『スタートの音は、笑って鳴らす』
スタートの合図って、案外うるさい。
ピストルの音じゃなくても、笛でも、スピーカーの「それでは皆さま」でも、あの瞬間に空気が一段硬くなる。硬くなると、転びやすい。
僕はその「硬くする側」の人間だった。
市民マラソンの当日スタッフ。担当はスタートゲートの横、タイム計測の前、緊張が最高潮に達する地点。合図を出し、列を整え、混ざった呼吸を並べる仕事。
午前六時。会場の河川敷はまだ冷えていて、芝が靴底にまとわりつく。テントの中で紙コップの白湯をすすりながら、僕はスタッフ名札を首にかけた。
名前の下に、役割が書いてある。
《スタート係》
雑な肩書きだな、と自分でも思う。
でも今日だけは、雑でいい。雑じゃないと、僕が先に固まる。
「おはようございまーす。スタート係さん、機材チェックいけます?」
運営リーダーの高橋さんが、軍手のまま手を振る。声がでかい。でかい声は安心する。失敗しても拾ってくれそうな音がするからだ。
「はい。いけます」
返事が早いと、楽になる。
早い返事は、だいたい後で首が締まる。分かっているのに、今日は「分かってる」も一旦預けた。
スタートゲートのスピーカーを繋ぎ、タイム計測マットの位置を確認し、コーンを並べる。コーンは三角形。三角形は迷いを減らす。人間も三角形になればいいのに、と僕は時々思う。前、左右、後ろ。どこからでも支え合える形。
そんなことを考えているうちに、参加者が集まり始めた。
ランニングウェアの人、部活帰りみたいな学生、親子で手をつないだ小さな子、そして、明らかに「来てしまった」顔の人。
その「来てしまった」顔の代表が、スタートゲートの端にいた。
黒いパーカーに、スニーカーの紐がほどけかけている女性。呼吸が浅くて、肩が少し上がっている。目は前を見ているのに、心だけが後ろにいる。
僕はそっと近づいた。
「紐、ほどけてますよ」
声をかけると、女性はびくっとして足元を見た。
「あ、すみません……」
反射で謝る。僕と同じ癖だ。
「謝るより先に、座ってください。紐は座った方が結べます」
「え?」
「立ったままだと、呼吸が上に逃げるので」
自分で言って、何の専門家だよ、と内心で突っ込んだ。けど女性は戸惑いながらも、河川敷の縁石に腰を下ろした。指先が震えて、紐がうまく結べない。
「手、冷えてます?」
「……ちょっと」
僕はポケットから、予備のカイロを一つ出した。スタッフ用に箱でもらったやつだ。
「これ、握って。紐はそのあと」
「ありがとうございます……」
握った瞬間、彼女の肩が一ミリ落ちた。落ちる肩は、正直だ。
「初参加ですか」
「……はい。たぶん、最後です」
「最後、決めるの早いですね」
「こういうの、向いてないんです。応援されるのも、苦手で」
応援、という単語だけで、彼女の眉が少し寄る。
僕はそこで、いつもの便利な言葉を飲み込んだ。大丈夫、とか、気にしないで、とか。
代わりに、事実だけを置く。
「ここ、応援うるさいですよね」
彼女が小さく笑った。笑ったのに、すぐ口元を引っ込める。笑うのも怖いらしい。
「うるさいです。『ファイト』って、優しい顔して、刺さる時ある」
「あります。タイミング間違えると、ただの槍です」
「槍……」
彼女は息を吸って、吐いた。深い呼吸じゃない。でも、さっきよりは下に落ちた。
「僕、今日スタート係なんです」
「……合図出す人?」
「はい。硬くする人」
「え」
「硬くしない練習してます。たぶん今日は、合図を変えます」
女性が首をかしげる。僕は名札を指で叩いた。
「ここの仕事、合図を出すだけじゃなくて、転びそうな人を転ばせないことなんですよ」
「そんな役割、あるんですか」
「今、作りました」
僕はカイロの空き箱から、メモ用紙を一枚抜いた。マジックで大きく書く。
《深呼吸券》
そして、下に小さく足す。
