『封を切る前の甘さ』
小さな工房の一番奥に、僕は「言わない棚」を持っている。ガラス瓶に詰めた試作品、失敗して形がいびつになった飴、採用されなかった包み紙。どれも捨てれば軽いのに、捨てない。捨てない代わりに、棚に押し込んで「また今度」と言う。
また今度、は便利だ。自分に優しい顔をして、未来の自分に丸投げできる。
工房の名は《ユキヒラ飴店》。由緒があるように聞こえるけど、実態は僕ひとりの小商いだ。元々は菓子メーカーの試作部署で、味見と報告書だけで胃をすり減らしていた。ある日、上司に「君は角がないね」と言われて、なぜか腹が立って辞めた。角がないんじゃない、削れてるんだよ、と喉まで出たのに飲み込んだまま。
飲み込むのは、癖だ。
褒め言葉に見せかけた棘も、謝りたい気持ちも、好きだと言いたい衝動も、いったん喉で握りしめてから別の形にする。冗談に混ぜたり、説明で薄めたり、タイミングを理由に先延ばししたり。
口から出たときには、安全な温度になっていて、だから相手に届く前に冷める。
僕はそれを「大人になった」と呼んでいた。呼んでいたけど、たぶん違う。
今は、角の代わりに砂糖を削っている。鍋で煮詰め、温度を見て、香りを入れる。甘いだけじゃ足りない。酸っぱいのも、ちょっと苦いのも、噛みごたえも、舌に残るざらっとしたものも、全部ちょっとずつ混ざると「生きてる味」になる。
僕はその“ちょっとずつ”が好きだ。ちょっとずつなら、怖くない。
工房の棚には、商品になった飴の隣に、小さな札が立っている。
《本日分》
《試作中》
《寝かせ中》
そして、奥に一枚だけ、僕が勝手に立てた札がある。
《近日公開》
公開って、誰にだよ。と自分で突っ込みたくなる。けれどこの札があると、僕は「まだ終わってない」と言える。言えると、少しだけ呼吸が通る。
今日は祭り前の大仕事だ。商店街の春イベントで、うちの飴を配ることになっている。数は千。包み紙の中に、短い言葉を仕込む企画まで乗った。
企画を持ってきたのは、隣の花屋の店主、七海さんだった。
「ね、飴ってさ。口に入れる前に、まず包み紙を見るでしょ」
七海さんは店先のチューリップを揃えながら言った。
「見るね」
「その一秒に、言葉を入れよ。短いやつ。誰かが今日を好きになるやつ」
「……短いの、難しい」
「だから面白いんじゃん。あなた、長い説明で逃げる癖あるから」
刺さる。けど七海さんは刺して終わらない。刺したあと、水を出してくれる人だ。花屋の裏でいつも湯が沸いていて、「質問より先にお茶」が出る。そういう“手順の優しさ”が、僕には効く。
言葉は全部で百種類。千個だから、同じ言葉が十回ずつ出る計算だ。
僕は夜な夜な紙を切り、細い字で書いた。手が震えると字が踊る。踊る字は嫌いじゃない。真面目に書こうとすると、言葉が固まるから。
作業台の横では、試作品の飴を噛む。味見という名目の、現実逃避でもある。甘い、すっぱ、渋い、やけに粉っぽい。うまくいかない味ほど、記憶に残る。残るから、次に直せる。直せると、少しだけ誇らしい。
《今日は、ちゃんと呼吸した》
《転んだら、笑って座れ》
《遠回りは、地図の余白》
《眠いなら、眠いと言え》
《あと一口、ゆっくり》
《見栄より先に水》
《迷ったら、確認》
《しょげたら甘い》
《言えないなら書け》
どれもそれっぽい。どれも本物っぽい。なのに僕の胸は妙にざらついた。
それっぽい言葉は、僕が昔から得意なやつだ。誰にも怒られない。誰も傷つけない。だから、誰にも届かない時がある。
紙の山の端に、真っ白な短冊が一枚残っていた。
そこには、どうしても書けない一言がある。宛先は七海さん。祭りの打ち上げで言うつもりだった。言うつもりで、二年経った。
