『雨粒の名札』
雨の日の路地は、音が少ない。車の走る音が遠くなって、店の看板も眠ったふりをする。そのぶん、余計なものが聞こえる。たとえば、段ボールが擦れる音とか、排水溝の水が落ちる間合いとか、それから――やけに小さな、息みたいな鳴き声。
最初に見つけたのは、会社帰りの角だった。傘の先から雨がつつ、と落ちる場所。古い自転車が並ぶ壁の陰で、黒いかたまりが震えていた。
猫だ。たぶん。濡れた毛がぺたっとして、体が猫の形を忘れている。
「……おい」
声をかけると、かたまりは反応した。反応はしたけど、逃げない。逃げる元気もないのだろう。
俺はマンションの規約を思い出した。ペット不可。つまり、持ち帰るのはアウトだ。アウトは分かる。分かるのに、足が動かない。こういうとき、人は「正しさ」で動けなくなる。
傘を畳んで、鞄からタオルを一枚取り出した。コンビニで買った安いやつ。仕事の汗拭き用、という建前だった。
建前は、時々ちゃんと役に立つ。
猫の背中を軽く包むと、驚くほど温度が低かった。冷たいのに、まだ生きてる。
俺はタオルで水分を吸って、段ボールの端を少しだけめくった。中に入りたそうな空気がある。
「……ここ、使う?」
猫は、目を細めた。返事じゃない。けれど、許可みたいな瞬きだった。
*
次の日、俺は同じ角に寄った。
いつもなら最短で駅へ向かう。残業帰りは、最短が正義だ。けど、あの角の「余計な音」が、頭の中で消えなかった。
猫はいた。段ボールは少しだけ乾いていて、奥から二つの目がこちらを見た。
俺は息を吐いて、買ってきた小さな缶詰を置いた。開けると、匂いだけで胃が鳴った。猫の胃も鳴ったらしい。鳴って、でも近づかない。
「用心深いな」
俺は一歩引いた。引くのが下手な人間ほど、動物には嫌われる。俺は自分の性格を知っている。急ぐ。決めたがる。正しさで押す。
押すと、たいてい関係がささくれる。
だからその日から、俺は「押さない手順」を作った。
缶詰はここ。
水はここ。
段ボールはここ。
触らない。
追わない。
見てるだけ。
ルールを書くと大げさになるので、頭の中だけで言った。頭の中なら、守れる確率が少し上がる。
猫は、三日目に距離を半分にした。
五日目に、缶詰の皿を舐めた。
七日目に、俺の靴を一度だけ嗅いで、くしゃみをした。
くしゃみの音が、やけに偉そうで、俺は笑ってしまった。
笑ったら、猫が肩を揺らした。笑ったのか、震えただけなのか分からない。分からないけど、分からないままでも良かった。
*
名前は聞けない。
当たり前だ。猫は名刺を持っていない。けれど、呼ぶときに困る。困るから、人は勝手に名前を付けたがる。所有の第一歩みたいに。
俺はそれが怖かった。
名前を付けたら「うちの子」になる。
うちの子になったら、規約の壁にぶつかる。
壁にぶつかると、俺の心が暴れる。
暴れるのが一番迷惑だ。猫にとって。
だから俺は、名前の代わりに、呼び方を変えた。
「おい」
「こら」
「来るな」
「……来い」
どれも、まともな名前じゃない。
でも、どれも俺の現実だった。
猫は、呼んでも来ない日が多い。
なのに、気づくと足元にいる日がある。
いつの間にか、段ボールから出て、俺の影の端に座っている。
呼吸の音だけが、そこにある。
俺はそういう距離感に弱い。
「好きです」より、「いる」のほうが刺さる。
言葉がないぶん、逃げ道がないから。
*
ある朝、壁紙がひらひらしているのに気づいた。
玄関脇の、よくぶつかる角。いつの間にか、細い傷が増えている。犯人は、だいたい分かる。
俺は溜息をついて、補修テープを貼った。
貼りながら、なぜか笑えた。
怒るほどでもない。
でも、気づいたら直してる。
これ、生活だ。
夜、俺が床に座ってスマホを触っていると、猫が近づいてきた。
近づいて、俺の膝に前足を置いた。
