『光の遅さを知る夜』
駅前の写真店は、朝の九時を少し過ぎると、ようやく店らしい顔になる。
シャッターを開けたばかりの時間は、プリンターの起動音と現像機の低い唸りだけが店の中を回っていて、客が入ってくる気配はまだ薄い。ガラス越しの光も、完全に白くなる前の、少し頼りない色をしている。
倉田真白は、その時間が嫌いではなかった。
まだ誰の思い出も届いていない店の空気は、どこかまっさらで、仕事の始まりとしては都合がいい。
届くのは、たいてい過去だ。
スマホで撮った昨日の昼飯も、保育園の運動会も、旅行先の海も、写真になるころにはもう全部少し前のものになっている。
写真店とは、今ではなく、少し遅れてやってきた時間を受け取る場所だと、真白は思っていた。
真白は三十一歳。
地元へ戻って、この写真店で働き始めて六年になる。
もともとは都会のスタジオでアシスタントをしていたが、父が店を畳むか迷い始めたころに呼び戻され、そのままここへ残った。
証明写真、プリント受付、アルバム整理、古いフィルムのデータ化。
仕事は思っていたよりずっと地味で、でも嫌いではない。
誰かの手元にある曖昧な時間を、見える形へ戻す仕事だからだ。
ただ、ときどき、他人の過去ばかり整えているうちに、自分の中でまだ片づいていないものだけが妙に浮き上がる日がある。
その朝、店の倉庫を整理していた真白は、奥の段ボールの隙間から、古い使い捨てカメラを見つけた。
フィルムは巻き切られている。
外装は少し焼けていて、日付のメモもない。
けれど手に取った瞬間、それが何のカメラか分かった。
七年前の夏。
まだ東京のスタジオへ勤めていたころ、当時付き合っていた千紘と海へ行ったときのものだ。
スマホの電池が途中で切れて、帰りに寄ったコンビニで面白半分に買った。
確か二、三枚撮ったあと、車のダッシュボードへ入れたままにして、そのうち忘れたのだ。
別れたのは、それから半年後だった。
「……まだあったのか」
口に出してから、何となく笑ってしまう。
まだあった。
まるで、無かったことにはならないと言われているみたいだった。
千紘は、星の名前をよく知る人だった。
専門家というほどではない。ただ、興味を持ったものをちゃんと好きになる人で、夜道で空を見上げては、季節の変わり目の星を指さした。
真白はその隣で、正直あまり熱心に聞いていなかった。
綺麗だとは思う。
でも、それ以上の言葉はなかなか出なかった。
ある晩、帰り道で千紘が一つの星を指して名前を言ったときも、真白は「そっか」としか返さなかった。
それが悪いことだとは、そのとき少しも思っていなかった。
今思えば、あれは返事ではなく、会話を閉じるための音に近かったのだろう。
別れも劇的ではなかった。
喧嘩を繰り返したわけでもない。
ただ、千紘は何かを見つけるたび話したがり、真白は何かを見つけても言葉になる前に飲み込むほうだった。
好きだけでは埋まらないずれが、少しずつ会話の端へ溜まった。
最後も、どちらかが悪いとは言い切れなかった。
「たぶん、今のままだと苦しいね」
千紘がそう言って、真白も否定しなかった。
それで終わった。
古いカメラを持ったまま、真白はしばらく作業台の前に立っていた。
フィルムを現像機にかけるのは簡単だ。
だが中を見ることは、案外簡単ではない。
忘れていたものが戻ってくる。
しかも写真は、思い出より容赦がない。
その場に何があったかではなく、その場で何が写っていたかだけを突きつける。
「何してるんですか」
入口側から声がして、真白は振り向いた。
バイトの美祈が、濡れた傘をたたみながら立っていた。大学生で、週三日だけ入っている。
今日は曇りの予報だったのに、少しだけ雨が降ったらしい。
「倉庫から化石出た」
「何それ」
「使い捨てカメラ」
「え、まだ現像できるんですか」
「たぶん」
「ロマンですね」
「ロマンって便利な言葉だな」
真白が言うと、美祈は首をかしげた。
「便利ですよ。面倒な過去にも少し優しくなれるし」
その返しが妙に若くて、少し可笑しかった。
午前中の仕事を片づけてから、真白はそのカメラのフィルムを自分で現像した。
薬液の温度を合わせ、慎重に巻き取り、乾燥させる。
手順は身体が覚えている。
目だけが少し落ち着かない。
ネガをライトボックスへ置く。
一コマずつ拾っていく。
海。
車のダッシュボードに置いたペットボトル。
コンビニの駐車場でふざけて撮った真白の半目。
波打ち際でサンダルを片手に持って笑っている千紘。
どれも、なんということのない写真だった。
観光地の映えた構図でもないし、誰に見せるためのものでもない。
だからこそ、少しきつい。
あの頃の二人が、たしかに普通に笑っていたことだけが、無防備に残っていたからだ。
最後のほうの一枚で、真白の指が止まった。
夜の堤防。
