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短編集  作者: 科上悠羽


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『二択の外に置いた鍵』

 区民センターの地下二階、Bスタジオ。天井の蛍光灯が少しだけ唸っていて、床の黒いリノリウムが、夜の湿気を吸って鈍く光っている。舞台稽古のあとに残るのは、拍手じゃなくて、テープの跡と、息の余り。


「おつかれ」

 紗季は台本を抱えたまま言った。声は明るいのに、目が笑っていない。笑っていない目は、いつもより音がする。僕は照明のスイッチを切り替えながら、返事の温度を探した。

「おつかれ。……鍵、閉める?」

「うん。閉める。ねえ、直斗」

 僕の名前の呼び方だけ、ちょっとだけ丁寧だった。丁寧なときの紗季は、だいたい本気だ。


 今日の稽古は、二人の距離を詰めるシーンが多かった。脚本上は、恋人のふりをする二人が、ふりをやめかける場面。客席が息を止めるところ。演出家は毎回、同じ言葉を投げる。

「ここ、隙間が見える。埋めて」


 隙間。埋める。そんなの、舞台の上なら簡単だ。足を一歩寄せて、肩を預けて、手の置き場を決めればいい。決めれば、役が勝手にやってくれる。

 問題は、稽古が終わったあとだ。役の外側で、同じ距離が残ってしまうとき。触れた指先の温度だけが、現実に戻ってこない。


「今日さ」紗季が言った。「あのシーン、良かった」

「役として?」

「……そういう言い方する?」

 刺さった。刺さったのに、僕は反射で笑いそうになって、やめた。笑うと、軽くなる。軽くすると、また大事なところが削れる。


 僕は昔から、言葉を削る癖がある。必要なことほど、喉の奥で薄くして、角を丸めて、相手に渡す。渡したあと、届いてないと気づいても「まあ仕方ない」で引き返す。引き返すと、また削る。

 その繰り返しで、僕はずいぶん上手くなった。何にだろう。


 紗季はスタジオの真ん中にしゃがみ込み、床に貼られた目印テープを指で叩いた。黒いテープと白いテープ。立ち位置の印。右、左、前、後ろ。舞台はいつも二択だ。上手か下手か、明るいか暗いか、寄るか引くか。

「ね、遊びしない?」

「遊び?」

 紗季は自分のバッグから付箋を取り出した。黒と白の二色。そこに太いペンで文字が書いてある。

『はい』『いいえ』

『右』『左』

『行く』『やめる』


「……急に怖い」

「怖いでいい。怖いのに、いつも“平気”って顔するの、やめて」

 紗季は付箋を三組、床に並べた。まるで小さな信号みたいに。

「選んで。今日の私たち」


 僕は立ったまま動けなかった。選ぶって、何をだ。僕らは同じ劇団で、同じ稽古をして、同じ終電で帰る。たまに一緒にコンビニへ寄って、同じ味の缶を買う。そこに名前を付ければ楽になるのに、名前を付けると壊れそうで、僕はずっと避けてきた。


