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短編集  作者: 科上悠羽


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『回転木馬の非常口』

 後悔って、回数券だと思う。

 一回分が安い。だからつい買う。気づいたら財布がふくらむ。しかも使うときは、だいたい景色が同じだ。


 健太は、駅のホームでスマホを握りしめたまま、また同じ映画を再生していた。

 あのとき、言えばよかった。

 あのとき、引けばよかった。

 あのとき、行けばよかった。


 そして、同じ結論に着く。

 まあ、仕方ない。


 仕方ない、は便利だ。心にフタができる。フタをすると、明日も出社できる。出社できるぶんだけ、また仕方ないが増える。


「おーい、健太! まだ回してんのか、その頭の回転木馬」

 背中を叩かれて振り向くと、大学の同級生の陸がいた。薄いジャケットに、やけに元気な目。春の風より先に来るタイプの人間。


「回してない」

「回してる。顔が“ぐるぐる”って言ってる」

「顔に字幕つけるな」

「じゃあ口で言え。今どんな気分」

 陸は自販機の前に立ち、缶コーヒーのボタンを押した。ガタン、という音が妙に気持ちいい。


「……別に」

「別に禁止。便利すぎる」

 陸は二本買って、一本を健太に投げた。

「まず飲め。喉が乾いてると、人生が尖る」


 健太は受け取って、開けた。プシュ。炭酸が喉を刺す。刺すのに、現実の痛みは悪くない。想像の痛みより扱いやすい。


「で、今日は何を後悔してる」

「……後悔してない」

「今の言い方、後悔してる人のそれ」

「うるさい」

「うるさいついでに言う。今日は俺の勝ち。連行する」

「どこに」

「まず腹ごしらえ」


 陸の“まず腹ごしらえ”は、だいたい正しい。

 健太はそれに逆らう体力がないふりをして、ついて行った。逆らわないのは逃げでもあるし、救命でもある。



 連行先は、駅裏の定食屋だった。カウンターに湯気が立って、味噌の匂いがする。陸は迷いなく生姜焼きを頼み、健太には「同じでいいだろ」と勝手に決めた。

「勝手に決めるな」

「決めないと、お前は永遠に悩む。悩むと飯が冷める。冷めると人生がさらに尖る」

「人生、すぐ尖るな」

「尖るよ。人間だもの」


 皿が出てくるまでの間、陸は箸袋で輪ゴムを飛ばし、健太はそれを見ないふりをした。見ないふりは、だいたい心が忙しい証拠だ。


「なあ、健太」

「なに」

「最近、拳、使ってるか」

 健太は箸袋を握りつぶした。

「……その話、する?」

「する。今日する。明日だとまた“仕方ない”で逃げる」

 陸の言い方は乱暴なのに、嫌な感じがしない。嫌な感じがしないのは、陸が“勝ちたい”んじゃなく“戻したい”顔をしているからだ。


「使ってないよ」健太は言った。「もう、やめた」

「やめたって言う割に、手の皮が固い」

「ジム行ってるだけ」

「ほら、やめてない」

「……でも、リングは無理」

 健太は、皿の端のキャベツを箸でつついた。キャベツは抵抗しない。抵抗しない相手にだけ強くなれるのが、いちばん情けない。


 陸は生姜焼きを口に入れてから言った。

「リングの話じゃねえ。切り替えの話」

「切り替え?」

「人生のスイッチ。ずっと同じ場面を何度も再生するの、やめろ」

「やめたいけど、止まらない」

「止まらないなら、止め方を増やす。回るのを無理に止めるんじゃなく、ちょっとだけ上へ行く」

「上?」

「ぐるぐるしながら上がるやつ。階段みたいな」


 健太は皿を見た。生姜焼きはうまい。うまいのに、胸の奥はまだ固い。

「……どうやって」

「食え。食ったら見せる」



 食後、陸は健太を商業施設の屋上に連れて行った。そこには小さな遊園地があった。子ども向けの観覧車、回転木馬、そして古い塔。らせん階段がむき出しの、見晴らし台みたいなやつ。