“言うつもり”は、棚に並べると立派に見える。二年分の棚は、もはや壁だ。
僕は白い短冊を指先で弾いた。紙は軽いのに、胸が重い。
嘘を書けば楽だ。「ありがとう」とか「助かった」とか、言いやすい言葉に逃げれば、それで終われる。
でも、嘘は嫌いだ。嘘をつくと、舌の奥がささくれ立つ。ささくれは、寝る前に必ず痛む。
僕はペンを置いて、代わりに“近日公開”の札をその短冊の横に立てた。
逃げじゃない、保留。そう言い訳しながら。
翌朝、工房のチャイムが鳴った。
七海さんが、段ボールを抱えて立っていた。花束の注文票と、飴の配布マップの束。やることが“面”で来る人だ。
「準備、順調?」
「順調……の、ふり」
「ふり禁止」
七海さんは笑って、カウンターの上の小瓶を指でつついた。中には試作品の飴が入っている。
「これ、今日の味?」
「今日の味。柑橘と、塩をちょっと」
「いい。春って甘いだけじゃないもん」
そう言って、七海さんは包み紙の束を覗き込んだ。
「わ、言葉、かわいい。……ん? この注意書き何」
僕は慌てて紙を隠した。祭りの配布用ボードに貼る予定だった紙だ。
《お願い:中身の言葉は、読むだけで。写真投稿は控えてください》
「え、投稿しちゃだめ?」
「だめっていうか……」
僕の口が、いつもの曖昧を探しにいく。
「言葉、ネタバレになるでしょ。誰かが“当たった”って楽しむやつだから」
「ネタバレ、って。飴の言葉で?」
「うん。……僕の中で、飴はちいさな舞台だから」
七海さんは少し目を丸くして、次にふっと笑った。
「舞台、ね。じゃあ今日の主演は?」
「……飴」
「脇役は?」
「……包み紙」
「じゃあ脚本家は?」
七海さんは僕を見た。逃げられない目で。
「あなたでしょ」
僕の喉が乾いた。
脚本家、という言葉が嫌いじゃないのは、僕が“言えなかったこと”をいつも脚本に隠してきたからだ。冗談に混ぜて、別の言葉の背中に貼って、さらっと渡して、届かなかったら「まあいいか」で済ませる。
そうやってずっと、半分だけ生きてきた。
祭り当日。商店街の通りは、風船と屋台と笑い声で膨らんでいた。
僕は飴の箱を運び、子どもたちに手渡し、包み紙の言葉が読まれる瞬間を横目で見た。
「『眠いなら、眠いと言え』だって!」
「それ、先生に言う!」
声が跳ねる。跳ねる声を見ると、胸の奥がふわっとする。良かった。届いてる。少なくとも、どこかには。
ただ、現代の“どこか”は、紙より先に画面へ走る。
中学生くらいの女の子が、飴を並べて写真を撮ろうとしていた。友だちが「ストーリー上げよ!」と笑う。
僕は慌てて、でも怒らない声を探して言った。
「ごめん、それ、できれば……」
「え、だめなの?」
「うん。……今日は“当たり”を内緒にしたい」
「当たり?」
「開けるまでのワクワクが、味の半分だから」
自分で言って、ちょっと恥ずかしくなった。けど女の子は「わかる」と言ってスマホを引っ込めた。
わかる、が出ると救われる。わかるが出ると、僕はまた“言っていい”と思える。
ところが昼過ぎ、七海さんが険しい顔で走ってきた。スマホを差し出す。
画面には、飴の包み紙をずらっと並べた写真があった。
「ごめん、これ。もう上がってる」
誰かが「全部集めた!」と誇らしげに投稿している。言葉は全部、見えてしまっている。
僕の胸が、ずんと沈んだ。
怒りは出なかった。出る前に、諦めが手を伸ばす。便利な防御。
「……まあ、こうなるよね」
言った瞬間、七海さんが僕の腕を軽く叩いた。
「それ、やめて。今の“まあ”は、逃げるやつ」
僕は口をつぐんだ。
逃げる癖は、止められると痛い。痛いのに、止めてもらうと助かる。
そのタイミングで、スマホが震えた。元同僚からの連絡だ。
