表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

71/124

『紙袋のヒーローは、まだ途中』

 体育館の裏口は、いつも少しだけ世界が薄い。表の入口が「いらっしゃいませ」なら、こっちは「まあ、入ってもいいよ」くらいの温度。春の夕方、風が冷たくて、僕は紙袋の中の小道具を抱え直した。


 紙袋の中身は、紙袋だ。

 茶色い袋に目と口を描いただけの顔。名前はまだ決めていない。決めると立派になって、立派になると折れそうだから、今日は“まだ”のままにしている。


「はーい、今日の担当さん、こっちです」

 受付の女性が手を振った。名札には《子ども食堂》とだけ書いてある。

「えっと……僕、初めてで」

「初めての人、多いですよ。ここ、みんな“初めて”から来ます」

 さらっと言われて、胸が少し軽くなる。初めては恥じゃない。恥にするのは、だいたい自分だ。


 体育館の中には、長机が並び、湯気が漂っていた。カレーの匂い、味噌汁の匂い、炊きたての米の匂い。生活の匂いは、やたらと人を現実に引き戻す。


「ユウジくん、で合ってる?」

 声をかけてきたのは、運営のミオさんだった。髪をまとめ、エプロンの紐をきつく結んでいる。目だけが忙しい。

「合ってます。あの、僕は……」

「今日ね、食後に“ちいさな出しもの”があるの。子どもが落ち着くやつ。できる?」

 できる? って聞き方が軽い。軽いと受けやすい。受けやすいと、あとで重くなる。それも分かっているのに、僕は頷いてしまった。

「……できます。たぶん」

「たぶん禁止」

 ミオさんは即座に言って、僕の紙袋を見た。

「それ、顔?」

「顔です。紙袋の」

「いいね。紙袋は強いよ。ぐしゃってなっても、形を戻せる」

 その一言に、なぜか喉が熱くなった。形を戻せる。僕はずっと、自分の形が戻らないと思っていたから。



 僕は昔、走っていた。

 正確には、走れると思っていた。高校の頃、部活のグラウンドで、未来に向かっている気がしていた。大学でも走った。社会人になっても、仕事の中で走った。息が切れても「走ってる人は偉い」と勝手に信じていた。


 ある日、膝が終わった。

 医者は「無理はできません」と言った。無理はできません、は優しい断定だ。断定は、逃げ道を奪う。奪われた逃げ道の代わりに僕が拾ったのは、笑いだった。走れないなら、笑わせればいい。そんな乱暴な計算で、僕はお笑いの台本を書き始めた。夜の一人部屋で、声を出して、滑って、笑って、また書いた。


 結局、舞台には立たなかった。

 準備が足りない、タイミングじゃない、仕事が忙しい。理由のレシートだけが溜まっていった。レシートは薄いのに、束になると壁だ。壁の向こうに行くのが怖くて、僕は“やらない”を選んで、やったふりだけ上手くなった。


