『熱い紅茶で、口を開く』
覚えたくないのに、指は覚えている。
カップの縁にスプーンを当てないように、無言で、ぐるぐる。ぐるぐる。音を立てない混ぜ方。腹の底がヤバい日にだけ出る、僕の妙に丁寧な癖だ。
向かいの椅子で、紗和は背筋を伸ばして座っていた。目は僕じゃなく、テーブルの木目を見ている。木目は逃げない。人は逃げる。だから木目は便利だ。
僕も便利なものを選んで、時計を見た。十五時十二分。
……さっきから何時間こうしてるんだ、と思ったのに、たったの七分だった。七分でこれ。七分で既に、僕の心は寝不足。
こういうの、二回目だ。
一回目は去年の秋。雨の日。僕が返信を怠けて、紗和が「別に平気」と言って、その“別に”の内側で何かが折れた日。
その夜も僕らは同じ席に座って、僕は冷めた紅茶を混ぜ続けた。混ぜれば混ざって、濁れば見えなくなると思っていた。なかったことにしたいし、画面から消したいし、どこかへ逃げたい。できるなら、こんなに手が止まらない。できないから、混ぜる。
結局あの日は、僕が熱いものを飲む前に、口の中だけで言い訳を煮詰めて、酸っぱくなって、最後に「ごめん」で蓋をして終わらせた。
終わっていなかったのに。
「ねえ」
声を出したのは僕のほうだった。声を出しただけで、空気が少し薄くなる。失言の余白が増える感じ。
紗和は返事をしない。返事をしないのは武器だ。武器は強い。強いから、持っている側もしんどい。
僕はまたスプーンを回した。ぐるぐる。ぐるぐる。紅茶は熱すぎて、口を付けられない。熱いのを理由に、沈黙を伸ばす。卑怯で助かる。
助かるのに、助かってばかりだと終わる。経験が言っている。
今日の原因は、たぶん僕のポケットの中にある。
正確には、ポケットの中身が消えたことが原因だ。
昼、紗和が僕のジャケットを畳んでくれて、内ポケットから紙片が落ちた。白い封筒。厚みがある。見慣れないロゴ。紗和の目が一瞬だけ細くなった。
「これ、なに?」
僕はそこで、最悪の返事をした。
「……別に」
別に。万能の地雷。踏んだ瞬間、爆発までの時間だけが延びる。
「別に、って何」
「いや、何でもないっていうか」
「何でもないもの、封筒に入れないでしょ」
そこまで言われても、僕は言えなかった。
潔白だ、と胸を張れるほど白くはない。でも、黒い話でもない。説明の言葉が、今の僕には見つからなかった。
だって封筒の中身は、紗和の誕生日のためのアレで、言ったら終わるタイプのアレで、しかも今日の夜に受け取りに行く予定のアレで――。
説明できない理由が、説明を必要としている。最悪の輪。
そもそも僕が悪いのは、隠し方の雑さだ。
仕事帰り、包装専門店で「どの色にします?」と聞かれたとき、僕は変にテンパってしまった。
「黒で」
「黒にも種類があります。マットな黒と、光る黒と」
光る黒って何だよ、と内心で突っ込みながら、僕はさらに口を滑らせた。
「じゃあ……より黒い方で」
店員さんが笑って「承知しました。ブラック強めで」と言った。そこで僕はやっと、自分が何を言っているのか自覚して、顔が熱くなった。
結局、店側の在庫の都合で選べるのは二種類どころか一種類で、僕はただ「黒い包み」を抱えて帰った。選んだようで選んでない。人生みたいで腹が立つ。
封筒の外に貼られた受け取り票も、いけなかった。
差出人の名前が固くて、仕事っぽい。さらに僕がそれをポケットに突っ込んだまま、洗濯に出しそうになって、慌てて別のポケットに移した。動かした痕跡だけが、紗和に見つかった。
やってないのに怪しい。怪しいのにやってない。いや、やってる。買ってる時点でやってる。詰んでいる。
そして今、僕らは“配役”を思い出したみたいに、同じ席に座っている。
紗和は沈黙役。僕は弁明役。弁明と言いながら、言えない役。
また同じ場面が始まった。誰も頼んでないのに。
僕は勇気を振り絞って、場に似合わないことを言った。
「……コーヒー、いつもブラックだよね」
紗和は見事にシカトした。
自分でも腹が立った。腹が立った相手は紗和じゃなく、こういう時に“薄い冗談”へ逃げる僕だ。
