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短編集  作者: 科上悠羽


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74/125

『当たり判定は自分で作る』

 最悪の朝は、だいたい「体が重い」から始まる。

 目は開いているのに、脳がまだ布団の中にいる。喉は乾いて、肩は固くて、鏡の前の自分だけがやけに他人っぽい。


 直史は玄関で靴紐を結びながら、スマホの予定表を見た。

《デモ会 15:00》

 たった四文字が、胃をぎゅっと掴む。十五分で見せる。十五分で勝負する。十五分で、今後の予算も人員も流れも決まる。

 「十五分」のくせに、体感は十五日くらいある。


 出社前のコンビニで、直史は冷たい缶を一本握りしめた。甘くて、炭酸で、意味のある顔をしているやつ。

「今日はこれで、走れる……気がする」

 独り言に、店員が「いってらっしゃいませ」と返した。走るって何にだよ、と自分で突っ込みながら、直史は駅へ向かった。


 改札の前で、人の波に飲まれそうになる。みんな速い。速いのに無表情で、無表情なのに疲れてる。都市って、みんな似た顔を量産する工場みたいだ。

 直史もその工場の一部だった。社会人六年目。部署異動を二回。どこに行っても「困ったら直史に聞けばいい」と言われて、結局ずっと“最後の整え係”になった。

 助かる、と言われるのは嫌いじゃない。むしろ、ちょっと嬉しい。

 その代わり、いつも自分が「画面の端にいる」気がする。主役のセリフを言う人じゃなくて、字幕を整える人みたいな。


「よっ、直史。顔、終わってる」

 駅から会社へ向かう途中、後ろから声がした。美波だ。同じプロジェクトの実務担当で、笑いが早い。早い笑いは救命具だ。

「終わってない。まだ読み込み中」

「読み込み遅い人、今日の大一番だよ」

「大一番って言うな」

「言う。言わないと怖いから」


 会議室に入ると、すでに“嫌な空気”がいた。

 薮田主任。過去の武勇伝で今日も息をしているタイプ。スーツの肩が妙に立派で、声がよく通る。

「デモ会ねぇ。俺の若い頃はさぁ、資料なんて要らなかったんだよ。勢いで、ドン!」

 薮田は胸を叩き、誰も頼んでない拍手を自分に送った。

 直史は笑顔を作った。作った瞬間、缶の甘さが少し苦くなる。


 準備が始まる。プロジェクター、音声、画面共有。接続。ログイン。権限確認。テストデータの投入。

 手は動くのに、心だけが置いていかれる。置いていかれた心は、勝手に最悪の予告編を流し始める。

 失敗したら? 詰まったら? 笑われたら? 主任が「だから言ったろ」と言ったら?

