『紙袋のヒーローは、まだ途中』
体育館の裏口は、いつも少しだけ世界が薄い。表の入口が「いらっしゃいませ」なら、こっちは「まあ、入ってもいいよ」くらいの温度。春の夕方、風が冷たくて、僕は紙袋の中の小道具を抱え直した。
紙袋の中身は、紙袋だ。
茶色い袋に目と口を描いただけの顔。名前はまだ決めていない。決めると立派になって、立派になると折れそうだから、今日は“まだ”のままにしている。
「はーい、今日の担当さん、こっちです」
受付の女性が手を振った。名札には《子ども食堂》とだけ書いてある。
「えっと……僕、初めてで」
「初めての人、多いですよ。ここ、みんな“初めて”から来ます」
さらっと言われて、胸が少し軽くなる。初めては恥じゃない。恥にするのは、だいたい自分だ。
体育館の中には、長机が並び、湯気が漂っていた。カレーの匂い、味噌汁の匂い、炊きたての米の匂い。生活の匂いは、やたらと人を現実に引き戻す。
「ユウジくん、で合ってる?」
声をかけてきたのは、運営のミオさんだった。髪をまとめ、エプロンの紐をきつく結んでいる。目だけが忙しい。
「合ってます。あの、僕は……」
「今日ね、食後に“ちいさな出しもの”があるの。子どもが落ち着くやつ。できる?」
できる? って聞き方が軽い。軽いと受けやすい。受けやすいと、あとで重くなる。それも分かっているのに、僕は頷いてしまった。
「……できます。たぶん」
「たぶん禁止」
ミオさんは即座に言って、僕の紙袋を見た。
「それ、顔?」
「顔です。紙袋の」
「いいね。紙袋は強いよ。ぐしゃってなっても、形を戻せる」
その一言に、なぜか喉が熱くなった。形を戻せる。僕はずっと、自分の形が戻らないと思っていたから。
*
僕は昔、走っていた。
正確には、走れると思っていた。高校の頃、部活のグラウンドで、未来に向かっている気がしていた。大学でも走った。社会人になっても、仕事の中で走った。息が切れても「走ってる人は偉い」と勝手に信じていた。
ある日、膝が終わった。
医者は「無理はできません」と言った。無理はできません、は優しい断定だ。断定は、逃げ道を奪う。奪われた逃げ道の代わりに僕が拾ったのは、笑いだった。走れないなら、笑わせればいい。そんな乱暴な計算で、僕はお笑いの台本を書き始めた。夜の一人部屋で、声を出して、滑って、笑って、また書いた。
結局、舞台には立たなかった。
準備が足りない、タイミングじゃない、仕事が忙しい。理由のレシートだけが溜まっていった。レシートは薄いのに、束になると壁だ。壁の向こうに行くのが怖くて、僕は“やらない”を選んで、やったふりだけ上手くなった。
いつの間にか、誕生日の数を数えるのも雑になった。
何回目かを意識すると、妙に焦る。焦ると、余計に足が止まる。だから「まあそのへん」と笑って、先に進んだふりをした。進んだふりは、軽くて、あとで重い。
ミオさんからの連絡が来たのは、そんな壁が厚くなった頃だった。
『子ども食堂で、出しものできる人探してる。紙袋でもいい』
紙袋でもいい、が妙に救いだった。立派じゃなくていい。上手くなくていい。まず出てきて、という合図みたいだった。
*
食事の時間が始まると、子どもたちは一斉にしゃべり始めた。笑い声、箸の音、椅子を引く音。世界がちゃんと“ここ”にある音。
僕は体育館の端で、紙袋に目を描き足していた。手が少し震える。震えはいつも、決めた瞬間に出る。
「ねえ、おにいさん」
小学校低学年くらいの男の子が覗き込んできた。頬にカレーが付いている。
「それ、何?」
「えっと……顔」
「だれ?」
「……まだ」
「まだって名前?」
「うん。まだ」
男の子は真剣に頷いた。
「じゃあ、ぼくは“もう”」
急に来た。僕は笑いそうになって、喉で止めた。笑うと、始める前に終わりそうだから。
「“もう”くん、よろしく」
「よろしく! “まだ”!」
