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短編集  作者: 科上悠羽


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『余白に色を置く』

 数年前、駅前の大通りで、ひとりのスーツの男を見た。

 スマホを耳に押し当て、誰もいない空に向かって何度も頭を下げている。通行人の流れの中で、その人だけが妙に小さく、妙に必死で、妙にみっともなかった。


 そのときの僕は学生で、手にはコンビニのコーヒー、足取りだけは無駄に軽かった。

(ああはなりたくないな)

 頭の中で言って、口元だけで笑って、通り過ぎた。

 通り過ぎるのは得意だった。気になるものを「自分には関係ない」に分類して、視界の外へ押しやる。それで、世界はいつも自分の都合の形に見えた。


 ――で、今。

 僕はその場所で、同じ姿勢をしていた。


 スマホの画面に表示されているのは取引先の名前。終電ひとつ前の駅前は風が冷たくて、僕の声は勝手に小さくなる。相手の怒気が耳の奥で反響して、足元だけがやけに現実的だ。


「大変申し訳ありません。確認不足で……はい、はい。すぐ、差し替えます」


 頭を下げる。下げた先には、アスファルトの濡れた斑点がある。雨上がりの匂いがする。斑点はどれも同じに見えて、近づくと形が違う。僕の未来もそうならいいのに、とどうでもいいことを思った。


 通り過ぎる若い男が、こちらをちらりと見て、含み笑いをした。

 その角度が、あの日の僕にそっくりだった。

 胸の奥が、薄い紙みたいにぺらっとめくれた。


 電話を切ると、僕の手のひらは汗で湿っていた。指先が冷たい。汗は熱いのに冷たい。矛盾した体の反応が、いちばん恥ずかしい。


「……ただいま」


 返事のない部屋に言って、僕は玄関で靴を揃えた。揃えると、生活が整った気がするからだ。

 六畳より少し広いワンルーム。壁は白い。白いのに、白いまま放ってある。カレンダーはめくられていない。机の上には「いつか」の紙が積まれている。


 ベッドの端で、猫がこちらを見た。

 名前は、まだ決めていない。決めると重くなる気がして、ずっと呼び方を保留にしている。

 僕は猫の前にしゃがみ込んで、指先を鼻先へ差し出した。

 猫はくん、と匂いを嗅いで、面倒くさそうに瞬きをした。許可とも拒否ともつかない、生活の顔。


「ねえ」

 僕は猫に言った。

「僕、なんでこんなに頭を下げる人になったんだろ」


 猫は返事をしない。代わりに、僕の足元で丸くなる。丸は、言葉より強いときがある。


 テーブルの上のスマホが震えた。

 通知の名前は、久しぶりの同級生――なお

 高校の頃、いつも中心にいた男。体育祭も文化祭も、なぜか彼の周りだけ光が強かった。僕はその隣にいるだけで、少し格上げされた気分になっていた。


『明日、取材でこっち来るんだ。夜、飯行ける?』


 直は今、表に出る仕事をしている。画面の中で笑って、冗談を言って、拍手を受ける側だ。見るたび、羨ましいのに、羨ましいと言うのが悔しくて、僕は毎回チャンネルを変えてしまう。