置いて、すぐ引っ込めた。
「置いた」だけ。抱っこじゃない。甘えじゃない。たぶん確認だ。
俺は動かずに、指先だけで頭を軽く叩いた。
叩くというより、触れる。
猫は嫌そうな顔をした。嫌そうなのに、逃げない。
その矛盾が、たまらなく可笑しかった。
「なあ」
俺は、誰にでもなく言った。
「お前、何が好きなんだ」
猫は返事をしない。返事の代わりに、俺の膝の横へ丸い体温を置いた。
体温があるなら、今日の答えはそれで十分だ。
それから少しずつ、家の中の“置き場”が増えた。
窓辺に古い座布団を一枚。段ボールじゃなく、ちゃんとした場所という顔をした布の島。
猫はそこへ飛び乗って、外を見た。俺のほうは見ない。見ないのに、尻尾の先だけが、たまに動く。
素っ気ない態度は、嫌いじゃない。甘えられるより、信用されるほうが嬉しい日がある。
寝る前に電気を消すと、猫は必ず一度だけ、部屋の見回りをした。小さな足音が、畳を軽く叩く。最後に俺の枕元へ来て、しばらく立ち止まる。
見張りなのか、確認なのか分からない。
分からないけど、その“間”があると、俺は眠れた。
ある朝、俺が悪夢でうなされて飛び起きると、猫が胸の上に座っていた。重い。地味に重い。目が合うと、妙に真剣な顔でこっちを見ている。
俺は笑いながら息を吐いた。
「……朝メシ、まだだな」
猫は当然みたいに目を細めた。
その顔が可笑しくて、俺はスマホで写真を撮った。口が半開きのまま寝落ちしてる猫と、寝不足で変な顔の俺。
出来は最悪だった。でも消さなかった。最悪なのに残すのは、たぶん、俺なりの肯定だ。
*
春が進むと、路地の匂いが変わった。
雨の日が減って、猫の毛がふわっと膨らむ。
毛が膨らむと、姿がちゃんと猫になる。
猫が猫になるだけで、俺は妙に安心した。
そんなある日、角の段ボールが消えた。
空っぽの地面だけが残っている。
缶詰の皿も、水の皿もない。
俺は立ち尽くして、すぐに「仕方ない」を探した。
野良だし。
季節だし。
誰かが保護したかもしれないし。
全部、正しい。
全部、俺を黙らせる。
その夜、俺は部屋の空気が急に薄くなったのを知った。
換気扇を回しても、薄い。
窓を開けても、薄い。
薄いのは空気じゃなくて、俺の気持ちのほうだ。
俺は台所で、鶏肉を茹でた。味付けはしない。猫が好きそうな匂いだけで十分だ。
皿に盛って、窓辺の座布団の前に置く。
誰も来ないのに、置く。
置いて、笑ってしまった。
「……来るなって言ったのに」
独り言は軽い。軽いのに、喉が詰まる。
翌日、管理人室に行った。
自分でも驚くくらい、足が勝手に動いた。
管理人の佐々木さんは、新聞を畳みながら俺を見た。
「どうした、顔が探し物の顔だ」
「……猫、見ませんでした?」
「黒いやつか。昨日、向かいの奥さんが抱えてたぞ。病院に連れてくって」
その一言で、胸がほどけた。
ほどけたのに、まだざらつく。
俺は、続けて聞いてしまった。
「……どこの病院か、分かります?」
「知りたいか」
佐々木さんは少しだけ笑った。
「知りたいなら、聞いてやる。ただし、追いかけて壊すなよ」
「壊しません」
俺は即答した。
即答が早すぎて、自分でも可笑しくなった。
*
夕方、俺は小さな動物病院の前にいた。
ガラス越しに見える待合室。犬の鳴き声。猫の気配。
受付で名前を言われても、俺は言えない。
名札がない。名札がないまま、俺はここに来た。
「えっと……」
俺が言い淀むと、受付の女性が助け舟を出した。
「もしかして、昨日来た黒い子のことですか?」
「……たぶん」
「連れてきた方が、ちょうど今、説明を聞いてます」
奥から出てきたのは、向かい棟の奥さんだった。
買い物袋を持つ手が、いつもより緊張している。
「あなた……あの角の人?」
「はい。……角の、担当です」