その会話を、ミオさんが遠くから見ていた。目が笑っていないのに、口角が少しだけ上がっている。現場の人の笑いだ。守るための笑い。
食後、片づけが始まった。子どもたちは体育館の中央へ集められ、床に座る。ミオさんが手を叩く。
「はいはい、じゃあ、ここからは“紙袋の時間”」
紙袋の時間。勝手に決められている。僕は小さく深呼吸した。深呼吸は裏切りにくい。
「ユウジくん、いける?」
ミオさんが小声で聞く。
「いけます。……いける、って言う」
「よし」
僕は紙袋を手にして、輪の中へ入った。子どもたちの視線が一斉に刺さる。刺さるのに、痛くない。大人の視線より、ずっと正直だからだ。
「えーっと、はじめまして。紙袋の“まだ”です」
声が震えた。震えた声は、子どもには関係ない。関係ないから助かる。
「まだー!」
さっきの“もう”くんが叫ぶ。
「“まだ”はね、今日、ヒーローになります」
「ヒーロー!」
「でも、空を飛びません」
「えー!」
「速く走りません」
「えー!」
子どもたちの「えー」は、期待の音だ。責める音じゃない。
「代わりに、やることがあります」
僕は紙袋を胸の前に抱えて、言った。
「困ってる人を見つけたら、まず“確認”します。いきなり助けません」
子どもたちがきょとんとする。
「だって、勝手に助けると、相手がびっくりするから。びっくりすると、こけるから」
そこから先は、ミニゲームにした。
“困ってるふり”をする子を一人決める。周りの子は「助けるぞ!」と叫びたくなる。けれど僕が手を上げて制止する。
「まず確認! 言葉は短く!」
子どもたちは声を揃えて言う。
「だいじょうぶ?」
「どこがこまってる?」
「みず、いる?」
短い言葉が、体育館の天井で跳ね返る。跳ね返って、また落ちてくる。落ちてくる言葉は、思ったより柔らかい。
僕はその柔らかさに、少しだけ救われた。
僕がずっと使ってきた「大丈夫」は、相手のための顔をして、自分を黙らせる道具だった。でも今、子どもたちの「だいじょうぶ?」は違う。相手を見ている。相手の返事を待っている。
「じゃあ、次」
僕は紙袋の口を少しだけ広げた。中から、二枚のカードを出す。
一枚には《やる》、もう一枚には《やめる》。
「今日のヒーローは、どっちを選ぶでしょう」
子どもたちがざわつく。
「やるー!」
「やめるー!」
両方出る。両方出るのが、いい。
「正解はね」僕は言った。「“やる”も“やめる”も、どっちもある」
またきょとん、が並ぶ。
「“やめる”は逃げじゃない。戻るための準備の時がある」
紙袋の中で僕の指先が汗ばむ。こういう言い方は、どこかで聞いた気がする。たぶん僕が欲しかった言葉だ。
「でも、“やる”は、もっと小さくしていい」
僕はカードを折った。半分、さらに半分。子どもたちが笑う。
「ほら。小さくすると、持てる。今日の“やる”は、これくらい」
最後に、僕は紙袋の“まだ”を子どもたちの真ん中に置いた。
「ヒーローの必殺技、教えます」
「なにー?」
「両手を、ここに」
僕は自分の胸に手を当てた。
「一回、息を吸って、ゆっくり吐く」
子どもたちが真似をする。ばらばらの呼吸が、少しだけ揃う。
「で、次に言う。短く」
僕は言った。
「“まだ、いける”」
子どもたちが声を揃える。
「まだ、いける!」
その瞬間、体育館の空気がふわっと浮いた気がした。飛んだわけじゃない。走ったわけでもない。けれど、ちゃんと前に一センチ進んだ感じがある。子どもたちの声が、それを押してくれた。
片づけが終わり、人が散って、床が静かになったころ、ミオさんが近づいてきた。
「よかったよ」
「……よかった?」
「うん。あなた、今日、無理に格好つけなかった」
「格好つけたら、折れるから」
「それ、分かってるのが強い」
「強いって言わないで。重い」
ミオさんは笑った。
「じゃあ、いい。今日は“いい”で」
僕は紙袋を畳もうとして、手が止まった。
畳むと終わりみたいで怖い。終わりが怖いから、僕はいつも畳めない。
