『乾ききらない靴のままで』
梅雨に入ったばかりの朝は、アスファルトがいつまでも昨日のままだ。
雨が上がっても乾ききらず、靴裏に少しだけ湿り気を返してくる。空は明るくなっているのに、地面だけがまだ納得していないみたいで、歩いていると変な感じがする。
八島拓海は、そういう朝があまり好きではなかった。
止んだなら止んでくれればいい。
晴れるなら晴れてくれればいい。
中途半端に残るものは、だいたい人の気持ちを面倒にする。
拓海が勤める中古レコード店「needle」は、駅前の雑居ビルの二階にある。
階段は狭く、看板も小さい。ふらっと入ってくる客より、目当ての盤を探して来る客のほうが多い店だ。
拓海は三十歳。大学を出て別の仕事を二年で辞めたあと、この店に転がり込むように入ってそのまま五年目になる。
在庫の場所は頭に入っているし、ジャケットの角の潰れ具合で買う人間の気持ちもだいたい分かる。
向いていると思う。
でも、向いている場所に長くいると、それが自分の選んだ場所なのか、流れ着いただけなのか、たまに境目が曖昧になる。
「おはようございます」
開店準備をしていると、後ろから声がした。
店のバイト、野上紗英だった。大学四年、二十二歳。
背は低いのにレコードの箱を持つと妙に安定している。話し方は素直だが、たまにこちらが言われたくないことだけぴたりと当てる。
「おはよう」
拓海が返すと、紗英は店の窓を少し開けて言った。
「今日、湿気やばいですね」
「ジャケット反るな」
「反りますね」
そう言って、入口横の試聴機に新しく入れる盤を並べ始める。
拓海も値札の打ち直しをしながら、何となくスマホを伏せた。
朝から二件、未読がある。
一件は母親から。
【日曜来るなら昼どうする】
もう一件は、昨日別れた恋人からだった。
【昨日はごめん】
【でも、あのままだと苦しかった】
そこから先を、拓海はまだ開いていない。
開けば全部読まなければならない気がしていたし、読んだところで今すぐまともな返事ができるとも思えなかった。
それでもポケットの中で存在感だけはずっとあって、歩くたびに太ももへ当たる。
中途半端に止んだ雨みたいなものだと、拓海は思った。
相手は千尋。
二十九歳。出版社勤務。
一年半付き合った。
明るくて、よく笑って、でも肝心なところでは妙に静かな人だった。
別れは劇的ではない。
喧嘩が爆発したわけでも、裏切りがあったわけでもない。
ただ、どちらも互いに甘えていたのだと思う。
拓海は「言わなくても分かるだろう」で済ませすぎたし、千尋は「今言うほどでもない」を溜めすぎた。
結果として、昨日の夜、喫茶店で千尋が言った。
「好きとか嫌いとかじゃなくて」
コーヒーが冷め切ったころだった。
「一緒にいるときの私が、ちょっとずつ雑になってくのが嫌だった」
その言い方が、妙に正確だった。
拓海も、否定できなかった。
だから「そっか」としか返せなかった。
本当は、そんな一言で済む話じゃなかったのに。
「八島さん」
紗英がレジ横から呼ぶ。
「何」
「今日の試聴、これでいきます?」
差し出された盤を見る。
昔のバンドの、少し湿ったギターが気持ちいい一枚。
いい選択だった。
「いいんじゃない」
「“じゃない”じゃなくて、もうちょっと熱量ください」
「朝から?」
「音楽の店なので」
その返しに、拓海は少しだけ笑った。
紗英はときどき、こうやって店の空気を少しだけ前に押す。
若いからだろうと最初は思っていたが、たぶんそれだけでもない。
自分で好きなものを好きと口にすることに、まだ照れが少ないのだ。
開店して一時間ほど経ったころ、雨がまた少しだけ戻ってきた。
客足はまばらで、店内に流している試聴の音も、いつもより壁へ近い感じがする。
そんな中、一人の常連がレジへ中古のLPを三枚持ってきた。
四十代後半くらい、いつも静かな人で、でも盤の話になると急に細かい。
会計を済ませたあと、ふと拓海の顔を見て言った。
「今日、ちょっと音が濁ってるね」
「店の?」
「君の」
拓海は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
常連は淡々と続ける。
「選曲は悪くないんだけど、決めきれてない感じする」
そう言って、そのまま帰っていった。
何なんだ、と思う。
思うが、腹が立つより先に図星の感じが来た。
決めきれていない。
それはたぶん、選曲だけの話ではない。
昼を過ぎるころ、店長の瀬川がやってきた。
五十代、癖毛で、レコードの匂いだけで機嫌が読めるような人だ。
