『許可証の穴あけパンチ』
「大丈夫?」って聞かれると、反射で「大丈夫」と答えてしまう。
それは礼儀みたいで、習慣みたいで、たぶん癖だ。
癖は便利だ。相手を困らせない。空気を止めない。自分の中だけを削って済む。
その日、遥斗は削りすぎて、ついに芯が出た。
朝の改札で、同僚に肩を叩かれて「顔白いよ」と言われた瞬間、笑って返そうとした口が、ふっと止まった。
「……白い」
自分の声が、他人みたいに薄かった。
会社に着くと、机の上に「至急」が三つ並んでいた。
至急は、だいたい人の心を急がせる。心が急ぐと、手順を飛ばす。手順を飛ばすと、もっと急ぐ羽目になる。
遥斗はそれを知っている。知っているのに、今日も飛ばした。
午前中だけで、二回ミスをした。
数字を一桁落とし、添付ファイルを間違え、直しているうちに別の案件が燃える。燃える案件は、火が見えないタイプの火事だ。チャットが赤く点滅して、謝罪文テンプレが脳内で走り回る。
「大丈夫?」
隣の席の先輩が言った。
遥斗は口を開いた。大丈夫、と言う準備が整っていた。いつものように、喉で言葉を薄めて、角を丸めて、相手に渡す。
ところが、今日は違った。
「……大丈夫じゃない」
自分で言って、自分で驚いた。
先輩の目が丸くなる。丸くなった目は、責める目じゃない。現実を見る目だ。
「どこが」
「頭が、ぐるぐる」
「いつから」
「たぶん、ずっと。でも今朝、ちょっと折れた」
先輩は頷いて、椅子を引いた。
「じゃ、手順。まず水。次、五分だけ外に出る」
「え、今?」
「今。壊れたら今日全部止まる。五分なら止まらない」
五分。
それは仕事の世界で唯一、許される短さだ。
遥斗は水を飲んで、廊下へ出た。自販機の前で立ち尽くし、冷たい缶を握った。缶の冷たさは嘘をつかない。握れば現実に戻る。
「で、何が一番きつい」
先輩が聞く。
遥斗は、答えを探した。仕事? 疲れ? 睡眠? 全部?
探しているうちに、喉の奥から出てきたのは、妙に小さい言葉だった。
「……許可がない」
「許可?」
「休んでいい許可。間違えていい許可。遅れていい許可」
言ってしまうと、情けなくて笑いそうになる。
先輩は笑わなかった。代わりに、ポケットからメモ帳を出した。
穴あけパンチみたいに、小さなホッチキスで紙を留めて、ペンで書く。
《許可証》
《今日:イッツオーライ》
「はい」
先輩が紙を渡した。
「……ふざけてます?」
「ふざけてる。ふざけると持てる。重いと落とす」
「でも、これ」
「効くよ。効かなかったら、次の手順に進むだけ」
遥斗は紙を受け取った。
字が雑で、だから本気に見えた。綺麗な字は飾りになることがある。雑な字は生活に刺さる。
*
午後、遥斗は机に戻った。
まず、チャットに一行打った。
『確認に10分ください。整えてから返します』
送信して、息を吐いた。たった一行で、火事の火が一段落ちる。火は消えてない。でも、燃え広がらない。
次に、ミスした案件の相手に、謝罪じゃなく“状況”を書いた。
『添付を誤りました。正しい版を添付します。以後、送信前に二重確認します』
謝るのは必要だ。でも謝って終わらせない。終わらせると、また同じ火が出る。
それでも夕方には、体がまた重くなった。
許可証の紙をポケットで触る。紙の角が少し折れていて、その折れが妙に落ち着く。折れた紙は、使った証拠だ。使った証拠は、今日を肯定する。
定時を過ぎたころ、先輩が言った。
「今日は帰れ」
「でも、これが」
「それ、明日でいい。今日の分の許可証、使い切れ」
遥斗は頷いて、パソコンを閉じた。閉じる音が、やけに軽い。
軽いのに、罪悪感が来る。罪悪感は律儀だ。帰るときに必ずついてくる。
けれど罪悪感にも、許可が要る。
(来ていい。でも居座るな)
遥斗は心の中でそう言った。言っただけで、少しだけ楽になる。
*
帰り道、遥斗はコンビニに寄った。
何かを買う理由を探して、結局、温かい肉まんと、猫用のちゅーるを手に取った。猫は一人暮らしの相棒だ。名前はまだ決めていない。決めると重くなる気がして、ずっと「おい」って呼んでいる。
部屋に入ると、猫が玄関まで出てきた。
目が「遅い」と言っている。猫の目は字幕が要らない。
「ごめん」
言ってから、遥斗は許可証の紙を猫の前に置いた。
「今日さ、これ貰った」
猫は紙を嗅いで、興味なさそうにそっぽを向いた。
その態度が可笑しくて、遥斗は笑った。笑うと肩が落ちる。肩が落ちると息が通る。
電子レンジで肉まんを温める。湯気が立つ。湯気は正直だ。
遥斗は一口かじって、熱さに目を細めた。
(熱いの、いいな)
仕事の熱さじゃなく、食べ物の熱さ。生活の熱さ。
猫にちゅーるを出す。猫は当然みたいに舐める。舐める速度が早い。
「イッツオーライ」
遥斗は小声で言ってみた。
猫は返事をしない。返事をしないのに、喉の奥の固さが少しだけほどける。
風呂のあと、遥斗は机の上の紙を一枚取って、ペンで丸を描いた。
グレーの丸。昨日より少し薄い。薄い丸は、今日の体力の形だ。
丸の横に、短く書く。
《許可証》
そして、下にもう一行。
《今日は、帰った》
派手じゃない。けど、本物だ。
遥斗は許可証の紙を穴あけパンチで二つ穴にして、クリアファイルに綴じた。
妙に事務的で、だから続きそうだった。事務的なものは、感情に振り回されにくい。
*
翌朝、遥斗は少しだけ早く家を出た。
駅前の大通りで、昨日の自分を思い出しそうになって、ポケットの中の許可証を触った。紙の折れが、合図みたいに指に当たる。
会社に着くと、先輩が言った。
「顔、戻ってる」
「戻ってないです。仮復旧」
「仮復旧で十分。完全復旧は時間がかかる」
先輩は笑って、机の端をこつんこつんと叩いた。
「今日も許可、出すぞ」
遥斗は頷いて、キーボードに指を置いた。
今日の最初の一通は、昨日と同じ形にした。
『確認に5分ください。整えてから返します』
送信。
胸の奥で、小さな風が通る。
イッツオーライは、魔法じゃない。
ただの許可。
ただの手順。
ただの穴あけパンチ。
でも、その“ただの”があると、今日が転ばずに済む。




