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短編集  作者: 科上悠羽


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『雨粒の名札』

 雨の日の路地は、音が少ない。車の走る音が遠くなって、店の看板も眠ったふりをする。そのぶん、余計なものが聞こえる。たとえば、段ボールが擦れる音とか、排水溝の水が落ちる間合いとか、それから――やけに小さな、息みたいな鳴き声。


 最初に見つけたのは、会社帰りの角だった。傘の先から雨がつつ、と落ちる場所。古い自転車が並ぶ壁の陰で、黒いかたまりが震えていた。

 猫だ。たぶん。濡れた毛がぺたっとして、体が猫の形を忘れている。


「……おい」

 声をかけると、かたまりは反応した。反応はしたけど、逃げない。逃げる元気もないのだろう。


 俺はマンションの規約を思い出した。ペット不可。つまり、持ち帰るのはアウトだ。アウトは分かる。分かるのに、足が動かない。こういうとき、人は「正しさ」で動けなくなる。

 傘を畳んで、鞄からタオルを一枚取り出した。コンビニで買った安いやつ。仕事の汗拭き用、という建前だった。

 建前は、時々ちゃんと役に立つ。


 猫の背中を軽く包むと、驚くほど温度が低かった。冷たいのに、まだ生きてる。

 俺はタオルで水分を吸って、段ボールの端を少しだけめくった。中に入りたそうな空気がある。


「……ここ、使う?」


 猫は、目を細めた。返事じゃない。けれど、許可みたいな瞬きだった。



 次の日、俺は同じ角に寄った。

 いつもなら最短で駅へ向かう。残業帰りは、最短が正義だ。けど、あの角の「余計な音」が、頭の中で消えなかった。


 猫はいた。段ボールは少しだけ乾いていて、奥から二つの目がこちらを見た。

 俺は息を吐いて、買ってきた小さな缶詰を置いた。開けると、匂いだけで胃が鳴った。猫の胃も鳴ったらしい。鳴って、でも近づかない。


「用心深いな」


 俺は一歩引いた。引くのが下手な人間ほど、動物には嫌われる。俺は自分の性格を知っている。急ぐ。決めたがる。正しさで押す。

 押すと、たいてい関係がささくれる。


 だからその日から、俺は「押さない手順」を作った。

 缶詰はここ。

 水はここ。

 段ボールはここ。

 触らない。

 追わない。

 見てるだけ。


 ルールを書くと大げさになるので、頭の中だけで言った。頭の中なら、守れる確率が少し上がる。


 猫は、三日目に距離を半分にした。

 五日目に、缶詰の皿を舐めた。

 七日目に、俺の靴を一度だけ嗅いで、くしゃみをした。

 くしゃみの音が、やけに偉そうで、俺は笑ってしまった。


 笑ったら、猫が肩を揺らした。笑ったのか、震えただけなのか分からない。分からないけど、分からないままでも良かった。



 名前は聞けない。

 当たり前だ。猫は名刺を持っていない。けれど、呼ぶときに困る。困るから、人は勝手に名前を付けたがる。所有の第一歩みたいに。


 俺はそれが怖かった。

 名前を付けたら「うちの子」になる。

 うちの子になったら、規約の壁にぶつかる。

 壁にぶつかると、俺の心が暴れる。

 暴れるのが一番迷惑だ。猫にとって。


 だから俺は、名前の代わりに、呼び方を変えた。

「おい」

「こら」

「来るな」

「……来い」


 どれも、まともな名前じゃない。

 でも、どれも俺の現実だった。


 猫は、呼んでも来ない日が多い。

 なのに、気づくと足元にいる日がある。

 いつの間にか、段ボールから出て、俺の影の端に座っている。

 呼吸の音だけが、そこにある。


 俺はそういう距離感に弱い。

 「好きです」より、「いる」のほうが刺さる。

 言葉がないぶん、逃げ道がないから。



 ある朝、壁紙がひらひらしているのに気づいた。

 玄関脇の、よくぶつかる角。いつの間にか、細い傷が増えている。犯人は、だいたい分かる。

 俺は溜息をついて、補修テープを貼った。

 貼りながら、なぜか笑えた。

 怒るほどでもない。

 でも、気づいたら直してる。

 これ、生活だ。


