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短編集  作者: 科上悠羽
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『線を引く夜は、まだ終わらない』

 夜の工場は、昼より正直だ。蛍光灯の白さが嘘をつかない。油の匂いが誤魔化しを許さない。僕は塗料タンクの蓋を開け、棒でゆっくりかき混ぜた。底に沈んだ白が浮いてくる。白はきれいだ。きれいすぎて、だいたい汚れる前提で使われる。


「今日も、線か」

 自分で言って、自分で笑いそうになった。線“しか”じゃない。線“だから”だ。けど、言い方ひとつで胸の形が変わるのを、僕は知っている。だからこそ、わざと雑に言う夜もある。


 僕の仕事は道路標示の塗り替えだ。深夜、交通が薄くなってから、チームで出る。ローラー車と、警告灯と、反射ベストと、バケツ。白線、停止線、矢印、横断歩道。人が朝起きて何も考えずに渡る場所を、眠ってる間に作り直す。

 表に出ることはない。テレビにもならない。誰かが褒めてくれることも、ほとんどない。なのに、線が薄いとすぐ文句が来る。「見えない」「危ない」「ちゃんとして」。ちゃんとして、は便利な棍棒だ。投げた側は痛くない。


 昔の僕は、ちゃんとして、が嫌いだった。いや、今も嫌いだ。

 僕が嫌いなのは、ちゃんとして、の裏にいつも「お前の人生も」って小声がついてくるところだ。


 更衣室でベストを着ながら、スマホの通知を見ないふりをした。母からだと分かる。週に一度、同じ時間に来る。「元気?」「そろそろ落ち着いたら?」落ち着いたら、って何だろう。椅子に根を張ること? 正しい年齢の正しいルートを走ること? 僕は返信欄に何も打たず、電源を落とした。


 出発前、工場の隅のロッカーを開けると、古いスケッチブックが奥で息をしていた。表紙は湿気で波打ち、角は潰れている。僕が“昼の僕”だった頃、カンプと一緒に抱えて走ったやつだ。開けば、きれいな街のきれいな未来が並んでいる。人の流れは滑らかで、標識は完璧で、誰も転ばない世界。

 ページをめくって、僕は小さく舌を鳴らした。完璧すぎて、気持ちが悪い。あの頃はこれを「プロ」と呼んでいた。今なら分かる。これは“安全”じゃなく“無菌”だ。転ばない代わりに、走り方も選べない。

 僕はスケッチブックを閉じ、迷ってから、破らずに棚の上へ戻した。捨てるほど強くもないし、抱えるほど幼くもない。置く、という折衷を選ぶ夜があっていい。


 現場へ向かう途中、コンビニで補給をした。レジ前で支払いをしていると、背後から聞き覚えのある声がした。

「……柊? え、マジで?」

 振り向くと、元同僚の西園が立っていた。スーツがやけに綺麗で、靴が鳴らない。昼の匂いのする人だ。

「久しぶり」僕が言うと、西園は僕のベストを見て、口角だけを上げた。

「まだ、そんな感じの仕事してんだ」

 “そんな感じ”。便利な言葉だ。色も温度も乗せずに相手を下げる。僕は昔、同じ言葉を使ってしまったことがある。思い出して、胃がきゅっとした。

「うん。まだ」

「もったいねぇな。あんだけセンスあったのに」

 もったいない、も便利だ。本人の人生を、他人の台帳の残高みたいに扱える。

 僕は笑わなかった。笑うと、許したみたいになる。怒ると、同じ土俵に乗る。だから、事実だけを置いた。

「線が薄いと、事故る。俺はそれが嫌」

 西園は一瞬だけ黙って、すぐ鼻で笑った。

「正義感?」

「生活感」

 僕は袋を受け取り、店を出た。背中に視線が刺さった気がしたけど、振り返らなかった。分かってもらおう、なんてのは今日は要らない。線は、理解より先に役に立つ。


 バンの助手席に乗ると、後輩の藤間が缶コーヒーを投げてよこした。

「今日、寒いっすね。白、固まりそう」

「固まらせるな。手ぇ動かせ」

「はいはい。……先輩、最近また目がギラついてません?」

「寝不足なだけ」

「寝不足でギラつくの、才能ですよ」


 藤間は無邪気に言う。無邪気は刃を鈍らせる。僕は助かった気がして、窓の外の闇を眺めた。街は眠ってるのに、看板だけが元気だ。光る文字は、だいたい人を呼ぶ。呼ばれる場所がある人が羨ましい、と一瞬だけ思って、すぐ打ち消した。羨ましいを続けると、僕は自分を殴り始める。


