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短編集  作者: 科上悠羽


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『夕立のあとでほどける』

 夕方の図書館は、雨が降ると少しだけ音の質が変わる。

 返却カウンターへ本が置かれる音も、椅子を引く音も、窓を打つ雨に少し丸められて、全体がやわらかくなる。

 それなのに、人の気持ちだけは案外やわらかくならない。

 森川澄香は、窓の外で白く揺れる雨を見ながら、今日はたぶんその類いの日だと思っていた。


 市立図書館の一階カウンター。

 閉館一時間前。

 雨のせいで来館者は少なく、返却本の山もいつもより低い。

 なのに澄香の胸の内側は、朝からずっと雑然としていた。


 澄香は二十八歳。

 図書館司書として働き始めて五年目になる。

 配架は速いし、予約本の処理も滞らない。子どもの読書相談も苦じゃない。

 けれど、それらを全部ちゃんとやっても、最近は何だか「だから何だろう」と思う瞬間が増えた。

 嫌いな仕事ではない。

 向いてもいる。

 でも、心のどこかだけが、少し前からずっと中途半端に曇っている。


「森川さん、これ返却お願いします」


 カウンターの横から声がして、澄香は顔を上げた。

 新人の臼井が、絵本の束を二十冊ほど抱えている。

 四月に入ったばかりで、声だけ妙に元気な二十四歳だ。


「重そう」

「重いです。でも、子ども室の棚替え、ちょっと楽しいです」

「いいこと」

「森川さんは楽しくないですか」

 まっすぐ聞かれて、澄香は一瞬だけ返事に困った。

 楽しくないわけではない。

 でも、楽しいと言い切るには、胸の中へ細かい埃みたいなものが溜まりすぎている。


「楽しい日もあるよ」

 そう答えると、臼井はにこっと笑った。

「今日は?」

「今日は雨」

「質問の答えになってないです」

「そういう日もある」

 臼井は少し首をかしげたが、それ以上は聞かずに奥へ戻っていった。

 ありがたかった。

 今の自分に「何があったんですか」と踏み込まれると、たぶんうまく笑えない。


 朝からの小さいことが、今日はずっと尾を引いていた。

 出勤前、家の前で傘を開いたら骨が一本だけ曲がっていた。

 昼に食べたコンビニのおにぎりは、海苔がうまく剥がれず指に張りついた。

 午後には、月末に予定していた読書会の参加者が半分に減ったという連絡が来た。

 大したことではない。

 全部、大したことではない。

 なのに、そういう「大したことではない」が重なる日は、人の心に妙に長く残る。


 さらに今日は、もう一つあった。

 澄香のスマホに、昼過ぎからずっと既読のつかないメッセージがある。


【今日、話せる?】


 相手は、三枝尚人。

 大学時代から付き合って七年になる恋人だ。

 今は同じ市内で働いていて、会おうと思えば会える距離にいる。

 喧嘩も少ない。

 穏やかで、真面目で、ちゃんとした人だ。

 けれどここ半年くらい、二人の会話には少しずつ余白が増えていた。

 悪くなったというより、薄くなった。

 何かを言い出す前に「まあ今じゃなくていいか」が挟まるようになった。

 それをずっと見ないふりで進んできたが、今日はどうしても一度向き合わなければならない気がしていた。


 ただ、その一言を送ったあと、尚人から返事はない。

 忙しいだけかもしれない。

 電池が切れているだけかもしれない。

 でも、そうやって自分で理由を作って待つ時間が、今日はひどく疲れた。


 十八時を少し回ったころ、ようやくスマホが震えた。

 期待より先に、なぜか少し怖かった。


【ごめん、今からは無理】

【明日でもいい?】


 それだけだった。

 やっぱりね、と思った。

 思ったし、分かっていたとも思う。

 でも、分かっていたことと、平気なことはやっぱり違う。


 澄香はスマホを伏せた。

 閉館まで、あと四十分。

 今ここで何かが壊れるわけではない。

 でも、ずっと先延ばしにされている何かの形だけが、今夜ひどくはっきり見えた気がした。


「森川さん」

 また声がする。

 今度は、郷田だった。

 同じフロア担当の司書で、一つ上。いつもスラックスの裾だけ少し短い。


「これ、寄贈本の仕分け、今日中いけそう?」

「いけます」

「助かる」

 そう言って去りかけた郷田が、ふと振り返った。

「……顔、だいぶ曇ってるよ」

「今日それ三人目」

「じゃあ曇ってるんだろうね」

 その言い方に、澄香は少しだけ笑ってしまった。

 笑えてしまったので、たぶんまだ大丈夫だと逆に思う。


「雨だからじゃなくて?」

「雨の日って、隠してるの出やすいから」

 郷田はさらっと言った。

「本棚もそうだよ。湿気でゆがんでるとこ、晴れの日より目立つ」

「例えが職場すぎる」

「今ここ職場だし」

 澄香は返す言葉を探して、結局やめた。

 この人はたまに、雑なくせに要ることだけ言う。


 閉館後、返却処理を終えて図書館を出ると、雨はちょうど上がっていた。

 アスファルトはまだ濡れていて、街灯の下だけが妙に白い。

 駅前まで歩くつもりだったが、入口横のベンチに誰かが座っているのが見えた。


「……あ」


 尚人だった。

 スーツの上着を腕に掛けたまま、濡れた地面を見ている。

 澄香が立ち止まると、尚人も気づいて顔を上げた。


「ごめん」

