『余白に足跡を打つ』
段ボールの底から、まだ乾いていない雨の匂いがした。春の引っ越しは、だいたいこういう匂いが残る。紙が湿って、ガムテープがやけに強くて、剥がすたびに小さなため息が漏れる。
「それ、捨てないの?」
遥が、僕の手元を覗き込んだ。僕が抱えていたのは、靴箱ひとつ分の紙切れだ。レシート、映画の半券、電車の乗車券、入場チケット。どれも、財布の底で折れ曲がって、角が丸くなっている。
「捨てると……なんか、抜ける」
「抜けるって何が」
「僕の中の、点」
言ってから、自分でも変な言い方だと思った。遥は笑いそうになって、笑わずに首を傾げる。彼女はこういうとき、ちゃんと聞く顔をする。ちゃんと聞かれると、僕はいつも焦る。説明で埋めたくなる。
遥は段ボールの上に座り、靴箱を自分の膝へ引き寄せた。
「点、ってさ。……それ、集めると、何になるの?」
「えっと……地図?」
「地図。いいじゃん。じゃあ今夜、作ろうよ。引っ越し初日の儀式にしよう」
「儀式って何」
「新居で最初にやる“変なこと”は、だいたい長続きするから」
それが遥らしい。まともに見えるのに、時々だけ雑に頼もしい。
*
夕飯の鍋が煮えている間、僕らは床に白い模造紙を広げた。遥がマスキングテープで四隅を留める。僕は靴箱をひっくり返して、紙切れをばらばらに並べた。雨粒みたいに散らばる。
「で、点はどれ?」
遥が言う。
「全部」
「全部は反則」
「……じゃあ、これ」
僕は、一枚の半券をつまんだ。紙は薄くて、でも指先に引っかかりがある。駅前の小さい映画館。平日夜。隣の席。上映中に、遥が泣くのを必死で堪えて、鼻を鳴らさないようにしていた。終わってから、僕がティッシュを差し出したら、遥は一言だけ言った。
『助かった』
それだけで、僕は妙に救われた。
「それ、初めて話した日?」
「うん。話したっていうか……同じ空気を吸った日」
「言い方が重い」
「ごめん」
「謝らない。点なんだから、軽く置いてよ」
遥はペンを取り、模造紙の左上に小さな丸を描いた。丸の横に、日付を書くでもなく、場所を書くでもなく、ただ短く「映画」と書く。点はそれで十分らしい。
「はい、点いっこ」
僕は次の紙切れを選ぶ。コンビニのレシート。深夜二時。胃が痛くて眠れない日に、遥が白湯とゼリーを買ってきた。余計な言葉はなかった。袋の口を開ける音だけが、やけに優しかった。
僕はそれを「白湯」と呼びたくて、でも言うと照れるので「コンビニ」と言った。
遥が丸を打つ。「コンビニ」。
点が増える。散らばる点が、少しずつ“僕らの範囲”を形作っていく。駅、川沿い、古本屋、雨宿りした軒先、早朝のパン屋、失敗したケーキ、笑いすぎて腹が痛くなった夜。どれも立派じゃない。立派じゃないから、生活だ。
途中で遥が、僕の靴箱を指でつついた。
「ねえ。あなた、なんでこんなに紙を残すの」
「……忘れそうだから」
「記憶の自信がない?」
「自信っていうか、気分で改ざんしそう」
「改ざん」
「僕、嫌な人になるのが得意なんだ。落ち込むと、過去まで灰色に塗る」
言うと情けない。情けないのに、遥は「あるある」と軽く頷いた。
「じゃあ、紙はあなたの“反証”なんだ」
「反証?」
「うん。『あの日ちゃんと笑ってた』って、証拠」
遥はペンで小さく書き足す。「証拠」。その文字が妙に可笑しくて、僕は少しだけ笑った。
「ねえ、線は引かないの?」
遥が言った。
「線?」
「点だけだと、ただの散らかり。線があると、道になる」
遥は蛍光ペンを二本持って、僕へ一本差し出した。
「色、選んで。あなたはどっち」
「……こっち。地味な方」
「地味じゃないよ。落ち着く方」
遥は明るい方を選んだ。案の定だ。
僕らは、点と点の間に短い線を引いた。まっすぐじゃない。少し曲がる。時々、遠回りする。遠回りの線ほど、色が濃い。笑ったからだ。
遥が言う。
「これ、なんか……根っこみたい」
「根っこ?」
「うん。地面の下で、勝手に伸びて、いつの間にか絡まってるやつ」
「絡まるって言い方、ちょっと怖い」
