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短編集  作者: 科上悠羽


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『虹の出る前の手すり』

 六月の夕方、駅前の歩道橋は、雨がやんだあとのほうが滑りそうに見える。

 実際にはそこまで危なくないのに、濡れた手すりが街灯を薄く引き伸ばして、足元のタイルも少しだけ別のものみたいに見えるからだ。

 多田結芽は、その濡れた階段の途中で立ち止まり、コンビニの袋を持ち直した。

 中には、牛乳二本、バナナ、食パン、洗剤。

 生活に必要なものだけ。

 夢とか、ときめきとか、そういう類のものは何ひとつ入っていない。


 今日はたぶん、そういう日だった。


 結芽は二十六歳。

 市役所の福祉課で働いて三年目になる。

 窓口での説明、申請書の確認、電話の取次ぎ、制度の案内。

 向いていないわけではない。人の話を途中で折らずに聞けるし、細かい書類の抜けも見つけやすい。

 ただ、毎日をちゃんと回すことに慣れるほど、自分の中のどこかが少しずつ固まっていく感じがあった。

 働いて、帰って、コンビニへ寄って、洗濯して、次の日の弁当用に卵を茹でる。

 生活は崩れていない。

 でも、ときどきそれが「うまくいっている」より、「きれいに止まっている」に近く思える日がある。


 今日の窓口も、そんな感じだった。

 朝一番で来た高齢の男性は、必要な書類を三枚とも忘れていた。

 昼前の電話は、他課へ回す案件を二十分粘られた。

 午後の担当会議では、先輩の説明不足をなぜか結芽が補う流れになった。

 誰かがひどく悪いわけではない。

 でも、小さいいら立ちが何枚も重なると、人の心は案外すぐに曇る。


 その帰りだ。

 歩道橋の上で、結芽はふと下を見た。

 雨上がりの交差点を、傘を閉じた人たちが急ぎ足で渡っていく。

 みんな自分の家へ帰るのだろう。

 夕飯が待っている人も、洗濯物を取り込み忘れた人も、ただ一人で部屋へ帰る人もいる。

 その流れの中へ自分も戻るだけだと思うと、なぜか少しだけ息が詰まった。


「結芽?」


 下から声がした。

 階段の踊り場から覗き込むようにして、女が立っている。

 短く切った髪に、濡れたカーキ色のシャツ。肩へ大きめのトートバッグを掛けていた。

 見間違えようがない。

 大学時代の友人、月城遥だった。


「……え」

 結芽は本気で間抜けな声を出した。

「何でここに」

「それはこっちも」

 遥は笑う。

「駅前、使うでしょ普通に」

 そう言われればそうだった。

 けれど大学卒業以来、まともに会っていない相手が、自分の生活圏の真ん中に急に立っていると、人は少し現実感を失う。


 遥は同い年だった。

 大学では同じゼミで、卒業制作の時期には毎日のように一緒にいた。

 結芽が真面目に資料を集め、遥が雑談のように核心を見つける。

 正反対に見えて、妙に話しやすかった。

 ただ、卒業後は自然に連絡が減った。

 喧嘩もしていないし、嫌いになったわけでもない。

 それでも、会わない時間が長くなると、何となく「今さら」が増える。


「久しぶり」

 結芽が言うと、遥は階段を二段上がってきた。

「うん。びっくりするくらい」

「何年ぶり?」

「四年とか?」

「もっとじゃない?」

「じゃあ五年」

 その曖昧さが少し可笑しくて、結芽はようやく少し笑えた。


「今、どこで働いてるの」

 結芽が聞くと、遥はトートバッグの紐を持ち直した。

「デザイン事務所辞めて、今はフリー」

「え」

「去年から」

「そうなんだ」

「思ったより食えてない」

 さらっと言うその感じが、昔のままで変に安心した。


 そのまま別れる流れでもよかった。

 でも遥が「ちょっとだけ時間ある?」と言ったので、結芽はつい頷いてしまった。

