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短編集  作者: 科上悠羽


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73/122

『余白に足跡を打つ』

 段ボールの底から、まだ乾いていない雨の匂いがした。春の引っ越しは、だいたいこういう匂いが残る。紙が湿って、ガムテープがやけに強くて、剥がすたびに小さなため息が漏れる。


「それ、捨てないの?」

 はるかが、僕の手元を覗き込んだ。僕が抱えていたのは、靴箱ひとつ分の紙切れだ。レシート、映画の半券、電車の乗車券、入場チケット。どれも、財布の底で折れ曲がって、角が丸くなっている。


「捨てると……なんか、抜ける」

「抜けるって何が」

「僕の中の、点」


 言ってから、自分でも変な言い方だと思った。遥は笑いそうになって、笑わずに首を傾げる。彼女はこういうとき、ちゃんと聞く顔をする。ちゃんと聞かれると、僕はいつも焦る。説明で埋めたくなる。


 遥は段ボールの上に座り、靴箱を自分の膝へ引き寄せた。

「点、ってさ。……それ、集めると、何になるの?」

「えっと……地図?」

「地図。いいじゃん。じゃあ今夜、作ろうよ。引っ越し初日の儀式にしよう」

「儀式って何」

「新居で最初にやる“変なこと”は、だいたい長続きするから」


 それが遥らしい。まともに見えるのに、時々だけ雑に頼もしい。



 夕飯の鍋が煮えている間、僕らは床に白い模造紙を広げた。遥がマスキングテープで四隅を留める。僕は靴箱をひっくり返して、紙切れをばらばらに並べた。雨粒みたいに散らばる。


「で、点はどれ?」

 遥が言う。

「全部」

「全部は反則」

「……じゃあ、これ」

 僕は、一枚の半券をつまんだ。紙は薄くて、でも指先に引っかかりがある。駅前の小さい映画館。平日夜。隣の席。上映中に、遥が泣くのを必死で堪えて、鼻を鳴らさないようにしていた。終わってから、僕がティッシュを差し出したら、遥は一言だけ言った。

『助かった』

 それだけで、僕は妙に救われた。


「それ、初めて話した日?」

「うん。話したっていうか……同じ空気を吸った日」

「言い方が重い」

「ごめん」

「謝らない。点なんだから、軽く置いてよ」


 遥はペンを取り、模造紙の左上に小さな丸を描いた。丸の横に、日付を書くでもなく、場所を書くでもなく、ただ短く「映画」と書く。点はそれで十分らしい。

「はい、点いっこ」


 僕は次の紙切れを選ぶ。コンビニのレシート。深夜二時。胃が痛くて眠れない日に、遥が白湯とゼリーを買ってきた。余計な言葉はなかった。袋の口を開ける音だけが、やけに優しかった。

 僕はそれを「白湯」と呼びたくて、でも言うと照れるので「コンビニ」と言った。

 遥が丸を打つ。「コンビニ」。


 点が増える。散らばる点が、少しずつ“僕らの範囲”を形作っていく。駅、川沿い、古本屋、雨宿りした軒先、早朝のパン屋、失敗したケーキ、笑いすぎて腹が痛くなった夜。どれも立派じゃない。立派じゃないから、生活だ。


 途中で遥が、僕の靴箱を指でつついた。

「ねえ。あなた、なんでこんなに紙を残すの」

「……忘れそうだから」

「記憶の自信がない?」

「自信っていうか、気分で改ざんしそう」

「改ざん」

「僕、嫌な人になるのが得意なんだ。落ち込むと、過去まで灰色に塗る」

 言うと情けない。情けないのに、遥は「あるある」と軽く頷いた。

「じゃあ、紙はあなたの“反証”なんだ」

「反証?」

「うん。『あの日ちゃんと笑ってた』って、証拠」

 遥はペンで小さく書き足す。「証拠」。その文字が妙に可笑しくて、僕は少しだけ笑った。


「ねえ、線は引かないの?」

 遥が言った。

「線?」

「点だけだと、ただの散らかり。線があると、道になる」

 遥は蛍光ペンを二本持って、僕へ一本差し出した。

「色、選んで。あなたはどっち」

「……こっち。地味な方」

「地味じゃないよ。落ち着く方」

 遥は明るい方を選んだ。案の定だ。


 僕らは、点と点の間に短い線を引いた。まっすぐじゃない。少し曲がる。時々、遠回りする。遠回りの線ほど、色が濃い。笑ったからだ。

 遥が言う。

「これ、なんか……根っこみたい」

「根っこ?」

「うん。地面の下で、勝手に伸びて、いつの間にか絡まってるやつ」

「絡まるって言い方、ちょっと怖い」

「怖いけど、嬉しいほうの怖い。ね、引っ越しって根っこ移植じゃん」

「雑な比喩」

「雑がいい日もある」


 鍋がふつ、と鳴いた。湯気が立つ。僕らは床から立ち上がり、模造紙をそっと避けて、夕飯にした。根菜をたっぷり入れた鍋。遥が「根っこの日だから」と言って、わざわざ買ってきた。僕はそのセンスが好きで、でも照れて黙った。



