『平気を置いていく練習』
部屋の匂いが、少しだけ変わっていた。
洗剤の匂いでも、料理の匂いでもない。風を通したあとの、空っぽの匂い。箱をたたんだ段ボールの紙が擦れる音が、やけに乾いて聞こえる。
玄関に置かれたスニーカーが揃っている。いつもなら片方がひょいと前に出て、靴紐がほどけたまま、彼女の帰宅の癖を主張しているのに。今日は妙に丁寧だ。丁寧さはときどき、終わらせるための丁寧さになる。
僕は「ただいま」を言った。
彼女はキッチンの背中で「おかえり」と返す。振り向かない。鍋の蓋が、こつん、と鳴る。湯気が一瞬だけ立って、それから消える。湯気は嘘をつかない。立つなら立つ。消えるなら消える。
「味噌汁、温め直すね」
「うん」
返事の「うん」が、すこし薄い。薄い返事は、質問の余地を置かない。僕はその薄さに慣れてしまった。慣れたぶんだけ、救われて、慣れたぶんだけ、傷つく。
テーブルの上に、ファイルが一冊置かれていた。封筒。契約書の控えみたいな紙。僕は見ないふりをした。見たら聞かなきゃいけなくなる。聞いたら、何かが動き出す。動き出すのが怖い。動き出さない怖さのほうが、実はもっと怖いのに。
食事はいつも通りだった。箸の音。噛む音。テレビのバラエティの笑い声。笑い声があると、会話を作らなくて済む。僕らはそれを知っている。知っているからこそ、テレビが妙に残酷に感じる夜がある。
「仕事、忙しい?」
彼女が言う。湯気の向こうから、声だけが飛んでくる。
「うん。まあ……忙しい」
「そっか」
そこで終わる。掘らない。掘ると崩れる。崩れると、戻すのが大変だ。僕は大変が嫌いだ。大変が嫌いで、ここまで来た。ここまで来たから、いま大変になっている。
食後、彼女は皿を洗いながら言った。
「ねえ、今週末、ちょっと話したいことがある」
僕の心臓が、ひとつだけ大きく鳴った。
「今週末?」
「うん。土曜の昼、家にいる?」
「いるよ。大丈夫」
反射で出た言葉だった。大丈夫。便利で、薄くて、角がない。角がないから、相手の手を切らない。代わりに、自分の腹の中を削る。
彼女の手が止まった。水音が止まって、シンクが空洞みたいに静かになる。
「……その“大丈夫”さ」
「え」
「それ、いま欲しい答えじゃない」
僕は口を開いて閉じた。欲しい答え。どれだ。何が正解だ。正解探しが始まると、僕はすぐに疲れる。疲れると、また大丈夫を出す。無限ループ。
「じゃあ……いる。ちゃんと」
「うん」
夜が深くなるまで、僕らはそれ以上言わなかった。言わないと決めたみたいに。決めたのは彼女で、僕はそれに乗った。乗るのは楽だ。自分が舵を握らないで済む。
ベッドに入っても、彼女の呼吸は少しだけ遠かった。背中が一ミリ離れているだけで、部屋が広い。広い部屋は、冷える。
土曜の昼。晴れた。晴れた空は意地悪だ。こういう話は雨の日にしたい。濡れれば言い訳ができるから。
彼女はテーブルの上に、あのファイルを置いて、椅子に座った。背筋がきれいだった。きれいな背筋は、決意の形だ。
「転勤が決まった」
言葉が、すとん、と落ちた。落ちる音がしないほど軽いのに、僕の胸だけが重い。
「……どこ」
「大阪。四月末から」
「四月末って、もうすぐ」
「うん」
僕は笑いそうになった。笑うと逃げる。逃げると遅れる。遅れると、もっと痛い形で来る。
だから笑わずに、息をした。
「いつ決まったの」
「二ヶ月前」
「……言わなかったんだ」
「言えなかった。あなた忙しそうだったし」
「忙しかったのは……」
「うん。知ってる。だから」
だから、の先が言われない。言われないから、僕が勝手に補完する。補完の内容はいつも最悪の映画になる。僕が悪い。僕が鈍い。僕が足りない。僕が、彼女の未来を狭くしていた。
「ごめん」僕は言った。
彼女は首を振った。
「謝らないで。悪者を決めたくない」
「でも」