 最初の一言がそれだった。

「電話、会議長引いて」

「うん」

「でも、明日にしたくなくて」

 その言い方に、胸の中の固いところが少しだけひび割れる。

 腹が立つ。

 少しほっともする。

 そういう中途半端な感情の混ざり方が、今日の空みたいだった。


「座る?」

 尚人がベンチの端を空ける。

 澄香は迷った末、少しだけ間を空けて座った。


「何の話?」

 尚人が聞く。

 真正面すぎて、少しだけ笑いたくなる。

 でも今日は、その真正面さに甘えたくなかった。


「何の話だと思う?」

 尚人は少し黙った。

「最近、ちゃんと話してないこと」

「うん」

「……たぶん、それ」

 澄香は膝の上で指を組んだ。

「尚人さ」

「うん」

「最近、私たち、何かずっと“そのうち”で流してない?」

 尚人はすぐには答えなかった。

 遠くで電車の通る音がする。

 濡れた道路を一台、タクシーがゆっくり曲がっていった。


「流してる」

 ようやく尚人が言った。

「俺も思ってた」

「何で言わなかったの」

「……言うと、はっきりしちゃうから」

「もう十分はっきりしてるよ」

 自分でも少しきついと思った。

 でも、今日はもう丸めたくなかった。


「ごめん」

 尚人が言う。

「仕事とか、親のこととか、いろいろ考えてるうちに」

「うん」

「今決めなくてもいいことは、後でいいかって思ってた」

「うん」

「でも、それが多すぎた」

 その通りだった。

 結婚の話も、住む場所の話も、仕事をどうするかも。

 どれも、今この瞬間に白黒つけられる話ではない。

 だからこそ、少しずつ「また今度」にしてきた。

 その積み重ねが、いつのまにか二人の間へ薄い膜みたいに張っていた。


「私ね」

 澄香は言った。

「別に、すぐ結論ほしいわけじゃない」

「うん」

「でも、先延ばしにしてることを、せめて一緒に見ていたい」

 尚人はその言葉をゆっくり飲み込むみたいに頷いた。

「……分かる」

「ほんとに?」

「分かるようにしようとしてる」

 その言い方が少し不器用で、でも尚人らしかった。


 しばらく沈黙があった。

 沈黙は前より長かったかもしれない。

 でも今日は、嫌な沈黙ではなかった。

 何かを言わないで済ませるための沈黙ではなく、言ったあとに少し整理するための沈黙だった。


「澄香」

「うん」

「俺、今すぐ全部決められる自信はない」

「うん」

「でも、決めないままにしておくのも、たぶん違う」

「うん」

「だから、来月」

 尚人は一度だけ呼吸を整えた。

「うちの親のところ、一緒に来てほしい」

 澄香は顔を上げた。

 それは結論ではない。

 約束でもない。

 でも、少なくとも「また今度」ではなかった。


「……それ、ちゃんと考えて言ってる?」

「考えてる」

「逃げで言ってない?」

「たぶん、今までで一番逃げてない」

 その返事で、澄香は少しだけ口元をゆるめた。

 たぶん、こういうことなのだ。

 素直になる、というのは、何もかも綺麗に言えることじゃない。

 ひねくれたままでも、怖いままでも、それでも前へ一つだけ置ける言葉を出すことなのかもしれない。


 ベンチの前に、小さな水たまりが残っている。

 街灯が映り、その端に、ほとんど消えかけた薄い色が混じっていた。

 澄香は少しだけ身を乗り出す。

「見て」

「何」

「ちょっとだけ」

 尚人も視線を落とした。

「……虹?」

「たぶん」

 くっきりした弧ではない。

 水たまりの端に、信号の赤や街灯の白に紛れて、ほとんど見間違いみたいな色があるだけだ。

 でも、色は色だった。


「中途半端だな」

 尚人が言う。

「失礼」

「褒めてる」

「どこが」

「今の俺たちっぽい」

 その返しに、澄香は笑ってしまった。

 完璧じゃない。

 きれいに晴れてもいない。

 それでも、さっきより少しだけ色が見える。

 今夜は、そのくらいで十分だった。


 立ち上がる。

 ベンチの下には、まだ乾いていない葉っぱが何枚か張りついている。

 尚人が自然に、澄香の持っていた図書館のトートを受け取った。

 その動きは昔から変わらない。

 そういうところだけは、ずっと変わらないのだと気づくと、少しだけ可笑しかった。


「送る」

 尚人が言う。

「駅まででいい」

「家まで」

「そこはまだ」

「まだ?」

「うん、まだ」

 澄香が言うと、尚人は少しだけ困ったみたいに笑った。

「了解」

 その「了解」が、前みたいな逃げの返事には聞こえなかった。

 たぶん今日は、そこがいちばん大きかった。


 歩き出す。

 雨上がりの道は、靴の裏へ少しだけ水気を返す。

 空はまだ曇っている。

 でも、曇りきったままではないと分かっているだけで、夜の輪郭は少し変わる。


 駅前の信号が青に変わった。

 澄香はその色を見ながら、自分の中の固まっていたところが少しだけゆるむのを感じた。

 先のことはまだ分からない。

 来月になってまた怖くなるかもしれないし、うまくいかない話だって出るだろう。

 それでも、今日の二人は少なくとも「また今度」からは一歩出た。


 素直な虹なんて、たぶん最初からない。

 濁った空と、濡れた道と、光の角度がたまたま噛み合って、ようやく少しだけ見えるものなのだ。

 それでいい、と今夜は思えた。

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