『チェーンのたるみは、心の音』
店のシャッターを下ろしたあとが、一番うるさい。
昼間は客の声と工具の音に紛れていた「気まずさ」が、夜になると床から立ち上がってくる。レンチを戻す音、レジの引き出しが閉まる音、最後に消す蛍光灯のスイッチ。どれも、いつもと同じ動作なのに、同じじゃない。
久我は、手を洗いながら言った。
「戸締まり、頼む」
声が平らで、そこに何も混ざっていないのが分かった。怒りも、笑いも、疲れも。混ぜるのをやめた声。
「うん」
僕も同じ返事を返した。返事が薄いほど、傷は増えない。増えないはずだ。たぶん。
ここ一ヶ月、僕らはそういう会話をしている。
自転車屋「ヒノマルサイクル」。表の看板は赤い丸で、名前だけ見ると元気そうなのに、裏の作業台はずっと冬だった。暖房は効いている。手は動く。笑いだけが凍っている。
原因は単純だ。僕が勝手に部品を替えた。
常連の宅配員のロードの、チェーンリング。削れていたから、在庫の良いものに入れ替えておいた。見積もりも出さずに。
久我はそれを見て、怒った。
「善意でやるなら、せめて先に言え」
その言い方が正しすぎて、僕は反射で「ごめん」を出してしまった。ごめんは便利だ。便利なぶん、最後まで聴かなくて済む。
久我は、僕のごめんに怒った。
「謝って終わらせるな」
それっきり、僕らの距離は、工具箱一個分だけ離れた。
僕は言い訳を用意できた。
忙しかった。お客さんが詰まっていた。早く直してあげたかった。
どれも嘘じゃない。嘘じゃないのに、核がズレている。
核はたぶん、「良い相棒でいたい」が強すぎたことだ。良い相棒でいたい人間ほど、勝手に頑張って勝手に破綻する。そういう人間を、僕は昔から何度も見てきた。なのに、自分の番になると見えなくなる。
翌日から、久我は必要なことだけを言うようになった。
必要なことだけって、こんなに冷たいんだなと知った。冷たいのに、ちゃんと仕事は回る。回るから、直す理由が見つからない。見つからないから、さらに回る。嫌な循環だ。
そんな夜、店の前に小学生の男の子が来た。
もう閉店の札を裏返した後なのに、ガラス越しにぺこぺこと頭を下げている。僕は渋々ドアを開けた。
「どうした」
「あの、これ……」
男の子が差し出したのは、補助輪付きの自転車だった。ペダルが空回りして、チェーンが外れている。指先が油で黒くなっているのに、本人はそれを気にする余裕がない顔をしていた。
「明日、遠足で……」
遠足という言葉に、僕の中の大人が勝手に動く。今やるしかない、が起動する。
僕は作業台へ運び、チェーンを掛け直そうとした。けれど、手が止まった。チェーンは外れただけじゃない。テンションがずれている。ここは調整が要る。
その瞬間、背後から久我の足音がした。
「何だ」
久我は男の子の顔を見て、何も聞かずに手袋をはめた。
僕は言った。
「遠足だって」
それだけで通じた。久我は工具を取る。僕は自転車を支える。
言葉が少ないのに、手順が滑らかだった。昔みたいに。
男の子がぽつりと言った。
「ふたりでやると、早いね」
その一言が、僕の胸の奥の氷を薄く割った。
早い。そうだ。僕らは二人で早かった。二人で正確だった。二人で笑えた。
なのに、僕は一人でやって、一人で褒められたくて、一人で勝手に良いことをして、一人で崩れた。
相棒って、そういうのを止めてくれる存在だったはずなのに。
調整が終わり、ペダルが滑らかに回る。
男の子が目を輝かせた。
「すごい! なおった!」
久我は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「外れただけだ。明日、段差で無理に踏むな」
「うん!」
男の子は何度も頭を下げて帰っていった。ドアが閉まる。店にまた静けさが戻る。
戻ってきた静けさが、さっきより柔らかい気がした。
僕は思い切って言った。
「久我」
「何」
