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短編集  作者: 科上悠羽
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『手の届く範囲の革命』

 直樹は、ため息の出し方だけが上手くなった。電話口で怒鳴られても、会議で理不尽を飲まされても、顔は動かさない。声も揺らさない。その代わり、肺の奥に小さな砂袋を一つずつ積む。積むと重い。重いのに見えない。見えないから、誰にも下ろせない。


 昼休み、屋上へ逃げて、缶コーヒーを開ける。プシュ、と鳴る音が、今日の自分の唯一の抵抗みたいで少し好きだ。飲むと甘い。甘いのに苦い。だいたい、全部そんな味だ。


 スマホのメモには、未送信の歌詞が百二十個ある。歌詞というより、言えなかった言葉の寄せ集め。直樹は夜になると、それを小さなメロディに乗せて、さらに言えなくする。言える形にするために、わざわざ歌に隠す。矛盾してる。けど矛盾のほうが、現実よりましだ。


 今日も、帰りの電車で上司のチャットが飛んできた。

『明日の資料、やっぱ差し替えで。先に全体構成見せて』

 直樹は目を閉じた。昨日「これで確定」と言ったのは誰だっけ。確定という単語の軽さに、腹が立つより先に笑いが出そうになる。笑うと、次に泣きそうになる。だから、画面を伏せた。


 駅を降りると、春先の風が妙に冷たい。吐く息は白くないのに、胸の内側だけ白い。直樹は自販機で温かいお茶を買って、手のひらを温めた。温めると、指が動く。指が動くと、やっと「帰れる」と思える。


 アパートの階段を上がる途中、ポケットの中でスマホが震えた。表示された名前は「タケル」。

 高校の同級生で、今も一緒に音を出している二人のうちの一人だ。直樹の“砂袋”を、たまに笑い話に変えてくれる人。


『今夜、スタジオ。来れる?』

 直樹は一瞬、既読をつけるのをためらった。来れない理由なら山ほどある。疲れてる。明日の資料。喉の調子。そもそも自分の歌が嫌い。理由は便利だ。理由があると自分を許せる。


 それでも、指が「行く」を打った。

 送信してから、遅れて心臓が騒ぐ。行くと決めた瞬間に、面倒が増える。面倒が増えるのに、少しだけ呼吸が深くなる。変な体だ。



 駅前のレンタルスタジオは、地下にある。階段を下りると、壁に貼られたライブのチラシが目に入る。知らないバンドの名前、知らない顔、知らない未来。若い音は勢いがある。勢いがあるほど、直樹は自分の年齢を数えそうになる。数えると、胸の砂袋が増える。


