表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

119/125

『乾ききらない靴のままで』

 梅雨に入ったばかりの朝は、アスファルトがいつまでも昨日のままだ。

 雨が上がっても乾ききらず、靴裏に少しだけ湿り気を返してくる。空は明るくなっているのに、地面だけがまだ納得していないみたいで、歩いていると変な感じがする。

 八島拓海は、そういう朝があまり好きではなかった。

 止んだなら止んでくれればいい。

 晴れるなら晴れてくれればいい。

 中途半端に残るものは、だいたい人の気持ちを面倒にする。


 拓海が勤める中古レコード店「needle」は、駅前の雑居ビルの二階にある。

 階段は狭く、看板も小さい。ふらっと入ってくる客より、目当ての盤を探して来る客のほうが多い店だ。

 拓海は三十歳。大学を出て別の仕事を二年で辞めたあと、この店に転がり込むように入ってそのまま五年目になる。

 在庫の場所は頭に入っているし、ジャケットの角の潰れ具合で買う人間の気持ちもだいたい分かる。

 向いていると思う。

 でも、向いている場所に長くいると、それが自分の選んだ場所なのか、流れ着いただけなのか、たまに境目が曖昧になる。


「おはようございます」


 開店準備をしていると、後ろから声がした。

 店のバイト、野上紗英だった。大学四年、二十二歳。

 背は低いのにレコードの箱を持つと妙に安定している。話し方は素直だが、たまにこちらが言われたくないことだけぴたりと当てる。


「おはよう」

 拓海が返すと、紗英は店の窓を少し開けて言った。

「今日、湿気やばいですね」

「ジャケット反るな」

「反りますね」

 そう言って、入口横の試聴機に新しく入れる盤を並べ始める。

 拓海も値札の打ち直しをしながら、何となくスマホを伏せた。

 朝から二件、未読がある。


 一件は母親から。

【日曜来るなら昼どうする】

 もう一件は、昨日別れた恋人からだった。


【昨日はごめん】

【でも、あのままだと苦しかった】


 そこから先を、拓海はまだ開いていない。

 開けば全部読まなければならない気がしていたし、読んだところで今すぐまともな返事ができるとも思えなかった。

 それでもポケットの中で存在感だけはずっとあって、歩くたびに太ももへ当たる。

 中途半端に止んだ雨みたいなものだと、拓海は思った。


 相手は千尋。

 二十九歳。出版社勤務。

 一年半付き合った。

 明るくて、よく笑って、でも肝心なところでは妙に静かな人だった。

 別れは劇的ではない。

 喧嘩が爆発したわけでも、裏切りがあったわけでもない。

 ただ、どちらも互いに甘えていたのだと思う。

 拓海は「言わなくても分かるだろう」で済ませすぎたし、千尋は「今言うほどでもない」を溜めすぎた。

 結果として、昨日の夜、喫茶店で千尋が言った。


「好きとか嫌いとかじゃなくて」

 コーヒーが冷め切ったころだった。

「一緒にいるときの私が、ちょっとずつ雑になってくのが嫌だった」

 その言い方が、妙に正確だった。

 拓海も、否定できなかった。

 だから「そっか」としか返せなかった。

 本当は、そんな一言で済む話じゃなかったのに。


「八島さん」


 紗英がレジ横から呼ぶ。

「何」

「今日の試聴、これでいきます?」

 差し出された盤を見る。

 昔のバンドの、少し湿ったギターが気持ちいい一枚。

 いい選択だった。


「いいんじゃない」

「“じゃない”じゃなくて、もうちょっと熱量ください」

「朝から?」

「音楽の店なので」

 その返しに、拓海は少しだけ笑った。

 紗英はときどき、こうやって店の空気を少しだけ前に押す。

 若いからだろうと最初は思っていたが、たぶんそれだけでもない。

 自分で好きなものを好きと口にすることに、まだ照れが少ないのだ。


 開店して一時間ほど経ったころ、雨がまた少しだけ戻ってきた。

 客足はまばらで、店内に流している試聴の音も、いつもより壁へ近い感じがする。

 そんな中、一人の常連がレジへ中古のLPを三枚持ってきた。

 四十代後半くらい、いつも静かな人で、でも盤の話になると急に細かい。

 会計を済ませたあと、ふと拓海の顔を見て言った。


「今日、ちょっと音が濁ってるね」

「店の?」

「君の」

 拓海は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 常連は淡々と続ける。

「選曲は悪くないんだけど、決めきれてない感じする」

 そう言って、そのまま帰っていった。

 何なんだ、と思う。

 思うが、腹が立つより先に図星の感じが来た。

 決めきれていない。

 それはたぶん、選曲だけの話ではない。


 昼を過ぎるころ、店長の瀬川がやってきた。

 五十代、癖毛で、レコードの匂いだけで機嫌が読めるような人だ。