「でも、じゃない。決まったこと」
決まったこと。決まったことは強い。決まったことは優しい顔をして、容赦なく進む。
僕はテーブルの端を指で二回叩いた。癖だ。焦ると手が音を探す。音を探すと、少しだけ現実に戻れる。
「一緒に行く、って選択肢は?」
言ってから、自分で苦しくなる。選択肢を出すのは、引き留めの形だ。彼女は困った顔で笑うだろう。そんな顔を見たいわけじゃないのに、見たがっている自分がいる。
「ないよ」
彼女ははっきり言った。はっきりが、痛い。痛いのに、ありがたい。
「あなたの仕事もあるし」
「仕事は……」
「それに、私、ひとりで行きたい」
ひとりで。彼女の声が、少し震えた。震えたのに、折れていない。折れていないのが、強い。
「僕が邪魔ってこと?」
自分でも最低な質問だと思った。矢を自分で作って、自分で刺して、相手にも刺す。癖だ。痛みを共有すれば軽くなると、どこかで勘違いしている。
「違う」
彼女はすぐ言った。
「邪魔じゃない。好きだよ」
好きだよ、が出た瞬間、僕の胸が一番痛んだ。痛いのは、嬉しいからじゃない。好きだよ、があると、僕の中の希望が勝手に生き返るからだ。生き返った希望は、あとで必ず死ぬ。死ぬとき、倍痛い。
「……そういうの、やめて」
僕は言った。声が思ったより低い。驚いて、自分で自分を見失いそうになる。
「やめて、って何」
「好きだとか、心配だとか、そういう……優しい言葉」
彼女の眉が少し寄った。
「優しい言葉が、だめなの?」
「だめじゃない。だめじゃないけど……」
だめじゃないけど、の中に、僕の全部が詰まっている。
僕はそれを開けるのが怖かった。怖いから、わざと乱暴に言う。
「優しくしないでほしい」
「……ひどい」
「ひどいの、僕。分かってる」
僕は続けた。「優しくされると、僕、まだ信じちゃう」
「何を」
「戻ること。続くこと。……僕が何かしたら、あなたが引き返してくれること」
彼女は息を吐いた。長い息。長い息は、覚悟の余裕だ。
「引き返さない」
「なら、ちゃんと突き放して」
言った瞬間、僕の喉が熱くなった。こんなお願いが自分から出るなんて思っていなかった。僕はいつも、相手が先に決めるのを待つ人間だった。待って、待って、待って、最後に「分かった」と言う人間だった。分かったは便利だ。傷ついたふりをしなくて済む。強がれる。
「突き放すって、どうすればいいの」
彼女の声が少し揺れた。揺れたのが怖くて、僕はさらに言葉を足しそうになる。足すと、また説明で逃げる。だから短くする。
「嫌いって言って」
「言えない」
「じゃあ、迷惑って」
「言えない」
「じゃあ、僕のこと忘れて」
「それも言えない」
言えない、が続くたびに、僕の胸の中の希望がぬくっと起き上がる。起き上がって、また勝手に物語を作る。彼女はまだ僕を大事に思っている。なら、まだ……。
その物語を潰すために、僕は自分のほうへ矢を向けた。
「僕ね、あなたをダメにする」
彼女の目が大きくなった。
「何言ってんの」
「ほんとに。あなたが前に進みたいのに、僕が“ここ”を守ろうとする。守るって言えば聞こえはいいけど、実際は引っ張る。引っ張って、あなたの足を重くする」
「そんなこと」
「ある。僕はそういう人間。だから、お願い。僕のことを、悪い人にして」
彼女の瞳が潤んだ。涙は武器じゃない。けど、涙を見ると僕はすぐに折れる。折れて、抱きしめて、全部なかったことにしたくなる。そうやって今まで何度も逃げてきた。
彼女は、泣きながら首を振った。
「悪い人になんてできない」
「じゃあ、どうするの」
「行くよ。行く。……行くけど、あなたを踏んで行かない」
「踏んでいいよ」
「踏んでいい、って言うのが、もう優しさじゃない」
彼女は涙を拭いて、まっすぐ見た。
「あなた、優しいふりで自分を罰してる。優しさじゃない。自傷だよ」