 いつの間にか、誕生日の数を数えるのも雑になった。

 何回目かを意識すると、妙に焦る。焦ると、余計に足が止まる。だから「まあそのへん」と笑って、先に進んだふりをした。進んだふりは、軽くて、あとで重い。


 ミオさんからの連絡が来たのは、そんな壁が厚くなった頃だった。

『子ども食堂で、出しものできる人探してる。紙袋でもいい』

 紙袋でもいい、が妙に救いだった。立派じゃなくていい。上手くなくていい。まず出てきて、という合図みたいだった。



 食事の時間が始まると、子どもたちは一斉にしゃべり始めた。笑い声、箸の音、椅子を引く音。世界がちゃんと“ここ”にある音。

 僕は体育館の端で、紙袋に目を描き足していた。手が少し震える。震えはいつも、決めた瞬間に出る。


「ねえ、おにいさん」

 小学校低学年くらいの男の子が覗き込んできた。頬にカレーが付いている。

「それ、何?」

「えっと……顔」

「だれ?」

「……まだ」

「まだって名前?」

「うん。まだ」

 男の子は真剣に頷いた。

「じゃあ、ぼくは“もう”」

 急に来た。僕は笑いそうになって、喉で止めた。笑うと、始める前に終わりそうだから。

「“もう”くん、よろしく」

「よろしく! “まだ”!」


 その会話を、ミオさんが遠くから見ていた。目が笑っていないのに、口角が少しだけ上がっている。現場の人の笑いだ。守るための笑い。


 食後、片づけが始まった。子どもたちは体育館の中央へ集められ、床に座る。ミオさんが手を叩く。

「はいはい、じゃあ、ここからは“紙袋の時間”」

 紙袋の時間。勝手に決められている。僕は小さく深呼吸した。深呼吸は裏切りにくい。


「ユウジくん、いける?」

 ミオさんが小声で聞く。

「いけます。……いける、って言う」

「よし」


 僕は紙袋を手にして、輪の中へ入った。子どもたちの視線が一斉に刺さる。刺さるのに、痛くない。大人の視線より、ずっと正直だからだ。


「えーっと、はじめまして。紙袋の“まだ”です」

 声が震えた。震えた声は、子どもには関係ない。関係ないから助かる。

「まだー!」

 さっきの“もう”くんが叫ぶ。

「“まだ”はね、今日、ヒーローになります」

「ヒーロー!」

「でも、空を飛びません」

「えー!」

「速く走りません」

「えー!」

 子どもたちの「えー」は、期待の音だ。責める音じゃない。


「代わりに、やることがあります」

 僕は紙袋を胸の前に抱えて、言った。

「困ってる人を見つけたら、まず“確認”します。いきなり助けません」

 子どもたちがきょとんとする。

「だって、勝手に助けると、相手がびっくりするから。びっくりすると、こけるから」


 そこから先は、ミニゲームにした。

 “困ってるふり”をする子を一人決める。周りの子は「助けるぞ!」と叫びたくなる。けれど僕が手を上げて制止する。

「まず確認! 言葉は短く!」

 子どもたちは声を揃えて言う。

「だいじょうぶ?」

「どこがこまってる?」

「みず、いる?」

 短い言葉が、体育館の天井で跳ね返る。跳ね返って、また落ちてくる。落ちてくる言葉は、思ったより柔らかい。


 僕はその柔らかさに、少しだけ救われた。

 僕がずっと使ってきた「大丈夫」は、相手のための顔をして、自分を黙らせる道具だった。でも今、子どもたちの「だいじょうぶ?」は違う。相手を見ている。相手の返事を待っている。


「じゃあ、次」

 僕は紙袋の口を少しだけ広げた。中から、二枚のカードを出す。

 一枚には《やる》、もう一枚には《やめる》。

「今日のヒーローは、どっちを選ぶでしょう」

 子どもたちがざわつく。

「やるー!」

「やめるー!」

 両方出る。両方出るのが、いい。


「正解はね」僕は言った。「“やる”も“やめる”も、どっちもある」

 またきょとん、が並ぶ。

「“やめる”は逃げじゃない。戻るための準備の時がある」

 紙袋の中で僕の指先が汗ばむ。こういう言い方は、どこかで聞いた気がする。たぶん僕が欲しかった言葉だ。


「でも、“やる”は、もっと小さくしていい」

 僕はカードを折った。半分、さらに半分。子どもたちが笑う。

「ほら。小さくすると、持てる。今日の“やる”は、これくらい」


 最後に、僕は紙袋の“まだ”を子どもたちの真ん中に置いた。

「ヒーローの必殺技、教えます」

「なにー?」

「両手を、ここに」

 僕は自分の胸に手を当てた。

「一回、息を吸って、ゆっくり吐く」

 子どもたちが真似をする。ばらばらの呼吸が、少しだけ揃う。

「で、次に言う。短く」

 僕は言った。

「“まだ、いける”」

 子どもたちが声を揃える。

「まだ、いける!」


 その瞬間、体育館の空気がふわっと浮いた気がした。飛んだわけじゃない。走ったわけでもない。けれど、ちゃんと前に一センチ進んだ感じがある。子どもたちの声が、それを押してくれた。