 予告編がうるさくなりかけたところで、美波が小声で言った。


「薮田さん対策、いこ」

「……対策って何」

「例の、バリア」

 美波はポケットから付箋を出して、直史のノートに貼った。


《透明》


「薮田さんが“昔はさぁ”を始めたら、これを見る。心に透明シート貼る。通すけど、刺さらない」

「雑すぎる」

「雑がいい。今日は雑で守る日」

「守るって何から」

「あなたの胃から」


 直史は吹き出しそうになって、ぎりぎりで堪えた。笑うと、肩が落ちる。肩が落ちると、呼吸が通る。呼吸が通ると、頭の字幕が黙る。

 嫌な人対策が、なぜか先に自分の救命になっているのが可笑しかった。


 開始まであと十分。直史のスマホが震えた。

 通知の名前は「陸」。

 前の部署の同期で、直史が詰まると妙に軽い言葉を投げてくるやつだ。


『今日だっけ。深呼吸しろ。あと、笑え。終わったらラーメン奢る』


 短い。説明がない。励ましの形もしてない。

 なのに直史の胸の奥で、こつん、と小さな音がした。硬い部分が、ほんの一ミリだけ動く音。


 美波が覗き込む。

「誰?」

「同期。…麺で釣ってくる」

「正しい。人間、だいたい麺で戻る」

「戻るって何だよ」

「今から分かる。ほら、開始五分前」


 会議室の扉の外がざわついた。経営陣の足音。資料をめくる音。椅子を引く音。空気が一段硬くなる音。

 直史はポケットの缶を握り直した。冷たさで指先が現実に戻る。



 デモ会は、容赦なく始まった。

 経営陣が並ぶ。目が多い。目が多いと、人は急に“正しい顔”を作ろうとする。直史はその癖がある。

 薮田が先に口を開いた。

「では私から全体像を」

 直史の視界の端で、《透明》の付箋が光った気がした。直史は心の中で透明シートを一枚、ぺたりと貼る。

 薮田の声は通る。でも刺さらない。……刺さらない、気がする。


 美波がデモを進め、直史は補足を入れる。想定質問に答え、つまずきそうな箇所を先回りして潰す。

 最初の五分は、思ったより順調だった。順調なときほど、急に落とし穴が来る。経験が言っている。


 七分目。プロジェクターが一瞬だけ黒くなった。

 真っ黒。静寂。心臓が跳ねる。会議室の空気が凍る。

 薮田が口を開きかける気配。あの「ほらね」の予告。


 直史は反射で、マウスを動かした。動かしても映らない。ケーブル? 電源? 切り替え?

