『後ろ髪の係員』
「もう、出し切った。悔いはない」
そう言った瞬間、自分の喉が自分に舌打ちした気がした。言葉は立派なのに、声が軽い。軽いくせに、胸のど真ん中だけがざわつく。ざわつきは、忘れたふりをしたものほど元気だ。
終電ひとつ前。駅前の小さなビルのエレベーターで、僕はギターケースを抱えていた。ケースは軽い。中身はさらに軽い。弦を外して、指板を拭いて、もう鳴らないようにしてきたからだ。
鳴らないようにするのは簡単だ。鳴らしたい気持ちを片づけるのが難しいだけで。
四階の「回収所」は、たいていの夢を箱に入れてくれる。古い家電、壊れた傘、使わなくなった趣味の道具。ここに預ければ、朝になったら世界から消える。そう思っていた。
扉の前で受付の紙に名前を書こうとしたとき、背後でコツ、とヒールが鳴った。
「それ、捨てるんですか」
振り返ると、黒いコートの女が立っていた。年齢は分からない。顔立ちは派手じゃないのに、目だけがやけに明るい。名札には、ど真ん中に丸い字でこう書いてある。
《あとで》
「……ここ、一般の人は入れないはず」
「係です。いちおう」
「係?」
「後ろ髪の係。ほら、あなたの首のあたり、まだ引っ張られてる」
僕は思わず首をさすった。確かに、寒いわけでもないのに皮膚が薄い。
「何ですか、それ」
「便利でしょ。肩書きみたいに言えるから。で、捨てる理由は?」
「理由?」
「理由がないなら、ただの気分。気分で捨てると、あとで回収に来る羽目になりますよ」
言い返そうとしたのに、言葉が出なかった。図星だったから。
僕は社会人八年目、三十六歳。大学の頃から続けてきたバンドは、三年前に自然消滅した。自然、という言い方は優しい。正確には、誰も言わないまま疲れて散った。
それでも僕は、部屋の隅にギターを置いていた。鳴らす日が来ると思って。来ない日も続くのに。
「今さら、何をどうしたって」
「どうしたって、って言葉、好きですね。便利だから」
女は腕を組んで、さらっと言った。
「全部をひっくり返す必要はないですよ。ひとつだけ、直すとか。ひとつだけ、足すとか」
「ひとつだけで、何が変わる」
「変わる。ひとつは、ひとつ分の現実です」
名札が、妙に腹立つ。こっちはずっと“あとで”に殺されてきたのに。
僕はケースの取っ手を握り直した。
「じゃあ、あなたは何なんです。説教係?」
「違います。うるさい同居人です」
女は笑った。笑い方が、遠慮を知らない。
「呼び名、欲しいなら付けてください。『厄介さん』でも『おせっかい』でも。私はたぶん、どれでも返事します」
返事する、という単語に胸がきゅっとした。返事が欲しかった。誰かに。自分に。
「……分かった。厄介さん」
「はい。厄介です」
女は胸を張ってから、急に真面目な目をした。
「それで。捨てたら、何が楽になります?」
「……見なくて済む」
「見たら?」
「自分が嫌になる」
「何が嫌?」
「出来なかったことが増える」
「出来なかった、の証拠が置いてあるから?」
女は一拍置いて、言った。
「証拠、増やすの得意ですね。あなた」
僕は笑いそうになって、笑えなかった。
女は代わりに、受付の机の端を二回、こつんこつんと叩いた。
「提案。今夜は捨てません。預けます」
「同じじゃない?」
「違う。預けるのは、戻れる」
「戻らないけど」
「戻るかどうかは明日のあなたが決める。今夜のあなたは疲れてる。疲れてる判断は、だいたい極端です」
極端。僕の得意技だ。白か黒か。やるかやらないか。完璧かゼロか。
そのせいで、僕はいつもゼロを選びがちだった。ゼロは安全だ。失敗しないから。
「じゃ、預けるって何をすれば」
「箱に入れない。ただ、鍵をかける。明日まで」