 昼間は子どもで賑わうらしいが、今は夕方で、閉園間際。音楽は消えかけていて、回転木馬だけが惰性でゆっくり回っていた。


「ここ、俺のバイト先」陸が言った。

「……え、陸、何やってんの」

「回転木馬の非常口係」

「何それ」

「壊れたときに止める係。止めたあとに、みんなを出す係」

 陸は冗談みたいに言いながら、操作盤の横にしゃがみ込み、カバーを開けた。中には古いレバーが二本、並んでいる。


「ほら。回すやつと、止めるやつ。あとね」

 陸はもう一つ、小さなスイッチを指差した。

「非常灯。これが点くと、人は“今どこにいるか”が分かる」

「……点くと?」

「点かないと、みんな勝手に映画を再生する。『終わりだ』とか『怒られる』とか」

 陸はスイッチを軽く押した。黄色い非常灯が点滅する。たったそれだけで、木馬の影が少しだけ優しくなる。


「お前の頭も同じ。非常灯、切れてる」

「……失礼だな」

「失礼ついでに直す。はい」

 陸はポケットから小さなキーホルダーを取り出して、健太に渡した。

 小さなグローブの形をしたやつ。古い革みたいな色。

「これ、前にお前が落とした」

「……それ」

 健太の胸がきゅっとした。大学の最後の試合。負けて、笑って、帰り道でキーホルダーを落とした。笑っていたのは、負けた自分が嫌いにならないようにするための笑いだった。


「持ってろ」陸が言う。「叩きつけろとは言わない。握っとけ。手が空くと、また回し始めるから」

「陸、何の役」

「今日は、お前の非常灯係」


 健太は、キーホルダーを握りしめた。革の感触が指に残る。残る感触は、今ここにある証拠だ。



 閉園のアナウンスが流れ、客がいなくなった遊園地は急に広くなった。広いと、心が騒ぐ。騒ぐと、また後悔が回り始める。

 その前に、陸が塔を指差した。

「上、行くぞ」

「いや、今さら展望台って」

「展望台じゃない。ぐるぐる上がる稽古」


 らせん階段は、思ったより急だった。踏み板が薄くて、足音が響く。健太は途中で息が上がった。情けない。昔は走れたのに。

 陸が振り向いて言う。

「今の自分、嫌い?」

「……嫌いってほどじゃないけど」

「それ、成長。嫌いって言い始めると地獄だぞ」

「陸、何目線」

「元地獄住人目線。ほら、止まるな。止まってもいいけど、止まったら水飲め」

「水ない」

「持ってきてる」

 陸がペットボトルを差し出す。準備が良すぎて腹が立つ。腹が立つのに助かる。


 頂上に着くと、風が強かった。街の音が薄くなり、遠くの線路が細い光の筋みたいに見える。健太は柵に手を置いた。金属が冷たい。冷たいと、考えが減る。


「で」陸が言う。「ここから“ちょい飛び”」

「は?」

「怖い顔するな。飛び降りるんじゃねえ」

 陸は塔の横にある、小さな滑空アトラクションを指差した。安全帯を付けて、短いワイヤーで隣の台へ渡るだけのやつ。子ども向けの、ほんの数秒の空中移動。

「これ、閉園前の点検で一回やるの。ついでにお前も」

「俺、子どもじゃない」

「子どもじゃないから、余計に要る。大人は飛ばない。飛ばないから、地上で同じ映画を繰り返す」


 陸の言葉に、健太は苦笑した。確かにそうだ。

 スタッフが安全帯を締める。カチリ、という金具の音。音がするだけで、怖さが少しだけ形になる。形になれば、扱える。


「いける?」スタッフが聞く。

 健太は反射で「大丈夫です」と言いかけて、やめた。

「……怖いです」

「怖いでOK。じゃ、いきまーす」


 健太は一歩踏み出した。風が背中を押す。数秒だけ、足が地面を失う。失うのに、死なない。宙に浮いたまま、視界が一瞬だけ広くなる。

 着地。ゴムの床が受け止める。膝が笑う。笑う膝は、まだ生きてる。


 陸が拍手する。

「見ろ。大げさな言葉はいらん。でも、景色は変わったろ」

「……ちょっと」

「ちょっとで十分。ちょっとが、一段」


 健太は息を吐いた。長い息。長い息のあと、胸の奥の回転が少しだけ遅くなった気がした。



 帰り道、陸は駅まで送ってくれた。送ってくれたというより、隣で同じ速度で歩いてくれた。速くしない。遅くしない。呼吸が通る速度。


「なあ健太」陸が言う。「明日の自分に、一言だけ言え」

「明日?」

「明日の朝の自分でもいい。短いやつ」

 健太は少し考えて、言った。

「……困ったら、まず腹ごしらえ」

「それ、俺の呪いだろ」

「呪いって言うな。助かってる」

「じゃあ俺も言う。過去の自分に一言」

「何」

「よくやった。負けても、よくやった」

 陸は照れもせずに言った。言える人間が一番強い。健太はそう思った。


 ホームに着く。電車が入ってくる。風がまた冷たい。

