『室内遊園地は閉園しない』
僕は“安全バー”の仕事をしている。
遊園地の乗り物じゃなくて、毎日のほう。予定表にマーカーを引いて、段取りを整えて、失敗しそうな角を丸めてから人に渡す。そうすると世界が少しだけ静かになる。少なくとも僕の胃は静かになる。
静かにならないのは、ひとつだけ。
同棲二年目の相方、真冬さんだ。名前に反して、体温が高い。というか、発想が熱い。熱いものは温めるより先に弾ける。弾けた破片が笑い声に変わるタイプの人間で、僕の段取りはだいたい彼女の袖で擦れて毛羽立つ。
今夜もそうだった。
僕は帰宅前に、駅前のスーパーで“正解っぽい”夕飯を買った。鍋の具材と、控えめな刺身と、季節の小鉢。栄養バランスと、財布バランスと、時間バランスの三点セット。三つ揃えば安心する。僕はそういう生き物だ。
玄関を開けたら、真冬さんがスリッパのまま飛んできた。
「おかえり。今日さ、すごい企画思いついた」
企画。聞こえが危険だ。
「ただいま。先に手洗…」
「先に聞いて。五分でいいから」
“五分でいい”は、たいてい五分で終わらない。僕の経験則はよく当たる。なのに僕は頷いてしまう。彼女の目が、すでにジェットコースターの上り坂だからだ。ここで拒否すると、その坂を逆走させることになる。逆走は危ない。僕は安全バー係なので、危ないのは嫌いだ。
「今日のテーマは、室内遊園地」
真冬さんは台所の床を指さした。マスキングテープで、変な矢印が貼られている。リビングからキッチンへ、キッチンから廊下へ、廊下から洗面所へ。まるで迷路の案内板。しかも途中に小さな札まである。
《ここから先、笑った人は負け》
《この先、選択肢は二つ》
《進むか、戻るか》
「……いつ貼ったの」
「さっき。あなた帰ってくるまでに、間に合わせた」
“間に合わせた”という言葉に、僕の胸の奥がちくっとする。僕の得意技を、真冬さんが僕のいない間に使っている。嬉しいのに、怖い。僕が居なくても回るのは正しい。正しいのに、僕は自分の役目が消えるのが怖い。勝手な話だ。
「で、何をするの」
「今日ね、あなた疲れてる顔してた。朝の既読、遅かったし」
「……見てたの」
「見てるよ。私はあなたの観覧車」
観覧車って、そんな監視装置みたいに言う単語だっけ。僕が黙っていると、真冬さんは畳んだ紙を一枚差し出した。チケットみたいな形に切ってある。
《一日券(夜だけ) 乗り放題 ただし:不機嫌は持ち込み禁止》
「……不機嫌は持ち込み禁止」
「うん。代わりに、疲れは持ち込みOK。疲れは荷物置き場に預けよう」
彼女はリビングの隅に置いたカゴを指さす。中には、メモ帳とペンと、ペットボトルの水と、飴が数個。
「ここ。疲れの荷物置き場」
「雑すぎない?」
「雑がいい。雑じゃないと預けられないでしょ」
確かに。僕は丁寧に扱おうとすると、扱う前に固まる。
僕は買い物袋を床に置き、カゴの水を一口飲んだ。喉が通ると、眉の角が一ミリ落ちた気がする。真冬さんはすぐ気づく。
「お、来場者、顔が柔らかくなった」
「来場者って言うな」
「言う。今日は私が運営。あなたは客」
「運営は大変だよ」
「知ってる。だから二人で回すの」
最初の“乗り物”は、キッチンだった。
真冬さんが札を持ち上げる。
《夕飯は“開けるまで分からない”》
「え」
「あなたが買ってきたやつで、私がメニューを組む。あなたは当てる」
それ、ほぼ僕の買い物への試験だ。怖い。でも、真冬さんの顔が楽しそうすぎて、僕は笑ってしまった。笑った瞬間、札がくるりと裏返る。
《笑ったので、負け。皿洗い担当》
「え、今ので?」
「うん。油断したね」
「ずるい」
「ずるいのは、あなたが“平気な顔”を貼ること」
刺さる。刺さるのに、今日は痛くない。刺さる針の先にスポンジが付いている感じだ。
夕飯は鍋になった。具材は僕の選んだ“正解っぽい”やつなのに、真冬さんが変な順番で入れる。先に白菜、次に肉、その次にきのこ、最後に豆腐。理由は「見た目がかわいいから」。