 片づけが終わり、人が散って、床が静かになったころ、ミオさんが近づいてきた。

「よかったよ」

「……よかった?」

「うん。あなた、今日、無理に格好つけなかった」

「格好つけたら、折れるから」

「それ、分かってるのが強い」

「強いって言わないで。重い」

 ミオさんは笑った。

「じゃあ、いい。今日は“いい”で」


 僕は紙袋を畳もうとして、手が止まった。

 畳むと終わりみたいで怖い。終わりが怖いから、僕はいつも畳めない。

 ミオさんが言った。

「畳んでいいよ。終わりじゃない。寝かせるだけ」


 僕は小さく頷いて、それでも手が止まったまま、ぽつりと言った。

「……ミオさん。僕、変われてますか」

 言った瞬間、恥ずかしくて耳まで熱くなる。自分の変化を自分で測ろうとするのは、だいたい外れるから。


 ミオさんは返事の前に、エプロンの紐を結び直した。現場の人の“考える癖”だ。

「変わったよ」

 言い切りが、軽くない。

「どう変わった」

「前はさ、あなた、喋るとき“勝つ話”をしてた。勝ちたい、負けたくない、置いていかれたくない、って」

 僕は苦笑した。図星だ。僕はいつも競技の言葉で自分を守ってきた。

「今は?」

「今は、“戻す話”してた。転ぶ前に確認するとか、やめても戻れるとか。あと、誰かが笑うのを、ちゃんと待てる顔してた」

「待てる顔」

「うん。待てるの、強いよ」

「強いって言うな」

「じゃあ……頼もしい」

「それも重い」

「じゃあ、嬉しい。嬉しいは軽いでしょ」


 僕は息を吐いた。軽い言葉で笑えるのが、今日は救いだった。

「僕、走れなくなってから、ずっと代わりを探してたんです。立派な代わり。派手な代わり」

「代わりは要らないよ」ミオさんは即答した。「形を変えればいい。今日の紙袋みたいに」

 紙袋。形を変える。ぐしゃっても戻る。

 僕はやっと、畳む手を動かせた。


 帰り際、“もう”くんが走ってきて、僕の紙袋にシールを貼った。丸いシール。真ん中に、下手な字で書いてある。

《まだ》


「これで、名前、ほんもの!」

 僕は笑ってしまった。今度は止めなかった。笑ったって、誰も転ばない。

「ありがとう。……これ、明日も持ってきていい?」

「いいよ! “もう”もくる!」


 体育館の裏口を出ると、風がまだ冷たい。

 でも、紙袋の中の“まだ”は、さっきより少しだけ温かかった。僕の手の汗のせいかもしれないし、子どもたちの声のせいかもしれない。どっちでもいい。どっちでも、今日の僕はちゃんと動いた。


 途中のコンビニで、僕は温かい缶のお茶を買った。レジの前で、背広の男が僕の紙袋を見て笑った。

「え、なにそれ。文化祭?」

 知らない人だ。だから、昔なら笑って流した。笑って流すと、後で自分が嫌いになる。

 僕は缶を受け取りながら、短く返した。

「今日の仕事です」

 男は一瞬だけ面食らって、すぐそっぽを向いた。

 それで終わり。世界は壊れなかった。僕の中の壁が、一枚だけ薄くなった。


 家に帰って、玄関の靴を揃える前に、僕は紙袋をテーブルの上に置いた。部屋の隅じゃなく、真ん中に。

 そして、勢いで一回だけ、つま先で小さく跳んだ。ドスンじゃなく、トン。膝が少し不安で、だから一センチだけ。

 紙袋の“まだ”が、机の上で見ている。見ているだけで、妙に照れる。照れるのに、嫌じゃない。


 スマホのメモに一行だけ打った。


《飛べなくても、今日の一センチは本物》


 送らない。公開しない。

 でも、明日また迷ったら、これを読めばいい。

 “まだ”は、逃げ道じゃない。続きの合図だ。


 ベッドに入る前、僕は押し入れから古いファイルを引っ張り出した。薄い紙が何枚も入っている。昔、勢いで印刷した応募用紙、書きかけの台本、舞台袖の地図みたいなメモ。捨てられないのに、見ない箱。

 僕はその箱の蓋に、マジックで書き足した。


《寝かせ中:まだ》


 それからミオさんに、短いメッセージを送った。

『今日は助かりました。次も、紙袋で行きます。15分だけでも』

 送って、スマホを伏せる。返事は今じゃなくていい。今夜の僕は、ちゃんと“出した”から。


 電気を消す直前、机の上の“まだ”に向かって、ぼそっと言った。

「誰かを笑わせたいって、まだ残ってた」

 紙袋は返事をしない。返事をしないのに、僕の胸の奥のざわつきだけが少し静かになる。


 明日、走る必要はない。

 でも、今日みたいに一センチなら、また増やせる。

 僕はその一センチを、ちゃんと続きにする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