 返信欄に「忙しい」と打ちかけて、止めた。

 忙しいは永久機関だ。打てば打つほど、自分が薄くなる。

 僕は代わりに、短く返した。


『行ける。22時なら』


 送信した瞬間、胸の奥で「やっちゃった」が鳴った。

 約束を入れると、逃げ道が減る。逃げ道が減ると怖い。

 怖いのに、少しだけ呼吸が通る。これも矛盾だ。



 翌日。

 オフィスの空気は相変わらず乾いていた。誰かが誰かのミスを笑い、誰かが誰かの手柄を羨み、誰かが「自分は違う」と思っている。僕も例外じゃない。


「また営業がやらかしたってさ」

 隣の席の先輩が、チャットを見ながら鼻で笑った。

「ほんと、ああいうのダサいよな」


 ダサい。便利な言葉だ。

 言うと自分が少し上に立てる気がする。

 立てる気がするだけで、手の中には何も残らないのに。


 僕はキーボードの上で指を止めた。

 昨日、含み笑いをされた時の熱が、まだ喉の奥に残っている。

 僕は先輩の笑いに合わせなかった。合わせたくなかった。


 昼前、総務から「キャリアシート提出」の通知が来た。

 五年後、どうなっていたいか。身につけたいスキル。挑戦したい役割。

 画面の質問は立派なのに、僕の答えは薄い。薄いくせに、胸だけがざらつく。

 医者、弁護士、歌手、料理人。子どもの頃に憧れた肩書きを、僕は全部“きらきらしたもの”として眺めていただけで、どれも自分の手の中に入れたことがない。

 眺めるのは得意だ。掴むのが下手だ。


 画面の隅に、メモが開きっぱなしになっていた。


《やりたいこと》


 見出しだけがあって、内容がない。

 白紙のままの「夢」は、飾りより残酷だ。


 昼休み、僕はビル裏の文具屋に入った。

 目的はなかった。目的があると、また「出来る人」になろうとしてしまう。

 店の奥で、筆ペンが目に留まった。黒、グレー、淡い青。三色セット。

 色の名前がやけに綺麗で、逆に胡散臭い。


 僕はその中から、いちばん地味なグレーを買った。

 派手な色は怖い。似合わない気がする。

 でも、真っ黒だけだと、世界はすぐ水たまりみたいに滲む。



 夜、直と会ったのは駅前の小さな居酒屋だった。

 直は相変わらず、いるだけで場が明るくなる。

 けれど近くで見ると、目の下にちゃんと疲れがある。光る人も、光りっぱなしじゃない。


「久しぶり。元気?」

「まあね」

「まあね、って便利だよな」

 直は笑って、ビールを注文した。


 乾杯のあと、直はすぐに核心を突いてきた。

「お前さ。最近、声が薄い」

「声が?」

「うん。言ってるのに、居ない感じ」


 僕は笑って誤魔化そうとして、やめた。

 今日は逃げ道を減らした日だ。

「昨日、駅前でさ。頭下げて謝ってたんだよ」

「仕事?」

「仕事。で、ふと、昔の自分を思い出してさ。ああいう大人、ダサいって笑った自分」

 直は黙って聞いて、箸で枝豆を一粒つまんだ。

「で、お前は今、ダサい側?」

「……ダサい側」

「いいじゃん」


 あっさり言われて、僕はむっとした。

「よくないだろ」

「よくない、って言いながら、ちゃんと頭下げたんだろ」

「当たり前だ」

「当たり前が出来るの、強いよ」

「強いとか言うな。重い」


 直は笑った。

「じゃあ軽く言う。生きてる」

 その言い方が、妙に刺さった。

 強い、より、生きてる、のほうが現実だった。


 直はビールを一口飲んで、少しだけ視線を落とした。

「俺もさ。派手に見えるかもしれないけど、毎回怖いよ。次、滑ったら終わりって思う」

「直でも?」

「直でも。だから、俺は“終わり”を先に決めないようにしてる」

「どうやって」

「小さく刻む。今日の取材が終わったら、コンビニで肉まん。明日が怖くても、とりあえず肉まん」


 僕は噴き出してしまった。

 馬鹿みたいだ。馬鹿みたいなのに、救われる。

 肉まんは未来を保証しない。けれど、今を暖める。今が暖まれば、明日まで持つ。


「お前はさ」直が続けた。「やりたいこと、あるだろ」

「ない」

「ないって言う割に、目がうるさい」

「……分かんないだけ」

「分かんないなら、まず色を一つ決めろ」

「色?」

「どんな色でもいい。黒だけやめろ。黒は便利だけど、すぐ全部を塗り潰す」


 僕はポケットの中のレシートを指で折った。

 今日、買った筆ペンのレシート。

 グレー。

 僕はそれを握りしめて、言った。

「グレーなら、ある」

「最高じゃん。グレー、いちばん難しい色だぞ」


 直は笑って、僕の肩を軽く叩いた。

「まだ、やれるだろ」

 冗談みたいに言うのに、押しつけがましくない。

 行けるかどうかは僕が決める、って余白がある。



 店を出た帰り道、雨上がりの歩道で、紙をばらまいて慌てている人がいた。