「お、来た」

 タケルがドアを開ける。ギターケースを背負ったままの姿が高校のころと変わらない。変わらないのに、目の下だけはちゃんと大人だ。

「遅い」

 もう一人、玲奈がドラムスティックを回しながら言う。短い髪。笑い方が雑で、だから救われる。

「遅くない。普通」

「普通って言うやつほど、普通じゃない顔」

 玲奈がそう言って、ペットボトルの水を投げてよこした。キャップを開ける音が、屋上の缶コーヒーの音よりずっと現実的だ。


 直樹は水を飲んで、ギターを取り出した。弦に指をかける。指先が少し痛い。痛いのは嫌いじゃない。痛いと「生きてる」が分かるからだ。

「新しい曲、どう?」

 タケルが聞く。

「どうって……」

 直樹は言葉を探して、結局ため息を飲み込んだ。

「なんか、足りない」

「またその顔」玲奈が笑う。「足りないの天才」

「天才じゃない。欠陥」

「欠陥でも動けば作品。動かない完璧は、ただの飾り」


 玲奈の言葉は乱暴だ。でも乱暴なほうが、直樹の砂袋に穴を開ける。穴が開けば、少し抜ける。


「来週、出る?」

 タケルがさらっと言った。

「え」

「駅裏の小箱。オープンマイク。十五分枠。うちら三人で」

 直樹は反射で首を振りそうになった。人前は嫌だ。評価が怖い。拍手が怖い。無反応がもっと怖い。怖さの種類が多すぎて、整理できない。

 だから直樹は、最悪の防御を使った。

「今、忙しい」

 タケルが目を細める。玲奈が即座に突っ込む。

「忙しいは永久機関」

「仕事が」

「仕事は明日もある。来週もある。十年後もある」

 玲奈がスティックで床を軽く叩いた。コツ、コツ。合図みたいな音。

「で? 本当の理由」


 直樹は口を開けて閉じた。言えば軽くなるのに、言うと自分が小さく見える気がする。小さく見えるのが嫌で、今まで大きいふりをしてきた。大きいふりが一番小さいのに。


「……怖い」

 直樹はやっと言った。

「何が」タケルが聞く。

「やって、ダメだったら」

 玲奈が笑った。

「ダメでも帰れる」

「帰れる?」

「うん。帰って、また来ればいい。帰れないのが一番ダメ」

 タケルも頷いた。

「うちら、帰り道だけは上手いじゃん」


 直樹はそこで、喉の奥が熱くなった。上手いと言われると照れる。照れるとごまかしたくなる。ごまかしそうになって、直樹はギターの弦を一本、軽く鳴らした。ピン、と乾いた音。自分を落ち着かせるための小さい音。


「……じゃあ、出る」

 言ってしまった。

 言った瞬間、世界が少しだけ広がる。広がったぶんだけ、怖さも広がる。けれど怖さは、広がると薄まることもある。布みたいに。



 ライブ当日。小箱は駅裏の雑居ビルの二階にあった。階段が急で、壁が近い。直樹の心臓は、その壁に何度も当たったみたいにうるさい。

 客席は十数人。照明は弱い。弱い照明は助かる。顔が見えないぶん、勝手な映画を再生しにくい。


 出番前、控室の隅で直樹はストラップを直していた。手が震える。震えると、また“忙しい”で逃げたくなる。逃げたくなる前に、玲奈が缶のジンジャーエールを差し出した。

「辛いの、飲め。余計な言葉が削れる」

 直樹は一口飲んで、むせた。喉が痛い。痛いのに、笑ってしまった。笑うと、少しだけ身体が戻る。


「一曲目、俺が歌う?」

 タケルが聞く。

「いや」

 直樹は首を振った。ここで譲ると、また次も譲る。譲る癖は、砂袋を増やす。

「俺が歌う」

 言った。声が思ったより出た。自分の声が自分に聞こえる。怖いけど、悪くない。


 ステージに立つ。ライトが熱い。マイクが冷たい。客席は暗い。暗いのに、誰かの目だけが光る気がする。気がするだけだ。たぶん。たぶんを口に出すな、と直樹は自分に言い聞かせた。


 最初のコードを鳴らす。指先が少しだけ痛い。痛いのは現実。現実は、想像より優しいことがある。

 直樹は歌った。上手くはない。格好よくもない。声は少し揺れて、息が時々足りない。でも、言葉はちゃんと前に出た。隠すための歌じゃなく、出すための歌になっていく。


 二曲目の途中、弦が切れた。

 パチン、という乾いた音。会場が一瞬だけ止まる。直樹の頭の中で裁判が開きかける。ほら見ろ、っていう声が湧く。終わりだ、っていう声も湧く。


 そこで玲奈が、ドラムを一発だけ強く叩いた。ドン。

 タケルが笑って言う。

「休憩! この人、今、頑張ってる最中です!」

 客席がくすっと笑った。笑いが刺さらない。刺さらない笑いは、救命具だ。直樹は深呼吸して、替え弦を張った。手が震える。震えるけど、手が止まらない。止まらないなら、続く。


