『跳ねる係、貸し出し中』
控室の鏡に映った僕は、耳がやたら長かった。いや、鏡の僕がじゃない。頭の上の耳が、だ。白いもこもこ、先っぽだけ妙に元気で、僕の気分だけ置いていかれている。
「……これ、絶対に目立つやつだ」
耳を押さえると、指先にスポンジの反発が返ってくる。反発は元気だ。人間の反発は、夕方になると品切れになりがちなのに。
商店街の春まつり。今日の目玉は「開幕ジャンプ」。ステージの幕が上がる瞬間、マスコットが跳ねる。跳ねたら、子どもが跳ねる。子どもが跳ねたら、大人も少しだけほぐれる。そういう算段らしい。
算段を立てたのは、実行委員長の石井さんだ。六十代、声が太い、笑いが早い。つまり現場が回る人だ。
「けんごくん、お願いね。今日だけ“跳ねる係”」
「係って……僕、三十九ですよ」
「年齢じゃなくて役割。ほら、耳が似合う」
「似合ってるのは耳だけですよ」
「耳だけで十分。耳が元気なら、客席も元気になる」
耳だけで十分。石井さんはよく、そういう言い方をする。道具箱の中身を全部出さず、必要なレンチだけ掴ませてくる言い方。だから現場が回る。回るけど、僕はたまにその言い方に救われすぎてしまう。
僕は昔、全部出して全部折れたタイプだからだ。
高校三年の頃、僕はノートの端に「将来の夢」と書いて、その横にカタカナで妙に格好つけた職業名を並べた。歌って、踊って、光を浴びる側の人間になりたかった。何も根拠がないのに。根拠がないから、夢は軽い。軽いから飛べる。飛べたつもりになれる。
今は、区民センターの臨時職員だ。受付、会場設営、音響ケーブルの養生、忘れ物の管理。要するに「倒れないようにする係」。目立つところには立たない。立たないほうが得意だし、立たないほうが安全だ。
なのに今日は、耳が二本ぶん、前に出ている。
控室の隅で、紙コップの水を飲んでいると、同じスタッフの花菜が入ってきた。二十二歳。パーカーの紐を指でねじりながら、僕の耳を見て、ぷっと吹いた。
「やば。かわいすぎ」
「かわいいは危険ワードだよ。後で心が折れる」
「折れない折れない。……あ、折れる人なんだ、けんごさん」
花菜はすぐに真面目な顔になった。変わり身が早い。若いのに、現場で擦れてる。
「どうした」
「別に」
「その“別に”が、一番別にじゃないやつ」
「……じゃあ、ちょっとだけ。今日、私、受付抜けます」
「え」
「抜けるっていうか、辞める。もう向いてない。向いてないって分かった」
向いてない、という言葉は便利だ。判断が一瞬で終わる。終わると楽になる。楽になると、また同じ場所で詰まる。僕はその循環を、割とよく知っている。僕も何度も、便利な判断で自分を片づけた。
「何が向いてないの」
「全部。声出せないし、人の目が怖いし、段取り遅いし」
「段取り遅いは嘘。君、今日の受付表、三色で揃えてた」
「それは……必死だっただけ」
「必死は才能だよ。少なくとも現場では」
「才能って言うの、やめてください。重い」
花菜は視線を落とし、パーカーの紐をさらにねじった。ねじるほど、言えない言葉が固くなる。僕は耳をそっと支えながら、思った。耳は反発があるけど、人の声は反発がない。出すには、ちょっとだけ勇気が要る。
「ねえ」僕は言った。「今、外から聞こえてる?」
「何が」
控室の壁の向こう。子どもが走る音。マイクテストの「ワンツー」。屋台の鉄板が鳴く音。春まつりの匂い。
「聞こえる」
「これ、全部、誰かの“やる”が出てる音なんだよ。上手い下手じゃなくて、やるの音」
「……やるの音」
「うん。で、今日の僕は、耳でやる。君は何でやる?」
花菜は顔をしかめた。質問が嫌いな顔だ。でも嫌いな質問ほど、必要な時がある。
「……私、何もない」
「ある。紐をねじるのやめて、まずそれを言える。『何もない』って言えたのは、すごい」
「すごくない。最悪」
「最悪は最悪で、現実だ。現実は扱える」
僕は控室の机の上の紙を一枚取って、マジックででかく書いた。
《跳ねなくていい券》
「何それ」