 食後、遥は急に真面目な声を出した。

「ねえ。これ、点が足りない」

「足りない? まだあるよ。靴箱の底に」

「そうじゃなくて……“あなたの昔”」


 遥は、模造紙の右下を指で叩いた。僕がわざと置かなかった場所。僕の過去。家族の話。昔飼っていた猫の話。笑い話にすると、自分の喉が変な形で詰まるやつ。


「言いたくないなら、言わなくていい。でも、ここに空白があるとさ」

 遥は指を広げる。

「地図が、片翼になる。片翼だと飛べない。飛ばなくていいけど、バランスが悪い」


 遥の言葉は、いつも“正しさ”じゃなく“使い勝手”で来る。僕はそこが好きだ。


「……子どものころ、猫を拾ったんだ」

 言ってしまうと簡単だった。詰まっていたのは言葉じゃなく、出す許可だったらしい。

「拾ったっていうか、迷子を連れて帰って、うちに居着いた。僕より後から来て、僕より早くいなくなった」

 遥は黙って聞いている。黙り方が武器じゃない。待ち方だ。

「一緒にいた時間は、短かったのに……僕の中では、まだ走ってる。たまに、部屋の角を曲がると足音がする気がする」


 僕は続けた。自分でも驚くほど、言葉が出てくる。

「その頃、僕の家は引っ越しが多くてさ。友だちができても、また離れる。だから僕、別れが来る前提で仲良くなる癖がついた。猫だけは、前提を裏切って居座ってくれた。……だから、余計に大きい」