「……これ、二択しかないじゃん」

「そう。二択しかないの、嫌」

 紗季は笑わなかった。代わりに、息を一つ吐いた。

「優しいの、やめてって言ってるんじゃない。優しさのふりで、逃げるのをやめてって言ってる」

 ふり。役。今日一日、散々やった言葉だ。役のふりをして、ふりのまま本気に触れて、最後に「これは稽古だから」と戻る。戻るのが上手いほど、心は置いていかれる。


「直斗さ」紗季が続けた。「私、分からなくなる。今の手が、演技か、生活か」

 僕は喉が乾いた。乾くと、いつもの癖が出る。正しさを探す。危なくない言葉を探す。角を立てないための説明を並べる。

「……紗季は、役に入るの上手いから」

「ほら、それ」

 紗季が苦く笑った。「褒めてるふりで、線を引いた」

 線を引いた。言われて、胸の奥がひやっとした。僕は今まで、相手を守るつもりで線を引いてきた。でも実際は、自分が傷つかないための柵だった。


 僕は床の付箋を見た。『はい』『いいえ』。『右』『左』。『行く』『やめる』。

 どれも、僕がずっと握ってきた安全装置だ。決めないまま、何もしないまま、今日を終わらせるための。


 そのとき、スタジオの扉が少し鳴った。廊下の風が入り、床のテープが一瞬だけ光った。蛍光灯の下の黒と白が、急に薄い灰色に見えた。二択の境目は、思ったより曖昧だった。


「……どっちも嫌だな」僕はやっと言った。

「え?」

「はいかいいえか、右か左か、行くかやめるか。どれも、今の僕らを潰す」

 声が震えた。震えてもいい。震えのほうが、本物だ。


 紗季は黙って待った。待つ顔をしていた。演技じゃない待ち方。


「僕、怖い」僕は言った。「名前を付けたら、急に責任になる気がして。責任になると、下手をしたら壊す気がして」

「うん」

「だから、言葉を削ってた。大事なところほど削って、“大丈夫”っぽくしてた」

 紗季は目を閉じて、短く頷いた。


「でも」僕は続けた。「今日の手は、稽古だけじゃなかった。……僕は、あれが好きだった」

 言ってしまった。胸が熱い。熱いと逃げたくなる。逃げる前に、僕はもう一つだけ言った。

「だから、二択の外を作りたい」


 紗季が眉を上げた。「外?」

「うん。『はい』でも『いいえ』でもないやつ。今日だけじゃなく、明日も続くやつ」

「具体的に」

 紗季は容赦なく言った。容赦がないのに優しい。逃げ道を塞ぐ優しさだ。


 僕は息を吸って、吐いた。床の付箋を一枚だけ拾う。『行く』。それを半分に折った。さらに半分に折った。小さくして、指先でくしゃっと丸める。黒いテープの上に置く。

「これ。大きい“行く”は無理。でも、小さい“行く”なら持てる」

「……何に行くの」

「役じゃない僕らで、一回だけ会う。稽古の話をしない時間を、十五分でいいから」

 言った瞬間、紗季の肩が少し落ちた。落ちたのが見えて、僕は初めて、自分の言葉が相手の体に届いた気がした。


「十五分」紗季が繰り返す。

「うん。長いと逃げるから。短いほうが本気になる」

 紗季は笑った。やっと笑った。

「それ、私も思ってた。……じゃあ明日。終電の前に、駅前の売店。缶、二本で」

「二本でいい」

「甘いのと、渋いの」

「渋いって言うな」

「渋いの、好き」


 紗季は残りの付箋を拾って、まとめて台本に挟んだ。

「これ、捨てない。二択は悪くない。悪いのは、二択で全部決めた気になること」

 僕は頷いた。頷けた。


 鍵を閉めて、二人で廊下へ出る。センターの自動販売機の明かりが、夜の床を淡く照らす。外は少し寒い。紗季が手袋をしていないのに気づいて、僕は自分のポケットから予備のカイロを出した。

「いる?」

「いる」

 その返事が、妙に嬉しかった。遠慮のない“いる”は、関係を軽くする。


 駅までの道、僕らは稽古の話をしなかった。代わりに、看板の眩しさとか、風の冷たさとか、今日食べたコンビニの変なパンとか、どうでもいい話をした。どうでもいい話ができるとき、人は案外ちゃんと近い。


 改札前で、紗季が立ち止まった。

「ねえ、直斗」

「うん」

「明日、もし私がまた二択を並べたら」

「うん」

「そのときは、今日みたいに“外”を作って」

 僕は笑って、ポケットの中で指を二回こつんこつんと鳴らした。合図。削らない、の合図。

「作る。小さい外を、いくつでも」


 紗季は小さく頷いて、改札へ入った。いつもの別れ方。

 でも今日は、歩幅を落とさなかった。見送るためじゃなく、僕も歩くために。



 翌日、約束の十五分は、意外と早く来た。

 僕は売店の前で缶を二本買った。いつもより少しだけ甘いのと、いつも通り渋いの。袋に入れると、缶同士がこつんと鳴った。あの音は、妙に落ち着く。終電のベルより、よほど現実的だ。


 紗季は遅れずに来た。走ってはいない。けれど息が少しだけ上がっている。息が上がるのは、恥ずかしさかもしれないし、今日の風が冷たいせいかもしれない。どちらでもいい。息があるなら、話せる。