女は受付の用紙をひょいと取って、僕の代わりにチェック欄に丸をつけた。
《一時保管:一泊》
「はい。今日の分の“勝ち”」
「勝ち負けやめてください」
「勝ち負けにすると動ける人、いるでしょ」
またそれだ。世の中はしつこい。
書類を受け取って、僕は急に手が空いた。空いた手が、落ち着きなくポケットを探す。スマホ、鍵、レシート。
女は僕の手元を見て、ふっと笑った。
「次。帰り道に、ひとつだけやりましょう」
「何を」
「あなたの“ざわつき”に、名前を付ける」
「名前?」
「名前が付くと、扱える。扱えると、少しだけ仲良くなれる」
*
駅前のコンビニの前で、女は立ち止まった。看板の光が黒いコートに反射して、妙に正しそうに見える。
「ここ、最近『一言箱』があるんです」
入口横の小さな箱。紙とペン。
《今日の一言、置いてってください》
誰かの字が何枚も刺さっている。
《眠いけど起きた》
《謝らずに言えた》
《洗濯だけは回した》
小さい。小さいのに、生きてる。
「書きなさい」
「命令ですか」
「お願い。命令だと反発する顔なので、お願い」
女はくるりと名札を裏返した。裏にはこう書いてある。
《いま》
腹が立つ。さっきまで《あとで》だったくせに。
でも、腹が立つほど効く。
僕はレシートの裏に書いた。短く。飾らず。
《終わらせたいのに、終われない》
書いて、箱に入れた。紙が落ちる音は、驚くほど軽い。
「それで?」女が聞く。
「それだけです」
「うん。それだけで十分。次にやることは?」
「次?」
「ひとつだけ、なんとかする。覚えてます?」
女は指を一本立てた。
「全部は無理。だから一個。あなたの一個は何」
僕はしばらく考えて、口を開いた。
「……連絡」
「誰に」
「昔のバンドの、ドラム」
「いいね。今夜?」
「今夜は無理」
女が眉を上げる。
「“今夜は無理”は、逃げですか、保留ですか」
嫌な質問だ。正しい質問でもある。
僕は息を吸って吐いて、答えた。
「保留。明日の昼までに送る」
「採用」
女は満足そうに頷いて、突然、歩き出した。
「じゃ、私は帰ります」
「え、どこに」
「あなたの胸の隅っこ。居心地がいいので」
「勝手に住むな」
「勝手に住みます。厄介なので」
そう言って女は、人波の中に紛れて消えた。黒いコートだけが、しばらく目に残った。
*
翌日。
昼休みの屋上は風が強かった。僕はスマホを握って、打っては消して、また打っては消した。
『元気?』は軽すぎる。
『久しぶり』は逃げ道が多い。
『またやろう』は重い。
僕の指は、相変わらず極端だ。
そこで僕は、昨日の箱の紙を思い出した。小さい一言。小さいのに前に出るやつ。
だから僕は、こう送った。
『急にごめん。今夜じゃなくていい。近いうちに、15分だけ話せる?』
送信。
画面が静かになって、心臓だけがうるさい。
返事が来るまでの数分、僕は空を見上げた。雲が早い。雲はいつも忙しい。忙しいのに、ちゃんと形がある。
ピロン。
返事は短かった。
『15分なら。今週のどこかで』
僕は笑ってしまった。笑うと、涙が出そうになる。涙はごまかしじゃない。水分だ。
僕は水を飲んで、屋上の手すりを二回、こつんこつんと叩いた。合図。極端にならない合図。
その週の金曜、駅の高架下の喫茶店で、僕は彼と向かい合った。
名前は深見。昔はドラムのスティックを回して、僕のテンポを笑って崩してくるやつだった。今は指に絆創膏を貼っている。子どもの工作で切ったらしい。人は生活の中で成長する。成長は派手じゃない。
「で、どうした」
深見はミルクを落としてコーヒーを混ぜた。音がしない。やたら上手い混ぜ方だ。
「……やめたくなった」
「やめたくなるのは分かる。俺も、毎週やめてる」
「毎週?」