「何だ、今日しけってんな」
「天気ですか」
「お前」
瀬川は試聴機の前で腕を組んだ。
「別れたか」
拓海は顔を上げた。
「何で」
「五年も一緒にいると分かる」
「そんな長いっすか」
「長いよ」
店長は鼻で笑う。
「で、どうする」
「どうするって」
「その顔で店に立つのはいいけど、引きずるならちゃんと引きずれ」
意味が分からない。
拓海が黙っていると、瀬川は続けた。
「中途半端が一番音濁るんだよ」
さっきの常連と似たことを言われて、少しだけ可笑しくなった。
今日はそういう日なのかもしれない。
「でも、仕事なんで」
拓海が言うと、瀬川は即答した。
「仕事だからだろ」
「……」
「私情を全部消せると思うな。消せないなら、どこに置いて働くか考えろ」
その言い方は雑だったが、妙に腹へ落ちた。
私情を持ち込むな、と言われるよりずっとましだった。
消せないなら、置き場を考えろ。
たしかに、それくらいしかない。
夕方、店が少し落ち着いたころ、拓海は裏の倉庫でスマホを開いた。
千尋からのメッセージを、今度はちゃんと読む。
【昨日はごめん】
【でも、あのままだと苦しかった】
【八島が悪いって言いたいわけじゃない】
【私も、多分、ちゃんと寂しいって言えなくなってた】
【だから終わりにしたのは正しかったと思う】
【でも、一緒にいた時間まで雑だったとは思ってない】
そこまで読んで、拓海はしばらく画面を見たまま動けなかった。
一番痛いところと、一番救われるところが、同じ文の中に並んでいたからだ。
一緒にいた時間まで雑だったとは思ってない。
その一文を、昨日の喫茶店でどうして言えなかったのだろう。
いや、言えなかったからこそ、今ここでちゃんと刺さるのかもしれない。
拓海は返信画面を開いた。
何を書けばいいのか、正解は分からない。
それでも今なら、昨日の「そっか」より少しだけまともな言葉が出る気がした。
【読んだ】
【昨日、ちゃんと返せなくてごめん】
【俺も、一緒にいた時間まで間違いだったとは思ってない】
【むしろ、そこを雑にしたくなくて言葉が出なかった】
【でも、出さなかったせいで余計に雑になってた】
【今さらだけど、ありがとう】
送ってから、息を吐いた。
返事が来るかどうかは分からない。
許されたいわけでもない。
ただ、あの店のテーブルの上へ置きっぱなしにしてきたものを、ようやく少しだけ自分の手で片づけた感じがあった。
倉庫から戻ると、紗英が試聴機の前で腕を組んでいた。
「八島さん」
「何」
「さっきより、ちゃんと今ここにいます」
拓海は少し笑う。
「何その言い方」
「いや、何か、さっきまで半分くらい別のとこにいたので」
「観察が細かいな」
「店員なので」
その返しに、拓海はまた少しだけ笑えた。
笑えるなら、たぶんだいぶましだ。
「じゃあ、次これかけていいですか」
紗英が別の盤を見せる。
明るすぎない。
でも沈みすぎもしない。
雨上がりの夕方みたいな音だった。
「いいよ」
拓海が言うと、紗英は針を落とした。
少し遅れて、柔らかいギターが店内へ広がる。
さっきまでと同じスピーカーなのに、不思議と輪郭が違って聞こえた。
閉店後、シャッターを下ろしてから、拓海は店の外へ出た。
雨はすっかり止んでいる。
アスファルトはまだ濡れているが、ところどころに乾き始めた色もある。
駅前のビルの窓へ、夕陽の名残が薄く残っていた。
そこでようやく、拓海は思う。
別れたのだ。
終わった。
それは事実だし、今夜から何かが急に元に戻ることもない。
でも、終わったことと、全部が無駄だったことは同じではない。
そのくらいのことを、もっと早く自分で言えていればよかった。
けれど、遅くても言えたなら、それはもう昨日とは少し違う。
ポケットの中でスマホが震えた。
千尋からだった。
【うん】
【私も、ありがとう】
短い。
でも、それで十分だった。
今の二人に、長い説明はたぶんもういらない。
店の横の排水溝を、細い水がまだ流れている。
完全に晴れたわけじゃない。
それでも、道の上の小さな水たまりには、さっきよりちゃんと街灯が映っていた。
曖昧なまま終わることと、曖昧な部分を少しだけ分かったうえで終えることは、たぶん違う。
その違いだけで、人は明日の足の置き方を少し変えられる。
拓海は店の鍵をポケットへしまい、濡れきってはいない靴のまま歩き出した。
乾ききる前の感じは、まだ少し気持ち悪い。
でも、その半端さごと前へ進むしかない日もある。
それを今日は、ようやく自分で認められた気がした。




