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短編集  作者: 科上悠羽


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『ガイドブックにない近道』

 終電ひとつ前のオフィスは、紙の匂いが勝つ。コピー機が唸り、蛍光灯が白く、机の上のペットボトルだけが妙に生活感を主張している。

 加瀬かせは椅子にもたれ、口の中で「もう無理」をゆっくり転がしていた。声に出さないのは、出した瞬間に本当になるからだ。


「ねえ、加瀬」

 隣の席の真鍋まなべが、伸びをしながら言った。彼のデスクには、展示会用のメジャーが一本置きっぱなしになっている。いつもなら片づけるのに、今日は誰も片づけない。片づけない夜は、だいたい“明日”が重い。

「なに」

「測っていい?」

「何を」

「理想と現実の距離」


 加瀬は笑いそうになって、笑わなかった。笑うと、ここに居座ってしまう気がしたからだ。

「測ったら増えるだろ」

「増えるね。だから測る。増えたぶん、笑ってから寝る」


 真鍋はメジャーの先を、机の端に軽く引っかけた。

「ほら。ここが理想。で、ここが現実」

「現実、どこだよ」

「今の君の顔」

「やめろ」


 二人の仕事は、販促イベントの段取りだ。立派な言葉で言えば“体験設計”。実態は、チラシの校正、机の配置、搬入ルートの確認、スポンサーのご機嫌取り。夢を売ってる顔をしながら、夢が詰まった段ボールを運ぶ。


 今日の案件は、地方の商店街の春まつり。いつもなら、外注で済ませる規模だ。なのに予算が削られ、スタッフも削られ、最後に残ったのが加瀬と真鍋だった。

「結局さ」真鍋が言う。「やるか、引くか、しか残らないんだよね」

「引く、って言ったらどうなる」

「誰かがやる。で、誰かが燃える。たぶんそれ、俺らが見たくないやつ」

「……見たくない」


 加瀬はペットボトルの水を飲んだ。喉を通ると、頭の中の字幕が一枚だけ薄くなる。

「真鍋。正直、俺はもう、派手なことをやりたくない」

「知ってる。派手なことって、派手に疲れる」

「うん」

「でもさ」真鍋はメジャーをくるくる巻き取りながら言った。「派手じゃない“やる”なら、まだ持てるんじゃない?」

「なにそれ」

「小さいやつ。指先でつまめるやつ」


 真鍋が引き出しから、白い紙を一枚出した。そこに太い字で書く。

《寄り道案内所》

「……案内所?」

「春まつり、来るのって地元の人ばっかだろ。地図も案内もいらない。だから逆をやる。ガイドブックに載らない、気が楽になる道だけ集める」

「気が楽になる道?」

「うん。近いじゃなくて、転ばない。急がない。腹が減らない。そういうやつ」

「そんな道、売れるか」

「売れないかもしれない。でも、やりたい」


 真鍋の“やりたい”が出ると、加瀬の胸が少しだけ動く。動いてしまう。こういう瞬間があるから、しぶとく続いてしまう。


「……お前さ」加瀬は言った。「昔、でかいステージやりたいって言ってたじゃん」

「言ってたね。ライト浴びて、派手に成功して、派手に燃え尽きるやつ」

「燃え尽きるの前提やめろ」

「前提、そうだったんだよ。俺、燃えないと価値ないと思ってた」

 真鍋は肩をすくめて笑う。

「でも今は、火じゃなくて“風”が欲しい。息が通るやつ。ほら、ここの空気、詰まってるだろ」

 加瀬は黙って頷いた。詰まっている。酸素じゃなくて、余白が。


「材料は?」加瀬が聞く。

「ない」

「ないのかよ」

「ない。でも、二人ならなんとかなる気がする。昔からそうじゃん」

 真鍋はさらっと言う。加瀬はその言い方に弱い。過去の武勇伝じゃない。“今の弱さ込み”で言ってくるからだ。


 翌朝、二人は商店街へ下見に行った。駅前のメイン通りは派手で、旗が揺れて、パン屋の匂いが強い。けれど加瀬が気になったのは、一本裏の路地だった。洗濯物が揺れ、猫が丸くなり、古い自販機の明かりが昼でも眠そうに光っている。