「……さっきみたいに、戻したい」
久我は手袋を外しながら、僕を見た。目が冷たいわけじゃない。ただ、慎重な目だった。慎重な目は、まだ壊れていない証拠でもある。
「戻すって、何を」
質問が痛い。言葉を選ばないと、また逃げる。
僕は息を吸って吐いて、短くした。
「俺らの、店の音」
久我は一瞬だけ黙って、作業台を指で軽く叩いた。コン、と木が鳴る。
「音は出せる。問題は、お前の癖だ」
「癖?」
「勝手に良い奴になろうとする癖」
刺さった。正しい針はよく刺さる。
「……分かってる」
「分かってないからやる」
「じゃあ、どうすればいい」
僕が聞くと、久我は少しだけ視線を外した。
「俺も悪い。怒って、そのまま冷やした。冷やすと直らないのに」
久我が自分の非を口にしただけで、僕は救われる。救われたくて、また依存しそうになる。だから、ここは手順だ。手順でいく。
「ルール作ろう」僕は言った。
「またルール」
「うん。店のルール。二人のルール」
久我はため息をつきそうになって、やめた。やめたのが分かった。止まった分だけ、話が進む。
「言ってみろ」
「一つ目。勝手に替えない。替えたくなったら、見積もりより先に声をかける」
「当たり前だ」
「当たり前を、当たり前にするのが難しい日がある」
久我が小さく頷いた。
「二つ目」
「二つ目。気まずいまま閉店しない。閉める前に、三分だけ話す」
「三分?」
「長いと逃げるから。短い方が真面目になれる」
久我は笑いそうになって、笑わなかった。
「三分で終わらない日もあるぞ」
「その日は、三分を二回やる」
「分割か」
「うん。皿洗いみたいに」
久我は肩を落として、やっと笑った。
「お前、生活の比喩はうまいな」
「仕事の比喩は下手だった」
「反省は要らん。次に使え」
僕は最後の一つを言うのが怖かった。
こういう時、僕は“良い話”で締めたくなる。きれいに丸めれば、今日だけは終われるから。
でも丸めたら、また同じ場所に戻る。戻るのはいい。けど、同じ失敗に戻るのは嫌だ。
「三つ目」
僕は言った。
「俺が『ごめん』で終わらせそうになったら、止めてほしい」
久我は眉を上げた。
「止めたらどうする」
「続ける。ごめんの次を言う」
「次って何だ」
僕は一拍だけ迷って、正直を出した。
「怖い、って言う」
久我の目が、少しだけ柔らかくなった。
「……怖いのは、弱さじゃない」
「分かってるつもりだった」
「つもり禁止」
久我は言って、僕のほうの作業台を軽く叩いた。コン。
「明日から、それでいけ」
ルールを紙に書いて、レジ横のコルクボードに刺した。
店の「本日のおすすめ」札の隣に、ちょっと場違いな太字。
《勝手に替えない/閉店前に三分/ごめんで終わらせない》
貼った瞬間、僕は自分で自分に照れた。大人がルールを掲示するのは、ちょっとダサい。ダサいのに、効く。ダサいものほど忘れない。
「で?」久我が言った。
「で、何」
「三分の前に、今夜の“調整”だ」
久我は、さっき直した男の子の自転車を指さした。
「試走」
「え、今?」
「今。明日遠足なんだろ。今のうちに鳴き癖を潰す」
鳴き癖。チェーンが微妙に鳴くやつ。気分が悪い音。放置すると大きくなる音。
僕らは店の前に自転車を出した。夜の商店街は、看板の明かりだけが残っている。車は少ない。風は冷たい。
久我がサドルに跨り、僕が後ろを支えた。
「お前、乗れ」
「俺?」
「俺は押す。お前は聞く。音」
久我はそう言って、子ども用の小さな車体を本気で押し始めた。
「うわ、ちょ、やめ、恥ずかしい!」
「恥ずかしいは、壊れない」
「その理屈嫌いじゃないけど!」
僕は必死でペダルを回し、耳を澄ませた。チェーンの音、タイヤの擦れる音、ブレーキの返り。
そして、さっきまでの気まずさが、音の中へ溶けていくのを感じた。仕事の耳は、感情の余白を削ってくれる。
「どうだ」久我が言う。
「……いい。ちゃんと回る」
「だろ」
