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短編集  作者: 科上悠羽
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『五つ目のスイッチは、壊さないためにある』

 直人は、怒らない人として社内で有名だった。

 正確には、怒りを外に出せない人として有名だった。本人はそこを区別しているつもりなのに、周りは区別しない。便利な人は便利なまま棚に置かれて、ラベルが貼られる。丁寧、穏やか、話が早い。あと「大丈夫そう」。


 その日の朝も、ラベルは働いた。


「直人くん、これ今日中にいける?」

 経理の先輩が笑って、丸投げの書類束を置いた。紙の角が揃っていて、揃っている分だけ重い。

「はい」

 直人の口は勝手に返事をした。

 返事はいつも勝手に出る。そこに意思が混ざると、声が遅れてしまうからだ。


 昼前、別部署から「急ぎで」とチャットが飛んでくる。さらに上司が「先にこっち」と呼ぶ。電話が鳴る。コピー機が紙詰まりする。隣の席の新人が「すみません」を三回ためてから、やっと小さく声を出す。

 直人は、全部を拾う。落ちているものが見えるタイプだから。


 そして、拾ったぶんだけ、身体の内側に砂がたまる。

 砂は重い。重いのに、見えない。見えないから、誰も気づかない。気づかれないから、直人はさらに平気な顔を作る。平気な顔は、砂を隠すための袋だ。袋は便利で、破れると怖い。


 破れる寸前は、音がしない。


「これ、昨日も言ったよね?」

 午後三時。

 プロジェクトの担当者が、直人の席に来て、モニターを指で叩いた。叩いた音が、直人の胸の砂を軽く揺らした。

「形式、違うんだけど」

「すみません。確認します」

「確認じゃなくて、直して。今日中」

 担当者は笑っていない。笑っていない人に「今日中」を言われると、言葉が刃になる。


 直人の中で、何かがすっと立った。

 怒り、というより、むず痒い熱。

 口の奥が乾いて、舌の先が苦い。


「……今、言い方」

 直人はそこまで言いかけて止めた。止めた瞬間、いつもの自分が戻ってくる。

 戻ってきて、こう言う。

(やめとけ。角が立つ。仕事が増える。ここで揉めると遅れる)