「怖いけど、嬉しいほうの怖い。ね、引っ越しって根っこ移植じゃん」
「雑な比喩」
「雑がいい日もある」
鍋がふつ、と鳴いた。湯気が立つ。僕らは床から立ち上がり、模造紙をそっと避けて、夕飯にした。根菜をたっぷり入れた鍋。遥が「根っこの日だから」と言って、わざわざ買ってきた。僕はそのセンスが好きで、でも照れて黙った。
*
食後、遥は急に真面目な声を出した。
「ねえ。これ、点が足りない」
「足りない? まだあるよ。靴箱の底に」
「そうじゃなくて……“あなたの昔”」
遥は、模造紙の右下を指で叩いた。僕がわざと置かなかった場所。僕の過去。家族の話。昔飼っていた猫の話。笑い話にすると、自分の喉が変な形で詰まるやつ。
「言いたくないなら、言わなくていい。でも、ここに空白があるとさ」
遥は指を広げる。
「地図が、片翼になる。片翼だと飛べない。飛ばなくていいけど、バランスが悪い」
遥の言葉は、いつも“正しさ”じゃなく“使い勝手”で来る。僕はそこが好きだ。
「……子どものころ、猫を拾ったんだ」
言ってしまうと簡単だった。詰まっていたのは言葉じゃなく、出す許可だったらしい。
「拾ったっていうか、迷子を連れて帰って、うちに居着いた。僕より後から来て、僕より早くいなくなった」
遥は黙って聞いている。黙り方が武器じゃない。待ち方だ。
「一緒にいた時間は、短かったのに……僕の中では、まだ走ってる。たまに、部屋の角を曲がると足音がする気がする」
僕は続けた。自分でも驚くほど、言葉が出てくる。
「その頃、僕の家は引っ越しが多くてさ。友だちができても、また離れる。だから僕、別れが来る前提で仲良くなる癖がついた。猫だけは、前提を裏切って居座ってくれた。……だから、余計に大きい」
遥が小さく頷いた。
「居座り上手な猫、いいね」
「いい。……でも最後は、ちゃんといなくなった。そこだけは、前提通り」
「前提通り、って言い方が痛い」
「痛い。だから今も、点にしたい」
遥はペンを取り、模造紙の真ん中より少し下に、小さな丸を打った。丸の横に、ひらがなで「ねこ」とだけ書いた。
それだけで、僕の胸の奥がふっと軽くなった。名前じゃないのがいい。名前にすると重くなる。ひらがなは軽いのに、ちゃんと存在する。
「じゃあ次は、私の昔も置くね」
遥が言って、スマホを取り出した。写真フォルダ。古い台所の写真、湯気の立つ鍋、笑っているおばあちゃん。
「私、料理が好きなの、この人のせい。小さい頃、帰る場所がここだった。鍋の匂いがする家」
「だから鍋が多いのか」
「うん。鍋は、放っておいても焦げにくい。つまり、余裕がなくても失敗しにくい」
「生活の思想」
「そう。根っこって、こういうやつ」
遥は模造紙の端に、もう一つ丸を打った。「台所」。それだけで、遥の匂いが地図に入った気がした。
*
遥が、急にニヤッとした。嫌な予感がする顔だ。
「今の流れだと、なんか、決め台詞を言うタイミングじゃない?」
「決め台詞って何」
「ほら、引っ越し初日。新居。模造紙。根っこ。猫。台所。……ここで一言、格好つけたいやつ」
僕はむせた。遥は楽しそうに笑う。こういうときの遥は、救命具でもあり、意地悪でもある。
「採点してあげる。点の数、いっぱいあるし」
「採点、やめて」
「やめない。点が好きなくせに」
逃げ場がなくなった僕は、適当に言った。
「……これからも、よろしく」
遥は即答する。
「五点。安全すぎ」
「安全がいいだろ」
「安全はいい。でも今日のは、味がしない」
僕は次の案を絞り出した。
「……ずっと一緒に、って言うのは、どう」
「六点。急に重い」
「じゃあ……君がいないと困る」
「二十点。怖い依存」
「点数の付け方が雑」
「雑がいい日もある」
遥は笑いながら、テーブルの端に小さなメモ用紙を置いた。採点表。丸がいっぱいで、妙に可愛い。
「ほら、最後に合格を出したいなら、あなたのサイズで言って」
格好いい言葉を探すと、だいたい重くなる。重いと、言った瞬間に自分が恥ずかしくなる。恥ずかしいと、冗談で逃げる。逃げると、せっかくの地図がまた薄くなる。