《使い方:一回だけ深く吸って、ゆっくり吐く。終わり。》
「これ、持っててください。使いどころは自由です」
「券……」
「券って言うと、逃げ道に見えるでしょ。逃げ道は悪じゃないです。戻れる幅です」
女性はメモを受け取って、指でなぞった。
「……戻れる幅」
「はい。間違えたら戻っていい。遅れたら歩いていい。泣きたくなったら水飲んでいい」
言いながら、僕は自分にも言っていた。
仕事でも、生活でも、僕はいつも「戻る」を許していなかったから。
そのとき、スタート列の前方で声がした。
「おいおい、給水なんか要らねぇだろ。こんな短い距離」
見ると、白髪混じりの男性が腕組みしていた。顔つきが硬い。硬いのに、目の奥が落ち着かない。怖さを「平気」に塗っている人の目だ。
隣のスタッフが困っている。僕は小さく手を挙げて、近づいた。
「給水は、喉のためというより、気持ちのためです」
「気持ち?」
「口が乾いてると、言葉が尖ります。尖ると呼吸も尖ります」
「訳わからん」
「訳わからんでいいです。飲むだけ。二口だけ」
男性はムッとしたが、結局紙コップを受け取った。二口で、眉がほんの少し緩む。
「……こんなので変わるか」
「変わります。一滴で油が回るみたいに」
僕が言うと、男性は鼻で笑った。
「お前、ヤワじゃないだろうな」
「ヤワですよ」
「堂々と言うな」
「堂々と言えるくらいには、ヤワです」
周りのスタッフがくすっと笑った。笑いが刺さらない。刺さらない笑いは、場を柔らかくする。
スタート時刻が近づいた。参加者がゲート前に並び、心臓の音が集まってくる。集合した心臓は、ひとつの獣みたいだ。獣は合図で走る。走る前に、暴れる。
僕はスピーカーのマイクを持った。
台本はある。いつもの挨拶、注意事項、カウントダウン。けれど僕は台本の一行目を捨てた。
代わりに、マイク越しにこう言った。
「みなさん、もう十分やってます。ここに来た時点で、相当えらいです」
会場が一瞬だけ静かになった。
誰かが笑った。そこから笑いが広がる。笑いは波紋みたいに、緊張の角を丸める。
「なので、お願いです。ゴールのことは、ちょっと後で。まずは一回、深呼吸してください」
僕は自分で深く吸って、マイクに息の音を乗せないようにゆっくり吐いた。会場も、つられて息を吐く。数千人のため息。ため息が揃うと、なぜか強い。
「それから、もし途中でつまずいたら。『やっちゃった』で終わらせないでください。『もう一回』って言ってください。歩いてもいい。戻ってもいい。笑ってもいい」
言いながら、僕の胸の中のどこかが少し軽くなった。
僕は今まで、つまずきを「終わり」にしてきた。仕事のミス、返信の遅れ、言い損ねた言葉。全部、心の中で勝手に幕引きして、自分に罰を与えて終わらせてきた。
終わらせるほど、続いてしまうのに。
「では、スタートします。合図は短くいきます。準備できてなくても大丈夫。準備できてない人ほど、今日ここにいます」
カウントダウンの代わりに、僕は短く言った。
「いきます」
そして、合図のボタンを押した。
軽い電子音。乾いた一音。
それだけで、獣が走り出す。走り出したのに、怖さは消えない。怖さは一緒に走る。でも怖さが一緒なら、置いていかれない。
最初の二十メートルで、小さな事故が起きた。
靴紐がほどけたままの青年が、前の人の踵に引っかかって、派手にすっ転んだ。二人、三人、連鎖しそうに足が止まる。止まると、後ろの波が押し寄せる。押し寄せると、転ぶ人が増える。
僕は反射でマイクを握った。
「いったん、止まって! 止まって大丈夫! 焦らない!」
係員としては邪道だ。流れを止めるのは怖い。でも、流れが暴走するほうが怖い。僕の声に、前方の走者が一斉に歩きへ切り替えた。歩く人は、強い。走るより難しい時があるからだ。
転んだ青年が起き上がろうとして、うまく膝が立たない。恥ずかしさで顔が真っ赤だ。僕は近づいて、手を差し出した。
