『空を見上げるための休暇』
朝の風は、春の顔をしてまだ冷たい。駅前の横断歩道で、恒太は信号が青に変わる前から靴底を小刻みに鳴らしていた。走り出す準備ではなく、止まっている自分に耐えるための貧乏ゆすりだ。
青。人の波が一斉に動く。恒太も動く。いつもの速度で、いつもの無表情で。背中に付いた見えないゼッケンが「急げ」と光っている気がする。誰に追い抜かれるわけでもないのに、気を抜けば置いていかれる、という幻が足首を掴む。
会社に着くと、メールは雨雲みたいに溜まっていた。読んでも読んでも降ってくる。上司は「今日中」を紙皿みたいに投げてくる。隣の席の新人は「すみません」を三回ためてから小さく声を出す。恒太は返事を早くする。早い返事は摩擦が少ない。摩擦が少ないと、今日が転ばない。
恒太の机は、なぜか“最終処理場”になっている。誰かが困ると、最後にここへ流れてくる。問い合わせ、差し替え、確認、謝罪の文章。綺麗に整えれば整えるほど「助かる! 恒太さん神!」と返ってくる。神と言われるたび、胃が少し縮む。神は休めないからだ。
「恒太さん、これ、先方にどう返します?」
新人の画面に、赤い修正がびっしり付いた資料が映っている。締切は今日。仕様は昨日変わった。変わったのに、誰も覚えていない。覚えていないのに、怒る準備だけは完璧だ。
「……まず、確認を取って。次に、謝るのは最後」
「え、謝らないんですか」
「謝るときは、謝る根拠があるときだけ。ないのに謝ると、次も同じになる」
言ってみて、恒太は自分が急に“厳しい人”になった気がして落ち着かなくなった。厳しいのは嫌いだ。嫌われるのが怖い。怖いから優しくする。優しくすると仕事が増える。増えると余裕がなくなり、顔が険しくなる。いつものスパイラルが、頭の中で勝手に回り始める。
昼休みに、同僚の玲斗が缶コーヒーを差し出した。玲斗は口が軽いのに、たまに核心を突く。軽い石で重いガラスを割るタイプだ。
「恒太さん、顔、固いっすよ」
「固くない」
「固い。ほら、目が『仕事は裏切らない』って言ってる」
「言ってない」
「言ってる。で、そういうときはさ、浮かれるなっていうより、沈むなって言いたい」
玲斗は笑って肩をすくめる。
「自分に優しくするの、下手でしょ。あと、今日『神』って呼ばれすぎ。神は労基に弱い」
恒太はそこで、ようやく小さく笑った。笑うと、胸の奥の硬い塊が一ミリだけ動く。動いた瞬間に、また怖くなる。止まったら終わる気がするからだ。
「優しくするって、どうすればいい」
「まず、空見ろ。今週、空見た?」
「……見てない」
「だよね。空、逃げないからさ」
玲斗はさらっと言って、缶をカチャンと鳴らした。乾いた音。合図みたいな音。
午後、資料の差し替えがまた来た。理由は「やっぱ違う気がするから」。そんな言葉に見合うだけの残業が、恒太の机の上に積まれる。積まれて、平らな顔で処理する。平らな顔は、戦いの顔だ。戦いに見えないように整えた戦い。
帰宅は終電ひとつ前。玄関で靴を脱ぐと、部屋は相変わらず他人行儀だった。長年住んでいるのに、家具の配置も匂いも、どこか「仮住まい」のまま。恒太は冷蔵庫の前で立ち尽くして、結局、水を飲んだ。水は嘘をつかない。喉を通るだけで、少しだけ現実が戻る。
風呂も済ませて、ようやくクローゼットを開けた。明日のシャツを取るだけのはずだった。なのに、奥の箱が目に入った。引っ越しのときに「あとで整理」と書いた段ボール。あとで、は十年たってもあとでだ。
箱を開けると、アルバムが出てきた。厚紙の表紙に、黒いマジックの汚い字。
『やりたいこと』
中は、写真よりメモが多かった。大学の頃の恒太が、勢いだけで書いた字。走り書き、はみ出し、矢印だらけ。
『温泉に逃げる(逃げじゃない)』
『空を見上げる回数を増やす』
『古い街で知らない店に入る』
『好きな曲を弾けるようにする(指が痛くても)』
『仕事に殺されない(殺されそうなら逃げる)』