 歩道橋を降りた先の小さな喫茶店へ入る。

 窓の外の道路はまだ濡れていて、ライトが全部少しずつ長い。


「市役所だっけ」

 席に着くなり、遥が聞いた。

「うん」

「似合う」

「それ、たまに言われるけど微妙」

「何で」

「ちゃんとしてそうって意味でしょ」

「半分」

「半分は?」

「ギリギリ壊れずに回してそう」

 結芽は思わず笑ってしまった。

「失礼」

「でも今日の顔はそっち」

 店員が水を置いていく。

 結芽はメニューを開きながら、言い返せなかった。

 どうしてこういう人は、会わない時間があっても、いきなりそこを見つけるのだろう。


 注文は、結芽がカフェオレ、遥がアイスコーヒー。

 飲み物が来るまでのあいだ、互いの近況を少しずつ話した。

 仕事。

 一人暮らし。

 大学のころ仲のよかった友人が結婚したこと。

 疎遠になっていた先生が退官したこと。

 話題はいくらでもあるのに、どこか一番大事なところだけがずっとテーブルの下へ置かれている気がした。


「結芽さ」

 カフェオレが来たあと、遥がストローも使わずに氷を揺らしながら言った。

「今、楽しい?」

 結芽はカップに口をつける前に止まった。

「その聞き方ずるい」

「そう?」

「答えづらい」

「なら、まあまあ?」

 遥は少しだけ首をかしげる。

「それとも、別に不幸じゃないけど、何かずっと曇ってる感じ?」

 その言葉が、思っていたより正確で、結芽は笑えなくなった。

 曇っている。

 そうだ。たぶんずっとそうだった。

 晴れていないわけじゃない。

 でも、何か大きく動く感じもない。

 毎日をちゃんとこなしているぶんだけ、自分がどこへ向かっているのかを考える隙も減っていた。


「分かんない」

 正直に言うと、遥はうなずいた。

「そっか」

「そっか、で終わる?」

「いや」

 遥は一息置いた。

「分かんないって言えるなら、まだいいと思って」

「何が」

「本当に止まってる人って、分かんないとも言わないから」

 その返しが、妙に優しかった。

 優しいのに、甘やかしではない。

 そういうところが昔からずるい。


 結芽はカップを両手で持った。

 湯気はもうだいぶ弱くなっている。

 ここでまた「まあでも仕事あるし」とか「生活には困ってないし」とか、そういう正しい言い訳を並べることもできた。

 でも今日は、それをすると余計に苦しくなる気がした。


「……最近ね」

 結芽は小さく言った。

「毎日ちゃんと生きてるんだけど、なんか、ずっと準備してるだけみたいな感じある」

 遥は黙って聞いている。

「仕事も嫌いじゃない。周りの人もそんなに悪くない。生活も普通に回る」

「うん」

「でも、だから何、って思うときある」

 言ってしまうと、自分で思っていたより空っぽな響きだった。

 もっと切実な悩みが世の中にはある。

 こんなのは贅沢なのかもしれない。

 そう思って口を閉じかけたところで、遥が言った。


「私も去年までそうだった」

 結芽は顔を上げる。

「会社辞める前?」

「うん。別に嫌いな仕事じゃなかったし、評価もそこそこだった」

「へえ」

「でも、ずっと“ちゃんとしてる”だけだった」

 遥はグラスの水滴を指でなぞる。

「で、そのうち、自分が何を好きだったかまで薄くなる感じしてさ」

 その言葉は、結芽の胸の奥へ静かに入った。

 好きだったものが薄くなる。

 たぶん、それだ。

 仕事が嫌なのではない。

 何かを好きだった自分の輪郭が、ちゃんと残っているか不安なのだ。


「じゃあ、辞めて正解だった?」

 結芽が聞くと、遥は少し笑った。

「全然きれいな話じゃないよ。金ないし、焦るし、普通に不安」

「だろうね」

「でも、自分の今日を自分で嫌いになりにくくはなった」

 それは立派な成功談ではない。

 でも今の結芽には、その少し不格好な答えのほうがよく効いた。