「何だ、今日しけってんな」

「天気ですか」

「お前」

 瀬川は試聴機の前で腕を組んだ。

「別れたか」

 拓海は顔を上げた。

「何で」

「五年も一緒にいると分かる」

「そんな長いっすか」

「長いよ」

 店長は鼻で笑う。

「で、どうする」

「どうするって」

「その顔で店に立つのはいいけど、引きずるならちゃんと引きずれ」

 意味が分からない。

 拓海が黙っていると、瀬川は続けた。

「中途半端が一番音濁るんだよ」

 さっきの常連と似たことを言われて、少しだけ可笑しくなった。

 今日はそういう日なのかもしれない。


「でも、仕事なんで」

 拓海が言うと、瀬川は即答した。

「仕事だからだろ」

「……」

「私情を全部消せると思うな。消せないなら、どこに置いて働くか考えろ」

 その言い方は雑だったが、妙に腹へ落ちた。

 私情を持ち込むな、と言われるよりずっとましだった。

 消せないなら、置き場を考えろ。

 たしかに、それくらいしかない。


 夕方、店が少し落ち着いたころ、拓海は裏の倉庫でスマホを開いた。

 千尋からのメッセージを、今度はちゃんと読む。


【昨日はごめん】

【でも、あのままだと苦しかった】

【八島が悪いって言いたいわけじゃない】

【私も、多分、ちゃんと寂しいって言えなくなってた】

【だから終わりにしたのは正しかったと思う】

【でも、一緒にいた時間まで雑だったとは思ってない】


 そこまで読んで、拓海はしばらく画面を見たまま動けなかった。

 一番痛いところと、一番救われるところが、同じ文の中に並んでいたからだ。

 一緒にいた時間まで雑だったとは思ってない。

 その一文を、昨日の喫茶店でどうして言えなかったのだろう。

 いや、言えなかったからこそ、今ここでちゃんと刺さるのかもしれない。


 拓海は返信画面を開いた。

 何を書けばいいのか、正解は分からない。

 それでも今なら、昨日の「そっか」より少しだけまともな言葉が出る気がした。


【読んだ】

【昨日、ちゃんと返せなくてごめん】

【俺も、一緒にいた時間まで間違いだったとは思ってない】

【むしろ、そこを雑にしたくなくて言葉が出なかった】

【でも、出さなかったせいで余計に雑になってた】

【今さらだけど、ありがとう】


 送ってから、息を吐いた。

 返事が来るかどうかは分からない。

 許されたいわけでもない。

 ただ、あの店のテーブルの上へ置きっぱなしにしてきたものを、ようやく少しだけ自分の手で片づけた感じがあった。


 倉庫から戻ると、紗英が試聴機の前で腕を組んでいた。

「八島さん」

「何」

「さっきより、ちゃんと今ここにいます」

 拓海は少し笑う。

「何その言い方」

「いや、何か、さっきまで半分くらい別のとこにいたので」

「観察が細かいな」

「店員なので」

 その返しに、拓海はまた少しだけ笑えた。

 笑えるなら、たぶんだいぶましだ。


「じゃあ、次これかけていいですか」

 紗英が別の盤を見せる。

 明るすぎない。

 でも沈みすぎもしない。

 雨上がりの夕方みたいな音だった。


「いいよ」

 拓海が言うと、紗英は針を落とした。

 少し遅れて、柔らかいギターが店内へ広がる。

 さっきまでと同じスピーカーなのに、不思議と輪郭が違って聞こえた。


 閉店後、シャッターを下ろしてから、拓海は店の外へ出た。

 雨はすっかり止んでいる。

 アスファルトはまだ濡れているが、ところどころに乾き始めた色もある。

 駅前のビルの窓へ、夕陽の名残が薄く残っていた。


 そこでようやく、拓海は思う。

 別れたのだ。

 終わった。

 それは事実だし、今夜から何かが急に元に戻ることもない。

 でも、終わったことと、全部が無駄だったことは同じではない。

 そのくらいのことを、もっと早く自分で言えていればよかった。

 けれど、遅くても言えたなら、それはもう昨日とは少し違う。


 ポケットの中でスマホが震えた。

 千尋からだった。


【うん】

【私も、ありがとう】


 短い。

 でも、それで十分だった。

 今の二人に、長い説明はたぶんもういらない。


 店の横の排水溝を、細い水がまだ流れている。

 完全に晴れたわけじゃない。

 それでも、道の上の小さな水たまりには、さっきよりちゃんと街灯が映っていた。

 曖昧なまま終わることと、曖昧な部分を少しだけ分かったうえで終えることは、たぶん違う。

 その違いだけで、人は明日の足の置き方を少し変えられる。


 拓海は店の鍵をポケットへしまい、濡れきってはいない靴のまま歩き出した。

 乾ききる前の感じは、まだ少し気持ち悪い。

 でも、その半端さごと前へ進むしかない日もある。

 それを今日は、ようやく自分で認められた気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