僕の中で、選択肢が二つ光る。
今すぐ全部言う。サプライズを捨てて、疑いを消す。
何も言わない。サプライズを守って、疑いを育てる。
白か黒か、なんて綺麗な話じゃない。どっちを選んでも濁る。
濁ったままでもいい、と言えたら強いのに、僕はまだ“濁り=失敗”の人間だ。
時計を見た。十五時十五分。三分しか進んでいない。体感は三日。
沈黙って、時間を水増しする技術だと思う。
スマホで友だちに相談しようとして、やめた。こういう時の相談は大体「言え」で終わる。正論のほうが火傷する。
火傷、と思った瞬間、目の前の紅茶が視界に入る。そうだ、火傷。今日はそれが必要な日だ。
「……ずるいって言っていい」
僕が言うと、紗和の視線がやっと僕に来た。冷たい視線じゃない。熱もない。ただ、疲れた視線。
「何が」
「僕。……説明できないことを隠してる」
「隠してるのは認めるんだ」
「認める。認めるけど、言うと台無しになる」
「台無しって、何が」
言えない。言ったら台無し。言えないから台無し。無限。
僕はスプーンを置いた。金属がカップに触れて、ちいさな音がした。その音だけで、紗和の肩が一ミリ動く。音は、沈黙の外側にある。
僕は息を吸って吐いて、決めた。
痛い方に行く。
つまり、熱い紅茶を飲む。
口を付けた瞬間、舌が「やめろ」と叫んだ。叫んだのに飲み込んだ。熱で目が潤む。涙じゃない。熱さの涙。言い訳のない涙。
そのまま、僕は言った。
「ごめん。怪しまれる行動した。しかも今、説明ができない」
「……説明できないって何。じゃあ私は何を信じろっていうの」
「信じろ、とは言わない。……手順を提案する」
紗和が眉を上げた。僕が“手順”なんて言い出すときは、大体追い詰められている。
「一、封筒はここに置く。僕の手元に隠さない」
「うん」
「二、中身は今日、君の前で受け取る。受け取ったら、そこで全部見せる」
「……今日?」
「うん。今日の夜。だから今、言えない」
「三つ目は?」
「三、今日までの間、僕は余計な言い訳をしない。君が不安になったら“不安”って言って。僕は黙らない」
言ってしまってから、僕は自分でも驚いた。黙らない。言うのは簡単だ。実行が難しい。
紗和は少しだけ目を閉じて、息を吐いた。長い息。長い息は、崩壊の手前で踏みとどまる音だ。
「……それ、ずるい」
「うん。ずるい。でも、沈黙の方がもっとずるいと思った」
「……」
「僕、サプライズを言い訳にして、君を不安に放置した。そこは僕のミス」
紗和の視線が揺れた。揺れた視線は、怒りより柔らかい。柔らかいほど、僕は謝って終わらせたくなる。
その瞬間、紗和がテーブルを二回、こつんこつんと叩いた。
「謝って終わらせないで」
その言い方が、優しいのに強かった。僕は頷いて、紅茶をもう一口飲んだ。さっきより熱くない。舌が慣れたんじゃない。僕が少し落ち着いたのだと思いたい。
「じゃあ確認。今日の夜、どこ行くの」
「……駅前のビルの二階。受け取り」
「何を」
「言えない」
「言えないの、腹立つ」
「うん。腹立っていい」
「……嘘じゃない?」
「嘘じゃない。証拠だけ出す」
僕はスマホを出して、画面を見せた。カレンダーの予定。店名は伏せている。場所と時間だけ。予定名は「受け取り」。
「これだけ。今日の夜、ここに行く」
紗和は画面を見て、次に僕の顔を見た。
「……これ、私も行く前提?」
「そうしてほしい。君がいい」
言ったら、胸の奥が少し軽い。軽いと同時に怖い。怖いから、もう一口紅茶を飲んだ。熱いのに、前より平気だ。
紗和は、しばらく黙っていた。黙り方がさっきと違う。武器の沈黙じゃなく、考える沈黙。
そして、ぽつりと言った。
「……私、怖かったんだよ」
「うん」
「あなたが“別に”って言った瞬間、私は勝手に最悪の映画を再生した」
「うん」
「それで、止め方が分からなくなった」
「止め方、今日作る?」
紗和は、ほんの少しだけ笑った。笑いきれない笑い。だけど笑いは笑いだ。