「券。今日だけ使える。『跳ねなくていい』って、自分に許す券」
「……今日、跳ねるのは、けんごさんの役目でしょ」
「そう。だから君は跳ねなくていい。歩いてていい。止まって水飲んでいい」
僕は続けた。「辞める話も、今日じゃなくていい。今日の分は、今日の分だけでいい」
花菜はしばらく紙を見て、笑いそうになって、笑わずに息を吐いた。
「……ずるい」
「ずるくていい。ずるくしないと、続かない人もいる」
「けんごさん、ずるい側?」
「わりと。寂しいと、急に力が抜ける。便利なヒーローじゃない」
僕がそう言うと、花菜は目を丸くした。
「寂しいと、力抜けるって……何それ」
「体質。ほら、うさぎっぽいでしょ。ひとりになると、急に“あれ? これ、無理かも”ってなる」
「かわいい」
「また言う」
言いながら、僕は自分のことを思い出していた。昔、ひとり暮らしの部屋で、スマホのプレイリストから自分の声が流れてきて、なぜか泣いた夜。昔の自分が勝手に録った、練習用の短い歌。そこには、背中を押す言葉が入っていて、押された瞬間に「今の自分」が情けなく見えた。情けなく見えて、反抗したくなって、反抗する元気もなくて、結局泣いた。
誰にも言わなかった。言うと格好悪いから。格好悪いのに、格好悪さが僕を動かしてきた。厄介だ。
花菜は意外なほど真剣に頷いた。
「……私も。ひとりになると、急にダメになる」
「じゃあ同盟だね。ダメ同盟」
「言い方!」
「言い方が軽いと、持てる。重いと落とす」
*
開幕五分前。ステージ袖は熱かった。照明の熱、鉄板の熱、ざわめきの熱。耳の中のスポンジが蒸れて、僕の頭だけがふやけていく。
石井さんがインカム越しに言う。
『跳ねる係、準備?』
「準備……たぶん」
『たぶん禁止! ほら、今は“やる”だけ!』
「はい、やる!」
勢いで返事をした瞬間、胸が少し軽くなった。返事は、言葉より先に体を動かす。動けば、心は後から追いつく。追いつかない日もあるけど、今日は追いつかせたい。
花菜が袖で待っていた。手には、さっきの《跳ねなくていい券》。紙は折り目だらけだ。
「持ってるんだ」
「……捨てるのもったいない」
「もったいないで持つの、正しい」
「正しいって言うな。重い」
「じゃあ、いい。いいで」
司会の声が場を固める。
「さあ皆さん、春まつり、はじまりです!」
固くなる。固くなると、僕は跳べなくなる。跳ぶ前に固まったら、ただの大きい耳だ。耳の暴力だ。
僕は袖で一回、深く息を吸って吐いた。自分でやっておきながら、呼吸がでかい。中にいるのは、ウサギじゃなくて人間だ。
「いきますよー!」
司会が言う。「それでは、開幕ジャンプ!」
僕は走り出した。走ったら、耳が遅れて揺れた。遅れて揺れる耳が、妙に可笑しくて、僕は笑いそうになった。笑いそうになって、でも笑わなかった。笑うと息が乱れる。息が乱れると跳べない。今日は跳ねる係だ。
ステージ中央。ライトが眩しい。客席が波みたいに揺れている。子どもが「うさぎー!」と叫ぶ。叫びが刺さらない。むしろ背中を押す。
僕は膝を曲げて、跳んだ。
跳んだ瞬間、世界が一センチだけ軽くなる。たった一センチ。だけど一センチで、客席の空気がふわっと浮く。
子どもたちが跳ねた。親が笑った。屋台の人が手を止めて見た。拍手が起きた。大きくない。だから抱えられる。
着地して、僕は思った。
飛び跳ねた先の景色は、確かに歪んでる。ライトが滲むし、声は割れるし、自分の足元も怪しい。鮮明じゃない。
でも、鮮明じゃないままでも、なんとかなっちゃう時がある。経験談だ。ひどい経験談だけど、今日は役に立っている。
イベントはそのまま勢いづき、ステージ横のミニ運動会が始まった。輪投げ、豆袋投げ、スタンプラリー。僕は“うさぎ”のまま、子どもたちとハイタッチを量産する。耳が揺れるたびに歓声が出る。耳だけで十分、の意味が分かる気がした。
途中、幼稚園くらいの男の子が僕の腹をぽんと叩いて聞いた。
「ねえ、なんでねこじゃないの?」