 遥が小さく頷いた。

「居座り上手な猫、いいね」

「いい。……でも最後は、ちゃんといなくなった。そこだけは、前提通り」

「前提通り、って言い方が痛い」

「痛い。だから今も、点にしたい」


 遥はペンを取り、模造紙の真ん中より少し下に、小さな丸を打った。丸の横に、ひらがなで「ねこ」とだけ書いた。

 それだけで、僕の胸の奥がふっと軽くなった。名前じゃないのがいい。名前にすると重くなる。ひらがなは軽いのに、ちゃんと存在する。


「じゃあ次は、私の昔も置くね」

 遥が言って、スマホを取り出した。写真フォルダ。古い台所の写真、湯気の立つ鍋、笑っているおばあちゃん。

「私、料理が好きなの、この人のせい。小さい頃、帰る場所がここだった。鍋の匂いがする家」

「だから鍋が多いのか」

「うん。鍋は、放っておいても焦げにくい。つまり、余裕がなくても失敗しにくい」

「生活の思想」

「そう。根っこって、こういうやつ」


 遥は模造紙の端に、もう一つ丸を打った。「台所」。それだけで、遥の匂いが地図に入った気がした。



 遥が、急にニヤッとした。嫌な予感がする顔だ。

「今の流れだと、なんか、決め台詞を言うタイミングじゃない?」

「決め台詞って何」

「ほら、引っ越し初日。新居。模造紙。根っこ。猫。台所。……ここで一言、格好つけたいやつ」


 僕はむせた。遥は楽しそうに笑う。こういうときの遥は、救命具でもあり、意地悪でもある。

「採点してあげる。点の数、いっぱいあるし」

「採点、やめて」

「やめない。点が好きなくせに」


 逃げ場がなくなった僕は、適当に言った。

「……これからも、よろしく」

 遥は即答する。

「五点。安全すぎ」

「安全がいいだろ」

「安全はいい。でも今日のは、味がしない」


 僕は次の案を絞り出した。

「……ずっと一緒に、って言うのは、どう」

「六点。急に重い」

「じゃあ……君がいないと困る」

「二十点。怖い依存」

「点数の付け方が雑」

「雑がいい日もある」


 遥は笑いながら、テーブルの端に小さなメモ用紙を置いた。採点表。丸がいっぱいで、妙に可愛い。

「ほら、最後に合格を出したいなら、あなたのサイズで言って」


 格好いい言葉を探すと、だいたい重くなる。重いと、言った瞬間に自分が恥ずかしくなる。恥ずかしいと、冗談で逃げる。逃げると、せっかくの地図がまた薄くなる。

 だから、僕は一番小さい言葉を選んだ。


「……明日も、同じ鍋を食べたい」

 遥の目が丸くなって、次に笑った。

「それ、いい。八十五点」

「点数の幅が雑」

「採点って、幅がないと面白くないでしょ」


 遥は僕の手を取って、指先を一回だけ握った。強くない。逃げ道を残す握り方。

「じゃあ私も言う。明日も、あなたの“点”を拾う」

「拾うって……落とす前提?」

「落とすよ。人間だもん。落としたら拾う。拾えるなら安心」


 僕は頷いた。頷きながら、模造紙の上の線を見た。曲がっている。遠回りしている。けれど、ちゃんと今に繋がっている。



 翌週、僕らは小さな保護施設へ行った。見るだけのつもりだった。見るだけ、も便利な言葉だ。見るだけで帰れるはずなのに、目が合うと戻れなくなる。


 ケージの奥で、子猫がひとつ、丸くなっていた。耳だけがぴくりと動く。こちらを見ない。強がりなのか、眠いのか分からない。

 遥がしゃがんで、指を差し出した。子猫は鼻先で匂いを確かめ、ほんの一歩だけ近づいた。


「……点」

 僕が呟くと、遥が笑った。

「また点。あなた、点が好きだね」

「好きっていうか、これでしか分からない」

「分からないなら、増やせばいい」


 施設のスタッフが静かに言った。

「この子、最初は近づけない子だったんです。抱っこも苦手で」

「じゃあ、僕らと似てる」

 僕が言うと、遥が肩を揺らして笑った。

「似てるね。近づくの、下手」

「下手でも、今ここにいる」

「それが合格」


 子猫は、やっと尻尾の先を一回だけ揺らした。控えめな合図。けれど、十分だった。


 書類にサインをして、施設を出るとき、遥が僕に言った。

「帰ったら、地図に足そう」

「何を」

「今日の点。あと……この子の足跡」


 新居に戻って、僕らは模造紙を壁に貼った。線の上に、子猫の肉球スタンプを小さく押す。丸い跡が、いくつも並ぶ。点みたいで、でも生きている点。

 遥がペンで一行だけ書き足した。


『ここから先は、余白に足跡』


 僕はその文字を見て、なんだか笑ってしまった。余白があるのは、欠けているからじゃない。これから増やす場所だからだ。


 子猫がくしゃみをして、僕らは同時に「大丈夫?」と言いかけて、同時に笑った。

 大丈夫じゃなくても、呼吸が通ればいい。点は残る。線は曲がる。根っこは伸びる。

 そして今日の僕らは、増やす側にいる。


 僕は床に座り、子猫の背中を撫でた。遥が隣で鍋の準備を始める。湯気の匂いが、また部屋に戻ってくる。


「ねえ」遥が言った。

「うん」

「明日の鍋、何味にする?」

 僕は少し考えて、答えた。

「……迷ったら、二種類で」

「それ、好き。白か黒かじゃなくて、混ぜるやつ」

 遥が笑って、子猫が尻尾の先を揺らした。


 壁の地図の端で、蛍光ペンの線が、まだ乾いていなかった。

 僕は指先で、乾きかけの線をそっと撫でた。少しだけ色が移って、指が明るくなる。

「うわ、触ったな」

「触った。……でも、いい。乾く前に触った証拠」

「証拠、大好きか」

「好き。ちゃんと生きてる感じがするから」


 子猫がくんくんと模造紙の端を嗅いで、ぺたんと座った。遠慮がちに前足を出して、もう一つだけ丸い跡を残す。インクじゃない、湿った肉球の跡。すぐ消えるやつ。

 遥が笑って、ペンでその場所に小さく丸を描いた。

「消える前に、点にしとこ」

「ずるい」

「ずるくていい。消えるのは消える。残すのは残す」


 夜、鍋の匂いが部屋に満ちて、子猫はようやく眠った。眠りながら、たまに足を小さく動かす。走っているのか、泳いでいるのか分からない。けれど、誰かの中で走るものは、たぶんこういう形をしている。


 僕は電気を消す前に、靴箱を棚の上へ置いた。捨てない棚じゃない。使う棚だ。

「明日、また増えるね」

 遥が言う。

「増える。増えたら、線を引く。曲がっても、遠回りでも」

「うん。余白は、足跡用に空けとこ」


 僕は小さく頷いて、眠る子猫の背中に指を置いた。温かい。確かにここにいる温度。

 点は、今日も一つ増えた。


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