 夜、俺が床に座ってスマホを触っていると、猫が近づいてきた。

 近づいて、俺の膝に前足を置いた。

 置いて、すぐ引っ込めた。

 「置いた」だけ。抱っこじゃない。甘えじゃない。たぶん確認だ。


 俺は動かずに、指先だけで頭を軽く叩いた。

 叩くというより、触れる。

 猫は嫌そうな顔をした。嫌そうなのに、逃げない。

 その矛盾が、たまらなく可笑しかった。


「なあ」

 俺は、誰にでもなく言った。

「お前、何が好きなんだ」


 猫は返事をしない。返事の代わりに、俺の膝の横へ丸い体温を置いた。

 体温があるなら、今日の答えはそれで十分だ。


 それから少しずつ、家の中の“置き場”が増えた。

 窓辺に古い座布団を一枚。段ボールじゃなく、ちゃんとした場所という顔をした布の島。

 猫はそこへ飛び乗って、外を見た。俺のほうは見ない。見ないのに、尻尾の先だけが、たまに動く。

 素っ気ない態度は、嫌いじゃない。甘えられるより、信用されるほうが嬉しい日がある。


 寝る前に電気を消すと、猫は必ず一度だけ、部屋の見回りをした。小さな足音が、畳を軽く叩く。最後に俺の枕元へ来て、しばらく立ち止まる。

 見張りなのか、確認なのか分からない。

 分からないけど、その“間”があると、俺は眠れた。


 ある朝、俺が悪夢でうなされて飛び起きると、猫が胸の上に座っていた。重い。地味に重い。目が合うと、妙に真剣な顔でこっちを見ている。

 俺は笑いながら息を吐いた。

「……朝メシ、まだだな」

 猫は当然みたいに目を細めた。


 その顔が可笑しくて、俺はスマホで写真を撮った。口が半開きのまま寝落ちしてる猫と、寝不足で変な顔の俺。

 出来は最悪だった。でも消さなかった。最悪なのに残すのは、たぶん、俺なりの肯定だ。



 春が進むと、路地の匂いが変わった。

 雨の日が減って、猫の毛がふわっと膨らむ。

 毛が膨らむと、姿がちゃんと猫になる。

 猫が猫になるだけで、俺は妙に安心した。


 そんなある日、角の段ボールが消えた。

 空っぽの地面だけが残っている。

 缶詰の皿も、水の皿もない。

 俺は立ち尽くして、すぐに「仕方ない」を探した。

 野良だし。

 季節だし。

 誰かが保護したかもしれないし。

 全部、正しい。

 全部、俺を黙らせる。


 その夜、俺は部屋の空気が急に薄くなったのを知った。

 換気扇を回しても、薄い。

 窓を開けても、薄い。

 薄いのは空気じゃなくて、俺の気持ちのほうだ。


 俺は台所で、鶏肉を茹でた。味付けはしない。猫が好きそうな匂いだけで十分だ。

 皿に盛って、窓辺の座布団の前に置く。

 誰も来ないのに、置く。

 置いて、笑ってしまった。

「……来るなって言ったのに」

 独り言は軽い。軽いのに、喉が詰まる。


 翌日、管理人室に行った。

 自分でも驚くくらい、足が勝手に動いた。

 管理人の佐々木さんは、新聞を畳みながら俺を見た。

「どうした、顔が探し物の顔だ」

「……猫、見ませんでした?」

「黒いやつか。昨日、向かいの奥さんが抱えてたぞ。病院に連れてくって」

 その一言で、胸がほどけた。

 ほどけたのに、まだざらつく。

 俺は、続けて聞いてしまった。

「……どこの病院か、分かります?」

「知りたいか」

 佐々木さんは少しだけ笑った。

「知りたいなら、聞いてやる。ただし、追いかけて壊すなよ」

「壊しません」

 俺は即答した。

 即答が早すぎて、自分でも可笑しくなった。



 夕方、俺は小さな動物病院の前にいた。

 ガラス越しに見える待合室。犬の鳴き声。猫の気配。

 受付で名前を言われても、俺は言えない。

 名札がない。名札がないまま、俺はここに来た。


「えっと……」

 俺が言い淀むと、受付の女性が助け舟を出した。

「もしかして、昨日来た黒い子のことですか?」

「……たぶん」

「連れてきた方が、ちょうど今、説明を聞いてます」


 奥から出てきたのは、向かい棟の奥さんだった。

 買い物袋を持つ手が、いつもより緊張している。

「あなた……あの角の人?」

「はい。……角の、担当です」

 自分で言って、意味が分からなくて笑った。

