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短編集  作者: 科上悠羽


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『迷子札は、胸の内側に貼る』

 閉店後のショッピングモールは、迷路の顔をやめない。昼間は人の流れが矢印になってくれるのに、夜は床の光沢だけが残って、廊下の角がどれも同じに見える。

 しゅうはインフォメーション裏の通用口を出たところで、ふっと立ち止まった。


 今日は、三十歳の誕生日だった。

 特別なことは何もしていない。ケーキもない。ラインで「おめでとう」が数件届いて、既読を付けて、仕事に戻っただけ。

 それでも胸の奥に、妙な焦げ臭さがある。火が見えない火事の匂い。誰かのせいじゃない、自分のせいのやつ。


「おい、柊。そっち行くと倉庫だぞ」

 背後から声がして振り返ると、警備員の八木さんがいた。反射材のベストが暗い通路でやけに明るい。

「……分かってます」

「分かってない顔してた。迷子の顔だ」

「迷子は仕事で毎日見てます」

「自分は例外って顔だ」


 八木さんは笑いながら、鍵束をじゃらっと鳴らした。音が現実に戻す。

「誕生日だっけ?」

「……はい」

「じゃ、今夜は“迷子札”貼っとけ」

「迷子札?」

「ほら、ちびっ子のやつ。名前と電話番号書いて、胸に貼るやつ」

「僕、三十です」

「年齢じゃなくて状態。迷子の時は札がいる。『どこに戻るか』が分かるからな」


 戻る。

 その言葉に、柊は少しだけ息が引っかかった。

 戻る場所が、最近よく分からない。実家でも、会社でも、部屋でもない。どこに戻っても、また同じ通路に放り出される感じがする。


「柊、こっち」

 八木さんは親指で示す。非常階段。

 エスカレーターの横を、階段が静かに上っている。昼間は見えない顔をして、夜にだけ「ここだよ」と言ってくるやつ。


「エスカレーター、使わないんですか」

「もう止めた。あれは便利すぎる。便利すぎると、自分の足がサボる」

「足がサボるって」

「サボるよ。生活も一緒。勝手に流してると、いつの間にか自分が置いてかれる」


 八木さんの言葉は雑で、でも刺さる。刺さるのに嫌じゃないのは、説教じゃなく経験談の温度だからだ。


 階段を上がりながら、柊は自分の仕事を思い出した。

 インフォメーションは、迷子の子どもも、迷子の大人も集まってくる。

「落とし物、ありませんか」

「どこに行けばいいですか」

「今、何が起きてますか」

 みんな、地図が欲しい顔をしている。けれど本当は、地図の前に“許可”が欲しいのだ。迷っていい、の許可。止まっていい、の許可。聞いていい、の許可。

 それを渡すのが、柊の仕事だったはずなのに。


 自分には渡せていない。

 自分だけ、ずっと「位置について」のまま、号砲が鳴ったことに気づかないふりをしている。



 翌日、モールは春の催事で騒がしかった。子ども向けのミニステージが組まれ、風船が配られ、案内所の前には人の列ができる。

 柊は笑顔を貼り付け、手順を回した。笑顔は作れる。作れるほど、胸の奥が乾く。


 昼過ぎ、事件は突然来た。

 中央吹き抜けの上りエスカレーターが、止まった。

 止まった瞬間、階段の上で人の気持ちが詰まる。ベビーカーの母親の顔が硬くなる。買い物袋を持つ老人が不安げに手すりを掴む。

 係員が走る。無線が飛ぶ。スピーカーの音が一段硬くなる。


「柊、行ける?」

 リーダーの声が聞こえた。

 柊は口を開きかけた。いつもの「大丈夫です」が喉まで上がる。

 でも昨日の八木さんの鍵束の音が、頭の中で鳴った。


「……行けます。けど、確認に一分ください」

「一分?」

「状況見てから動きます。止めたくないので」


 自分で言って、少しだけ驚いた。

 でも“止めたくない”は本音だった。流れを止めないために、いったん自分の頭の流れを止める。矛盾みたいで、実務だ。


 柊は現場へ走り、まず声を出した。

「すみません、ここで一回止まって大丈夫です! 押さないで! 順番に降りましょう!」

 大きい声は怖い。怖いのに、必要な時がある。声が出ると、人の足が揃う。


 ベビーカーの母親が固まっている。柊は近づき、短く聞いた。