 理屈は正しい。正しい理屈が、いつも直人を黙らせる。黙ると、砂は増える。


 担当者が去って、直人は画面を見た。

 形式は確かに違う。直人のミスじゃない。向こうの仕様が、昨日の夕方に変わっただけ。

 でも、それを言うとまた説明が必要になる。説明には体力が要る。体力はもうない。だから直人は直す。黙って直す。


 直す指先だけが動いて、心は置いていかれる。

 その置いていかれた心が、どこかで勝手に倒れないように、直人は「怒らない」を続けてきた。


 定時を過ぎた。

 帰り支度をしたのに、足が動かない。

 直人は自分の机の引き出しを開けて、何も入っていないのを確認し、閉じた。意味はない。意味がない行動は、疲れた頭を一瞬だけ空にする。


 ふと、スマホのバッテリーが残り五%になっているのに気づいた。

 直人は笑った。

「僕も五%だ」


 帰り道、駅へ向かう途中で、工事用の仮囲いに貼られたポスターが目に入った。

 派手な色、太い文字。


《解放室 音、出せます。もの、壊せます。ちゃんと安全です。予約不要》


 直人は立ち止まった。

 壊せます、という文字が、やけに優しく見えた。

 壊すのは悪いことだと教わってきた。なのに、壊せます、は救命具みたいに見える。壊したいわけじゃない。壊さずに済ませたい。

 壊さずに済ませるための壊せます、なら、矛盾じゃない。


 階段を降りると、地下に小さな受付があった。

 壁に、ヘルメットとゴーグル。奥から、低いドラムみたいな音が響いてくる。誰かが何かを叩いている。楽しそうというより、必死なリズム。


「初めてですか?」

 受付の女性は淡々としていた。淡々は安心する。感情のノイズがないから。

「はい」

「どれにします? 叩く部屋、叫ぶ部屋、壊す部屋」

 メニューみたいに言うのが面白くて、直人は少し笑ってしまった。

「……壊す部屋で」

「空いてるの、五番です」

 五番。

 さっきの五%と繋がったみたいで、直人はうなずいた。


 部屋は小さかった。

 壁は厚いスポンジみたいな材質で、床はマット。棚に、古いキーボード、割れてもいい皿、使い終わったスマホケース、空き缶、木片、そして柔らかいバットが並んでいる。

 「壊す用に用意しました」と言わんばかりの、他人の“不要”が整列している。


 直人はゴーグルをつけて、バットを握った。

 握ると、腕が意外と震えている。怖いのは壊すことじゃない。壊すときの自分の顔を、誰かに見られることだ。

 ここでは見られない。見られないなら、やっていい。


 最初の一振りは、空を切った。

 バットが当たるはずだったキーボードの上で止まる。直人の手がためらっている。


「……なんで躊躇してんの」


 直人は自分に呆れて、次に、ほんの少しだけ力を入れた。

 バットがキーボードの角に当たって、乾いた音がした。カチ、と。

 たったそれだけの音なのに、胸の砂がざわっと動く。


 直人は、二回目を振った。

 三回目。

 四回目。

 音が増えるほど、呼吸が深くなる。深くなるほど、頭の中の字幕が減る。


(角が立つ)

(揉める)

(面倒)

(遅れる)


 そういう正しい言葉たちが、少しずつ黙っていく。


 代わりに、別のものが出てくる。

 言葉にならない、ぶつけたい熱。

 それを直人はバットに乗せる。雑に。乱暴に。乱暴にしてもいい場所で。


 皿が割れた。

 空き缶が潰れた。

 木片が跳ねた。

 音が、ルーズに広がって、次の瞬間にタイトに揃う。揃うと気持ちいい。

 直人は気づく。自分は「怒りたい」のではなく、「揃えたい」のだと。バラバラに散らばったものを、ひとつのリズムにしたい。だから仕事も拾う。だから声も飲む。だから疲れる。


 汗が出た。

 汗は嘘をつかない。

 嘘をつかないものが増えると、直人は少しだけ楽になる。


 最後に、直人は使い終わったキーボードの中心を叩いた。

 バキ、と音がして、キーが一つ跳んだ。

 跳んだキーは、床の隅に転がって止まった。

 止まったのを見て、直人は急に笑った。


「……決断って、こんな感じか」


 誰の味方でもない。

 誰の敵でもない。

 最後に残るのは、自分の手だけ。


 部屋を出ると、受付の女性が水を差し出した。

「喉、乾きますよね」

「……はい」

 直人は水を飲んで、息を吐いた。息が、やっと自分のものになった気がした。


「また来ますか?」

 聞かれて、直人は反射で「たぶん」と言いかけた。

 やめた。

「……必要なら」

 必要なら、で十分だった。必要なときに来ればいい。いつも立派じゃなくていい。



 翌日。

 直人は会社で、担当者がまた「今日中」を言いに来るのを想像して、胃が少し縮んだ。

 縮んだまま、直人は席を立ち、プリンターの横に小さな紙を貼った。


《急ぎの依頼は、仕様変更の有無を一言添えてください》


 誰かを責める文じゃない。確認の文だ。

 それでも貼る指先は震えた。

 貼り終えると、震えが少し落ち着いた。落ち着いたぶんだけ、直人は自分の椅子にちゃんと座れた。


 昼過ぎ。担当者が来た。

「これ、今日中」

 直人は息を吸って吐いて、短く言った。

「仕様、昨日から変わってますか」

 担当者が一瞬止まった。

「……変わってない」

「じゃあ、今の形式で合ってます」

 直人は画面を示す。

 担当者は眉をひそめ、でも怒らなかった。

「……あ、ほんとだ。ごめん」

 ごめん、が出た。向こうから出た。

 直人はそれだけで、胸の砂が少し減るのを感じた。


 帰り道、昨日の地下の入口の前を通った。

 直人は入らなかった。必要はない。今日は会社で一回、声を出せたから。

 代わりに、駅前の小さなパン屋で、五つ入りの小さなパンを買った。袋の中で並んでいるのが、なんとなく落ち着く。


 家でひとつ食べた。

 残りは明日の朝にする。

 根拠はない。けれど、たぶん大丈夫だ。


 直人は指先で袋を折りたたみ、ゴミ箱に入れた。

 捨てるのは、壊すのとは違う。

 壊さずに済ませるために、捨てる。出す。言う。叩く。飲む。

 その順番を、直人はようやく自分で選べる気がした。


 夜、布団に入る前に、直人は小さくつぶやいた。

「明日も、五%くらいは残してやる」


 それだけで、今日は十分だった。

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