「続き、いける?」

 タケルが小声で聞く。

 直樹は頷いた。

「いける。……今のほうが、いける」


 三曲目。直樹は歌いながら、客席の隅の一人を見た。知らない顔。なのに、頷いている。頷き方が、誰かに似ている。昔の自分かもしれない。

 直樹はそこへ向けて、言葉を一つだけ落とした。

 大丈夫、とも、頑張れ、とも違う、ただの事実。

「俺、まだ動ける」

 歌の中の一節じゃない。今の自分の宣言だ。


 最後の音が終わる。拍手が起きた。大きくない。だから抱えられる。抱えられる拍手は、次に持っていける。

 直樹は頭を下げて、ステージを降りた。降りた瞬間、足が少しだけ軽い。砂袋が減ったわけじゃない。でも袋の口が開いて、空気が入った。



 片づけの後、三人で駅前の牛丼屋に入った。ライブの反省会というより、ただの晩飯。こういう雑な締め方が、直樹は好きだ。特別にしないと続くから。


「どうだった」タケルが聞く。

「最悪と、最高が同居してた」直樹が言う。

「それ、成功じゃん」玲奈が笑う。

「成功の定義、雑」

「雑でいい。今日のあなた、雑に前に出た。それだけで勝ち」

「勝ち負け言うな」

「言う。動ける人、いるでしょ」


 直樹は笑って、牛丼に七味を振った。辛い。辛いと、余計な字幕が減る。

 帰り道、直樹はスマホのメモを開き、未送信の歌詞の一番上に一行だけ足した。


《終わらせない方法は、続けることじゃなく“戻る場所”を作ること》


 送らない。公開もしない。ただ、自分の中に置く。置けば、明日も拾える。

 店を出ると、夜風がまだ冷たい。でも指先はさっきより動く。動くなら、また弦を張れる。声も出る。


 直樹は駅のホームで、缶の温かいお茶を買った。カチャン、と乾いた音。

 それが、今日の二回目の抵抗だった。


 帰宅すると、隣の部屋から小さなリコーダーの音が漏れてきた。ひどい音程。ひどいのに、一生懸命な息。音が裏返るたびに、直樹はさっきの弦の音を思い出してしまう。

 廊下で顔を合わせた小学生くらいの男の子が、ランドセルを抱えたまま言った。

「おにいさん、うるさかった?」

 直樹は首を振った。

「うるさくない。……今、練習中?」

「うん。でも、むずい。指が言うこと聞かない」

「分かる」

「分かるの?」

「分かる。指って、急に裏切るから」

 男の子は少し笑った。笑ったあと、真面目に聞く。

「どうしたらいい?」

 直樹は少し考えて、短く言った。

「一回だけ、息を深くしてから押す。焦ると指が迷子になる」

「息?」

「うん。息は裏切りにくい」

 男の子は頷いて、ドアの向こうへ戻っていった。


 部屋に入った直樹は、鏡の前で自分の喉に手を当てた。熱はない。けれど奥に、まだ小さな火が残っている。消えない火は面倒だ。でも、面倒だからこそ、手入れをする価値がある。


 寝る前、上司からまた通知が来た。

『やっぱ明日、午前中に方向性だけ先に。急ぎで』

 直樹は一瞬、いつもの「承知しました」を打ちそうになって止まった。

 代わりに、今日のステージのライトを思い出す。あの熱。あの冷たいマイク。あの“止まらない手”。


 直樹は、短く打った。

『確認に10分ください。全体を見直してから返します』

 送信して、スマホを伏せる。胸の砂袋が一つ、床に降りた気がした。全部は無理でも、一つなら下ろせる。下ろしたぶんだけ、明日の喉が少し軽い。



 翌朝、屋上で直樹は缶コーヒーを開けた。プシュ。

 昨日と同じ音なのに、今日は少し違う。抵抗の音じゃなく、開始の音に聞こえる。

 直樹は欄干に肘をついて、遠くの線路を見た。電車が流れる。人が流れる。流れの中に自分も混ざる。混ざるのに、溺れない場所を一つだけ持てた気がした。


 スマホのメモを開き、未送信の歌詞の下にさらに一行足す。

《砂袋は消えない。だから穴を開ける。水を入れる。声を入れる》

 送信しない。誰にも見せない。

 それでも、この一行があると、今日は少しだけ胸を張れる。大きくじゃない。見栄を張るためでもない。

 ただ、自分の足元を確かめるために。


 午前のフロアで、上司が直樹の席に来た。眉が上がっている。いつもならここで直樹は縮む。

「10分って、長くない?」

 直樹は息を吸って吐いて、昨日の拍手を思い出した。抱えられるサイズの拍手。

「長いです。でも、間違えたまま早く出すほうが長いと思います」

 上司は一瞬だけ黙って、結局頷いた。

「……まあ、そうだな。じゃ、頼む」

 それだけ。世界は壊れなかった。


 隣の席の新人が、小さくメモを差し出してきた。

「すみません、これ……聞いてもいいですか」

 直樹は反射で「大丈夫」と言いかけて、やめた。

「うん。今、五分なら」

 新人の顔がふっとほどける。ほどけた顔を見ると、直樹の胸の砂も少しだけ動く。

 助ける側に回ると、自分の呼吸も戻る。ずるいくらい単純だ。


 直樹は缶を空にして、立ち上がった。

 仕事へ戻る。夜にはまた音を出す。うまくいかない日も来る。弦もまた切れる。喉もまた詰まる。

 でも、そのたびに戻る場所は作れる。


 手の届く範囲で、革命は起きる。

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