「十五分、って短いね」

「短いほうが、逃げられない」

「言い方」

「事実」


 僕らは売店の横のベンチに座った。目の前は改札。人が流れて、消えて、また出てくる。流れは終わらない。終わらないから、怖い日がある。


「ねえ」紗季が缶を握ったまま言った。「昨日、言えなかったこと、言っていい?」

「うん」

 紗季は一度目を伏せてから、顔を上げた。

「私、次の公演、遠征に出る」

 胸がきゅっとした。遠征。外。距離。頭の中に、あの付箋が勝手に並ぶ。『行く』『やめる』。『右』『左』。『はい』『いいえ』。

 僕はそれを見ないふりをしそうになって、やめた。今日は“外”を作る日だ。


「いつから」

「来月。二週間だけ。……言うの、遅くなった」

「どうして」

 紗季は苦く笑った。

「あなたが、止めそうだったから」

「止めると思った?」

「思った。止めるっていうか、正しい理由で“やめとけ”って言いそうだった」

 僕は息を吸って吐いた。心当たりがありすぎる。危ない、忙しい、向いてない。そういう言葉で僕は自分の不安を処理する。


「言われたくなくて、隠した?」

「うん。……優しい嘘。最悪だよね」

「最悪って言わなくていい」

 僕は言った。昨日、紗季が言ったのと同じ形で。

「自分を殴ると、また話が進まない」


 紗季は驚いた顔をして、それから小さく笑った。

「コピー能力、あるね」

「コピーじゃない。借りた」


 僕は缶を開けた。炭酸が少しだけ跳ねる。

「正直、嫌だよ」

「うん」

「でも、止めたくない。……止めるのは、僕の楽なほうだから」

 僕が言うと、紗季の目が少しだけ潤んだ。泣くほどの話じゃないのに、泣きたくなる瞬間がある。そういう瞬間は、だいたい本物だ。


「じゃあ、二択にする?」紗季が言う。「行く、か、やめる」

「しない」

「じゃあ外、作って」

 僕はポケットから、新しい紙を出した。駅の案内所でもらった、コインロッカーの鍵の小さなタグが付いたやつ。昼、わざわざ借りてきた。

「これ」

「鍵?」

「うん。駅のロッカー。二週間の間、ここを“戻れる場所”にする」

 僕は鍵を紗季の手のひらに落とした。金属が冷たい音を立てた。

「ロッカーの中に、二人で“今言えないこと”を一枚ずつ入れる。二週間後、帰ってきた日に一緒に開ける」

「……なにそれ、ずるい」

「ずるくていい。消えないから。消えないものは、置き場が要る」

 紗季は鍵を握りしめた。握ると、少しだけ肩が落ちた。


「私の入れる紙、決まってる」

「何」

「『怖い』」

「短いな」

「短いほうが本気になるんでしょ」

 紗季は笑って言った。

 僕は頷いて、僕の紙を想像した。『寂しい』。それも短い。短いのに重い。重いから、ロッカーに預ける。


「あと」紗季が言った。「二週間の間、嘘、やめよう」

「どうやって」

「手順。迷ったら、まず言う。『今、削りそう』って」

 その言葉に、僕の胸の奥が少しだけ軽くなった。削りそう、って言えるのは、削らないよりずっと現実的だ。


 僕らはロッカーの前に立った。通路の端。人の流れの外側。まさに二択の外。

 僕は紙に『寂しい』と書いて、紗季は『怖い』と書いた。たった二文字ずつの、きれいじゃない告白。

 ロッカーに入れて鍵を回す。カチリ。閉まる音。

 音は小さい。けれど、胸の中の何かが一段、落ち着いた。


「十五分、終わっちゃうね」紗季が言った。

「終わっていい。終わるから次ができる」

「次って?」

「二週間後。鍵、開ける」

「その前に、連絡もする」

「うん。短くでいい」

「短く?」

「『今、会いたい』とか」

 言ってから、僕は顔が熱くなるのを感じた。言葉が削れていない。削れていない言葉は、恥ずかしい。恥ずかしいのに、紗季は笑って頷いた。


「じゃあ、私も言う」

 紗季は缶を軽く持ち上げた。乾杯じゃない。確認みたいな動き。

「『今、会えてよかった』」

 僕はその言葉を受け取って、息を吐いた。風が通る。通るなら、まだ大丈夫じゃなくても進める。


 改札の前で別れるとき、僕は歩幅を落とさなかった。代わりに、鍵のある方向を一瞬だけ見た。

 そこに置いたのは、答えじゃない。二択の外の、置き場。

 置き場があるなら、二人は急いで決めなくていい。


 帰り道、僕はポケットの中で指を二回こつんこつんと鳴らした。

 合図。削らない。嘘にしない。終わりにしない。


 玄関の前で、スマホのメモに短く書く。


《鍵は、答えじゃなく置き場。》


 送信はしない。公開もしない。

 ただ、明日の自分が迷子になったときの、非常灯にする。

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