だから、僕は一番小さい言葉を選んだ。
「……明日も、同じ鍋を食べたい」
遥の目が丸くなって、次に笑った。
「それ、いい。八十五点」
「点数の幅が雑」
「採点って、幅がないと面白くないでしょ」
遥は僕の手を取って、指先を一回だけ握った。強くない。逃げ道を残す握り方。
「じゃあ私も言う。明日も、あなたの“点”を拾う」
「拾うって……落とす前提?」
「落とすよ。人間だもん。落としたら拾う。拾えるなら安心」
僕は頷いた。頷きながら、模造紙の上の線を見た。曲がっている。遠回りしている。けれど、ちゃんと今に繋がっている。
*
翌週、僕らは小さな保護施設へ行った。見るだけのつもりだった。見るだけ、も便利な言葉だ。見るだけで帰れるはずなのに、目が合うと戻れなくなる。
ケージの奥で、子猫がひとつ、丸くなっていた。耳だけがぴくりと動く。こちらを見ない。強がりなのか、眠いのか分からない。
遥がしゃがんで、指を差し出した。子猫は鼻先で匂いを確かめ、ほんの一歩だけ近づいた。
「……点」
僕が呟くと、遥が笑った。
「また点。あなた、点が好きだね」
「好きっていうか、これでしか分からない」
「分からないなら、増やせばいい」
施設のスタッフが静かに言った。
「この子、最初は近づけない子だったんです。抱っこも苦手で」
「じゃあ、僕らと似てる」
僕が言うと、遥が肩を揺らして笑った。
「似てるね。近づくの、下手」
「下手でも、今ここにいる」
「それが合格」
子猫は、やっと尻尾の先を一回だけ揺らした。控えめな合図。けれど、十分だった。
書類にサインをして、施設を出るとき、遥が僕に言った。
「帰ったら、地図に足そう」
「何を」
「今日の点。あと……この子の足跡」
新居に戻って、僕らは模造紙を壁に貼った。線の上に、子猫の肉球スタンプを小さく押す。丸い跡が、いくつも並ぶ。点みたいで、でも生きている点。
遥がペンで一行だけ書き足した。
『ここから先は、余白に足跡』
僕はその文字を見て、なんだか笑ってしまった。余白があるのは、欠けているからじゃない。これから増やす場所だからだ。
子猫がくしゃみをして、僕らは同時に「大丈夫?」と言いかけて、同時に笑った。
大丈夫じゃなくても、呼吸が通ればいい。点は残る。線は曲がる。根っこは伸びる。
そして今日の僕らは、増やす側にいる。
僕は床に座り、子猫の背中を撫でた。遥が隣で鍋の準備を始める。湯気の匂いが、また部屋に戻ってくる。
「ねえ」遥が言った。
「うん」
「明日の鍋、何味にする?」
僕は少し考えて、答えた。
「……迷ったら、二種類で」
「それ、好き。白か黒かじゃなくて、混ぜるやつ」
遥が笑って、子猫が尻尾の先を揺らした。
壁の地図の端で、蛍光ペンの線が、まだ乾いていなかった。
僕は指先で、乾きかけの線をそっと撫でた。少しだけ色が移って、指が明るくなる。
「うわ、触ったな」
「触った。……でも、いい。乾く前に触った証拠」
「証拠、大好きか」
「好き。ちゃんと生きてる感じがするから」
子猫がくんくんと模造紙の端を嗅いで、ぺたんと座った。遠慮がちに前足を出して、もう一つだけ丸い跡を残す。インクじゃない、湿った肉球の跡。すぐ消えるやつ。
遥が笑って、ペンでその場所に小さく丸を描いた。
「消える前に、点にしとこ」
「ずるい」
「ずるくていい。消えるのは消える。残すのは残す」
夜、鍋の匂いが部屋に満ちて、子猫はようやく眠った。眠りながら、たまに足を小さく動かす。走っているのか、泳いでいるのか分からない。けれど、誰かの中で走るものは、たぶんこういう形をしている。
僕は電気を消す前に、靴箱を棚の上へ置いた。捨てない棚じゃない。使う棚だ。
「明日、また増えるね」
遥が言う。
「増える。増えたら、線を引く。曲がっても、遠回りでも」
「うん。余白は、足跡用に空けとこ」
僕は小さく頷いて、眠る子猫の背中に指を置いた。温かい。確かにここにいる温度。
点は、今日も一つ増えた。