『戻らない? 君の席、空けてある』
昔なら、その一文に縋っていたかもしれない。空いてる席、という言葉は甘い。甘いけど、棘がある。
僕は既読をつけずに、スマホをポケットに戻した。今は別の甘さを守りたい。
「じゃあさ」七海さんが言った。
「ネタバレされたなら、ネタバレされない言葉を渡しなよ」
「え」
「写真に写らないやつ。画面に残らないやつ。……あなたが、今ここで言うやつ」
祭りの喧騒が遠のいた。
僕の耳に残ったのは、鍋の中のぐつぐつという音みたいな心臓の騒ぎだけだった。
言うやつ。今ここで。
それは、棚に並べられない。
「七海さん」
声が少し裏返った。
「うん」
「僕、ずっと……」
言葉が詰まる。詰まると冗談が出てきそうになる。冗談で逃げたら、また二年経つ。
僕は深呼吸して、短くした。短くするのは怖いけど、短くしないと届かない。
「好きです」
言えた。
言った瞬間、世界が壊れると思った。壊れなかった。屋台の呼び込みは続き、子どもは走り、風船は揺れた。世界は僕の告白に興味がない。だから助かった。僕は今日も生きられる。
七海さんは一拍、黙った。
それから、ふっと息を吐いて笑った。
「やっと、包み紙やめた」
「……うるさい」
「うるさくていい。顔、今、人間」
七海さんは頷いて、僕の胸の前のエプロンの紐を指でつまんだ。
「で、返事。私も、好き」
言い方が、生活の温度だった。派手じゃない。だから抱えられる。
「ただし」七海さんが続けた。
「急に全部は無理。あなたの“棚”が厚すぎるから」
「……はい」
「だから、手順。まずは十五分。毎週、どっかで。お茶でも飲んで、今日のこと一個ずつ話す」
「十五分」
「うん。甘いの一粒分。噛んで、飲み込めるサイズ」
僕は笑って頷いた。
不思議と、悔いはなかった。悔いはない、じゃない。悔いはまだある。でも、悔いが“次の材料”に変わった感じがした。
まだまだ、って言葉が、今日は逃げじゃなく未来に聞こえた。
夕方、僕らは配布の箱を片づけながら、最後に残った白い短冊を見つけた。
僕が書けなかった一枚。
七海さんがそれを指で弾く。
「これ、何を書くつもりだったの」
「……とっておき」
「じゃあ書けば。今」
僕はペンを取って、短冊に書いた。たった一行。
《続きは、顔を見て渡す》
七海さんが笑った。
「投稿できないね」
「うん。投稿できないのが、いい」
「じゃ、約束。今日のこれは、二人だけのやつ」
「約束」
打ち上げ代わりに、僕らは花屋の裏で湯を沸かし、飴を一粒ずつ食べた。甘い。ちょっと塩。噛むと、最後に柑橘が立つ。
七海さんが言う。
「ねえ、あなたさ。まだ他にも“近日公開”あるでしょ」
「ある」
「いつ公開するの」
「……焦らない。公開は、勝手にするものじゃない」
「じゃあ?」
「一緒に増やす。味も、生活も」
七海さんが頷いて、カップを持ち上げた。
「乾杯は嘘っぽいから、代わりに“確認”。今日、ちゃんと言えた」
「うん。確認。今日、ちゃんと言えた」
帰り道、工房のシャッターを下ろす音が、いつもより軽かった。
言わない棚は、まだある。全部は捨てない。捨てなくていい。
ただ、棚にしまいっぱなしにしない。
甘いのも、痛いのも、渋いのも、ざらつきも、全部混ざった今日を、ちゃんと噛んで、飲み込む。
翌朝、僕は「言わない棚」の札を外して、裏返しにした。そこに書いた新しい文字はこれだ。
《寝かせ棚》
言わない、じゃなくて、寝かせる。時間を味方にして、でも逃げない。そんな棚にする。
僕はポケットの中で、飴を一粒転がした。
包み紙にはもう、何も書いてない。
だからこそ、明日からは僕の口が働く。少しずつ、まだまだ。




