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短編集  作者: 科上悠羽


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『いつもどおりを守る練習』

 朝の角を曲がるところで、僕は毎回ほんの少しだけ歩幅を落とす。理由は簡単で、横にいる真琴の顔が、その瞬間だけよく見えるからだ。日陰から日向へ出る境目、髪の輪郭が一瞬だけ透けて、口元がふっとほどける。彼女はその表情を「意識してない」と言う。意識してないのがいい。意識して作った笑顔は、すぐ疲れる。


「また速度落としてる」

「落としてない。調整」

「調整って言い方、整備士みたい」


 真琴は笑いながら、僕の腕に指を絡めた。指先がまだ冷たい。春のくせに、風だけは冬の名残りを持ってくる。僕はその指を包むように握って、手袋の隙間へ押し込んだ。こういう小さい手順があると、僕らの朝は転ばない。


 交差点の向こうで、僕らは別れる。真琴は川沿いのオフィスへ、僕は駅前のビルへ。別れと言っても十数時間の話だ。なのに、分岐の前に立つと胸の奥がきゅっとする。たぶん僕は、別れの“前”が苦手だ。来ると分かっているものほど、先に痛む。


「じゃ、行くね」

「うん」


 真琴は歩き出して、二歩目で振り返った。いつも通りの癖だ。目が合うと、僕は変な安心をしてしまう。安心した分だけ、また欲しくなる。欲しくなると、守りたくなる。守るって言葉は、便利な顔をして重い。


 彼女が角を曲がる直前、手を小さく振った。大きいのじゃない。誰にも見えない程度のやつ。それが僕にはよく見える。だから僕は、今日もそこで足を止めてしまった。


 ……この癖は、昔からだ。


 小学生の頃、父と母が別々に暮らすようになって、僕は週末だけ母のところへ行った。駅前のバス停で母はいつも、僕の姿が見えなくなるまで手を振った。僕は振り返って振り返って、最後に振り返らなくなる瞬間が怖かった。振り返らなくなると、何かが終わる気がしたからだ。


 だから今も、僕は終わりの直前を伸ばしたい。歩幅を落として、角を曲がる速度を落として、見える時間を一秒だけ増やす。一秒が増えると、なぜかその日一日が持つ。


 スマホが震える。真琴からの短い通知。

『さっきの手、冷たかった。夜は温めて』


 たったそれだけで、午前の空気が少し柔らかくなる。短い言葉は、刺さらない。刺さらないのに、ちゃんと届く。僕は返信欄に「了解」と打ちかけて、消した。了解は便利すぎる。便利すぎる言葉は、相手の温度を拾い損ねる。


『任せて。帰りに甘いの買う』


 送信して、僕は少しだけ笑った。甘いの、で通じるのが僕らの良いところだ。詳しく言わなくても、ふたりの棚に同じ物が置いてある。


 会社へ向かう道すがら、小さなパン屋の前を通った。開店直後の匂いがして、つい足が止まる。店先に、年配の夫婦が並んでいた。奥さんが袋を抱え、旦那さんが小銭を数えている。二人とも無言なのに、間が慌てていない。

 会計が終わると、奥さんが旦那さんの腕に自然に触れた。軽い接触。確認の触れ方。

 それを見て、僕は唐突に思った。ああいう“当たり前”に辿り着くまで、二人はどれだけ喧嘩して、どれだけ謝って、どれだけ黙ってしまったんだろう。

 当たり前は、最初からあるものじゃなくて、作り直した回数の集合かもしれない。



 昼休み、職場の屋上で弁当を食べながら、僕はふと考えた。

 この朝の儀式が、当たり前になったらどうなるんだろう。


 当たり前は便利だ。脳の力を節約できる。けれど当たり前は、目を閉じさせる。気づいたときには、手の温度も、歩幅の調整も、ただの習慣になっているかもしれない。習慣は悪じゃない。だけど、習慣だけで暮らすと、たまに息が詰まる。


 息が詰まる、と言えば聞こえは綺麗だ。でも実態はもっと情けない。僕は不安になると、相手を“正しい理由”で縛ろうとする。危ないから、忙しいから、今は無理だから。言葉の鎖は軽い。軽いから相手の足首に絡む。絡んだことに気づくのが遅い。


 そう思った瞬間、またスマホが震えた。真琴の職場チャットの転送。たぶん誤送信。画面には、短い一文だけが見えた。

『今日、あとで話せる?』


 その“あとで”の宛先が、僕じゃない可能性がある。可能性だけで胸がざらついた。ざらつきは、嫉妬の音だ。嫉妬は恥ずかしい。恥ずかしいから隠す。隠すと、勝手に膨らむ。膨らむと、疑いに化ける。疑いは、いちばん関係を傷つける。