 奥さんも笑った。

 笑うと、空気が少し柔らかくなる。


「この子ね、耳に傷があって。昔から外で頑張ってたみたい」

「……そう」

「うち、飼えないの。犬がいるから」

 奥さんは申し訳なさそうに言って、続けた。

「でも、あなたが毎日ご飯置いてたの、見てた。……心配だったから、連れてきた」


 心配。

 その言葉が、胸に当たった。

 俺は、心配を隠す癖がある。

 正しさで包んで、感情を見えなくする。

 でも奥さんは、見えてたと言った。

 見えてたなら、俺はもう少しだけ正直でもいい。


「……ありがとうございます」

 俺は言って、すぐ付け足した。

「俺、飼えないんです。規約で」

「知ってる。だから、相談があるの」

 奥さんは、病院の紙を一枚差し出した。

「町の保護会が、預かり先を探してる。あなた、預かりならできる?」


 預かり。

 その言葉は、鍵みたいだった。

 所有じゃない。

 でも、守る。

 守るの形を、少しだけ軽くする言葉。


「……できます」

 俺が言うと、奥さんが頷いた。

「よし。じゃあ“ここにいる間の名前”はどうする?」

「名前は……」

 俺は迷って、結局笑った。

「呼び方は、今のままでいいです。俺、まだ上手く付けられない」

「じゃあ、そのまま。上手くなるまで」



 その夜、俺の部屋に、黒い猫が戻ってきた。

 ケージじゃない。段ボールでもない。小さな布のキャリーから、慎重に顔を出す。

 毛は少しだけ綺麗になって、目がちゃんと光っている。


 俺は床に座って、距離を取った。

 押さない手順。

 今日もそれでいい。


 猫は、俺のほうを見て、ゆっくり瞬きをした。

 許可みたいな瞬き。

 そして、前足を一歩出す。

 もう一歩。

 最後に、俺の膝に――乗らない。

 膝のすぐ横に、どさっと座る。

 近い。けど、勝手には渡さない距離。


「……それが、お前の答えか」


 俺は笑って、ポケットから小さなキーホルダーを取り出した。

 昔、会社のノベルティで貰った、味気ないやつ。

 そこに、鈴付きの小さいボールを付け足した。

 路地で転がしていた安っぽい玩具の鈴だけを、奥さんが拾ってくれていたのだ。

 手直しして、ここにぶら下げた。


「名前は聞けないけど」

 俺は小さく言った。

「ここにいる間は、合図を残してくれ」


 猫は、答えの代わりに、俺の手の甲を一回だけ舐めた。

 ざらっとした感触。

 それが、ふいに胸の奥をほどいた。

 泣くほどじゃないのに、目が熱い。


「……ばか」

 俺は言って、もう一回笑った。


 窓を少し開けると、春の風が入ってきた。

 部屋の空気が、やっと仕事を再開する。

 空っぽのコップを一つ、棚に残す。

 明日もこの子が来るとは限らない。

 預かりは預かりだ。

 それでも、空の置き場があるだけで、呼吸は少し楽になる。


 俺は茹でた鶏肉を、今日は二皿分用意した。

 一皿は猫の前。

 もう一皿は、俺の前。

 同じ匂いを同じ部屋で吸うと、生活はちゃんと“二人分”になる。


 布団に入る前、俺はカレンダーをめくって、今日の日付に小さく丸を付けた。

 仕事の締切でも、支払いでもない丸。雨に濡れた角の日付から、こっそり続いている丸だ。

 理由を説明する相手はいない。いないのに、丸があると自分が少しだけ落ち着く。

 “忘れたくない”は、派手に言うと重くなる。だから丸でいい。


 猫は窓辺の座布団へ移動して、外を見た。たぶん何も見てない。見てないのに、世界に腹を立てていない顔をしている。

 俺はその横顔に向かって、声にしない質問を並べた。

 どこから来た。

 何を失くした。

 何を覚えてる。

 ――答えは返ってこない。

 返ってこない代わりに、尻尾の先が一回だけ動いた。

 それが、今夜の「いいよ」だと、俺は勝手に決めた。


 明日、また雨でもいい。

 晴れでもいい。

 この部屋のどこかで、風が通ればそれでいい。

 俺はそう思って、電気を消した。


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