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短編集  作者: 科上悠羽


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『風の置き場』

 部屋の空気って、持ち主がいなくなると急に仕事をさぼる。

 カーテンが揺れない。湯気が真っすぐ上がらない。換気扇の音だけがやけに元気で、肝心の息が通らない。

 渉は台所の窓を少しだけ開け、指先で隙間の冷たさを確かめた。海からの風が、遠慮なく入ってくる。四月の終わりのくせに、まだ骨に当たる冷たさだ。


 テーブルの上には、紙コップが二つ置いてある。

 片方は今日も空のまま。自分で置いて、自分で腹が立つ。腹が立つのに、片づけられない。


 「行ってきます」も「ただいま」も、いらない暮らしは楽だ。

 楽なはずなのに、渉の喉は毎晩、乾いたままだった。


 港の会社からの通知がスマホに出ていた。明朝、出航。担当者名の欄に、ひよりの名前がある。

 ひよりは、この町の小さなフェリー会社で働いていた。春の異動で、しばらく本土側の営業所へ移るらしい。たった数時間の距離なのに、渉の中では“別の海”みたいに感じる。


 渉は換気設備の点検屋だ。ホテルのダクトも、工場の排気も、船の機関室の換気も見る。

 だから空気の変化に敏感なはずなのに、いちばん大事な“息づかい”だけは、いつも見落とす。


 見落としたのは、先月の夜だった。

 ひよりが「次の便、手を挙げる」と言った。新しい船の導入で、若手を一人、外の研修に出すという話。ひよりの目は久しぶりに光っていた。

 渉は、その光を見た瞬間に、変な計算をした。

 研修に行けば、帰りが遅くなる。夜勤も増える。海が荒れたら帰れない日もある。危ない。

 危ない、という言葉は便利だ。正しく聞こえるから。


 「その話、やめとけ。向いてない」

 渉が言ったのは、それだけだった。

 ひよりは黙って、玄関で靴を履いた。振り向かずに言った。

 「向いてないのは、私じゃなくて。あなたの話し方」

 ドアが閉まった音が、まだ耳の奥に残っている。


 向いてない。話し方。

 渉はその言葉を、何度も舌の上で転がした。転がすほど尖って、自分の口の中を傷つけた。


 なのに翌日も翌々日も、渉は同じ話し方をしてしまった。大丈夫?って聞かれて「別に」。平気?って言われて「うん」。手伝う?って言われて「いい」。全部、便利な言葉だ。便利だから、距離が増える。


 距離が増えたままでも、生活は回った。

 不思議なことに、ひよりはそれでも家にいた。仕事の帰りに同じ鍋を食べて、洗濯物をたたんで、テレビの音に会話を預けて、寝る前に風呂の湯気で眼鏡を曇らせて笑った。

 渉はその笑いを見ながら、心のどこかで安心していた。まだ壊れてない、と。

 安心したまま、何もしなかった。


 最後に一緒に出かけたのは、夜の小さな売店だった。

 港の脇にある、灯りの弱い店。熱い缶と、甘い缶と、雑誌と、妙に固いパンしか置いてない。ひよりが「これ、罪の味」と言いながら甘い缶を選び、渉は「罪は値札が高い」と返して、二人で笑った。

 帰り道、線路沿いを歩くと、単線の電車が一度だけ通った。窓の中は明るくて、乗っている人の顔が一瞬だけ見えた。知らない顔なのに、知らない生活がちゃんと動いてるのが、妙に眩しかった。