「味の順番じゃないの」
「味は最後に混ざる。見た目は今しかない」
そう言って、彼女は豆腐を星形に切り抜いた。どこで覚えた。僕の安全バーが、軽く外れた気がした。
食べながら、僕は今日の仕事の話をしそうになった。締切が、仕様が、チャットが、と。
その瞬間、真冬さんが箸でテーブルを二回、こつんこつんと叩いた。
「はい。説明より先に、疲れを置く」
僕は口を閉じて、カゴのペンを取った。メモ帳に一行だけ書く。
《今日は、言葉が渋滞》
書いたら、少し笑えてしまった。渋滞って言い方が、道路みたいで。
「いいね」真冬さんが頷く。「渋滞なら、迂回路作ろ」
「迂回路?」
「うん。今日の話は、三つだけ」
「三つ」
「一つ目:何が一番しんどい。二つ目:何が一番ムカつく。三つ目:何が一番助けてほしい」
選択肢が少ないと、僕は息ができる。これは彼女の発明じゃなく、僕の仕様だ。彼女は僕の仕様を覚えている。そこが、観覧車の怖さで、優しさだ。
「一つ目。仕様が動くのがしんどい」
「うん」
「二つ目。急ぎって言われるのがムカつく」
「うん」
「三つ目……」
ここで詰まった。助けてほしいのが分からない。助けて、って言うと負けたみたいで、僕はいつも言わない。言わない癖が、僕の首を締める。
真冬さんが何も言わず、鍋の湯気を指でつまむみたいに空中をくるくるした。合図だ。焦らなくていい、の合図。
「三つ目」僕はやっと言った。「帰ってきたら、まず一回、笑いたい」
「よし」真冬さんが即答した。「それ、今日もう達成してる」
達成。達成って言葉が、いつもより軽い。評価されるのは怖いのに、今日は嬉しい。なぜなら評価が点数じゃなく、温度だからだ。
真冬さんは鍋の火を弱めると、リビングの照明を落とした。
《上映室:本日の“予告だけ”》
壁に貼られた札に、僕は眉をひそめる。
「予告だけ?」
「うん。今日のあなた、フル尺の感情を再生すると落ちる。だから予告だけ。短いのをいくつか見て、今夜の気分を当てる」
「当てるって何」
「気分当て。間違ってもいいやつ」
彼女はリモコンを持って、配信画面をぱぱっと切り替えた。キラキラした予告、暗い予告、笑える予告。画面の中の世界は忙しい。忙しいのに、僕の呼吸は少しずつ戻る。短いからだ。短いと、逃げ道じゃなく休憩になる。
「今夜はどれ?」真冬さんが聞く。
僕は少し考えて、指を一本立てた。
「これ。……なんか、最後にちゃんと笑って帰れそうなやつ」
「了解。じゃあ本編は、明日」
「明日?」
「うん。明日も開園するから」
真冬さんはさらっと言って、画面を消した。いきなり真っ黒になる。
「え、見ないの?」
「今日は予告だけ。あとは音」
彼女はスピーカーから、小さな環境音だけ流した。波みたいな音。風みたいな音。意味のない音は、僕の頭の字幕を黙らせる。
僕はその暗いリビングで、やっと肩の力を抜いた。
鍋の後、次の札が現れた。
《ミニゲーム:食器の山を“ボス戦”にしない》
シンクに積まれた皿を指さして、真冬さんが言う。
「これ、あなたはすぐ“ラスボス”にするでしょ」
「ラスボスじゃない。ちゃんと面倒」
「面倒は認めていい。でも、面倒=敵、にしない」
「どうするの」
「分割する。三分割」
彼女はタイマーを押した。三分だけの砂時計。
「一回目、すすぎ担当。二回目、泡担当。三回目、拭き担当。役は毎回交代」
僕は笑いそうになって、あわてて口を押さえた。笑ったらまた負けが増える。
「……そういう所、ほんと運営だね」
「でしょ。あなたは安全バー係。私は回転係。今日は二人で動かす」
泡と湯気のあいだで、三分が三回過ぎた。皿の山が平らになったころ、僕の肩も少し平らになっていた。平らは悪じゃない。平らは、次に積める余白だ。
次の“乗り物”は、洗濯物だった。
廊下に貼られた札。
《洗濯物は、ペアでたたむ》
「ペア?」