画面のほとんどは暗くて、遠くの街灯が少しにじんでいる。
手前には千紘の横顔がぼんやり写っていて、顔はうまく出ていない。
でも、その視線の先が空を向いていることだけは分かる。
指先が、画面の外を指している。
たぶんあの夜だ。
星の名前を言った夜。
真白が「そっか」とだけ返した夜。
「……下手だな」
写真に向かって言ったのか、自分に向かって言ったのかは、分からなかった。
午後、雨は本格的になった。
店には、近所の常連がぽつぽつ来る。
スマホのプリント、証明写真、祖母の遺影用に使える昔の写真の相談。
その中に、小学三年生くらいの男の子を連れた母親がいた。
夏休みの自由研究で、夜空をテーマにしたいらしい。
星の写真をプリントしたいのだと、母親が少し困った顔で言う。
「スマホだと上手く撮れなくて」
「そういうの難しいですよね」
真白が言うと、男の子が割って入った。
「でもね、先生が言ってた。星って、すごい前の光が見えてるんだって」
その無邪気な言い方に、真白は一瞬だけ動きを止めた。
「すごい前?」
「うん。もう今はない星の光も、見えてるかもしれないって」
男の子は得意そうに続ける。
「だから、今見えてるの、今じゃないんだって」
真白はその子に合わせて少ししゃがんだ。
「そうだね。届くまで時間がかかるから」
「不思議だよね」
「うん」
「じゃあ、前のことも、今見えてるだけってある?」
その問いに、母親が「もう、変なこと聞かないの」と笑った。
けれど真白は、その言葉をすぐには流せなかった。
前のことも、今見えてるだけ。
そうかもしれない。
終わったものが全部終わった顔で届くとは限らない。
何年か遅れて、急に生活の隅へ差し込んでくる光もある。
それを今さらどうこうできるわけではない。
でも、今見えているのに、見なかったことにはできない。
閉店後、真白は一人で店を出た。
雨はほとんど上がっていて、空気だけがまだ水気を抱えている。
駅前の光が路面に薄く伸び、車のタイヤが水たまりを静かに切る。
足は自然に、駅と逆のほうへ向いていた。
住宅街を抜けた先に、小さな市民天文台がある。
千紘と一度だけ行った場所だ。
別れたあと、一人で行くことはなかった。
今夜は公開観望会もない。
建物の灯りは落ちていて、手前の広場だけが開いている。
真白は濡れたベンチを避けて、手すりにもたれた。
雲は薄くなっていた。
ところどころに、まだ弱い夜の色が見える。
星は一つか二つしか出ていない。
それでも、見上げるという行為だけで、少し昔の自分へ近づく感じがした。
あのとき千紘が言いたかったのは、星の名前そのものではなかったのかもしれない。
きっと、同じものを見たかったのだ。
ただ綺麗だねで終わるのではなく、その先にある話まで、一緒に少しだけ歩きたかった。
真白はそれを、面倒とも退屈とも思っていなかった。
なのに、ちゃんと受け取る前に「そっか」で閉じた。
悪気はなかった。
悪気がないことと、足りていることも、やっぱり違う。
スマホを取り出す。
連絡先は消していない。
最後のやり取りは、もう五年前で止まっていた。
ここで送るのは、正しいのだろうか。
今さらだ。
今さらでしかない。
もう相手には別の生活があるかもしれない。
結婚していてもおかしくないし、遠い町にいるかもしれない。
何も返ってこなくても、当然だ。
それでも、言わないまま自分の中でだけ「分かった気がしている」よりはましな気がした。
真白は、長い文章はやめた。
【あのとき、ちゃんと聞けてなかった】
【今さらだけど、ごめん】
それだけ打って、少しだけ迷い、送った。
既読がつくかどうかは分からない。
返事が来る保証もない。
でも、送ったあとで不思議と息がしやすくなった。
たぶん、誰かに何かを返すというより、自分の中で止めていた時間へ小さな出口を作った感じだった。
帰り道、雲の切れ目が少しだけ広がった。
手すりの向こうの空に、一つ、はっきりした光が見える。
名前は分からない。
昔の真白なら、たぶんここでまた「そっか」で終わっていた。
今も、別に急に星に詳しくなったわけではない。
けれど、名前が分からなくても、見ようとすることくらいはできる。
ポケットの中で、スマホが一度だけ震えた。
取り出して見る。
千紘からだった。
短い文が一行だけ届いている。
【そっか】
その返事を見た瞬間、真白は思わず笑った。
責められた気はしなかった。
許されたとも、都合よくは思わなかった。
ただ、五年越しの何かが、ちゃんと届いたのだと分かった。
雨の匂いが、少しだけ薄くなる。
夜の空はまだ完全には晴れていない。
でも、曇りの隙間から見えるものもある。
こぼしたわけでも、取り戻したわけでもない。
ただ、遅れて届いた光を今の自分で受け取った。
それだけで、今夜には十分だった。