「月曜に“もう無理”。金曜に“まあ来週”。人生って週刊誌」
くだらなくて、僕は笑ってしまった。笑えると、話せる。
僕は言った。回収所のこと。弦を外したこと。黒いコートの女のこと。
深見は最後に頷いて、短く言った。
「お前さ、派手な逆転を狙うから苦しいんだよ。全部戻すの、しんどいだろ」
「……うん」
「一曲でいい。十五分でいい。体力の範囲で鳴らせ。俺は今、夜更かしすると翌日が死ぬ。若くない」
その言い方が妙に現実的で、だから信じられた。
「じゃ、来週。スタジオ、三十分だけ」
深見が言った。
「三十分?」
「十五分じゃ物足りない顔してる。けど一時間は重い。だから三十分」
僕は笑って、頷いた。
「三十分、なら」
約束ができると、手の中に小さな地図が増える。地図があると、極端が減る。
スタジオ当日。
僕は久しぶりに弦を張った。指先が痛い。痛いけど、嫌じゃない。現実の痛みは、想像の痛みよりマシだ。
最初の音は見事にひっくり返って、深見が腹を抱えて笑った。笑い声が刺さらない。刺さらない笑いは、僕の味方だった。
「ほら」深見が言う。「上手くいかないのが通常運転」
「通常運転、うるさい」
「うるさいくらいでいい。静かだと死ぬ」
僕らは三十分だけ鳴らして、汗をかいて、最後にコンビニで肉まんを買った。これが僕らの“打ち上げ”だ。安くて、温かい。小さい幸せは、見逃さなければちゃんと残る。
*
仕事帰り、僕はあのビルへ戻った。回収所の受付で、一泊保管の札を出す。
係員が言った。
「取りに来ました?」
「……まだです」
自分でも驚くほど、言葉がすっと出た。
「もう一泊、お願いできますか」
「できますよ」
係員は淡々と丸をつける。現実は意外と折れない。
外へ出ると、黒いコートの女が柱にもたれていた。名札は《いま》のまま。
「どうでした」
「返事、来ました。会った。鳴らした」
「良かった」
女はあっさり言う。褒めすぎない。だから信じられる。
「でも、まだ怖い」
「当然。怖さは、あなたが真面目な証拠」
「真面目って便利な言葉だ」
「便利だけど、今日は使っていい」
女は肩をすくめて笑った。
「で、次は何を一個やる?」
「……このギター、回収所から出すかどうか、決める」
「お。大きい一個」
「大きいから、決めないかもしれない」
「決めないのも決める、です」
名札が、また腹立つ。効く。
僕はしばらく黙って、最後に言った。
「……出す。部屋の隅じゃなく、玄関の近くに置く」
「それ、いい。鳴らす可能性が近くなる」
女は満足そうに頷いた。
「完璧は要りません。正解も不正解も、だいたい後から勝手に貼られる。あなたはあなたの答えを探せばいい」
探す。答え。
急に格好いい言葉になりそうで、僕はむっとした。
「格好つけないでください」
「はいはい。じゃあ雑に言います」
女は笑って、手をひらひらさせた。
「転びながらでも、歩け。以上」
僕はそこで、やっと素直に言えた。
「……ありがとう」
「何が」
「付きまとってくること」
女は目を細めた。
「厄介って、たまに役に立つでしょ」
「役に立たなくていいから、静かにしてほしい日もある」
「ある。だから約束。静かにしてほしい日は、先に水を飲んで言いなさい」
「命令ですか」
「お願い。命令だと反発する顔なので、お願い」
僕は笑って頷いた。
女は踵を返して、人波へ溶けていく。
去り際に、振り向かずに言った。
「じゃ。もう少しだけ、あなたの隅っこにいます」
僕は小さく返した。
「……もう少しだけなら」
夜風はまだ冷たい。
でも、指先は昨日より動く。
動くなら、もう一回くらい、弦を張れる。
僕はポケットの中で、こつんこつんと指を鳴らした。
合図。まだ終わらせない、の合図だ。