「大丈夫?」
青年は反射で言った。
「だ、大丈夫です!」
声がでかい。でかいのに、足が震えてる。
「大丈夫って言うの、上手いですね」
「え」
「じゃあ、別の言い方。痛い? 恥ずかしい? どっち?」
青年は一拍迷って、吐き出すみたいに言った。
「……両方です」
「採用。両方なら両方で、いったん座りましょう」
スタッフの一人が給水を持ってきて、もう一人がコーンを寄せて通路を作る。周りの走者が「大丈夫?」と声をかける。声かけが槍にならないのは、今の声が“確認”だからだ。誰も、勝手に勇気づけようとしてない。まず現状を確かめている。
青年は水を飲み、膝をさすり、顔を上げた。
「……すみません」
「謝るより先に、もう一回だけ呼吸」
僕が言うと、青年は笑いそうになって、結局ふっと息を吐いた。
波が落ち着いたのを見て、僕はマイクで短く言った。
「再開します。歩きからでいい。今のぶん、みんなチームです」
走者たちが、今度はゆっくり動き出す。走る人も、歩く人も、同じ方向へ向く。たったそれだけで、空気が戻る。転んだ青年は、少し遅れて歩き出した。背中が、さっきより丸い。丸い背中は、折れてるんじゃなく、守ってる背中だ。
黒いパーカーの女性は、列の後方からゆっくり出た。走り出すのが遅いのに、顔が少し柔らかい。手には、あの《深呼吸券》が握られている。握っているだけで、支えになるものがある。
白髪混じりの男性は、スタート直後に一回だけ振り返って、僕を見た。
そして、指で小さく親指を立てた。
勝ち負けじゃない。確認だ。今日も始められた、の確認。
*
ゴール地点へ向かう無線が飛び交う中、僕はスタートゲートの横で、倒れたコーンを直していた。走る人は通過していく。通過していく背中は、みんな同じじゃない。速い背中、遅い背中、揺れる背中、迷いながらの背中。
けれど、背中はみんな前に進んでいる。前に進むだけで、十分な日がある。
しばらくして、黒いパーカーの女性が戻ってきた。息が上がっていて、頬が赤い。走り切ったというより、ちゃんと動いた顔をしている。
「……歩きました」
「最高です」
「途中で一回、立ち止まって……券、使いました」
彼女は《深呼吸券》を見せた。紙が少し湿っている。
「それ、今日の勲章ですね」
「勲章って言われると、また照れる」
「照れたら、もう一回呼吸です」
彼女は笑って、笑いながら目尻を拭いた。泣いてるのに、逃げてない泣き方だった。
「来年も……出るかも」
「“かも”で十分です。決めるの早いと、また硬くなるので」
「スタート係さん、変な人」
「変な人、褒め言葉です」
彼女はもう一度笑って、走者の流れの中へ戻っていった。
片づけの時間になり、高橋さんが僕の肩を叩いた。
「今日のアナウンス、良かったよ。なんか、みんなの顔が変わった」
「顔が変わると、走り方も変わりますね」
「何その理屈」
「さっき現場で生えた理屈です」
高橋さんは笑って、紙コップの水を僕に渡した。
「お疲れ。スタート係さん」
僕は水を飲んだ。水は嘘をつかない。喉が通ると、胸の中の砂が少し動く。
帰り道、河川敷の草の匂いが靴に残っていた。
僕はポケットの中に残った《深呼吸券》の半端な紙を触った。余り紙だ。けれど余りは、捨てなくていい。明日も使える。
電車に乗る前に、僕はスマホを開いて、仕事のチャットを見た。見ただけで、いつもの硬さが戻りそうになる。
そこで僕は、ホームの柱を指で二回、こつんこつんと叩いた。
合図。硬くなる前に戻る合図。
そして、メッセージを一つだけ送った。
『確認に5分ください。今、整え直します』
送信して、息を吐く。
今日の合図は、スタートだけじゃなかった。
僕の生活にも、短い合図が必要だった。
遠くで電車の発車ベルが鳴る。
あの音も、きっと誰かのスタートの音だ。