 その夜、海の向こうで一発だけ光が上がった。花みたいに開いて、すぐに消えた。

 季節外れの火薬の匂いが、風に混じって届く。

 ひよりが言った。

 「今の、誰のだろ」

 渉は肩をすくめて笑った。

 「誰かの練習じゃない? 本番はまだ先」

 ひよりはそのとき、渉の袖をつまんだ。ほんの一秒だけ。袖の布が引っ張られる感触は、今も指先に残っている。

 渉はその“残る”を、なぜか怖がった。残るなら責任になる気がして。責任が怖いなら、先に言えばよかったのに。


 あの夜から、渉の部屋の空気は仕事を放棄した。

 掃除しても、鍋を作っても、匂いだけが浮いて、落ち着かない。ひよりがいるときは、同じ部屋なのに、呼吸が自然に下がった。彼女が作る“間”が、換気より効いた。


 渉は冷蔵庫を開けた。缶が二本。片方はレモンの味、片方は無糖のお茶。

 ひよりは、眠いときほど甘いものを飲む。渉は甘いのが苦手で、いつもお茶を選ぶ。二本並べると、二人分の癖が揃う。

 渉は両方を袋に入れた。空のコップ二つも、重ねて入れる。

 「意味ない」って自分で言いそうになって、飲み込んだ。意味がないのは、やらない理由にはならない。今日はそういう日だ。


 港へ向かう道は、海沿いをぐるっと回る。

 線路が並走していて、時々、単線の電車が小さく鳴く。踏切の音が鳴るたび、渉は心臓が一回だけ跳ねた。動いているものに、置いていかれる感覚がある。

 置いていかれるのが嫌で、渉はいつも先に折れた。折れると痛くないふりができる。痛くないふりが、いちばん痛いのに。


 港に着くと、風が強かった。ロープが金具に当たって、カチカチと鳴る。鳴る音は責めるみたいで嫌いだ。

 嫌いなのに、渉はその音を聞かないと落ち着かない。


 出航の準備をしている作業員の中に、ひよりはいなかった。見回しても見つからない。

 渉はポケットの中でスマホを握り、画面を点けては消した。電話にするか、メッセージにするか。決められない。

 決められないまま、時間だけが進む。進むと、余計に言えなくなる。いつもの癖だ。


 「兄ちゃん、顔が凍ってる」

 声をかけてきたのは、港の売店の店主だった。新聞を丸めて脇に抱え、手には温かい缶コーヒー。

 「凍ってないです」

 「凍ってる。凍ってる顔は、風が抜けない」

 店主は笑って、缶を一本差し出した。

 「水でもいいが、今日は温かいの飲め。口が固いと、言葉が固まる」

 渉は受け取って、開けた。湯気が立つ。湯気は正直で、少しだけ安心した。


 「誰待ってる」

 「……知り合い」

 「知り合いは便利だな。逃げ道がある」

 店主はあっさり言う。

 「逃げてるの?」

 渉は答えられず、代わりに缶をもう一口飲んだ。甘い。苦い。熱い。全部が現実だ。


 店主が新聞を指で弾いた。

 「昔な。うちのかみさんも船に乗ってた。俺は港で、言うべきことを毎回飲み込んだ」

 渉が目を向けると、店主は肩をすくめた。

 「で、飲み込んだぶんだけ、喉が渇く。渇くと、余計に飲み込む。悪循環」

 「……どうしたんですか」

 「一回だけ、間に合った。遅い便だったが、追いかけた。追いかけたっていうか、並んだ」

 店主は笑う。

 「並ぶと、喧嘩にならない。『止めるな』じゃなく『一緒に行ける形にする』って話になる」


 渉の胸の奥が、こつんと鳴った。今の自分に必要な言い方だった。


 スピーカーが鳴った。搭乗案内。人の列が伸びる。船の腹が、低く唸る。

 その列の端で、ひよりが現れた。キャリーを引いて、作業着じゃなく薄いコートを着ている。髪はまとめて、顔は仕事の顔だった。

 渉は足が動かないまま、呼んだ。

 「ひより」

 声が風に削られて、小さくなる。


 ひよりは一瞬だけ立ち止まった。こちらを見た。見たのに、すぐ視線を外した。

 渉の胸が痛んだ。痛むのに、足はまだ動かない。動かないから、言葉だけが先に出た。


 「ごめん」

 言ってから、渉は自分に腹が立った。謝って終わらせる癖。ひよりが嫌いだったやつ。

 ひよりは、やっぱり止まった。肩が少しだけ落ちる。


 「……それで終わらせないで」

 静かな声だった。港の音の中で、なぜかその一言だけが鮮明に聞こえた。


 渉は息を吸って吐いた。風が肺の奥まで入ってくる。冷たいのに、目が覚める。

 渉は袋を持ち上げた。中の缶が、こつんと鳴る。


 「俺さ」

 言葉が詰まる。詰まったらいつも逃げる。今日は逃げたくない。

 「君がいると、息が楽だった。……だから、止めたくなった」

 言ってしまうと、馬鹿みたいだった。独占欲の告白みたいで、格好悪い。