自分で言って、意味が分からなくて笑った。
奥さんも笑った。
笑うと、空気が少し柔らかくなる。
「この子ね、耳に傷があって。昔から外で頑張ってたみたい」
「……そう」
「うち、飼えないの。犬がいるから」
奥さんは申し訳なさそうに言って、続けた。
「でも、あなたが毎日ご飯置いてたの、見てた。……心配だったから、連れてきた」
心配。
その言葉が、胸に当たった。
俺は、心配を隠す癖がある。
正しさで包んで、感情を見えなくする。
でも奥さんは、見えてたと言った。
見えてたなら、俺はもう少しだけ正直でもいい。
「……ありがとうございます」
俺は言って、すぐ付け足した。
「俺、飼えないんです。規約で」
「知ってる。だから、相談があるの」
奥さんは、病院の紙を一枚差し出した。
「町の保護会が、預かり先を探してる。あなた、預かりならできる?」
預かり。
その言葉は、鍵みたいだった。
所有じゃない。
でも、守る。
守るの形を、少しだけ軽くする言葉。
「……できます」
俺が言うと、奥さんが頷いた。
「よし。じゃあ“ここにいる間の名前”はどうする?」
「名前は……」
俺は迷って、結局笑った。
「呼び方は、今のままでいいです。俺、まだ上手く付けられない」
「じゃあ、そのまま。上手くなるまで」
*
その夜、俺の部屋に、黒い猫が戻ってきた。
ケージじゃない。段ボールでもない。小さな布のキャリーから、慎重に顔を出す。
毛は少しだけ綺麗になって、目がちゃんと光っている。
俺は床に座って、距離を取った。
押さない手順。
今日もそれでいい。
猫は、俺のほうを見て、ゆっくり瞬きをした。
許可みたいな瞬き。
そして、前足を一歩出す。
もう一歩。
最後に、俺の膝に――乗らない。
膝のすぐ横に、どさっと座る。
近い。けど、勝手には渡さない距離。
「……それが、お前の答えか」
俺は笑って、ポケットから小さなキーホルダーを取り出した。
昔、会社のノベルティで貰った、味気ないやつ。
そこに、鈴付きの小さいボールを付け足した。
路地で転がしていた安っぽい玩具の鈴だけを、奥さんが拾ってくれていたのだ。
手直しして、ここにぶら下げた。
「名前は聞けないけど」
俺は小さく言った。
「ここにいる間は、合図を残してくれ」
猫は、答えの代わりに、俺の手の甲を一回だけ舐めた。
ざらっとした感触。
それが、ふいに胸の奥をほどいた。
泣くほどじゃないのに、目が熱い。
「……ばか」
俺は言って、もう一回笑った。
窓を少し開けると、春の風が入ってきた。
部屋の空気が、やっと仕事を再開する。
空っぽのコップを一つ、棚に残す。
明日もこの子が来るとは限らない。
預かりは預かりだ。
それでも、空の置き場があるだけで、呼吸は少し楽になる。
俺は茹でた鶏肉を、今日は二皿分用意した。
一皿は猫の前。
もう一皿は、俺の前。
同じ匂いを同じ部屋で吸うと、生活はちゃんと“二人分”になる。
布団に入る前、俺はカレンダーをめくって、今日の日付に小さく丸を付けた。
仕事の締切でも、支払いでもない丸。雨に濡れた角の日付から、こっそり続いている丸だ。
理由を説明する相手はいない。いないのに、丸があると自分が少しだけ落ち着く。
“忘れたくない”は、派手に言うと重くなる。だから丸でいい。
猫は窓辺の座布団へ移動して、外を見た。たぶん何も見てない。見てないのに、世界に腹を立てていない顔をしている。
俺はその横顔に向かって、声にしない質問を並べた。
どこから来た。
何を失くした。
何を覚えてる。
――答えは返ってこない。
返ってこない代わりに、尻尾の先が一回だけ動いた。
それが、今夜の「いいよ」だと、俺は勝手に決めた。
明日、また雨でもいい。
晴れでもいい。
この部屋のどこかで、風が通ればそれでいい。
俺はそう思って、電気を消した。