「うん。片方ずつ持って、相手の片方を探す。見つけたらハイタッチ」
「犬の訓練みたい」
「人間の訓練です」
僕らは靴下を探して、ハイタッチして、タオルを揃えて、またハイタッチした。単純で、だから効く。脳が複雑なことを考える隙がない。考えないと、眉が丸くなる。
廊下の突き当たりに、最後の矢印があった。外へ向かう矢印。
真冬さんが窓を開けると、夜風が入ってきた。そこに、また札。
《屋外イベント:ゴミ出しスプリント(雨天決行)》
「……まさか」
「今日、出し忘れてる」
「いや、明日でも」
「明日だと、あなたが“自分を責める券”を発行するでしょ」
その言い方が的確すぎて、僕は黙った。確かに僕は、期限より自分を責める方が得意だ。
僕らはゴミ袋を持って階段を下りた。途中で小さな雨が落ちてきて、真冬さんが笑った。
「見て。雲も参加してる」
「参加しなくていい」
「でも参加してる。だから走る」
走ると、思考が減る。思考が減ると、眉の角も減る。僕は雨粒にやられながら、なぜか笑った。
ゴミ置き場の屋根の下に滑り込む。息が切れて、胸が熱い。久しぶりに“運動した熱”だ。
「はい、来場者」真冬さんが言う。「今の叫び、もう一回」
「叫んでない」
「顔が叫んでた。『間に合った!』って」
僕は息を整えながら言った。
「……間に合った」
口に出すと、本当に間に合った気がする。面白い。生活は言葉で形が変わる。
帰宅して、タオルで髪を拭きながら、僕はうっかり言った。
「僕がいなくても、君一人で楽しそうだね」
真冬さんの手が止まった。止まるのが怖くて、僕はすぐ続けようとした。冗談で薄めよう、と。
でも、真冬さんが先にこつんこつん。
「薄めない」
短い。強い。
「うん」僕は言った。「怖いんだ。僕の役目がなくなるのが」
「なくならないよ」
「根拠は?」
「あなたが、ここにいる」
彼女はハンガーを一本、僕に渡した。
「これ、掛けて」
僕は黙って掛けた。役目は、巨大じゃなくていい。ひとつでいい。ひとつなら、続く。
閉園時間が近づいた頃、真冬さんは最後の札を持ってきた。
《本日のフィナーレ:正直を一つ》
「正直」
「うん。今日の“ダサい部分”を一個ずつ出す」
ダサい部分。僕はそれを隠すために段取りをする。段取りは、鎧だ。
「じゃ、私から」真冬さんが言う。「私ね、あなたが疲れてると、怖い。置いていかれる気がする」
僕の胸がきゅっとした。置いていかれるのは、僕のほうだと思っていたのに。怖さは分け合えるんだ、と遅れて気づく。
「じゃあ僕」僕は言った。「僕ね、君を楽しませようとして、勝手に評価される側になってる。で、疲れる」
「うん」
「楽しませたいのに、楽しめてない」
「じゃあ改善」
「改善?」
「うん。運営と客、交代制にしよ。今日は私が運営。明日はあなたが運営。でも運営は“完璧禁止”。壊れたら、二人で直す」
完璧禁止。僕の耳に心地いい禁止だ。
真冬さんはチケットの裏側にペンで書き足した。
《不機嫌持ち込み禁止 ただし:しんどいは歓迎》
それを僕の胸ポケットに差し込む。
「これ、次の来場券」
「次も来る前提?」
「来る。閉園しない。うちは室内だから」
しょうもない冗談なのに、僕は笑った。今日は笑っていい日だ。
寝る前、僕はカゴのメモ帳を開いて、もう一行だけ書いた。
《安全バーは、締めるだけじゃなく緩める係》
書いて、ペンを置く。
真冬さんが隣で、指を二回こつんこつん。合図。今日の営業終了、の合図。
電気を消す。
外はまだ少し寒いのに、部屋の中だけ湯気の匂いが残っている。
僕は布団の中で、小さく言った。
「……また明日、開園」
隣で真冬さんが寝返りを打って、ぼそっと言った。
「入場料は?」
「無料」僕は即答した。「ただし、荷物置き場に“頑張りすぎ”を預けてから」
「よし。じゃあ明日はあなたが運営ね」
「了解。まず水を配って、次に笑いを一回」
真冬さんが満足そうに、こつんこつん。