 現場は国道の合流部だった。工事のために車線が変わる。迂回の矢印を引き直す夜。雨上がりで路面が少し湿っている。反射材が映える代わりに、塗料が伸びる。伸びると線が太る。太い線は、迷いを減らす。

 僕らはコーンを並べ、誘導灯を立て、スプレーの圧を確認した。古い線を削る音が、夜の腹に響く。削ると、下から別の白が出てくる。前の夜勤が引いた白だ。前の僕が引いた白かもしれない。誰の線かなんて、朝には分からない。分からないのが、この仕事の普通だ。


「先輩、ここ、角度どうします?」

 藤間がチョークで下書きをして言う。矢印の先が二つに割れる。右は合流、左は迂回。地図みたいな分岐だ。

「迷う奴が出る。もっと寝かせろ。戻ってこれる幅を残せ」

「戻ってこれる幅?」

「間違えた車が、戻れる。戻れると事故が減る」

「……戻るの、アリなんすね」

「アリだ。戻れない構造が一番危ない」


 言いながら、胸の奥が少し熱くなった。僕は“戻る”って言葉が好きじゃない。好きじゃないのに、必要だと知っている。戻らないで済ませようとした結果、僕は一度燃え尽きた。


 昼の僕はデザイン会社にいた。きれいなオフィスで、きれいな言葉を並べて、きれいな未来を売っていた。売ってるつもりだった。現実は、誰かの気分と予算の都合で、未来が毎日書き換わるだけだった。僕は徹夜で直し、朝に「やっぱ違う」と言われて笑った。笑ったまま胃が壊れた。ある夜、鏡に映った自分の目が、空っぽだった。

 そのとき僕は、擦り切れた“正しさ”を手放した。手放したというより、手から落ちた。握っていると痛かったから。痛いとき、人は賢くなる。賢くなって、逃げた。逃げて、今ここにいる。


 ローラー車が動き出す。白が路面に伸びる。僕はスプレーのトリガーを引き、矢印の輪郭を太らせた。湿った路面に白が吸い付いていく。線は、迷いの先に置くものだ。迷いが出る前に置けたら最高だけど、人生はいつも間に合わない。だから僕らは夜に来る。


 作業の途中、歩道の影から若い女が現れた。キャップを深く被り、ボードを抱えている。スケボーだ。規制線の外で止まり、こちらをじっと見ている。危ないから立ち去らせるべきだ。でもその目が、昔の僕みたいで、声がすぐに出なかった。

 藤間が先に声をかけた。

「ねえ、ここ入っちゃダメ」

「入らない。見てるだけ」女は言った。「この線、誰が決めてんの」

「国とか、市とか、色々」

「ふーん」彼女は鼻で笑った。「線で動かされるの、ダサくない?」

 藤間が困って僕を見る。僕はヘルメットの縁を指で押し上げ、言った。

「ダサいよ。だから必要」

「意味わかんない」

「線がないと、強い奴が勝つ。速い奴が勝つ。声がでかい奴が勝つ」

 彼女は黙った。雨の匂いが、言葉の隙間に入る。

「線があると、弱い奴も渡れる。迷った奴も戻れる。怖い奴も止まれる」

 僕は続けた。「自分が強いと思ってる奴ほど、線を笑う。線がなくても渡れるから」

「じゃあ、あんたは?」

 女が聞く。質問がまっすぐで、逃げ道がない。

「僕は……線がないと渡れない側だよ」

 言った瞬間、喉が熱くなった。情けなさじゃない。自白の熱だ。


 女はボードを抱え直し、少しだけ表情を崩した。

「ふーん。じゃあ、あんたの線、信用していい?」

「信用って言葉は重い」僕は笑った。「でも、明日の朝、ここで迷う人が減るように引く」

「迷ったら?」

「戻っていい」

 女は少しだけ笑った。笑いが小さくて、だから本物に見えた。

「じゃ、明日、見に来る。まだ白い?」

「白いよ。夜に引いた白は、朝に一番目立つ」

 彼女は踵を返し、闇に溶けた。足音が軽い。軽い音ほど、遠くまで届く。


 作業は夜明け前に終わった。最後の矢印を引き、乾燥剤を撒き、コーンを回収する。東の空が薄くなる。薄くなると、僕の胸の中の火種が少しだけ見える。消えないやつ。消したい時期もあったけど、消えないなら扱うしかない。