 店を出ると、空はだいぶ明るくなっていた。

 雨雲の端から少しだけ西日が差して、商店街の窓ガラスがところどころ白く光る。

 歩道橋の階段を上がり直す。

 さっき立ち止まったあたりまで来たとき、遥が手すりの向こうを指した。


「見て」

 駅ビルの裏の空へ、薄く色が出ていた。

 くっきりした半円ではない。

 ほとんど消えかけの、誰かが気づかなくてもおかしくない程度の色。

 でも確かに、灰色の空気の中へ七色の端だけが差している。


「……中途半端」

 結芽が言うと、遥が笑った。

「そういうとこ」

「何」

「結芽、昔から、綺麗なもの見ても最初にちょっとひねくれる」

「その言い方やだ」

「でも好きだったよ、そういうの」

 何気なく言われたその一言に、結芽は少しだけ言葉を失った。

 好きだった。

 過去形みたいに聞こえるくせに、たぶん今も少し含んでいる。

 そういう曖昧な言い方が、この人は上手かった。


「昔さ」

 遥が手すりへ肘を乗せる。

「卒業制作のあと、結芽が言ったの覚えてる?」

「何を」

「“ちゃんと好きだと思えるものを作りたい”って」

 結芽は目を瞬いた。

 そんなことを言った覚えはぼんやりしかない。

 でも、言ったかもしれないとは思う。

 大学のころは、もっと簡単に理想を口にしていたから。


「忘れてた」

「だろうね」

「何で遥が覚えてるの」

「他人のことは覚えてる」

「やな能力」

「便利だよ」

 遥は笑ってから、少しだけ真顔になった。

「今すぐ仕事辞めろとかじゃないよ」

「うん」

「でも、結芽の“好きだった感じ”がまだ残ってるなら、一回そこに水かけたほうがいい」

「水?」

「そう。乾いて固まる前に」

 そのたとえは上手いのか雑なのか分からなかったが、なぜか妙に分かった。


 別れ際、遥は改札の手前で立ち止まった。

「また会う?」

 聞き方が軽い。

 でも、軽いからこそ逃げ道もある。

 結芽は少し考えてから頷いた。

「うん」

「よかった」

「何で」

「今日、会わないまま帰ったら、たぶん結芽またしばらく曇るから」

「そんなに分かる?」

「分かる」

 遥はそれだけ言って、先に改札を通っていった。

 振り返って手を振るでもなく、でも置いていく感じでもなく、人の間をするっと抜けていく。

 その背中を見ながら、結芽は胸の中に小さく風が通るのを感じた。


 部屋へ帰ると、コンビニの袋をテーブルへ置く。

 牛乳、バナナ、食パン、洗剤。

 相変わらず生活に必要なものしかない。

 でも、今日の結芽にはそれが少しだけ違って見えた。

 明日の朝、食パンを焼いて、牛乳を温めて、仕事へ行く。

 それ自体は変わらない。

 ただ、その前に十五分だけでも、自分の「好きだったもの」のほうを向く時間を作ってみようと思えた。


 大学のころ使っていた古いノートは、本棚のいちばん下にあるはずだ。

 展示のラフや、好きだった広告の切り抜きや、使いもしない言葉のメモを詰め込んだやつ。

 今見たらきっと恥ずかしい。

 青くて、雑で、だいぶ痛いはずだ。

 でもたぶん、今の自分に必要なのは、完成された答えではなく、そういう少し未熟な色のほうだ。


 窓を開ける。

 外の空気はまだ湿っている。

 さっき見た虹はもう消えていた。

 でも、消えたから無意味だったとは思わなかった。

 見えた一瞬があるだけで、人はそのあと少し違う顔で夜を迎えられる。


 結芽は牛乳を冷蔵庫へ入れ、食パンを棚に置き、それから本棚の下段へしゃがみこんだ。

 静かな部屋の中で、自分の生活の続きへ手を伸ばす。

 スタートみたいな大げさな音はしない。

 ただ、止まっていたわけじゃないと分かるくらいの、小さな動きだけがある。

 それで今夜は十分だった。


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