刺さった。刺さったのに、変に救われた。名前がついたからだ。僕のやっていることに、ちゃんとした名前がついた。自傷。言葉は残酷で、だから現実的だ。
僕は唇を噛んで、やっと言えた。
「つらい」
彼女の眉がほどけた。ほどけた瞬間、部屋の空気が一ミリ暖かくなる。
「うん。つらいよね」
「大丈夫って言わないで」
「言わない」
「じゃあ……行くなら、行くって言って」
「行く」
「笑わないで」
「笑わない」
「振り返らないで」
僕が言うと、彼女の肩が震えた。
「……振り返るよ。だって、好きだから」
「好きって言うな」
「言う。好きは嘘じゃない」
彼女は続けた。「でも、行くのも嘘じゃない。両方本当。あなたは白か黒かにしたがるけど、両方ある」
両方。両方ある。
僕はそれが一番苦手だ。両方あると、手が止まる。止まると、また誰かに決めてもらう。けれど今日は、決めてもらわないほうがいい。
「じゃあ、手順」
僕が言うと、彼女が小さく頷いた。
「うん。手順で」
「荷物、今週でまとめる。鍵は、出る日に置いていく」
「うん」
「最後の日、見送りは駅まで」
「……ありがとう」
「ありがとうじゃない。僕の都合」
「それ、言えるの、いい」
それから一週間、部屋は少しずつ軽くなった。服が減り、食器が減り、洗剤が減り、匂いが薄くなる。窓辺の鉢植えの葉も、なぜか毎日一枚ずつ落ちた。彼女が世話していたのに。水はやった。光も当たっている。なのに落ちる。落ちるものは落ちる。理由があってもなくても。
出発の日の朝、彼女は最後に味噌汁を作った。味噌汁はいつもより薄かった。薄いのに、やけに塩が立つ。涙の味に近い塩。
「これ、最後にしないで」彼女が言った。「味噌汁くらい、また作れる」
「……作れない味もある」
「あるね」
彼女は頷いて、箸を置いた。「でも、作れない味に縋らない」
玄関で、彼女が鍵をテーブルに置いた。金属が小さく鳴った。たったそれだけで、僕は膝が笑いそうになる。笑うのはやめろ。今日は笑う日じゃない。笑うと、また大丈夫が出る。
「行くね」
彼女が言う。
僕はうなずいて、息を吸った。
「行って」
言えた。短く。逃げ道なしで。
彼女はバッグを肩にかけ、靴紐を結び、ドアノブに手をかけた。そこで一瞬だけ止まる。振り返る気配。僕は胸が痛くなって、でも言った。
「振り返っていい。でも、戻らないで」
彼女の目が潤んだ。
「戻らない」
「じゃあ……いってらっしゃい」
「……いってきます」
ドアが閉まる。鍵の音はしない。置いていったからだ。
玄関の空気が、急に冷える。部屋が広い。広い部屋は、冷える。僕はそれを、ようやく受け入れた。受け入れたから、涙が出た。涙は遅い。遅いのが僕だ。
僕はキッチンへ行き、コップに水を注いだ。水は嘘をつかない。喉を通る。通ったら、次ができる。
窓辺の鉢植えに目をやる。落ちた葉が一枚、土の上に乗っている。僕はそれを拾って捨てず、白い小皿に置いた。記念じゃない。証拠でもない。今日、落ちたものを、今日のうちに見るためだ。
テーブルの端に、付箋があった。彼女の字。
《平気って言わないで》
僕はその付箋の隣に、ペンで書いた。
《平気じゃない。でも、生きる》
書いたら、少しだけ呼吸が深くなった。
部屋の匂いはまだ空っぽだ。でも空っぽは、入れる場所でもある。僕は鉢植えに水をやり、鍋を洗い、洗濯機を回した。革命じゃない。手の届く範囲の作業。今日の僕が戻れる幅。
夕方、玄関の外で誰かが段ボールを引きずる音がした。誰かの引っ越し。誰かの新しい始まり。僕の終わり。終わりじゃない。区切り。
僕は深呼吸して、ドアを開けて、外の空気を吸った。まだ少し冷たい。冬の名残りだ。名残りは、残っていい。残っていいけど、居座らせない。
「まだ大丈夫じゃない」
僕は小さく言った。
「……だから、ちゃんと歩く」
言えたら、今日はそれで十分だった。