 頭の中で字幕が暴れ始める。原因究明、責任所在、謝罪文テンプレ、今後の段取り。

 その字幕の暴走を止めたのは、美波の小さな声だった。


「直史。目、こっち」

 美波は自分の目元を指で二回、こつんこつんと叩いた。合図。焦るな、の合図。

 直史も真似して、机の端を二回叩く。すると、呼吸が一段下がった。


「すみません、画面、こちらで続けます」

 美波が即座に言い、ノートPCをくるりと回して、経営陣に向けた。小さい画面。けれど動く。動けば進む。

 直史は気づく。完璧じゃなくても、流れは回せる。回せるとき、人は勝手に助け合う。


 直史はケーブルの差し込みを確認し、切り替え器のランプを見て、電源タップを押し直した。黒が戻り、画面が復活する。

 息が戻った瞬間、薮田が言った。

「こういうの、事前に」

 直史の視界に《透明》。透明シート、ぺたり。


 その代わり、直史は自分の声を出した。短く、軽く、刺さない形で。

「今のは僕の確認不足です。次からは、バックアップ画面で最初から続けます。進行を止めないようにします」

 謝罪で終わらない言い方。言った自分に、内心で驚く。

 薮田は一瞬だけ黙り、結局「……そうだな」と引っ込んだ。


 終盤、経営の一人が言った。

「この入力、現場は嫌がらない?」

 その瞬間、直史の脳内で小さなパニックが走った。嫌がるかどうかは、現場次第。現場は人。人は気分。気分は厄介。

 直史は“きれいな答え”を探しかけて、やめた。きれいな答えは、たいてい嘘になる。


「嫌がります」

 会議室が一拍止まる。

 直史は続けた。

「なので、嫌がらないようにします。手順を減らすだけじゃなくて、入力の理由が見える形にします。今の画面だと“やらされ感”が出るので、ここを変えます」

 自分の声が思ったより真っ直ぐで、直史は内心で驚いた。真っ直ぐは怖い。怖いけど、嘘よりは楽だ。


 美波が横で小さく頷く。頷きがあると、背中が少しだけ広くなる。

 直史は気づく。主役って、舞台の中央に立つことじゃない。逃げずに答える瞬間のことだ。


 最後の一分。薮田がまた武勇伝を始めかけた。

「まぁ、俺の頃は」

 直史の視界に《透明》。美波が、わざとらしく水を一口飲んだ。合図だ。

 直史も水を飲む。喉が通る。すると、余計な感情が一段落ちる。


「主任、それは打ち上げで聞きたいです」

 直史は笑って言った。笑い声が出た。会議室にも小さな笑いが起きる。

 薮田は一瞬だけ面食らって、結局「お、おう」と引っ込んだ。

 直史の胸の奥に、ズン、と小さな手応えが来た。

 “当たった”。今の言葉が、ちゃんと当たった。


 十五分が終わる。拍手は大きくない。けれど、安っぽくもない。

「続けて検討したい。現場ヒアリングの段取りを」

 経営の言葉が落ちた瞬間、直史の肩がふっと落ちた。落ちていい場所に落ちた感じがした。



 会議室を出た廊下で、直史は息を吐いた。息が長い。長い息は、戻った証拠だ。

「直史、今の『嫌がります』、良かった」

 美波が言う。

「良かったのかな。やばかった」

「やばいのが良かった。嘘じゃなかったし。で、次の一手も言った。あれ、頼もしい」

「頼もしいって言うな。重い」

「じゃ、いい。今日は“いい”で」


 薮田が廊下の向こうで腕を組み、こちらを見ていた。直史は身構えた。ところが薮田は、意外と小さく言った。

「さっきの復旧、早かったな」

「……ありがとうございます」

「礼はいい。次は最初から二重にしろ。俺も確認する」

 言い方は相変わらず偉そうだ。でも、協力の言葉が混じっている。

 直史は《透明》を思い出し、心のシートを一枚だけ薄く剥がした。全部じゃない。薄くでいい。


 スマホが震える。陸からだ。

『終わった? 生きてる?』

 直史は短く返す。

『生きてる。麺、頼む』

 すぐ返事が来る。

『任せろ。替え玉まで行け。今日は勝ち筋あっただろ』


 勝ち筋、という言葉に直史は笑った。勝ち負けは好きじゃないのに、今日はその言い方が助かる。

 美波が言う。

「今夜、ラーメン?」

「うん。同期に奢られる」

「じゃ、私も行く。私も今日、胃が生き返りたい」

「胃が主語になってる」


 夕方、駅前のラーメン屋。カウンターが狭くて、湯気が近い。湯気は現実の匂いだ。

 陸は相変わらず軽い顔で来て、直史を見て言った。

「お、顔が人間」

「ひどい」

「褒めてる。人間が一番強い」

 陸はメニューも見ずに注文し、美波にも「好きなの頼め」と言い切った。豪快というより、面倒を減らすタイプの優しさだ。


 麺が来るまでの間、陸が聞いた。

「で、どうだった」

 直史は一瞬迷って、結局正直に言った。

「途中で画面死んだ。心も死んだ」

「でも生きてる」

「生きてる」

「じゃ勝ち。死んだふりして終わるより、百倍いい」

 陸の言い方は雑だ。でも雑が効く日がある。今日はそういう日だ。


 美波が箸を持ったまま言う。

「直史さ、主役じゃないって思ってたでしょ」

「……思ってた」

「今日、主役だったよ。だって、嘘つかなかった」

 直史はむず痒くなって、スープを飲んだ。熱い。熱いと余計な言葉が減る。


 陸が笑う。

「ほらな。主役って、“映える”じゃなくて“当てる”だから」

「当てる?」

「相手に。現場に。次の手順に。自分の腹にも」

 陸は箸で空中を指し示した。「ど真ん中、ってやつ」

 直史は、今日のズンという手応えを思い出した。確かに、あれはど真ん中だった。


 食べ終わって外へ出ると、夜風が冷たい。けれど足は軽い。軽いのは、缶のせいじゃない。たぶん。

 直史はポケットの付箋を剥がした。《透明》。

 捨てるのはもったいなくて、ノートの端に貼り直した。バリアは今日だけの道具じゃない。次も必要になる日がある。


 別れ際、美波が言った。

「明日からも、主役でいてね」

「それ、重い」

「じゃあ、明日からも、当てて。小さくでいいから」

 小さく。でいい。直史は頷いた。


 帰りの電車で、直史は陸にもう一通だけ送った。

『今日は助かった。あの一行、効いた』

 返事はすぐ来た。

『一行で効くなら、次は二行だな。冗談。寝ろ』


 直史は笑って、スマホを伏せた。眠い。体はまだ重い。明日もたぶん、重い。

 それでも今日は、ちゃんと当てた。

 よーい、の声が頭の中で鳴る。

 ドン、じゃない。もっと静かな合図で。


 直史は目を閉じて、次の命中のために息を整えた。


 翌朝。

 やっぱり体は重かった。魔法みたいに軽くはならない。軽くならないのに、直史は昨夜ノートに貼った《透明》を思い出して、少しだけ笑った。

 出社前に買ったのは、甘い缶じゃなくて水だった。喉が通ると、脳の字幕が一枚だけ薄くなる。


 席に着くと、美波がもうバックアップ用の小さい資料を作っていた。

「ね。次から最初から二重」

「うん。止めない」

 直史は頷いて、画面の隅に付箋をもう一枚貼った。


《当てる》


 大げさじゃない。誰にも見せない。自分のためだけの当たり判定。

 直史はキーボードに指を置いて、今日の最初の一通を打った。

『確認に5分ください。整えてから返します』


 送信。

 画面が静かになる。

 静かになった分だけ、次の一歩が入る余白ができた。

 直史は息を吸って吐いて、もう一回、当てにいくことにした。

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