ミオさんが言った。
「畳んでいいよ。終わりじゃない。寝かせるだけ」
僕は小さく頷いて、それでも手が止まったまま、ぽつりと言った。
「……ミオさん。僕、変われてますか」
言った瞬間、恥ずかしくて耳まで熱くなる。自分の変化を自分で測ろうとするのは、だいたい外れるから。
ミオさんは返事の前に、エプロンの紐を結び直した。現場の人の“考える癖”だ。
「変わったよ」
言い切りが、軽くない。
「どう変わった」
「前はさ、あなた、喋るとき“勝つ話”をしてた。勝ちたい、負けたくない、置いていかれたくない、って」
僕は苦笑した。図星だ。僕はいつも競技の言葉で自分を守ってきた。
「今は?」
「今は、“戻す話”してた。転ぶ前に確認するとか、やめても戻れるとか。あと、誰かが笑うのを、ちゃんと待てる顔してた」
「待てる顔」
「うん。待てるの、強いよ」
「強いって言うな」
「じゃあ……頼もしい」
「それも重い」
「じゃあ、嬉しい。嬉しいは軽いでしょ」
僕は息を吐いた。軽い言葉で笑えるのが、今日は救いだった。
「僕、走れなくなってから、ずっと代わりを探してたんです。立派な代わり。派手な代わり」
「代わりは要らないよ」ミオさんは即答した。「形を変えればいい。今日の紙袋みたいに」
紙袋。形を変える。ぐしゃっても戻る。
僕はやっと、畳む手を動かせた。
帰り際、“もう”くんが走ってきて、僕の紙袋にシールを貼った。丸いシール。真ん中に、下手な字で書いてある。
《まだ》
「これで、名前、ほんもの!」
僕は笑ってしまった。今度は止めなかった。笑ったって、誰も転ばない。
「ありがとう。……これ、明日も持ってきていい?」
「いいよ! “もう”もくる!」
体育館の裏口を出ると、風がまだ冷たい。
でも、紙袋の中の“まだ”は、さっきより少しだけ温かかった。僕の手の汗のせいかもしれないし、子どもたちの声のせいかもしれない。どっちでもいい。どっちでも、今日の僕はちゃんと動いた。
途中のコンビニで、僕は温かい缶のお茶を買った。レジの前で、背広の男が僕の紙袋を見て笑った。
「え、なにそれ。文化祭?」
知らない人だ。だから、昔なら笑って流した。笑って流すと、後で自分が嫌いになる。
僕は缶を受け取りながら、短く返した。
「今日の仕事です」
男は一瞬だけ面食らって、すぐそっぽを向いた。
それで終わり。世界は壊れなかった。僕の中の壁が、一枚だけ薄くなった。
家に帰って、玄関の靴を揃える前に、僕は紙袋をテーブルの上に置いた。部屋の隅じゃなく、真ん中に。
そして、勢いで一回だけ、つま先で小さく跳んだ。ドスンじゃなく、トン。膝が少し不安で、だから一センチだけ。
紙袋の“まだ”が、机の上で見ている。見ているだけで、妙に照れる。照れるのに、嫌じゃない。
スマホのメモに一行だけ打った。
《飛べなくても、今日の一センチは本物》
送らない。公開しない。
でも、明日また迷ったら、これを読めばいい。
“まだ”は、逃げ道じゃない。続きの合図だ。
ベッドに入る前、僕は押し入れから古いファイルを引っ張り出した。薄い紙が何枚も入っている。昔、勢いで印刷した応募用紙、書きかけの台本、舞台袖の地図みたいなメモ。捨てられないのに、見ない箱。
僕はその箱の蓋に、マジックで書き足した。
《寝かせ中:まだ》
それからミオさんに、短いメッセージを送った。
『今日は助かりました。次も、紙袋で行きます。15分だけでも』
送って、スマホを伏せる。返事は今じゃなくていい。今夜の僕は、ちゃんと“出した”から。
電気を消す直前、机の上の“まだ”に向かって、ぼそっと言った。
「誰かを笑わせたいって、まだ残ってた」
紙袋は返事をしない。返事をしないのに、僕の胸の奥のざわつきだけが少し静かになる。
明日、走る必要はない。
でも、今日みたいに一センチなら、また増やせる。
僕はその一センチを、ちゃんと続きにする。