急に来た。最大難問。
僕は一拍考えて、答えた。
「ねこはね、気分で営業終了するから」
「きぶん?」
「うん。『今日は撫でるな』って日がある」
男の子が真剣に頷く。
「ある」
「うさぎはね、寂しいから人のとこ来る。だから今日のまつり向き」
「さみしいの?」
「うん。さみしいと、耳がしゅんってなる」
「じゃあ、ぼくがさみしくしない!」
男の子は僕の耳を両手で支えて、むぎゅっと持ち上げた。耳の先が変な方向を向いて、客席が笑った。僕も笑った。今度は息が乱れてもいい。乱れても転ばない場所だから。
司会がマイクで言う。
「うさぎさん、耳、元気ですかー!」
僕は両腕で丸を作って答えた。元気のポーズ。中身の元気は七割くらいだけど、三割でも出せれば十分だ。出せば、残りは後から追いつく。
*
夕方、片づけが始まると、耳の重さが急に現実に戻った。汗が冷えて、背中がぞくっとする。こういう時に寂しさが来る。客席の熱が引くと、自分の体温だけが残るからだ。
控室に戻ると、花菜が《跳ねなくていい券》を握ったまま立っていた。
「けんごさん」
「うん」
「……私、辞めるって言ったけど」
「うん」
「今日、受付で、三回だけ声出せました。『次の方どうぞ』って」
「三回はすごい」
「すごいって言うな。重い」
「じゃあ、よかった。よかったは軽い」
花菜は笑って、やっと紙を机に置いた。
「これ、返します」
「返さなくていい。使い切っていい」
「じゃあ、今日使ったことにします」
花菜は紙を裏返して、マジックで丸を書いた。使用済み、みたいな勢いで。
「使った。ほら、丸」
僕はその丸を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。丸は、完璧じゃない終わり方の記号だ。角がない終わり方。僕に向いている。
机の上に、花菜が置いていった紙がもう一枚あった。《跳ねなくていい券》の裏。小さな字で一行。
《今日、辞めなくてよかった》
僕はそれを読んで、笑ってしまった。今度は笑っていい。笑っても誰も転ばない。
笑いながら、僕は自分のスマホのメモを開き、短く打った。
《次の干支が来ても、まだ前にいる》
送信はしない。誰にも見せない。けれど、書けたら少しだけ胸が静かになる。
僕は耳を抱えて立ち上がり、段ボール箱にそっとしまった。しまうのは終わりじゃない。次の出番まで寝かせるだけだ。
廊下に出ると、石井さんが笑って言った。
「跳ねる係、来年も頼むよ」
「来年は……」
僕は“たぶん”と言いかけて、やめた。
「必要なら」
「その言い方、好き。必要になったら呼ぶ!」
外は夕焼けで、屋台の煙が赤く染まっていた。
僕は空気を吸って、吐いた。
跳ねた分だけ、今日の僕は少しだけ前にいる。
軽やかじゃなくてもいい。ホフク前進でもいい。
寂しくなったら、同盟を思い出せばいい。券を握ればいい。水を飲めばいい。
僕は歩いて、帰った。歩く速さで十分な日だった。
帰宅して、玄関で靴を脱いだ瞬間、さっきまでの熱がふっと抜けた。抜けると、寂しさが来る。寂しさは律儀だ。祭りの後片づけみたいに、最後に必ず現れる。
僕は冷蔵庫の前で立ち尽くして、結局、水を飲んだ。水は嘘をつかない。喉を通ると、心も一段下がる。
机の上に、昔の僕が録ったボイスメモが残っていた。練習用の短い歌の断片。再生ボタンを押すと、若い声が元気に言う。
『動け。今日は一歩でいい』
自分の声に叱られて、僕は噴き出した。叱られてるのに笑えるのが、今日の収穫かもしれない。
僕は花菜にメッセージを送った。
「三回、ちゃんと出てた。明日も歩きでいい」
送って、スマホを伏せる。返事が来なくてもいい。置いた言葉が一つあるだけで、明日が少しだけ軽くなる。
段ボール箱の中の耳を見下ろして、僕は小さくつぶやいた。
「僕は僕でいい。耳は耳でいい」
そして、靴下のまま一回だけ、ほんの小さくつま先で跳ねた。ドスンじゃなく、トン。たったそれだけ。
それでも、今日がちゃんと始まった気がした。




