うと失礼だ。けど、分かる。手が動かないって、それだけで世界が意地悪になる。


 僕はポケットから、小さなカイロを出した。使いかけのやつ。昨日、コンビニでつい買ってしまった。理由は簡単だ。あたたかいものが欲しかった。それだけ。

「これ、いる?」

「……いいの?」

「いい。僕、手、塞がってるから」

 紙コップを見せると、男の子は納得したように頷いた。子どもは優しい。嘘を見逃す優しさを持っている。


 男の子はカイロを握りしめ、少しだけ肩を落とした。

「ありがとう」

「うん」


 男の子はカイロで指を温め、硬貨を自販機に入れた。カチャン、と乾いた音。成功の音はいつもあっけない。

 出てきたのは、缶のコーンスープだった。湯気じゃなく、手のひらの温度だけが上がっていく。

「これ、家で飲む」

「いいね」

「家、ちょっと遠いけど」

「遠いなら、途中で飲んでもいい」

 男の子は少し考えて、頷いた。

「途中で飲む。……帰るまで持つの、やめる」

 その言葉が、僕の胸に刺さった。帰るまで持つの、やめる。僕がずっとやってることだ。帰るまで、終わるまで、次まで、って持ち続けて、自分の手を動かなくしている。


 僕は立ち上がり、会社へ戻ろうとして、ふと立ち止まった。

 財布の中のスタンプカードが指に当たる。あと一つ。

 あと一つのために、僕は今日もここに寄った。

 じゃあ、その一つを、今日終わらせればいい。

 終わらせるのは、忘れることじゃない。繋がりの形を変えるだけだ。


 夕方、僕はわざともう一度コーヒースタンドへ行った。

 列は短い。店員は僕の顔を見て、あ、という顔をした。

「珍しいですね、二回目」

「……今日は寒いから」

 それも半分は嘘だ。半分は本当だ。半分ずつなら、人は歩ける。


 スタンプが十個、揃った。

 店員が笑って、無料券のようなものを差し出す。

「次回、これで一杯無料です」

 次回。

 次回という言葉は便利だ。いつかの親戚だ。でも今日は、次回を僕の棚にしまいたくなかった。


「今日、使っていいですか」

「え、もちろん」

 店員が少し驚いて、それから頷く。

 僕はホットチョコレートを頼んだ。甘いやつ。あの人がよく飲んでいたやつ。


 紙コップを受け取った瞬間、胸の奥がきゅっとした。

 甘い匂いが、記憶を勝手に連れてくる。腕に絡む重み。笑い声。息の温度。

 僕はそのまま飲めなかった。飲んだら、沈む気がした。沈みたい気持ちがあるのが、悔しいほど本当だから。


 店の外へ出ると、さっきの男の子がまだ近くにいた。ランドセルを背負って、信号待ちをしている。手はさっきより赤くない。

 僕は反射で声をかけた。

「さっきのさ、飲み物、買えた?」

 男の子は振り向いて、少し得意げに頷いた。

「買えた。あったかいやつ」

「よかった」


 僕は自分の手の中のホットチョコレートを見た。湯気がまだ元気だ。

 僕は男の子に近づいて、紙コップを差し出した。

「これ、よかったら。甘いけど」

「え、いいの?」

「いい。……今日は、僕が持ってると、変なこと考えるから」

 男の子は意味が分からない顔をして、それでも受け取った。

「ありがとう」

「うん。温かいうちに飲みな」


 信号が青になる。男の子が走り出す。

 僕はその背中を見送りながら、胸の中の何かが少しだけ軽くなるのを感じた。

 何も生まない日だっていい。誰かが一口あたたかいものを飲めるなら、それは今日の成果だ。


 帰り道、ポケットの中が軽い。スタンプカードのない財布も軽い。落としたわけじゃない。終わらせたから軽い。

 軽いと、寂しさが入ってくる。寂しさは、空いた場所にちゃんと座る。座ったら、追い出さない。追い出すと暴れる。


 僕はスマホを取り出した。

 通知は増えていた。けれど、そこに“あの人”はいない。いないと分かって安心して、いないのに寂しい。

 僕はレシートを一枚取り出し、ペンで短く書いた。


《元気なら、それでいい。ほんとはそれだけ》


 書いたあと、送らない。送らないことを選ぶ。

 送らないのは臆病だ。けれど送らない臆病で守れるものもある。相手の生活と、僕の残り火と。

 僕はそのレシートを、財布の隅に押し込まず、駅の掲示板の片隅にある「一言箱」に入れた。誰にも届かないかもしれない。届かなくてもいい。ここに置いた、という事実が僕を戻す。


 家に着いて、靴を脱いで、台所の蛇口をひねる。水の音は、現実の音だ。

 僕は鍋に水を張り、火をつけ、味噌を溶いた。大げさなことはしない。今日の体は、今日の温度でいい。

 湯気が上がる。湯気は誰のものでもない。だから安心する。


 夕方のベンチの男の子の言葉が、まだ残っている。

 帰るまで持つの、やめる。

 僕はそれを、心の中で繰り返してみた。繰り返すと、少しだけ息が通る。


 食卓に座り、味噌汁を飲む。あたたかい。

 そのあたたかさを、昔は誰かと分け合っていた。分け合っていた事実は、消えない。消さない。

 ただ、事実を鎖にしない。


 寝る前、僕は棚の上のガラス瓶を取った。ジャムの空き瓶に近い、小さなやつ。中には折ったレシートが何十枚も入っている。ラベルにマジックで書いた文字は《未送信》。

 馬鹿みたいだ、と自分でも思う。誰かに見られたら笑われる。笑われてもいい、と今日の僕は言える気がした。笑われるほどの量が、僕がちゃんと生きてきた証拠でもあるからだ。


 瓶の蓋を開け、上の数枚を指でつまむ。

《あの店の角を曲がると、まだ声がする》

《今日は夢で普通に話した。起きたら腹が立った》

《忘れたくないんじゃない。忘れたら楽になるのが怖い》

 きれいじゃない言葉ばかりで、読み返すと少しだけ胸がむずがゆい。むずがゆいのに、嫌じゃない。みっともない、という言葉を僕は使いたくないけれど、似た成分が自分にあるのは否定できない。


 僕は瓶を振って、紙の音を聞いた。カサ、と軽い音。これが僕の「最後の糸」だったのかもしれない。妄想で結んだ細い糸。切るのは怖い。でも、引っ張り続けるのも疲れる。

 だから今日は、切らずに結び方だけ変える。

 瓶の横にペンを置き、ラベルの下に小さく足した。


《保管:ここまで》


 瓶を棚に戻す。戻した瞬間、胸の奥が少しだけ静かになる。

 スマホはベッドの上に置かない。枕元の充電器から少し離れた机の上に伏せる。見ない合図。

 布団に入って、僕は天井を見上げた。寒いのに、春の匂いがする気がした。気のせいでもいい。気のせいで明日が一ミリ軽くなるなら、それは立派な成果だ。


 目を閉じる直前、僕は小さくつぶやいた。

「……元気でいてくれ」


 届かなくてもいい。ただ、言えたから。


 僕は匙を置いて、手袋の中で、こつんこつんと指を鳴らした。

 合図。裁判を始めない合図。過去に溺れない合図。


 季節の端っこは、まだ意地悪だ。

 でも、意地悪な日にも、あたたかいものは手に入る。

 それを誰かに渡せるなら、僕は明日もちゃんと歩ける。

 そう思えた夜は、ちょっとだけ春に近かった。

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