「作る。……でも私も言う。次から“別に”は禁止」
「同意。あと僕も言う。次から“冗談で逃げる”も禁止」
「その冗談、さっきのブラックのやつ?」
「うん。あれは逃げだった」
「逃げだったね」
「逃げだった」
時計を見た。十五時二十一分。
……たったの九分。九分で胃が重くなって、九分で戻り始める。人間の感情は、時間の尺度が雑だ。
紗和が紅茶のカップを自分の方へ引き寄せた。さっきまで触らなかったのに。
「冷めてる?」
「まだ熱い。火傷しそう」
「じゃあ、一口だけ」
紗和はそっと口を付けて、すぐ顔をしかめた。
「熱っ」
「でしょ」
「……熱いもの、苦手」
「僕も。だけど今日は必要だった」
紗和はふっと息を吐いて、僕のスプーンを取った。今度は音を立てて、わざとカップの縁に当てた。ちいさな、ちいさな反抗。
「音、立てる」
「うん。立てていい」
「沈黙、やめる」
「うん。やめよう」
*
夕方、僕らは予定の場所へ一緒に行った。歩く速度が合わなくて、最初の信号で一回ぶつかった。肩が当たる程度。いつもなら笑う場面なのに、今日は笑いが遅い。
ビルのエレベーターの鏡に、二人の顔が並んで映った。僕の眉はまだ少し尖っている。紗和の口元は固い。二人とも、正しい顔じゃない。正しくないのに、ここにいる。そこだけが救いだ。
「ねえ」紗和が小さく言う。「もし今日、私が勝手に暴れそうになったら」
「うん」
「止めて。言葉で。黙らないで」
「うん。僕も。守りたいものがあるって言葉を、先に出す」
「守りたいもの?」
「……君の不安を増やさないこと」
受け取りカウンターの前で、店員さんがにこっとした。
「お連れさまもご一緒でよろしいですか?」
僕は即答した。
「はい。一緒がいいです」
その一言で、紗和の肩が一段落ちた。
封筒を開けて中身が見えた瞬間、紗和の目が丸くなって、それから眉が下がって、最後に笑った。
「……これのために、あんな顔してたの?」
「してた。僕、こういう時下手」
「下手。だけど、今日の手順はよかった」
「じゃ、次も手順で」
「次はもっと早めにね」
「うん。熱い紅茶の前に」
「そう。火傷しなくても言えるように」
帰り道、外は小雨になっていた。春の雨は、冬ほど冷たくない。だけど気を抜くと濡れる。僕らは傘を一つだけ買って、二人で入った。肩が近い。近いのに苦しくない。さっきまでの九分が嘘みたいだ。
「ねえ、さっきのさ」紗和が言う。「より黒い方で、って何」
「忘れて」
「忘れない。面白い」
「面白がるな」
「面白がっていい。だって今日、ちゃんと戻った」
ポケットの中の封筒はもう空だ。隠すものが減ると、歩くのが少し楽になる。
家に戻って、僕は新しい紙を冷蔵庫に貼った。たった一行。
《濁ったら、混ぜる前に言う》
紗和がそれを見て、笑った。
「なにしてんの」
「忘れないための保険」
「保険なら、私も貼る」
紗和はペンで、僕の紙の下に足した。
《別に、は禁止》
二人分になった紙を見て、僕はもう一度、紅茶を飲んだ。
今度の紅茶は、ちゃんと飲める温度だった。
紗和はキッチンで電気ケトルを鳴らしながら言った。
「ねえ、今後のルール、もう一個」
「なに」
「疑いが出たら、色分けしない。白だ黒だって決めない」
「……じゃあどうする」
「まず“濁ってる”って言う。濁ってるって言えたら、もう半分」
紗和は笑って、ティーバッグを二つ落とした。
「で、濁りが濃い日は、レモン入れる。酸っぱいと余計な言葉が削れるから」
「それ、生活の知恵だね」
「生活の知恵。正解より先に、喉を通す」
僕はカップを並べて、わざとスプーンを一回だけ鳴らした。小さな音。沈黙を壊すための音。
紗和がそれを見て、指でこつんこつんと二回叩く。
「はい、今日の合図。続編いらない。今日で区切る」
「了解。……次は、区切らないで済むようにする」
窓の外の雨はまだ細く降っていた。だけど部屋の中は、湯気で少しだけ明るい。
僕らは熱いカップを持って、同時に少しだけ吹いて、同時に笑った。
たったそれだけで、世界はまた“二人用”に戻れた。