 健太はポケットのグローブを握った。握ると、あの試合の“嫌な映画”が少しだけ薄くなる。映画の代わりに、今日の風が入ってくる。


「明日」陸が言う。「スイッチ、一本だけ切り替えろ」

「何の」

「返事。『まあ仕方ない』を一回やめろ。代わりに『確認に五分ください』って言え」

「仕事の話じゃん」

「人生の話だ。言葉はスイッチだ」


 電車のドアが開く。健太は乗り込み、振り返った。

「陸」

「ん」

「……ありがと」

「礼はいい。次は俺が回し始めたら止めろ」

「回転木馬の非常口係、交代制か」

「そう。二人でやるか、ってやつ」


 ドアが閉まる。電車が動く。

 健太の中の回転木馬は、まだ完全には止まっていない。回っている。けれど、今は少しだけ上へ行けそうだ。

 螺旋の一段ぶんだけ、景色が違う。


 健太はスマホを開き、明日の自分宛てにメモを打った。


《後悔の回数券は、今日は使わない。非常灯を点けて、まず腹ごしらえ。》


 送信はしない。公開もしない。

 ただ、点ける。

 それだけで、明日の足元が少しだけ見える気がした。



 翌朝、健太はいつもより五分だけ早く家を出た。五分は、人生を変えるほど大きくない。でも、後悔の回数券を一枚買うには十分な時間だ。だから、先に出て、先に水を飲んだ。


 会社のフロアに入ると、案の定「急ぎです」のメールが三通並んでいた。健太の指は勝手に返信欄を開き、「承知しました」「仕方ないので」と打ちかける。打ちかけて、止まった。昨日の陸の声が、耳の後ろで鳴る。


 スイッチだ。


 健太は削って、短くした。


『確認に5分ください。整えてから返します』


 送信。たったそれだけなのに、胸の奥で小さな風が通った。逃げでもない、喧嘩でもない、ただの手順。手順は、人を人に戻す。


「健太さん、これ……今日中で」

 隣の席の後輩が、恐る恐る資料を差し出した。目が“すみません”と言っている。

 健太は昨日の“非常灯”を思い出して、机の端を二回こつんこつんと叩いた。自分の合図。映画を止める合図。


「今日中、ね」健太は言った。「まず一回だけ、確認していい?」

「はい……」

「変更、いつ入った?」

「昨日の夕方です。たぶん」

「たぶん禁止」健太は笑った。「スクショ、ある? なかったら今取ろう」

 後輩の顔が、ふっとほどけた。ほどけると、人は動ける。健太はそのことを、昨日の空中の数秒で覚えた気がする。


 昼、健太は珍しく自分から席を立った。

 定食屋じゃなく、社食でもなく、ビル下の小さなうどん屋。理由は単純だ。温かい汁は、脳内字幕のノイズを薄める。


「え、健太さん、外食するんすか」

 後輩が驚く。驚きが可笑しくて、健太は肩をすくめた。

「腹ごしらえ。……これ、効く」

「誰の教えですか」

「厄介な友だち」

「いい友だちじゃないですか」

「厄介は、たまに良い」


 うどんを啜っていると、後輩がぽつりと言った。

「僕、こういうの向いてないかもって思ってました」

 健太は箸を止めて、言葉を探して、結局、正直を置いた。

「向いてる向いてない、って決めるの早いとさ。あとで自分が困る」

「……じゃあ、どうすれば」

「困る前に“助けて”って言う。あと、二人でやる?」

「二人で……」

「うん。仕事って、一人で回すと、だいたい回転木馬になる」

 後輩が笑った。笑いが刺さらない。刺さらない笑いは、今日の味方だ。



 定時を少し過ぎて、健太はジムの前に立っていた。リングに上がる気はない。けれど、扉を開けるスイッチくらいは切り替えたい。

 受付の女性が言う。

「体験ですか?」

「はい。……怖いです」

「怖いでOKです」

 昨日と同じ返事が返ってきて、健太はなぜか笑ってしまった。怖いを許されると、怖さは少しだけ軽くなる。


 グローブをはめる。ベルクロの音が、ばりばりと鳴る。過去の自分が少しだけこちらを向く。

 ミットを構えたトレーナーが言った。

「軽くでいいです。まず当てましょう」

 健太は一発だけ、ぽん、と当てた。痛くない。痛くないのに、胸が熱い。

 もう一発。

 もう一発。

 最後に、健太は自分で自分に言った。声に出さず、喉の奥で。


(まだ、いける)


 帰り道、駅のポイント切り替えのレバーが、遠くでカチリと動くのが見えた。

 線路がほんの少しだけ向きを変える。大げさじゃない。けれど、確かに別の道へ行ける。


 健太はポケットの小さなグローブを握り直して、スマホに短く打った。


《回る日はある。だから非常灯。だから腹ごしらえ。だから一段だけ上へ。》


 それで、今日は十分だった。

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