 スーツの女性だ。片手でスマホ、片手で資料。足元の紙が風にめくれて、追いつけない。

 僕は一瞬だけ躊躇した。手伝えば、時間が遅れる。終電が近い。面倒、という言葉が喉元まで来る。

 でも昨日の“含み笑い”が、また脳裏に浮かんだ。


「大丈夫ですか」

 僕は言って、紙を拾った。

 女性は顔を上げて、息を吸って、吐いた。

「……助かります。本当に」

 その言葉は、軽いのに、胸に残った。


 僕は紙を揃えながら、思った。

 頭を下げるのは、みっともないんじゃない。

 掴みたいものがある人の、手順なのだ。

 昨日の僕も、たぶんそうだった。


 女性が去って、僕は駅前の大通りに出た。

 あの場所だ。

 同じ街灯、同じタイル、同じ風。

 でも、僕の目はもう笑う側じゃなかった。



 帰宅すると、猫が玄関まで出てきた。

 昨日より一歩近い。

 僕は靴を揃えて、手を洗って、テーブルに紙を広げた。

 筆ペンのキャップを外すと、インクの匂いがする。新品の匂いは、少しだけ未来の匂いに似ている。


 僕は紙の真ん中に、丸をひとつ描いた。

 綺麗な丸じゃない。歪む。滲む。手が震える。

 それでも、丸は丸だ。

 丸の横に、小さく書いた。


《今日の僕の色》


 猫が机に飛び乗ってきて、鼻先で紙を嗅いだ。

 インクの匂いが気に入らないのか、少しだけ顔をしかめる。

 その顔が可笑しくて、僕は笑った。

 笑うと、胸の奥の水たまりが、少しだけ蒸発する気がした。


 スマホが震えた。取引先からの追いメール。

 いつもの僕なら、即座に「申し訳ありません」を量産する。

 今日は、まず短く打った。


『確認に5分ください。整理して返します』


 送信して、息を吐く。

 窓の外は雨上がりで、街灯の光がアスファルトに滲んでいる。

 滲みは嫌いじゃない。

 滲むなら、そこに別の色を置けるからだ。


 僕はもう一つ、紙に線を引いた。

 丸から外へ伸びる、短い一本。

 目的地は書かない。

 書いたら急に重くなるから。

 でも、線があるだけで、今日が「ここで終わらない」感じがする。


 猫がその線の上に前足を置いた。

 肉球の跡が、薄く紙に残る。

 消える跡だ。けれど僕は、消える前にペンで小さく丸を打った。

 ここにいた、の印。


 最後に、キャリアシートの画面を開いた。

 空欄のままの質問が、相変わらず立派な顔をしている。

 僕はそこに、たった一行だけ打った。


『まずは、黒以外の色を増やす』


 正解じゃない。大きな夢でもない。

 でも、嘘じゃない。

 小さい言葉は、明日まで持つ。


「……よし」

 僕は猫に言った。

「明日も、ひとつだけ」


 猫は返事をしない。

 代わりに、尻尾の先を一回だけ揺らした。

 合図みたいに。


 僕は電気を消す前に、もう一度だけ丸を見た。

 グレーの丸は、派手じゃない。

 でも、ちゃんとそこにある。

 それで十分だ、と思えた。


 あの日のスーツの男も、たぶんそうだったのだろう。

 みっともないんじゃなくて、何かを掴むために頭を下げていた。

 僕はようやく、その景色を笑わずに見られる側へ来た。


 布団に入ると、猫が足元で丸くなる。

 丸が二つ。

 明日の色はまだ分からない。

 分からないけど、線は引ける。

 それだけで、今日はちゃんと終われた。



 翌朝、僕はいつもより五分早く家を出た。

 理由は特にない。理由があると、また自分を追い立てるから。五分は、追い立てずに増やせる余白だ。


 駅前の大通りに差しかかると、ちょうど一人のスーツの男性が立ち止まっていた。

 スマホを耳に当て、背中を小さく丸めて、何度も頭を下げている。

 僕は足を止めかけて、でも止めなかった。代わりに、通り過ぎる瞬間だけ、心の中で言った。

(今、掴みにいってる)


 その少し先で、若い男がまた含み笑いをしていた。

 僕は昨日より少しだけ背筋を伸ばして、視線を逸らさずに歩いた。

 勝ち負けじゃない。自分の映画に戻らないための、ただの手順。


 昼休み、コンビニで肉まんを買った。

 直の冗談の残り香みたいな選択だ。熱い袋を握ると、指先が現実に戻る。

 帰り道、猫用のちゅーるも一緒に買ってしまって、僕は自分で自分に呆れた。

 でも、呆れる程度の甘さは、生活にちょうどいい。


 夜、机の上のグレーの丸の隣に、もう一つだけ小さな点を打った。

《肉まん》

 意味は薄い。けれど薄い点が増えるほど、世界の輪郭は少しだけ濃くなる。

 僕はその点を眺めて、笑いながら呟いた。


「行けるかどうかは、明日決める。今日は、ここまで」

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