 僕は弁当の蓋を閉めて、水を飲んだ。喉を通すと、頭の字幕が一枚だけ薄くなる。今ここで映画を再生したら、夜が壊れる。壊れた夜は、朝の歩幅まで汚す。


 だから僕は、真琴に一通だけ送った。

『さっきの、たぶん誤送信? 気にしてないけど、気になったら教えて』


 矛盾している。気にしてないと言いながら気になる。けれど矛盾のまま出す方が、僕には楽だった。きれいに整えると、嘘になるから。


 送ってから五分、返信は来なかった。来なかっただけで、胸のざらつきがもう一段増える。僕は机に戻って、仕事の画面に逃げ込んだ。逃げ込めば逃げ込むほど、心は後ろで回転し続けるのに。



 夜、真琴はいつもより少し遅く帰ってきた。玄関の鍵の音がして、次に、肩の力が抜ける気配がした。コートを掛ける音が、少し乱暴。乱暴な音は、無理をしてきた証拠だ。


「ただいま」

「おかえり。……疲れてる?」

「うん。ちょっとね」


 ちょっと、の裏が大きいのは分かる。分かるのに、僕はいつもここで“平気?”を聞いてしまう。聞くと、相手は反射で「平気」と返す。平気の往復は、空気を薄くする。


 僕は代わりに、買ってきた小さな紙袋を差し出した。甘いものの匂い。

「温める道具。まず一口」

「道具って言うな」

「道具だよ。今日の僕らの」


 真琴は笑って、袋から焼き菓子を一つ取った。ひと口かじって、目を細める。甘さが、彼女の眉の角を削っていく。削れた眉は、呼吸が通る。


「で」真琴が言った。「昼のメッセージ、見た」

「うん。変にざらついた」

「ごめん。誤送信」

「誰宛てだった?」

「後輩。相談されてた。転職するか迷ってるって」

「……よかった」

「よかったって言い方、ずるい」

「ずるいのは認める。僕、嫉妬した」


 言った瞬間、胸が軽くなった。軽くなると同時に、恥ずかしさが来る。恥ずかしさは熱い。熱いと、逃げたくなる。逃げる代わりに、僕は水を飲んだ。


 真琴は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「嫉妬、していいよ。人間だもん」

「していい、って言われると余計に恥ずかしい」

「じゃあ手順。恥ずかしい日は、言葉を短くする」


 真琴は冷蔵庫から麦茶を出し、コップを二つ並べた。いつもの動き。いつもの中に、今日だけの真剣さが混じる。


「当たり前が怖いって、たまに思わない?」と真琴が言った。

「思う。今日思った」

「私も。笑顔が見慣れた日が来たら、私はたぶん不安になる」

「僕も」


 真琴は指でテーブルを二回、こつんこつんと叩いた。合図みたいな音。

「じゃ、当たり前を守るためのルール、作る」

「ルール?」

「うん。大げさじゃないやつ。三行だけ」


 真琴はメモ帳を開き、ペンで書いた。


 一、今日の『よかった』を一個

 二、今日の『やだ』を一個

 三、明日の『お願い』を一個


 真琴はメモ帳を破って、その三行を冷蔵庫に貼った。磁石は、旅行先で買った安いものだ。安いのに、ちゃんと仕事をする。

「これ、格好悪い?」

「格好悪い。でも、格好悪いほうが忘れない」

「じゃあ採用。……大げさな言葉は使わないでいこう。永遠とか、運命とか」

「うん。代わりに、今日の確認」

「確認、好きだね」

「好き。壊すより、直すほうが向いてるから」


「これ、寝る前に交換」

「交換って、宿題みたい」

「宿題は嫌い?」

「嫌いじゃない。やり方が分かるから」


 僕は笑って、頷いた。やり方があると、感情に押し流されにくい。押し流されにくいなら、嫉妬も疑いも、ただの波で終わる。


「じゃ、今日の分」真琴が言った。

「よかった:甘いのが来た」

「やだ:仕事が長引いた」

「お願い:明日も朝、速度落として」


 最後のお願いが、僕の胸の奥にストンと落ちた。僕が勝手にやっていたことが、真琴の“欲しい”になっている。欲しいと言われると、守るが重くならない。行動が、ただの共有になる。