そして、最後のページに一行だけ、でかい字で殴ってあった。
『まだやめるな』
恒太は、アルバムを閉じた。閉じたのに、字が瞼の裏に残る。十年前の自分が、今の自分に投げた小さな挑戦状みたいだった。挑戦状なのに、妙に優しい。勝て、と言っていない。やめるな、と言っているだけだ。
「……やめてないよ。走ってるだけだ」
独り言が、部屋の壁に吸い込まれた。吸い込まれる音が、やけに冷たい。
その夜、恒太はスマホで宿を予約した。山の小さな温泉街。平日二泊。勢いで確定ボタンを押した瞬間、胃がきゅっと縮んだ。罪悪感が先に来る。休むのは悪いことじゃないのに、身体が「悪い」と覚えている。
翌朝、恒太は上司の席に行った。口の中が乾く。乾くと、言葉が尖る。尖ると、損をする。恒太は水を飲んでから言った。
「来週、休みをください。二日」
上司は目を丸くして、すぐ眉を寄せた。
「急だな。何かあったのか」
「何もないです。……何もないまま、壊れそうだったので」
言ってしまって、恒太は少しだけ楽になった。上司は鼻で笑った。
「壊れる前に言え。で、休んだら天狗になるなよ」
言い方は乱暴なのに、そこに変な優しさが混ざっているのが分かる。恒太は頷いた。
「なりません」
「いい返事だ。じゃ、段取りは頼むぞ。神さま」
「神、やめてください」
「冗談だ。冗談にできるうちに休め」
判の音が、カチ、と鳴る。許可の音は意外と小さい。
*
温泉街の空気は、都会より薄かった。薄いのに、肺の奥まで入ってくる。駅前の坂を上ると、湯の匂いがする。硫黄の匂い。慣れない匂いは、頭の中の字幕を黙らせる。
宿の女将は、笑いながら鍵を渡した。
「お仕事、お疲れさま。湯は逃げないから、ゆっくりね」
逃げない、という言葉に、恒太は変な笑いが出た。いつも、何かが逃げていく気がしていたから。
部屋に荷物を置き、浴場へ行く。湯気が白くて、視界が少し曇る。曇ると、いつもの険しい顔がほどける。湯に沈むと、身体のあちこちが「ここにいた」と言い出す。肩、腰、膝。満身創痍というほどじゃない。でも、満身がうるさい。
湯船の端で、地元の老人が新聞を折りながら言った。
「兄ちゃん、眉が仕事してるな」
「眉が?」
「険しい。湯の中では、眉も休め」
恒太は笑って、眉を触った。確かに硬い。
「休め方、分からなくて」
「分からんでいい。湯に浮けば勝手に緩む」
老人はそう言って、湯をかき混ぜる。湯の表面がゆらっと揺れる。揺れは、落ち着く。
夜、露天へ出ると、空が近かった。星は少ない。でも、雲の輪郭が見える。恒太はふと立ち止まって、最後に空を見上げたのがいつだったか考えた。思い出せない。思い出せないのに、今は見上げている。それだけで、ちょっと勝った気がした。勝ち負けじゃないのに。
翌朝、恒太は珍しく早起きした。走りに行ったわけじゃない。ただ、外の空気を吸いたかった。温泉街の裏道を歩くと、小さな川があって、湯気が薄く立っている。川沿いを、同年代くらいの男がゆっくり走っていた。速くないのに、呼吸が綺麗だ。
「おはようございます」
恒太が声をかけると、男は立ち止まり、軽く頭を下げた。
「観光ですか?」
「休暇です。……休み方、練習中」
男は笑った。
「走り方も、休み方も、似てますよ。力むと詰まる」
言ってから、男は自分の膝をぽんと叩いた。
「僕は昔、無理して壊しました。今は、遅く走ってます。遅いと景色が入る」
恒太は頷いて、空を見た。確かに景色が入る。鳥の声、木の匂い、まだ冷たい風。
「置いていかれる気がして」
「置いていかれますよ」男はあっさり言った。「だから置いていかれないように走る、じゃなくて、置いていかれても戻れる場所を作る。温泉とか、友だちとか」
恒太は笑ってしまった。温泉が“戻れる場所”に入るのが可笑しい。
「それ、真面目な話ですか」
「真面目に言うと重いから、軽く言ってます」
男は走り出す前に振り返って言った。