「手伝いましょうか」

「……はい、お願いします」

 返事が出た。返事が出たなら動ける。柊は係員と二人でベビーカーを降ろし、平場へ誘導した。


 その途中、スーツ姿の男性が苛立った声を出した。

「急いでるんだけど!」

 柊の中で、昔の自分がちらっと笑った。焦っている人を見て、内心で距離を取る自分。

 笑いそうになって、やめた。今日はやめたい。


「急いでますよね」柊は言った。「だからこそ、ここで転ぶともっと遅くなります。階段、こっち空いてます。足元だけ見て行きましょう」

 男性は一拍、言葉を失ってから、黙って頷いた。

 頷きは、許可の受け取りだ。


 階段へ流し、滞留を分散し、無線で復旧状況を確認する。

 手順が回ると、胸の焦げ臭さが少しだけ薄まった。

 自分が“迷子札”を貼ったみたいに、今の自分の場所が分かる。


 復旧の合図が出て、エスカレーターが再起動する。拍手は起きない。でも空気が戻る。戻ると、人はまた歩ける。


 現場が落ち着いたあと、八木さんが柱の陰から現れた。

「ほらな」

「何がです」

「階段だよ。便利が止まっても、足は止まらない」

 八木さんはにやっと笑う。

「で、今日の柊。顔が少し、人間になってた」

「ひどい言い方」

「褒め言葉。人間は、迷っていいからな」



 夕方、休憩室の隅で、柊は紙コップの水を飲んだ。飲みながら、壁の掲示を見ているふりをする。掲示には「安全第一」「急がずに確認」といった文字が並んでいる。

 毎日見て、毎日見落としてきた言葉だ。


 隣の席に、新人の優衣が座った。目の下が少し赤い。

「お疲れさまです……」

「お疲れ。どうした」

「今日、ステージの裏で迷子の子を預かったんですけど……親御さんが来なくて……私、何もできなくて」

 優衣の声が震える。震えのまま喋れるのは、まだ折れていない証拠だ。


「何もできなかった?」

「……ただ、一緒に座ってただけで」

 柊は頷いた。

「それ、できてる。いちばん大事」

「え」

「迷子ってさ、地図より先に“隣”が必要な時がある。隣があると、呼吸が戻る」

 柊は続けた。「呼吸が戻れば、次に何をするか考えられる。だから、隣は仕事だ」


 優衣は目を丸くして、それから少しだけ笑った。

「……私、隣できたんだ」

「できた。胸張っていい」

「胸張るの、怖いです」

「怖いなら、札を貼れ。迷子札」

「迷子札?」

「名前じゃなくていい。今日の状態を書く。『怖い』でも『疲れた』でも。貼るだけで、戻り場所が増える」


 優衣が小さく頷く。頷きが、現実を一段落ち着かせた。



 その夜、柊は帰宅して、玄関で靴を揃えた。

 部屋の空気は相変わらず静かで、静かな分だけ自分の頭の音が聞こえる。

 でも今日は、あの焦げ臭さが少し薄い。薄いなら、紙が使える。


 柊はテーブルに付箋を一枚置き、太いペンで書いた。


《迷子札》

《今日:走った/止まった/戻した》


 書いて、貼った。冷蔵庫の端。生活の端。

 誰に見せるわけでもない。

 でも自分に見せる。自分が自分を見失わないために。


 スマホに通知が来た。友人からの誘い。

『今度、近所の小さいバーで“誰でも三分”ってイベントあるけど来る?』

 柊の胸が一瞬だけ熱くなった。

 三分。短い。短いほど逃げられない。

 柊は指を止めた。いつもの癖が出る。「また今度」「準備できたら」。便利な言葉が列を作る。


 代わりに、柊は短く返した。

『行く。三分なら、行ける』


 送信した瞬間、息が通った。

 行けるかどうかは、明日の自分が決める部分もある。

 でも、今日の自分が芽を摘まなかった。

 それだけで、十分だ。


 寝る前、窓を少しだけ開けると、夜の風が入ってきた。

 風は迷路の角を知っている。どこを通れば抜けるか、勝手に知っている。

 柊はその風を吸って、吐いた。


「待つな、ってことじゃない」

 独り言は小さい。

「目を閉じて待つのが、だめなんだ」


 冷蔵庫の付箋が、風で少しだけ揺れた。

 迷子札が揺れるのは、合図みたいだった。

 明日、また迷ってもいい。

 迷ったら貼ればいい。

 貼れるなら、戻れる。

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