「ここ、いいな」

「ここ、行き止まりだよ」

「行き止まり、好きだな俺たち」

「好きじゃない。慣れてるだけ」


 路地の突き当たりには、小さなベンチがあった。誰かが勝手に置いた木箱みたいなやつ。その横に、手書きの札が立っている。

《ここで一回、息を整えてください》

 加瀬は思わず笑った。

「誰だよ、これ」

「たぶん、同業者。人生の」


 二人はメモ帳を開き、路地の“良さ”を拾い始めた。坂が緩い場所、風が抜ける角、日陰が続く道、店先の水が出るところ。地味すぎて、だから効くやつ。

 途中、真鍋が急に立ち止まった。

「加瀬、これ見て」

 工事中の看板が立っていて、路地の先が塞がれていた。昨日まで通れたらしい抜け道が、今日だけ封鎖されている。

「……最初の客、詰むじゃん」

「詰むね」

「笑って言うなよ」

「笑うしかない。ほら、現実ってこういう顔してくる」


 加瀬はメジャーを取り出して、看板の前でふざけて測った。

「理想と現実、三メートル」

「近いのが腹立つな」

「近いから刺さる」

 二人で笑って、結局、迂回路を探した。一本隣の細道。少し遠い。けれど、段差が少なくて、手すりがある。

「……こっちのほうがいいじゃん」

「そう。塞がれたおかげで見つかった。現実、たまに役に立つ」

「言い方」


 その日の夜、二人は地図を作らなかった。代わりにカードを作った。

《風の通る角》

《段差が少ない》

《人の流れが薄い》

《自販機がある》

《座れる》

 裏には短い一文だけ。説明じゃなく、許可の言葉。

《ゆっくりでいい》

《止まっていい》

《引き返していい》


 春まつり当日。二人のブースは、メイン通りじゃなく、あえて路地の入口に置いた。手作りの立て看板にはこう書いてある。

《寄り道案内/急がないルートあります》

 派手な飾りはない。代わりに、紙コップと水のポット。椅子を二つ。風鈴を一つ。音が軽いと、人は立ち止まれる。


 開始十分で、実行委員の男性がやってきた。腕組み、眉間に皺。仕事の顔だ。

「君たち、ここ地味すぎない? もっと目立つのを――」

 加瀬は反射で「すみません」を出しそうになって止めた。代わりに真鍋が、笑って言った。

「地味にしないと、止まれない人がいるんですよ」

「……止まれない人?」

「はい。今日の俺たちとか」

 委員は一拍黙って、結局「まあ…事故がないならいい」と去った。加瀬は小さく息を吐いた。

「今の、強いな」

「強くない。逃げ道作っただけ」


 最初の客は、意外にもスーツ姿の男性だった。手にはスマホ、目は忙しい。なのに足が止まった。

「……ここ、何ですか」

「寄り道の案内所です」真鍋が即答する。「最短じゃない道を案内します」

「最短じゃない?」

 男性は眉をひそめて、でも立ち去らない。加瀬はその“立ち去らない一秒”を掴んで言った。

「今日は何を探してます?」

「え……駅まで。急いでて」

「じゃあ、急がない駅までを出します」

 加瀬が言うと、男性は噴き出した。

「何それ」

「ほら、急ぐと転びません? 人混みで」

 男性は一拍考えて、頷いた。

「……転びました、昨日」

「じゃ、今日は転ばない道。階段少なめ、信号少なめ、途中で水が買える道」

 加瀬は地図を広げず、矢印だけを描いた。矢印の横に、店の名前じゃなく“目印”を書いた。赤い自販機、古いベンチ、風の抜ける角。

「これ、分かるかな」

「分かります。……なんか、肩が落ちた」

 男性は紙を受け取り、少しだけ笑って去っていった。


 二人目の客は、ベビーカーの母親だった。

「駅までの近道、あります?」

 真鍋が聞き返す。「近いがいい? 平らがいい?」

「……平らがいい」

「了解。ついでに、泣いたら一回止まれる場所も入れます」

 母親の目が丸くなって、次にふっとほどけた。

「泣くの、私です」

「そっちでOKです」


 三人目は、制服の高校生だった。友だちに囲まれてるのに、目だけが迷子だ。

「……駅じゃなくて、家まで」

「家、どっち?」加瀬が聞く。

「……分かんない。今日、帰りたくない」

 友だちが慌てて「おい」と肩を叩く。加瀬は手を上げた。

「大丈夫。今ここ、答え出す場所じゃないです」

 高校生は目を丸くした。真鍋がカードを一枚渡す。

《座れる》

「これ、行け。十分だけ。十分経ったら、もう一回だけ“今どうしたい”って聞け。答えが出なかったら、もう十分延長していい」

 高校生は「……変な大人」と言いながら、カードを握りしめた。握りしめる手が震えてないのを見て、加瀬は少しだけ安心した。


 昼を過ぎると、案内所はじわじわ忙しくなった。最短を求めない人が、意外と多い。疲れている人、迷っている人、なんとなく座りたい人。


 昼過ぎ、空が一度だけ暗くなって、急な通り雨が来た。屋台の人たちが慌ててビニールを被せ、太鼓の音が少しだけ遠のく。路地の入口の案内所は、屋根がない。加瀬は反射で上を見て、次に真鍋を見る。