 バンに戻る途中、藤間が言った。

「先輩、さっきの話、かっこよかったっす」

「かっこよくねえ。仕事の説明だ」

「でも、なんか……生き方の説明みたいでした」

 僕は黙った。生き方なんて、説明できるほど立派じゃない。僕はあっちこっち迷って、遠回りして、何度も引き返して、今も正解を知らない。ただ、止まってないだけだ。


 工場に戻ると、空がすっかり明るかった。ベストを脱ぎ、手を洗う。塗料が爪の隙間に残っている。洗っても残る白は、今日の証拠だ。証拠は誰かに見せるためじゃない。自分が自分を信じるための、ちいさな根拠だ。

 スマホをつけると、母からの通知が増えていた。画面の上で点が揺れている。返信を書きかけて、消した。長文は要らない。今日は短いのを置く。


『落ち着くって、たぶん違う。けど元気。線を引いてる』


 送信して、少しだけ肩が軽くなった。理解されなくてもいい。けれど、連絡を絶つほど強くもなれない。弱さは残る。残るなら抱える。抱えた手が痛むなら、握り方を変える。


 工場の門を出たところで、僕は足を止めた。昨夜の合流部へ向かう道の角に、あのキャップの女がいた。夜じゃなく朝の光の中で見ると、年は高校生くらいに見える。ボードのデッキが擦れて、端が少し欠けていた。

「来たのか」僕が言うと、彼女は頷いた。

「見に来た。……白い。ちゃんと白い」

 彼女は規制が解けた歩道の端から、慎重にボードを置いた。タイヤが線の上を通ると、細い振動が足に返る。彼女は一度止まり、僕を見た。

「ねえ。昨日言ってたじゃん。戻っていいって」

「言った」

「戻るのって、ダサいって言われる」

「誰に」

「先生とか。先輩とか。『真っ直ぐ行け』って」

 彼女は唇を噛み、続けた。「自分らしく、っても言われる。……自分らしいって、何?」

 その問いは、夜より明るいのに、やけに重かった。

 僕は少し考えてから言った。

「いまの足の置き方。あれが“自分らしさ”に近い」

「は?」

「怖いのに、置いてる。転びそうなのに、置いてる。誰かの正解より先に、自分の足の感覚を聞いてる」

 彼女は眉をひそめたまま、もう一度ボードに乗った。今度は少しだけ速度を上げる。合流の矢印の手前で一瞬ふらついて、すぐ止まった。

「ほら、今、戻った」僕が言うと、彼女は悔しそうに笑った。

「戻った。……でも、死んでない」

「死なない。戻れる線があるから」

 彼女はボードを抱え、僕のベストの反射材を指さした。

「それ、光るのズルい」

「ズルくていい。夜のためのズルだ」

 彼女はしばらく迷ってから、ポケットから白いチョークを取り出し、歩道の端に小さく丸を描いた。丸の中に、矢印を一本だけ足す。

「これ、私の線。迷ったらここに戻る」

 そう言って、彼女はボードを持ち上げた。

「また夜に引くの?」

「引く。薄れたら」

「じゃあ、私もまた来る。……戻ってもいいって、忘れそうだから」

 彼女は最後に一度だけ手を挙げ、朝の人波へ混じっていった。欠けたデッキが、光の中で少しだけ綺麗に見えた。


 合流部の脇で、通学路を歩く子どもたちが見えた。ランドセルの列が、僕らの白線の上を、当たり前みたいに渡っていく。誰も線を見ていない。見ていないのに、線に守られている。

 僕はそこで、初めて笑った。派手じゃない笑い。胸の奥が少し温かい笑い。


 僕の人生は、誰かの採点表の上じゃない。

 真っ直ぐじゃなくてもいい。遠回りでも、引き返しても、線を引き直せばいい。

 止まらない理由は、立派じゃない。火種がまだ残ってる、それだけだ。


 僕は鍵を回し、部屋に入った。カーテンの隙間から春の光が刺さる。ベッドに倒れ込みそうになって、机の上のペンを見た。昨夜のチョークの粉がまだ付いている。

 僕はペンで小さくメモを残した。


《今日は、戻れる矢印を太くした》


 それだけで十分だ。明日また薄れたら、また夜に引けばいい。


 それでいい。

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