「あと、ひとつ。休むときに自惚れない。『俺は休む権利がある』って胸張ると、次にバテます。淡々と休むのが一番強い」
恒太はその忠告を、ポケットに入れた。軽い石みたいに。
その日、恒太は何もしなかった。観光もしない。名所も回らない。湯に入って、飯を食べて、昼寝して、また湯に入る。怠けているみたいで落ち着かない。だから、アルバムを開いた。
『温泉に逃げる(逃げじゃない)』
十年前の自分、いいこと言うじゃないか、と恒太は笑った。笑ったら、胸が軽くなる。軽くなると、怖くなる。怖くなると、また走りたくなる。走りたくなる前に、恒太はペンを取って、ページの余白に足した。
『休むときは、罪悪感を連れてきていい。ただし、居座らせない』
『止まるのが怖い日は、空を見る。空は追い抜かない』
夜、玲斗に短いメッセージを送った。
『空、見た。風、まだ冷たい。けど、止まれた』
すぐ返ってきた。
『いいじゃん。帰ってきても、眉休ませろよ。あと温泉うらやま』
恒太は笑って、スマホを伏せた。返事が来るだけで、街の他人行儀が少し薄まる。遠くにいても、人は繋がれる。繋がれるなら、走る理由が変わる。
*
帰りの電車。都会の匂いがまた鼻に刺さる。駅の雑踏は相変わらず速い。恒太は流れに乗って歩きながら、前みたいに険しい顔をしていないことに気づいた。険しい顔は、癖だ。癖は、少しだけ変えられる。
翌朝、横断歩道で信号を待つ。風はやっぱり冷たい。青になった。人が動く。恒太も動く。けれど、走らなかった。歩いた。歩いても、世界は壊れない。
会社のビルのガラスに、空が映っていた。恒太は一瞬だけ立ち止まり、上を見た。見上げた自分が、ちょっと可笑しい。急げ、と言うゼッケンは、まだ背中にいる。でも今日は、少しだけ黙っている。
午前の会議で上司が「今日中」と言いかけて、恒太の顔を見て言い直した。
「……今日、どこまでいける?」
その言い直しが、胸に効いた。質問は、相手を人間に戻す。恒太は短く答えた。
「確認に十分ください。整えてから出します」
言えた。言ったのに、嫌われない。世界は意外と壊れない。
走り続けるかどうかは、たぶん変わらない。身体が勝手に前へ行くタイプだ。けれど、止まる場所を作れた。止まる勇気を、湯気で練習した。
恒太は自分に小さく忠告した。声に出さず、舌の奥で。
(浮かれるな。でも、自分を粗末にするな)
そして、また歩き出した。ゆっくりじゃない。速くもない。ちょうど、呼吸が通る速さで。
今の恒太は、走る人じゃなくて、走り続けられる人になりたかった。
その夜、恒太は久しぶりに部屋の照明を全部つけた。いつもは一つだけ、必要最低限の明かりで済ませていた。明かりを増やすと、部屋の「仮住まい感」がよく見える。見えると直したくなる。直したくなるのは、まだ続けたい証拠だ。
クローゼットからアルバムを出し、表紙の横に付箋を貼った。
《次の休暇:夏。二泊でいい》
立派な計画じゃない。立派にすると逃げるから、薄い付箋でいい。
ついでにギターケースも引っ張り出した。買って満足して、そのまま眠っていたやつ。弦に指を当てると、指先が少し痛い。痛いのは現実だ。現実は扱える。
恒太は下手なコードを一つ鳴らした。音は濁って、でも部屋の空気を動かした。動かしただけで、何かが始まった気がした。
スマホのカレンダーに、繰り返し予定を一つ入れる。
《毎週水曜 昼:空を見る(30秒)》
ふざけた予定だ。でも、ふざけた予定ほど守れる。
寝る前に窓を開けると、風がまた冷たかった。恒太はその冷たさを、今日は嫌いにならなかった。冷たいなら冷たいで、呼吸が通る。
空を見上げて、目を細める。
「まだ、いける」
声は小さい。でも、ちゃんと自分の声だった。
ベッドに入る直前、上司の「冗談にできるうちに休め」を思い出して、恒太は笑った。冗談にできるうちは、まだ壊れていない。
壊れる前に止まれるなら、それは弱さじゃなく手入れだ。