「詰んだ?」

「詰んでない。ほら、椅子ある」

 真鍋は椅子を二つ寄せて、即席の屋根にした。そこへ、雨に追われた人が何人か滑り込む。合羽を忘れたおじいさん、抱っこ紐の母親、制服の子。

「すみません、ちょっとだけ……」

「どうぞ。ここ、雨宿り枠もあります」

 真鍋が言うと、皆が小さく笑った。笑うと、雨音がただのBGMになる。


 その中で、小学生くらいの男の子が、唇を噛んで立ち尽くしていた。目がうるうるしているのに、泣かない。泣かないのがえらいせいで、余計に危ない。

「迷子?」加瀬がしゃがんで聞く。

 男の子は首を振って、でも声が出ない。代わりにポケットから、ぐしゃぐしゃの紙を出した。そこには走り書きの電話番号と、「おかあさん」とだけ。

「……えらい」加瀬は言って、まず水を紙コップに注いだ。「飲める?」

 男の子がうなずく。ひと口飲むと、喉が動いて、やっと声が出た。

「……さっき、はぐれた」

「OK。じゃあ、今から“戻る”をやる」

 加瀬は案内カードから一枚抜いた。《人の流れが薄い》。

「人が多いところに戻ると、またはぐれる。だから薄い道で、放送が聞こえる場所まで行く」

 真鍋が傘を二本持ってきた。「二人で挟む。真ん中、君」

 男の子は少しだけ笑った。三人で歩き出す。雨の中、路地の角を曲がるたびに、加瀬は“ここを通す”感じがした。道を案内しているというより、気持ちの置き場を運んでいる。


 放送の近くで、母親が走ってきて男の子を抱きしめた。泣いて、笑って、謝って、また泣く。加瀬はその一連を見ながら、胸の奥がふっと緩むのを感じた。

「ありがとう、ほんとに……」

「いえ。戻れる道、たまたま知ってただけです」

 たまたま、じゃない。昨日、わざわざ探した。けれど、そう言うと重くなるから、加瀬は言わなかった。代わりに、真鍋が小さく付け足した。

「次、はぐれたら、まず水です」


 加瀬は気づいた。みんな、道が欲しいんじゃない。道を選ぶ許可が欲しいんだ。


 夕方、片づけの時間。立て看板を畳み、風鈴を外し、紙コップを重ねる。売上は、正直たいしたことがない。けれど、加瀬の胸は妙に軽かった。軽いのに、浮かれてない。地面に足がついた軽さだ。

「どうだった」真鍋が聞く。

「……やったな、俺ら」

「やったね。ダサいくらいに」

「ダサいの、今日の武器だった」

「うん。格好つけると、すぐ壊れるから」


 二人は路地の突き当たりのベンチに座った。あの札は今日も立っている。息を整える場所。勝手に残るやつ。

 加瀬はポケットから、あのメジャーを取り出した。真鍋の机から借りてきたやつだ。

「また測るのか」

「測らない」加瀬は言って、メジャーをベンチに置いた。「今日はもう、数字いらない」

「じゃあ何が要る」

「……次」

 加瀬はベンチの板を軽く叩いた。こつん、と乾いた音。

「来年もやる?」

 真鍋は即答しなかった。代わりに空を見て、鼻で笑った。

「来年のことは分かんない。でも、次の週末なら、やれるかも」

「小さく刻むの、得意だな」

「大きいと逃げるからね」

「逃げてもいいけどな」

「逃げるなら、戻れる道も一緒に作れ」


 月曜の朝、オフィスはまた紙の匂いだった。現実は律儀に戻ってくる。スポンサーからのメールも、上司の「今日中」も、変わらない。

 加瀬は席に着く前に、真鍋の机にメジャーを戻した。代わりに、机の端に小さなカードを一枚置く。

《止まっていい》

 真鍋が気づいて笑う。

「持ち帰った?」

「持ち帰った。現実にも置ける」

「じゃあ、次の案件でもやる?」

「やる。派手じゃなくていい。まず一個」

 加瀬はキーボードに指を置いて、最初の返信を短く打った。

『確認に5分ください。整えてから返します』


 送信した瞬間、胸の奥に小さな風が通った。

 大げさな革命じゃない。けれど、戻れる近道が一つ増えた。

 加瀬は、画面の端に貼ったカードを指でこつんと叩いた。

 今日は、これで十分だ。


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