 でも、格好悪いのが本当だった。


 ひよりは目を細めて、笑った。笑い方は薄い。けれど嘘じゃない。

 「息が楽、って。換気屋みたいな告白」

 「換気屋だから」

 渉は苦笑した。

 「俺、危ないって言葉を盾にした。君の足を止めるのが、怖さの処理だった」

 「うん」

 「で、君の足が止まったら、俺の心が楽になると思った。最低だ」

 「最低、って言わなくていい。自分を殴ると、話が進まない」


 ひよりはそう言って、深呼吸した。渉もつられて息をした。二人の呼吸が、少しだけ揃う。


 「じゃあ、手順」

 ひよりが言った。

 「手順?」

 「うん。今日は出る。出るのは決まってる。だから、今決めるのは“次”」


 ひよりは渉の袋を指差した。

 「それ、何」

 「飲み物。……二人分」

 「二人分は、ずるい」

 「ずるいけど、必要だった」


 渉は袋から紙コップを一つ出した。もう一つも出す。風で飛ばないように、指で押さえる。

 「この町の空気、君が作ってたんだって、今さら気づいた。だから、置き場を作る」

 「置き場?」

 「うん。君がいないとき、俺は息が詰まる。詰まると、変な正しさで殴る。だから先に置く。君の分の呼吸を、ここに」


 渉は紙コップに少しだけ甘い缶を注いだ。泡が立つ。泡は軽い。軽いのに、確かにそこにある。

 ひよりは呆れた顔で、でも目が少しだけ柔らかい。

 「持ってくのは、空気じゃなくて私でしょ」

 「持ってく。……でも、連れ戻すじゃない。追いかけるでもない。ちゃんと、並走する」

 「並走?」

 「うん。君が行くほうに、俺も行けるようにする。今の仕事、船の換気もやってる。次の定期点検、俺が担当で手を挙げる」


 ひよりの眉が上がった。

 「仕事で会うの?」

 「仕事なら、会える。会えるなら、話せる。話せるなら、置いていかれない」


 言いながら、渉は自分で変なことを言っていると思った。恋人のために仕事の段取りを変えるのは、少し格好悪い。けれど格好悪いほうが、現実になる。


 ひよりは少しだけ迷って、頷いた。

 「いいよ。仕事で会おう。で、仕事じゃないときも、会おう」

 「……会う」

 「うん。約束は重いから、まずは“連絡する”から」


 ひよりはスマホを出して、画面を見せた。新しい番号、というより新しい予定表。次の休みの日に、小さく丸が付いている。

 「この日。こっちに戻ってくる。夜、あの売店で」

 渉は笑ってしまった。港の売店。あまりに現実的で、だから嬉しい。

 「缶、二本でいい?」

 「二本でいい。甘いのと、渋いの」

 「渋いって言うな」

 「渋いのが好きだよ。……でも、今日は甘いほうも飲む」


 スピーカーがもう一度鳴った。最終案内。

 ひよりはキャリーの取っ手を握り直し、渉に手を伸ばした。手は温かい。風の冷たさが、少しだけ薄まる。


 「行くね」

 「行って」

 渉は言って、すぐ付け足した。

 「……振り向かなくていい。転ぶから」

 ひよりが笑った。

 「振り向くよ。転んだら、あとで直す。あなた換気屋でしょ」

 「換気屋は、空気の通りを直すだけだ」

 「じゃあ、私はあなたの通り道を直す」


 ひよりは列に戻り、船へ吸い込まれていった。

 渉はその背中を見送って、初めて足が動いた。遅い。遅いけど動く。


 売店の店主が遠くから手を振った。

 渉は片手を上げて返し、ポケットのメモ帳に短く書いた。


《風は責めるんじゃなく、通すもの》


 そのあと渉は、ひよりの残した“空のコップ”を片づけなかった。

 代わりに、空のほうのコップをひとつだけ洗って、店主に返した。

 「これ、借ります。次、ここで使うんで」

 店主は笑って頷いた。

 「いいね。空気の置き場、確保だ」


 港からの帰り道、踏切が鳴った。電車が通る。窓の中が明るい。

 渉はその光を眺めながら、スマホで“担当希望”の申請画面を開いた。指が少し震える。震えても、送信ボタンは押せる。

 押した瞬間、胸の奥で何かがほどけた。勝ち負けじゃない。息が通っただけだ。


 家に戻ると、部屋の空気はまださぼっていた。けれど渉は、窓を全開にした。冷たい風が通り抜ける。通り抜けると、床の上の影が少し動く。

 渉はテーブルの上の二つの紙コップを並べ、片方に水を注いだ。もう片方は空のまま。

 空のままでもいい。空のままにしておけば、次に入る。


 渉は息を吸って吐いた。

 海の匂いが入ってくる。冷たい。けれど、ちゃんと生きてる匂いだった。

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