久我は押すのをやめて、息を吐いた。
「なあ。さっきの話、続き」
「続き?」
「お前が黙ったの、臆病だからじゃないってこと」
久我は夜空を見上げた。星は見えない。街の灯りが強すぎる。
「黙るのは、お前の“守り方”なんだろ。角を立てないように、相手を傷つけないように」
僕は唾を飲んだ。見透かされると、急に息が苦しくなる。
「……そう」
「でも、その守り方はさ。守ってるようで、距離が増える」
久我は言い切った。
「距離が増えると、勝手に壊れたことになる。壊れてないのに」
僕は子ども用のハンドルを握りながら、やっと言えた。
「壊れてないって、思っていい?」
「思っていい。ていうか、この程度で折れるなら、最初から相棒なんて名乗ってねえよ」
久我の言葉が、胸にストンと落ちた。強がりじゃなく、事実の重さ。
僕は笑ってしまった。
「……俺ら、案外しぶといな」
「しぶといって言うな。工具が可哀想だ」
「工具に謝れって?」
「謝るより先に、油させ」
久我はポケットから小さな注油器を出して、チェーンに一滴だけ落とした。
たった一滴で、音が変わる。
それが、なんだか救いだった。劇的じゃない。大げさじゃない。けど確かに変わる。
店へ戻る途中、久我がぽつりと言った。
「俺もさ、怒って冷やしたの、楽だった」
「楽?」
「冷やすと、何も期待しなくて済む。期待すると、また腹が立つから」
僕は頷いた。期待は重い。でも期待のない相棒は、ただの共同作業者だ。
「……期待していい?」
僕が言うと、久我は鼻で笑った。
「期待しろ。代わりに、勝手に走るな」
「はい」
「返事が早い」
「早いのは、得意になった」
「その得意、今日から正しく使え」
店の前で立ち止まり、僕は子どもの自転車を見た。小さな車体。小さなチェーン。
外れたら転ぶ。転ぶと泣く。泣くけど、また乗る。
その当たり前が、僕には眩しかった。
僕は久我に言った。
「俺、強くない」
「知ってる」
「でも、弱いまま、ここにいる」
「それが強さだ」
久我はそう言って、店の鍵を回した。カチリ、という音。
戻る音だった。
*
翌日、僕は常連の宅配員に頭を下げた。
勝手に替えた件を、ちゃんと説明した。料金の差額は僕のミスだと伝えた。
宅配員は一瞬驚いて、それから笑った。
「お前ら、喧嘩してたろ」
「……バレてました?」
「店の音が変わってた。油の匂いは同じなのに、空気が乾いてた」
そう言われて、僕は変に恥ずかしくなった。恥ずかしいのに、嬉しい。音は外に漏れていた。漏れているなら、直す価値がある。
昼過ぎ、また子どもが自転車を持ってきた。今度はパンク。
僕がチューブを引っ張り出し、久我が手際よくタイヤレバーを差し込む。
手順が噛み合うと、会話は少なくていい。少ないのに、冷たくない。
久我がぽつりと言った。
「昨日の三分、忘れるなよ」
「忘れない」
「三分は、短い。短いほどサボる」
「サボらない。……サボりそうになったら言って」
「言う。遠慮しない」
閉店前、僕らはシャッターの前に立って、三分だけ話した。
内容は大げさじゃない。
今日の修理のミス、次の発注、店の前の段差が危ないこと。
それだけ。
それだけなのに、胸の奥の空気が少し湿る。乾いていた空気が、やっと人間の温度になる。
帰り際、久我が言った。
「なあ」
「何」
「お前さ。良い奴になろうとする前に、まず相棒でいろ」
相棒。
その単語が、僕の中でちゃんと重く鳴った。重いのに、嫌じゃない。
「うん」僕は頷いた。
「相棒でいる」
代わりに、もっと現実的な言葉にした。
「外れそうなら、直す」
久我が笑った。
「チェーンみたいだな」
「チェーンみたいでいい。外れたら転ぶ。だから、早めに調整する」
「調整、得意だっただろ」
「二人ならね」
シャッターを下ろす音が、今夜は少しだけ軽かった。
店の音が戻ってくる。
僕らはまだ、まだまだ直せる。
その感触だけで、今日は十分だった。