「僕の番」僕は息を吸って吐いた。

「よかった:手が冷たいって言ってくれた」

「やだ:昼、ざらついた。勝手に映画が始まった」

「お願い:映画が始まりそうなら、合図して。こつんこつん、って」


 真琴は笑って、指で二回叩いた。

「こつんこつん。了解」



 それから数日、三行の交換は続いた。

 驚くほど劇的に何かが変わるわけじゃない。けれど僕は、夜の空気が薄くならないことに気づいた。薄くならないと、朝の歩幅も少しだけ軽くなる。


 木曜の帰り道、真琴から短いメッセージが来た。『今日は先に帰る。夕飯、どうする?』

 僕は歩きながら、彼女がよく口ずさむ古いメロディを思い出した。鼻歌まじりに、歩く速度がほんの少し上がる。上がったぶんだけ、胸のざらつきが下へ落ちていく。

 走るほどじゃない。けれど、家へ向かう足が“行きたい”の形になる。それだけで、今日の僕は少し勝つ。


 金曜の夜、僕は会社の飲み会で帰りが遅れた。連絡しようとして、結局「もう少しで終わる」が長引いて、スマホの画面だけが眩しくなる。帰宅したとき、真琴はリビングの灯りを落として、ソファに座っていた。怒っているというより、固まっていた。


 僕の胸が嫌な形で縮む。ここで僕がやりがちなのは、正しさで逃げることだ。仕事だから、付き合いだから、仕方ない。仕方ないは回数券だ。使えば使うほど、当たり前が削れる。


 僕は靴を脱いで、真琴の前に座った。言葉を整えずに、先に短く出す。

「やだ、だった。連絡しなかった」

 真琴が目を瞬かせる。三行の中の言葉だ、と分かった顔。

「……私のやだも、今それ」

「うん。ごめんで終わらせたくない。次、どうする?」

 真琴は一拍、考えてから言った。

「次は、“終わらない時間”になったら一回だけ送って。内容は『遅い』でいい」

「了解……じゃなくて、やる」

「やる、でいい」


 僕らはそのまま麦茶を飲んで、三行を書いた。

 僕のよかったは「帰ってこれた」。真琴のよかったは「固まったまま待たなかった」。

 小さくて、でも確かだ。


 土曜の昼、僕らはパン屋へ行った。あの年配の夫婦が、また同じ列に並んでいた。奥さんが笑って、旦那さんが小さく頷く。

 真琴が僕の袖をつまんで言った。

「見て。たぶん、あれが“いつもどおり”」

「いつもどおり、って努力の結果かもね」

「うん。じゃあ私たちも、努力の形を小さくする」

 真琴は僕のポケットの上から、こつんこつんと二回叩いた。合図の確認。僕はそれに笑って返した。



 その夜、僕らは布団の中で、明日の朝の歩幅を想像した。

 同じ道、同じ角、同じ日陰と日向。

 同じなのに、今日の“やだ”と“次”が一枚、間に挟まる。挟まると、当たり前が少しだけ新しくなる。


 眠りに落ちる直前、真琴がぼそっと言った。

「ねえ。もしさ、私が不安になって、変な勘違いして、疑って、めんどくさくなったら」

「うん」

「そのときも、短くしてくれる?」

「する。短くして、残りは明日に回す」

「明日に回すって言い方、好き」


 真琴は僕の手を探して、指先だけ触れた。冷たくない。

 僕はその温度を見慣れてしまわないように、心の中で一回だけ「確認」と言った。確認は、派手じゃない永遠だ。


 翌朝、僕はいつもの角で歩幅を落とした。

 真琴が横で、いつも通りの顔をする。いつも通り、の中に、昨日のやだとお願いが混じる。

 僕は指を絡める前に、こつんこつん、とポケットの中で指を鳴らした。合図。映画はまだ始まっていない、の合図。


「また調整してる」

「うん。調整。……続けるための」

「続けるための、はいい」


 真琴はそう言って、僕の手を握りしめた。

 交差点の前で、彼女が小さく言う。

「今日、振り返る?」

「振り返る。……でも、振り返りすぎない。歩くから」

「うん。歩こう」


 角を曲がる直前、真琴が手を振った。僕も手を振った。

 見えなくなるまでじゃない。見えなくなる前に、自分から歩き出す。

 それは終わりじゃなくて、次の朝へ繋ぐための、僕の新しい“いつもどおり”だった。


 僕は歩き出しながら、指先でこつんこつんともう一度合図した。今日も、まだ、続く。

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